12
今日でいよいよこの奇妙なアルバイトも終わりを告げ、とうとう避暑地からもおサラバである。門先で荷物を背負い込んで、なんのわけだか、私はいたく感動していた。
「空がこんなにも青いですよ。雪月先輩。空がこんなにも」
「あー、うん。そうだね」
日傘から遠慮がちに空を覗くと、彼女は困惑気味に答えた。私のテンションにどこかおかしな所があったせいだろう。私はいつも別れ際になると、タチの悪い感傷癖を変な形で披歴してしまうのだ。その度に人からは厄介な奴扱いを受けるのであるが、この時も多分そうだったのだ。
「雪月さんもしばらくしたら大学だからな。全く屋敷は寂しくなるぜ」
一つ目が豪快に笑いながら言った。してみると、彼はこの屋敷に一年中居るわけなんだな。
「まぁ、来年も再来年も来て頂いたって構いませんよ。もちろん、バイトに応募出来たらの話ですが」
から傘は含み笑いを決め込みながら言った。私は首を捻ってから「考えておく」と苦笑いで返した。そうして、いざ離別の時が訪れると、から傘とも一つ目とも別れるのが名残惜しく、私は二人共と長い握手を交わした。から傘も一つ目も困惑していたが、拒絶はせずに受け入れてくれた。
「さぁ、そろそろ行かないと、電車の時間に間に合わないよ」
雪月さんが叫ぶと、私は屋敷の敷地外に出て、まだ秋の到来には早すぎる気温の中、アスファルトの照り返しによって熱くなった空気の中を切り裂くように歩いて行った。
から傘と一つ目とは屋敷でお別れだが、雪月さんは駅の方まで送ってくれた。行きすがら、急に道端で立ち止まった彼女は胸中で温めていたであろう言葉を発した。
「色々と考えたんだけど、君が死んじゃう可能性があるのはやっぱり私には耐えられないな。……はい、この薬を飲んで。前から言っていた、雪女としての私のことだけを忘れられる薬。ただし完全な薬じゃないから、私が雪女であることに気づいちゃったら、記憶はまた戻っちゃうんだけどね。まぁ、そこは考慮しなくていいよ」
彼女は弱弱しくそう言うと、バッグから取りだした瓶の蓋を開けた。そして私に中の透明の液体を飲むように促した。
「なぜ死んじゃうんですか」
私は、世界の存在理由を大人に問う時の何とも無邪気な子供のように、虚心坦懐な調子で尋ねた。
「それは……言えないの。……ごめんね」
何となく分かっていた。雪月さんは苦しそうな表情を浮かべた。
「いえ、言えないこともありますもんね。──これは今すぐ飲むんですか?」
「うん。今、飲んで」
私は捨ててしまおうか、或いは飲んだふりをしようかと一瞬迷っていたが、彼女の切実な瞳を見て、素直に従うことに決めた。
「ありがとう。夏休み明けには、部活の先輩後輩としてまた会おうね」
「はい」
私は強く頷いた。彼女の強がったような美しい微笑みに応えようと、その時の私は人生で一番と言っていいほどの穏やかな表情を浮かべていたと思う。私たちは優しいグッドバイを言い合った。
しかし、感動的には終わらないのが私達なのかもしれない。駅に着くと、結局二人して壁にもたれかかって暇をしていた。二人とも、さっきの別れを多少なりとも感動的に思っていたので気まずかった。
それというのも、私はホームで一人電車を待とうと思っていたのだが、雪月さんが頑なに屋敷に帰ろうとしなかったのだ。ずっと後ろをついてきていて、改札の前では微妙な表情を浮かべたままじっと立ち尽くしていたので、私も何だか堪らなくなって、改札を抜けずに彼女のそばで時間を潰すことになった。傍から見れば甚だ痛々しい大学生カップルだったであろう。
ともすれば蝉の声に負けそうな小さな声で雪月さんは何気なく言った。
「ねぇ、もし潜在意識で覚えていたらでいいんだけどさ、来年までに免許をとってよ」
「どうしてですか?」
「向こうの高原が涼しくて気持ちいいんだよ。景色も良いし」
彼女はぼやけた遠くの高原を指さして言った。
「飛んで行っちゃダメなんですか?」
「いいんだけど、ダメなの」
「じゃあ、分かりましたよ」
「よし!」
直観的な会話だったが、何故だか通じあった感じがあった。やがて電車の音が線路の向こうから聞こえて来たので、私は彼女とも固い握手を交わして、慌ただしく改札をくぐった。
「またね!」
電車が動き出した後も、姿が見えなくなるその瞬間まで、彼女は私に向かって無邪気に手を振り続けてくれた。
そうして彼女に見送られた私は避暑地から去ったのである。一夏の奇妙な体験。向こうの駅に着く頃には、雪女及びそれに関係する不思議な出来事の記憶は全て失われる。私は出来るだけ、この避暑地での思い出を魂に浸しながら、走りゆく電車に身を揺られていた。




