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外柔内剛の女性の破壊力たるや、恐ろしい。これは前々から私が思っていたことである。
私は人の表情から悪しきものを読み取ることにかけては衆に優れていると密かに自負しているのであるが、雪月さんの表情にだけはどこにも堕落的な気配が見えたことはなかった。人は普通、一日を過ごしているうちに、幾度もだらしの無い表情を見せるものであるが、殊彼女にかけては、欠伸すらも穏やかな和みがある安らぎに満ちている。ふゎんと高く抜ける眠たげな余韻の声はますます慕わしく、縁側に座り込み、ボーッと一箇所を眺めている時があっても、顔立ち、姿態はあくまで美しく儚げな朝露を想起させた。
それほど人を癒す属性を持っていながら、理知は豊かで、雪女としての内面、自尊心には甚だしいものがある。聡明な魂を保っていながら、気高い無垢さを失っていないその人との邂逅は私にとって奇跡に近いものであった。
「ふざけるな!」
とんでもなく赤裸々なスピーチを読まされていた私は、その酷い夢から跳ね起きた。八月も下旬、この夏一番の快晴の日で、私の誕生日でもある一日の早朝の出来事である。
その日の朝は和食の約束の筈が、米を炊き忘れたまま寝てしまったので、急遽お得意のハムエッグトーストを作ってみたら、まさかの酷評の嵐であった。
「俺は米が食えるって聞いたのだが」
一つ目が不満全開で言い、
「昨日アンタが言うので、私は既に白米の口になっているんですよ。どう落とし前をつけてくれるんですか」
から傘もネチネチと詰めてくる。私は縋るように雪月さんの方を向いた。が、彼女は彼女で、昨日買ってきた古漬けをご飯のお供として食べられないことにがっくりと肩を落としていた。
「職務怠慢だ、罰金を科そう」
ハムエッグトーストを齧りながら、一つ目が厳しい口調で言った。
「ええ、私も構わないと思います」
牛乳をがぶ飲みした後で、から傘も追随する。
「確かにこれは許し難い大罪だね、」
雪月さんも頷いて、ああ、これでは万事休すである。
「雪月さん、それはあんまりです。どうかご慈悲を頂けませんか」
そう言った私は禁断とされる日本独自の謝罪の形を示した。から傘と一つ目はケタケタと笑ったが、雪月さんの表情は罪悪感に塗れたものに変わり、彼女は申し訳なさそうに片唇を吊り上がらせた。
作戦通りだ、これで私は許される。そう思った一秒後である。
「うーん、じゃあ前のボーナスを全カットすることで帳消しにしよう!」
青天の霹靂とはまさにこのこと。飛び上がった私は、彼女のくつくつという笑い声を聞きながら、そのまま床に倒れ込んだ。
その後すぐに冗談だと知らされたが、今日は私の誕生日だというのに、朝から何たる仕打ちであろう。無論、過去の私は自分の誕生日を仄めかすような真似を一切しでかしておらず、プレゼントの歓迎を喧伝したこともなかったため、この結果は果たして妥当なのかもしれない。それに、今の私は雇われ身分なのだ。むしろ誕生日祝いの無いことは、私の謙虚を物語っていると言っても良い。食事の後片付けをやりながら私はひどく強がっていた。
しかし、せめて雪月さんくらいは「誕生日おめでとう」の一言を言ってくれたっていいんじゃないか。私は何も誕生日を祝うな、などとは言っておらず、誕生日をあからさまに秘匿するような真似もしていなかった筈である。今までの会話で自身の誕生日を口にしたことも一度や二度ではないと思うし、私の方は彼女の誕生日を三年先の曜日まで完璧に覚えているというのに。と、これはまぁ冗談である。
さて、バイト代の減額を免れた私は、罰として、雪月さんの散歩に付き合うことになっていた。避暑の設定はどこに行ったのだろうと思ったが、わざわざ逆らう必要もない。
ようやっと食事の後片付けを済ませた私がサンダルを履いて表に出ると、既に雪月さんが和傘を差して待っていた。
「から傘ちゃんは、ちゃんと日傘にもなるんだよ」
そう言うと、彼女は相合傘を提案してくれたのだが、黙っているから傘の目がどこについているかも分からないので、極めて紳士的にお断りした。
「今日はどこに行くんですか」
「着いてからのお楽しみだね」
予想していた通りの返事である。雪月さんは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「だったら行きません」
「ダメ、雇用主命令だから」
これまた予想していた通りの返事である。私は軽い足取りで歩いて行く雪月さんの後をせかせかと追った。
行き先は不明であるが、私達は屋敷から北の方角に進んだ。屋敷の北には小さな森が広がっていて、雪月さんは森の中の小道を木の枝片手に容赦なく歩いて行く。蝉時雨や突き刺すような日光にはまるでお構い無しという姿勢であった。彼女はもうこの景色にすっかり慣れきってしまっているのだろうが、私にとってはこの夏が初めてなのだ。私は自然の細かなあれこれにいちいち気を取られては大いにはしゃいだ。
「おい君、遅いぞ!」
始めの方は後ろを振り返っては道草を食う私を、笑いながら注意していたのだが、やはりその辺は雪月さんである。そのうち自分も一緒になって道草を食い始めた。日傘役を買って出たから傘は呆れた様子だったが、私達は楽しかった。
