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第26話 ディアナと名乗る少女【インウィディア・ユグルタの追憶】

「ふっ、はっ!!」


 振り抜いた拳が頭蓋を砕く感触。

 身の丈を超える2本角の魔物は、力なく大地に倒れ込んだ。

 人里離れた森の中、背後の茂みに隠れていた老人がゴソゴソと現れる。


「いや~、助かった助かった。最近ここいらの魔物、随分とでっかくなってきての。野草取りも命がけじゃて」


 私は首にかけていた手ぬぐいで額の汗を拭い、頷いた。


「ええ。この個体サイズはこれまでの旅の中でも1番大きい。くれぐれも気をつけて」

「感謝感謝じゃ。にしてもお強いのぉ。名前を聞かせてはくれぬか」

「ユグルタ・メ……いや、ユグルタだ。ただの、ユグルタだ」

「……? そうか、ユグルタ殿というのだな。もしよければ、今日はわしの家に泊まっていかんか? 少し歩くが、この森を抜けた先に集落があってな。魔物を退治してくれたのじゃ。なにか礼をせねば」

「お気持ちは嬉しいですが、何分、先を急ぐ旅ですので……」


 嘘、だった。

 旅などという高尚なものではない。

 ただ、あてもなく放浪しているだけだった。

 王都を制圧し、革命を成功させた。そこまでは良かった。

 だが時を同じくして頻発するようになった地殻変動、魔物の凶暴化。そして、政権を失った王都内での権力争い。

 経済は混迷し、人々は王政時よりも大きな困難に見舞われるようになった。

 私はそんな現実から逃げるように、各地を渡り歩いていた。

 気休めに武を磨きつつ、慰めに人助けをしながら。

 

