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雪女さんこんにちは  作者: suzumi
時は過ぎていく
25/37

 夏休み明けである。明日からは講義があるのだが、どうも釈然としなかった。まず不可解なのは八月中の記憶がほとんど抜け落ちてしまっている点である。幾ら忘れっぽい私とはいえ、一ヶ月分の記憶が眠っていたようにすっぽりと抜け落ちているのは明らかにおかしい。


 不安になって矢田に聞いたところ、私は前途不安な若者にありがちな、己の人生観が変わると噂のインド旅行に行っていたことになっていた。雪月先輩に聞いても、原口部長に尋ねても同様の答えが帰ってきた。


 そう言われれば何か得難い経験を積んだような気が微かにするが、所詮、気は気である。夢の残り香には違いなかった。


 次に釈然としないのが、預金口座にやたらとお金があることである。これまた記憶が一切無く、一年間はアルバイト無しで糊口をしのげそうな金額が口座の中に入っていた。流石に恐ろしくなり、銀行や警察に相談しようと思い立ったのであるが、雪月先輩と会った途端にそんな気は消え失せた。私は部室でもこの事を開陳したのであるが、案の定というか、皆は、肉を奢れ、酒を奢れの大合唱。見栄張りな私は一夜にして八万円もの大金を浪費してしまった。


 そして最後に最も不可解なのは雪月先輩の態度である。休暇明け、久しぶりに会った際も妙に言動がぎごちなく、目線も微妙に合わなかったので、初めは長期休暇越しの再会にありがちな、あの若干ぎこちない態度になっているのかなと思った。そう思って焦らずに笑顔を返していると、案の定、彼女の私に対する態度はすぐに融和し、私は安堵した、とそこまでは良かったのであるが、以前には見えなかった私に対する心安さまでもが何やら現出していて、私は嬉しいながらもかなり困惑した。


 一学期で幾らか仲を深めたとはいえ、ここまで仲が良かった覚えはないのである。更には先輩という言葉に意外な反抗、いや悲しみを見せてくるのには、全く原因が分からず参ってしまった。


 それというのも、九月の初旬のことだった。私は、自分の知らぬうちに、すっかり伸びっぱなしになっていた髪を切りに行くために下宿を出た。そして例の商店街の一角にある床屋へと向かった。しかし、外は未だ残暑厳しく、私は多少の汗をかいた。幾らシャワーで洗い流すとはいえ、汗をかいた状態で床屋へ駆け込むのが、何とも気恥ずかしくて駄目だった私は、涼むのと時間を潰すために、行きつけの古本屋に寄った。私は冷房のよく効いた店内で古今東西の名著を睥睨し、神の裁断が如き手つきで、買うに値する文庫本を物色していたのであるが、ふとレジの方を見遣ると雪月さんがいた。言うまでもなく私が話しかけに行こうと近寄ったちょうどその時である。


「雪月先輩、こんにちはです」


 神崎先輩が漫画コーナーの方から飛び出してきて、抱きつかんばかりの勢いで雪月先輩に擦り寄った。


「志保ちゃん! 久しぶりだね」

「ホントですよ! 水口も一緒に居ないから変な噂が立っちゃっていましたよ! 根も葉もない話ですよね、あんなやつと一緒にいたなんて」


 人をあんな奴呼ばわりとは一体どういう了見なのだろう。


 尚もしばらく、あれはどう? これはどう? と質問を投げつけながら、神崎先輩は子犬のように雪月先輩の傍を離れなかった。雪月先輩はやや困ったような笑顔を見せた。


「私は毎年、夏休みは実家に帰省しているって説明したでしょう? それにメッセージのやり取りはあったじゃない」

「直接合わないと意味がないんですよ!」


 思いの外長々と会話をするので、突然の神崎先輩の登場に面食らっていた私の緊張の糸は簡単に切れた。


「雪月先輩に神崎先輩じゃないですか、こんにちは」


 私は大胆にも二人の久々の再会に水を差した。二人の再会よりも三人の再会の方が喜ばしいと思ったからである。


「水口、あんた話を聞いてたのね」と予想通りの呆れ顔を見せるのは神崎先輩で「水口くん、久しぶり」と微笑んでくれるのが雪月先輩の筈なのであるが、


「水口くん、久しぶり」


 そう言った雪月先輩の瞳には何故だか悲しみの色が溢れていたのである。私はひどく動揺した。


「やぁやぁ、怪奇幻想部の諸君、久々だな。各々研鑽を積んでいたか」


 だがしかし、その場にて雪月先輩の態度について考え込むことは許されなかった。新たな乱入者、原口部長が現れてしまったのである。


「我が怪奇幻想部が春休みと夏休みの活動を各々の自由に任せているのは、休み明けにページ大増量の怪奇幻想新聞特別号を発刊するからだということを忘れてはいかんぞ」


 古本屋の店内にも関わらず、はた迷惑で恥ずかしい大声であった。注意したいのは山々なのだが、彼は旧制高校時代のマントを何の躊躇も無く人前で着用する人なのだ。無駄である。


「そのための準備は部員の責務であるが、さぁ、どうなんだ、お前たち! きちんと用意はできているのか」

「夏休み明けの新聞は一番大事なんだって、それはもう何十回も聞きましたよ! 言われなくたって、それなりには準備していますから」


 鬱陶しげな様子を隠そうともしない神崎先輩は、そう言って原口部長の追及を躱した。


「私は一つ目小僧の生態について書くつもりだよ」


 雪月先輩は謎に自信満々である。二人が潔い返事をしたので、続いて原口部長の視線が注がれるのは私であった。


「水口はどうだ、ちゃんと何か考えているのか」


 全く題材すら決めていなかった私は「床屋の予約の時間なので失礼します」と言ってその場からエスケープするように床屋へと向かった。後ろから「待て!」と原口部長の叫び声が聞こえたが、私は他人のフリをし、全速力で退散した。


 到着した床屋では店主の佐々木さんとうだつの上がらない会話を交わした。話題は今年のプロ野球の順位についてやノーアウト一塁でバントは有効なのかなど、主に野球の話である。二番打者の役割についての討論は思いの外白熱して、最後は髪を切り終えたにも関わらず私たちは話を続けた。メジャーの事情に詳しい佐々木さんは二番打者最強理論を決して譲ろうとはしなかった。


 下宿までの帰り道では、先程の古本屋での一幕が脳内に再現され、雪月先輩の悲しい瞳がとりわけ気がかりであった。雪月先輩本人は気づいていないかも知れないが、私は何となく雪月先輩と呼びにくくなった。


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