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 酒の匂いが、まだ残っていた。


 路地裏の安い居酒屋。

 いつもの半グレ連中。

 くだらない笑い声。


 ——悪くない。


 そう思っていた。


 胸元の内側に仕込んだ“道具”が、じんわりと熱を持つ。

 それだけで分かる。


 今日も、調子がいい。


「おい、腕見ろよ」


 そう言って、男は拳を握った。


 数日前についた傷。

 普通なら、まだ腫れているはずのそれが、

 すでに跡形もない。


「相変わらずだな」


「マジでどうなってんだよ」


 連中の視線が集まる。


 それが、気持ちよかった。


 ——力だ。

 ——酒だ。

 ——女だ。


 欲しいものは、全部手に入る。


 あの連絡が途絶えるまでは。


「……?」


 胸元が、冷えた。


 一瞬。

 本当に一瞬だけ、“道具”が沈黙した。


 ——あ?


 嫌な予感。


 慌てて触れると、再び、ぬるりと力が戻る。


「……なんだよ」


 使える。

 まだ、使える。


 なのに。


 頭の奥で、警鐘が鳴っていた。


 あれだけ定期的に来ていた“上”からの連絡。

 指示。

 確認。


 それが、もう何日もない。


「……チッ」


 切られた?


 そんなはずはない。


 俺は、ちゃんとやってた。

 言われた通りに。

 試せって言われた通りに。


 その時だった。


 胸の奥が、爆ぜた。


「——ッ!?」


 熱が、消えた。


 いや、違う。


 壊れた。


 内側から、何かが砕ける感触。


「お、おい!?」


「何だよ、今の!?」


 連中の声が、遠い。


 異様な危機感が、全身を貫いた。


 ——ヤバい。


 理屈じゃない。


 今すぐ逃げろ。


 男は、踵を返した。


「待てよ!」


 誰かが叫ぶ。


 無視した。


 走る。


 路地を抜ける。

 人の少ない方へ。


 背後で、何かが舞った。


 ——紙?


カサリ、と乾いた音がした。風に舞うゴミのような、けれど意志を持って自分を追い詰める、死神の羽音。


「は?」


 白い紙切れ。


 折り畳まれたそれが、ふわりと浮かび、進路を塞ぐ。


「何だよこれ!?」


 払おうとした瞬間、紙が、裂けるように動いた。


 別の紙が現れる。

 また一枚。

 また一枚。


 逃げ道が、削られていく。


「ふざけんな!」


 路地を曲がる。


 行き止まり。


 工事用のフェンス。

 川沿いの暗がり。


 人通りは、ない。


 紙が、距離を詰める。


 殴れない。

 触れない。


 ただ、追い込まれる。


「……こんな、はずじゃ……」


 言葉が、震えた。


 力はない。

 道具は壊れた。

 上は、いない。


 残ったのは、

 自分一人。


 次の瞬間。


 空気が、変わった。


 圧が、降りる。


 静かで、冷たい。


 逃げ場が、消える。


 ——捕まった。


 それだけは、はっきり分かった。


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