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嘘をついたら、百人全部救える。貴方は嘘をつきますか?
誰の言葉だったかは忘れた。四年生、春学期最後の講義が終わったその夜である。私は下宿にて蚊取り線香の匂いに神経を集中させながら、一人静かに悩んでいた。
今までの間、読者諸賢らには多少威張ったように書いていたが、恥ずかしい話、実は私、何事にも奥手なのである。かといって心中穏やか、聖人君子の内面を持っているわけでは決してないから、そこの所はご安心いただきたい。むしろ人よりも心中においては酷薄な態度でもって他者を断罪、判定している。顔には微笑を浮かべて挨拶しながら、頭ではもうこいつとは関わりたくないなぁと非道なことを考えたり、この人は悪い人では無いのだよと優しい言葉を紡ぎながら、無意識にその人を排斥したりすることなどは日常茶飯事である。私はその度ごとに、己の利己的な心を呪ったものだった。
だが、ある時、私は気づいた。これは何も私だけの悪癖ではないようだぞ。よくよく周りを見渡せば、皮裏の陽秋という言葉があるように、皆が各々の裁断を行っている。他者を仕分けして好き放題に心中で扱っている。悪口を言わないのは、いわゆる良い人を気取るのは、所詮一種の処世術じゃないか。人間の本当の内面など分かったものじゃない。世に賞賛される良い人なんてのも、よくよく考えてみれば、裁断の仕方、 排斥の仕方が人よりも利口で上手なだけじゃないか。
だからこそ、私は思うのだ。あんなにも好き放題にモノを言っているのに、あんなにも好き放題に行動しているのに、時折、無茶振りで私を途方に暮れさせる以外には微塵も憎めるところの無い雪月先輩は、私にとって奇跡のような存在ではなかろうか。彼女は自らの罪を認めながら、自身の至らなさを恥じているが、しかし私にはその罪が全く汚らわしくないのだ。
無論、彼女が私に言えぬ更なる闇を心中に抱え込んでいる可能性は考えられる。もしそうならば、私は全てを諦めて降参し、ベッド横に鎮座しているマイぬいぐるみことごまアザラシちゃんと共に川底に沈むより他はないが、しかしたったそれだけの話じゃないか。闇があったから何だというのだ。川底に沈んだから何だというのだ。私は彼女に惚れている。彼女は私に惚れている、のかは分からない。とにかく彼女はミステリアスで非日常的な雰囲気を常に漂わせているから、何を思っているのかが、いまいち掴みきれないのだ。と、これは単なる言い訳に過ぎぬが、実際の所、彼女は私のことをどう思っているんだろうな。そこらの石っころよりは愛着を抱いてくれていれば良いんだが、とこれまた必殺、保険掛けである。
私は雪月先輩のことを一途に考えながら、いつの間にかベッドの中で意識を落とした。
*
翌日の私は朝からレンタカーを借りて気ままな小旅行に出かけた。就職が決まり、大学へ行く頻度も減っていたおかげで引きこもりがちだった私には良いリフレッシュだと思ったのだ。私のような軟弱者は一度ヤケミズ市を離れて、多少の孤独を味わう必要がある。
街を離れた私はカーナビもつけず、心の赴くままに車を走らせていた。じりじりと照りつける日差しが夏らしい日で、雲ひとつない青空はまさに運転日和であった。知らない幹線道路を走り、知らない景色を横目に見るというのも中々どうして悪くないなと、途中のサービスエリアで昼食を済ませている際中、思ったものである。
それでも心中には気がついた時にはヤケミズ市から車で二時間半程のヤケガマ湾沿いをドライブしていた。特に観光地というわけではなかったが、なぜだか吸い込まれるようにして私はその土地に向かっていたのだ。私はヤケガマ湾を横目で見ながら車通りがほとんどない海岸沿いを走った。次第に街中に入って行き、人の往来がポツポツと散見し出すと、やがて町外れにある古い別荘が立ち並ぶエリアにたどり着いた。私はそこで山を駆け上がっていくのであろう山道の入口を発見した。寂れた登山口の様相である。草に半分埋もれたガードレールと散らばった落ち葉がそれを如実に物語っていた。
「行けるか?」
普段ならそんな冒険なぞ絶対にしないのだが、その時の私は主人公気分だったのだろう。道路は一応舗装されているし、まぁ大丈夫だろうとタカをくくると、私は薄暗い山道を進んで行った。
しばらく山道を走ると、視界は次第に開けてきて、やがて一際大きな和洋折衷の屋敷が姿を現した。またしても主人公気分に浸っていた私は車を路肩に車を止め、この見事な屋敷の主人に会ってみたい衝動に駆られた。が、いざ門前に立ってみると流石に物怖じして、私はひたすらに右往左往を繰り返した。
その時、声変わり途中らしい若干裏返ったような声が後ろからした。
「あれ、水口さんですか? お久しぶりですね」
私はこの少年を知らないが、少年は私のことを知っているみたいである。私が怪訝な表情を浮かべていると、少年は言った。
「ああ、僕もかなり成長しましたからね。分からぬのも道理です。 隣の樋口家の孫のカズマですよ」
私が尚も釈然としていないのを見て取ると、少年は不思議そうに言った。
「では、お使い中なので失礼します。雪月さんにもよろしくお願いします」
「はぁ」
私は曖昧な返事をして、それから脳内に電撃が走った。雪月さん! 確かにあの少年はそう言った。なぜその名を知っているのか。私と雪月先輩とあの少年の間に一体どのような関係があるというのか。すぐさま問いただしたかったが、ふと見遣ると、既に少年は居なくなっていた。周りにあるのは屋敷と緑、それから蝉の声だけである。
私は満を持して呼び鈴を鳴らした。そうして三十秒ほど待った。返事が無く、もう一度呼び鈴を鳴らしたが、またしても返事はない。万事休すかと思われたちょうどその時、車がそのまま通り抜けられそうな程大きい玄関の扉が開いた音がして、私は心臓を高鳴らせた。逆光で姿はよくは見えないが、確かに一人の女性が日傘を差しながら、つかつかとこちらに歩み寄ってくるのが分かる。日傘が逆光を遮断したその瞬間、女性の姿は露わになった。日傘を差しながら門前までやって来た乙女は見紛うことなく雪女の雪月さんであった。
「えっ」
雪月さんは私の姿を認めると、理解が追いつかないといった感じで三秒ほどフリーズしていたが、
「なんでいるの!」とすぐに一際大きな声を上げた。私はただ何となくとしか言えず、全くもって上手い説明は出来なかったが、
「まぁ、入りなよ」と優しく促されて、屋敷の応接間に通された。
長い廊下を歩いている途中、私は突如として蘇った記憶によって尚もバクバクと鳴り響く心臓を抑えながら「お久しぶりですね」となるだけ冷静にそう言った。が、噛み噛みになってしまい、自分でも苦笑してしまうほどの滑稽ぶりを晒す羽目になってしまった。
「ほんと、久しぶりだね」
だが、雪月さんはくすりと笑うと、感慨深そうな声色でそう言ってくれた。先導してくれているため、表情は見えなかったが、さぞかしこちらが後ろ頭を掻きたくなるような面持ちで歩いているのだろう。
雪月さんは懐かしの白いワンピースをはためかせながら、組んだ後ろ手をゆらゆらと揺らしていた。