「どうか、されましたかな? 暗いお顔をされている」

「あぁ、いや。すみません。色々思い出してしまったもので」

「ほほ、疲れが溜まっているのですじゃ。ひどいくまですぞ。遠慮せず、家に来ればええ」

「はぁ、いやしかし……。っ!?」


 断ろうかと逡巡する矢先、大地が激しく揺さぶられる。


「じ、地震じゃ! 大地の怒りじゃ!」

「御老体、私の近くに! 倒木に巻き込まれると危険です!」

「おお、怖や怖や……。これも、あの王が討ち滅ぼされてからというもの。王都の人間はなにか、怒りを買うようなことをしたのじゃろうか……」

「……」


 周囲に目を配りながら、私は王都地下での光景を思い出していた。

 巨大なプールから逃げ出した、あの異形の魔物。

 それが関係している気がして、ならなかった。

 だとすればこうしているのもすべて、私が引き起こした災禍と言っても過言ではない。

 しばらく身を伏せていると、揺れは次第に収まっていく。


「終わり……かの……?」


 老人が呟いたその時だった。

 私の耳に、かすかな悲鳴が届く。

 街道の方からだった。


「まずい……! あっちの街道は確か、森を切り開いて作った新しい道。道幅も狭く、周囲の木は樹齢も相当だ。大木が倒れてきたらひとたまりもないぞ……!」

「わ、わしには何も聞こえんかったが……」

「御老体はここから動かず、じっとしていてください! 地震の後に倒れてくる木もある。ここは開けているから安全です!」

「じゃ、じゃがお主は」

「助けに、行ってきます!」


 罪滅ぼしのような気持ちだった。

 私は身1つで深い森を駆け抜け、悲鳴の発生源へと向かう。

 そして街道へたどり着いた時、目にしたのは悲惨な光景だった。


「なんと……!」


 予感は的中していた。

 セクスタニルが体を横たえ、泡を吹いている。

 片方がちぎれた手綱の先には、先の揺れで倒れたであろう巨木。

 馬車の破片が、周囲に散らばっていた。


「おい! 聞こえるか! 聞こえるなら返事をしてくれ!」


 大きな声をかけながら、大木の反対側へと回る。

 そこには前半分を完全に潰された馬車の残骸があった。

 投げ出されたのか、御者の下半身が倒木の下から覗いている。

 上半身は完全に潰されており、即死だとすぐに分かった。


「……!」


 崩れかけた馬車の中から、うめき声が聞こえた。

 私は弾かれるように残骸へと走る。

 ひしゃげた車輪や破けた幌、散らばった積み荷をかき分けると、人の手が板の間から見えた。

 まだ、息がある。


「今助けるからな! 気をしっかり持て!」


 崩れぬよう慎重に木板をめくり続け、現れた女性に私は目が釘付けになった。

 ストロベリーブロンドの美しい髪に、割れた額からベッタリと血がついている。

 腕や足にも骨折が見受けられた。

 胸部も潰されたのか、麻の服に血が滲んでいる。


「これは……」


 かなりひどい状態だった。

 治療を施しても、助かるかどうか。


「あ…………あ……」


 女性は唯一動くであろう手を持ち上げ、こちらへと伸ばしてくる。

 慌ててその手を取ると、女性は初めて瞼を開く。

 青々と茂る森のような、吸い込まれるほど美しい深緑の瞳だった。


「大丈夫だ。私が助ける。絶対にだ!」


 気がつけば、無責任にもそんな言葉が口をついて出ていた。

 女性は安心したのか、僅かに微笑むと気を失う。


「だ、大丈夫かの? ……ひっ!」

「御老体! 動くなと言ったはずだ!」


 声に振り返れば、森に残してきた先ほどの老人がそこにいた。

 待てずにここまで来てしまったのだろうか。


「そ、そのお人は……?」

「分からない。だが、見た通り重症だ。手当をしたい。助けてもらえるか?」

「も、もちろんですとも!」


 私と老人は馬車の破片や幌を使って簡易的な担架を作り、女性をその上に乗せる。


「私が、私が絶対に……!」


 祈りにも似た思いだった。

 正義の意味を見失った私にとって、傷を負い苦しむ目の前の女性を助けることだけが、唯一正しく意味のあることに思えた。

 この時の私は人助けなどと自分を騙し、ただ現実から逃げたい一心だったと記憶している。

 それが、私とディアナとの出会いだった。


   *


 それから、半年ほどの月日が過ぎた。

 担ぎ込まれた女性は村人たちの懸命な治療により一命をとりとめ、奇跡的に回復した。

 ただ……。


「うーっ! あーっ!」

「どうした! うっ!」


 私が彼女の寝室に駆けつけると、部屋の中に尿の臭いが充満している。


「おお、また漏らしおったか。婆さん、すまんが頼む。ほれ、何しとる。ユグルタ殿、部屋の外へ出んか」

「あ、ああ……」


 女性は見たところ16から18の齢。

 年頃には変わりない。


「ゆぐぅたー! ゆぐぅたぁ!」

「はいはい、ユグルタさんは後で来ますから」


 老婆が閉じた扉の向こうで、女性がなにやら叫んでいる。


「すっかり、懐かれましたな」

「えぇ、ですがあの言動、彼女の記憶は……」

「まあ、頭が割れるほどの怪我じゃったからな。最初は喋れもせんかったじゃろう。ここまで回復しただけでも重畳じゃ。元通りになるかはあの子次第じゃがな。そう焦らずゆっくり待つしかないの」

「ですが、良いのですか? もうここにお邪魔して長い。やはり私や彼女が押しかけてご迷惑をお掛けしているのでは……」

「ほっほ、構わん構わん。わしらも息子を病気で亡くしてからというもの、あれほど静まり返っておった家が賑やかになって嬉しゅうてな。それにユグルタ殿が畑仕事を手伝ってくれるもんで、むしろこのままここに住み続けて欲しいくらいじゃて」

「……ありがとうございます」


 そんなこんなで老人に甘えさせてもらってはいたものの女性の身元は分からず、唯一判明していたのは彼女自身が口にした、ディアナという名前だけだった。

 馬車の荷物を探ってみたが、彼女の衣服とはまるで異なる華美な布や服ばかり。

 商人だったのか、あるいは落ち逃げていた貴族だったのか。

 彼女の記憶が回復しない限り、手がかりは皆無だった。

 