私は名前も分からない花で古典的な花占いをして彼女を喜ばせると、今度は唯一名称が分かった勿忘草についての豆知識を披露した。
「あそこに水色の勿忘草が咲いていますが、勿忘草の花言葉を知っていますか?」
「知らない、なに?」
「私を忘れないで、です」
「ふーん、なんか詩的だね。私を忘れないで、か」
雪月さんは意味ありげに小さく復唱した。
屋敷の北にある海辺の森を抜けると、灯台が建っていそうな趣のある丘に出た。広大な海が見下ろせる。風に揺れる草と岬の先端にポツンとある石柱以外は何も無い簡素な場所であった。
「雪月さん、あの石柱はなんでしょう」
「ああ、あれが今日の一個目の目的だよ」
懐かしむように目を細めた雪月さんはどこかぶっきらぼうにそう言った。
「私の母の墓石なんだ。今日を命日にしているの」
「しているって?」と言葉に引っかかった私は思わず尋ねた。
「いつ死んじゃったのか分からないんだ。だから、お母さんが居なくなった日を命日にしたの。酷い母だったよ」
雪月さんは苦虫を噛み潰したような顔をして、遠い過去を追懐しているみたいであった。
「死者を冒涜するもんじゃないですよ」
私は雪月さんを宥めるように言った。
「でも、死んだ人間を悪く言うなっていうのは亡者に対してやましいことがある人の言葉にも聞こえない? 生きている間に精一杯世話を焼いてやって、死んで後から愚痴が出てくる方が、よっぽど嬉しいように私は思うな。まぁ、私の場合は世話を焼く間もなかったんだけど」
私はそれに対して何ら気の利いた言葉を返せなかった。潮風が吹き荒ぶ。しばらくしてから、彼女は口を開いた。
「どう、捻くれた意見だった? めんどくさい女?」
雪月さんは自虐的に笑った。私は彼女がそんな表情を浮かべることにまず驚き、次に言葉の裏に潜んだ悲痛な思いに心を痛めた。
「いいえ、でも僕の誕生日と同じ日なのはすごい偶然ですね」
「うん、本当にすごい偶然」
そう言うと、私の誕生日に気づいていたらしい彼女は、丘に着いてから初めての笑顔を見せた。から傘は気を使っていたのか、ずっと黙ったままだった。墓石の足下には砂浜が、その先には陽光を白く反射した海が地平線の彼方までずっと続いている。
「さぁ、陰気な話はこれくらいにして、君の誕生日を祝うとしよう」
彼女はそう言うと勢いよく和傘を開いた。すると、から傘が欠伸をしながら待ちわびたと言わんばかりに両目を開いた。
「ようやっと出番というわけですか」
「うん、随分と待たせたね」
雪月さんは片方の手でから傘の柄を握り、もう片方の手で私の手を握った。私は何が何だか分からないまま、彼女の柔らかな手を握り返した。
「行くよ!」
拒否をする間もなく、私達三人は思い切りよく、崖から見事な跳躍を見せた。
「ハッピーバースデー!」
グライダーと化したから傘に掴まった私達は、青空の中を風に乗ってどこまでもゆらゆらと飛んで行った。私達は銀色に波打つ大地と燦然と輝く太陽とを見晴かしながら、このまま永久に空の旅を続けるのだと思われたが、
「ああ、そろそろいけないや」
から傘が力の抜けた声で言うと、私達はゆっくりと下降していき、勢い弱く夏の海に着水した。雪月さんはからからと笑い、私もつられてケタケタと笑った。冷たい海水が身体に浸透してきて心地よかった。
「何十メートルくらい飛んだんだろう。気持ちよかったね!」
「ええ。貴女方が居なければ、危険すぎる遊びですけどね」
「居るんだから別に良いじゃん」
子供のようななあどけなさを見せた雪月さんは満面の笑みを浮かべた。
「ところで、帰りはどうするんです?」
泳ぎに自信がない私は、心配からそう尋ねた。言いながら、海水の中で繋ぎっぱなしだった手に気がついて、途中からはそちらの方ばかりを気にしていた。
「うーん、どうしよっか」
考えていなかったらしい雪月さんは、茶目っ気たっぷりにそう言うと、そのまま顎に手を宛てがって考え込み始める。こうなれば当然、一緒になって方法を模索するべきであるが、流れの中でさっぱりと手を振り解かれたので、私の意識の九割半はそちらへと流れていた。
「そうだ! 目撃者が居ないことに賭けて、私がお姫様抱っこで屋敷まで運んであげるよ」
雪月さんからの意外な提案があった。それは恥ずかしいと、初めは私もから傘も断ったのであるが、かといって他に代替手段も思いつかず、結局、から傘を抱いた私が雪月さんに抱かれて空を飛ぶという不思議な光景が出来上がってしまった。
「ふざけた話ですよ、何故貴方が雪月さんで、私が貴方なんでしょう」
から傘はぶつくさと文句を垂れた。
「同意見だよ」と私は嘲るように言った。
「まぁまぁ、快適に帰れるんだから良いじゃない」
私達はびしょ濡れの身体のまま雪月さんに抱きかかえられ、屋敷の近くまで飛んで行った。暖かな風を優しく切り裂き、徐々に髪や衣服が乾いていくのが新鮮な感覚であった。地に足をつける頃には、もうほとんど着水前と変わらない乾き具合である。
「三人で行くなんてずるいじゃねぇか」
帰ると、置いてけぼりにされていた一つ目がへそを曲げており、まことに尤もな不平不満を口にした。私は彼に詫びとして、夜ご飯のカツカレーのカツを他二人よりも多く入れてやった。
「お前も謝り方が分かってきたな」
子供だましに過ぎないと思っていた機嫌取りが功を奏して、私は思わず苦笑した。