「ゆぐぅたぁ!」


 扉を開けて飛び出してきたディアナは、床に這いつくばる。

 手足は治癒しているはずだったが、彼女はひとりで立つことができず、私の体をよじ登るようにして顔を近づけてくる。


「えへぇ、でぃあな、ゆぐぅた!」

「ユグルタ、だ」

「ゆ、ぐ、う、た」

「ユ、グ、ル、タ」

「ゆ、ぐ、るるぅ、た」

「惜しい。ユ、グ、ル、タ!」

「ゆー、ぐー、るー、た!」

「おおっ! 言えたじゃないか! すごいぞ!」

「えへへぇ! ゆぐぅた! ゆぐぅた!」

「も、戻っているぞ……」


 ディアナは1年の歳月を経て、ようやく普通に喋れるようになった。

 ただ彼女の記憶だけは、結局戻ることはなかった。


「ユグルタ、帰るの遅い!」

「はは、今日はご機嫌斜めだな。いつもと帰る時間は変わらないはずだが」

「遅い遅い! せっかくディアナがユグルタのために料理作って待ってたのに! あっ!」


 ディアナは手を口に当てて勝手に驚く。

 そしてみるみるうちに、涙目になっていった。


「~~っ! もうっ! ビックリさせようとして準備してたのに! ユグルタのバカっ!」


 振り回される拳を軽く身を引いて避けつつ、あまりの理不尽に苦笑が漏れる。


「わかった、わかったから。それで、料理はどこなんだ?」

「あれ! テーブルの上!」


 ディアナが指さした先にあったのは、皿に盛られた炭の山。


「……あれは?」

「目玉焼き!」

「……目玉は、どこにあるんだ……?」

「おいしいって、言ってね!」

「強制なのか……」


 時間が、緩やかに流れていた。

 かつて母と王都の片隅で暮らしていたときのような、穏やかな日々。

 ディアナは記憶を失う前の性格が元からそうなのか、はたまた老婆や老人の優しさに触れたからか、真っ直ぐで素直、そして私以上に努力家だった。


「ユグルタ、本を読んで!」

「ユグルタ、文字を教えて!」

「ユグルタ、畑のお仕事教えて!」

「ユグルタ、いつもの避けるシュッシュッってやつ、教えて!」

「ユグルタ、このお野菜収穫し終えたら、組手に付き合って!」


 ユグルタ、ユグルタと私を慕う彼女は、ひどく眩しかった。

 ディアナはいつだって手や足に傷を作りながらも、弱音を吐かずに立ち向かう。

 何度失敗しても諦めず、うまくいくまで決して諦めなかった。

 革命以降何ひとつ前に進めなかった私の心は、彼女のそんな姿を見て、少しづつ癒やされていたのかもしれない。

 5年の歳月が経ち、老婆の後を追うように息を引き取った老人の葬儀を終え、私もようやく自分の足で歩き出す決意が固まった。

 

「ディアナ。私はもう一度旅に出ようと思う。この私にできることが、きっとまだあるはずだと思うのだ」

「……そう。ま、そんなことよりほら、料理の味見してよ」

「そんなことって……私の一大決心だぞ」

「その決心は明日になっても冷めちゃったりなんかしないでしょ? でも私の料理は違う。ね?」

「……うむ」

「ほらほら、今日は私の得意料理、野菜と鶏肉のスープよ!」


 ディアナは鍋蓋を手に、小指をピンと立てウインクする。

 どうやら私に選択権はないらしい。

 渡された小皿を傾け、口の中に広がる優しい味を堪能する。


「……上達したな。ディアナ」

「あら、随分と上からね。武術はまだまだだけど、料理の腕はとっくの昔に抜いてるわ。だから、ね。こういうときには、他に言うことがあるでしょ?」

「お、おいしい……です」

「よろしい」


 私にとって、最大の懸念はディアナだった。

 気立てが良く、美しく成長した彼女を、私の贖罪の旅に付き合わせるわけにはいかなかった。

 村には彼女に気がある男も複数いると聞いている。

 私なんかと旅に出るより、この村で幸せな家庭を築く方が彼女のためになる。

 そう、思っていた。

 だが、旅立ちを決意した翌日の朝。


「ディアナ……?」


 寝室にも、キッチンにも、彼女の姿が見当たらない。


「買い出しか……? こんな朝早くから?」

 

 最後に声をかけようと思っていた私は拍子抜けしつつも、黙って去ることも運命か、とすぐに受け入れた。

 荷を整え、家の扉を開ける。

 すると畑の先で、ストロベリーブロンドの髪が風に揺れていた。


「ディアナ、今までどこへ……?」


 外へ足を踏み出して、ハッとした。

 ディアナは普段着ではなく、プレートメイルに剣を佩いている。

 背中に大きなリュックサックを携えて。


「ユグルタって、準備に結構時間かけるタイプなのね。随分待ったわ」

「いや、ディアナ、君はこの村に残って……」

「嫌よっ!」

「っ!」


 思えば、これが初めてだったと思う。

 ディアナが、強い拒絶の意を示したのは。


「嫌。私は、ユグルタに付いて行く。どんな旅かわからないけど、付いて行く。足手まといには、ならないよう頑張るから、お願い。ね?」

「ディアナ……」


 彼女の頑固さと、折れない心は誰よりも私が知っていた。

 深緑の真っ直ぐな瞳を前に、私の目論見は脆くも崩れ去った。

 強くその意志を否定することだってできた。

 だが、そうしなかった。

 なぜなら心の奥底で彼女と一緒にいたいと、渇望する思いがあったからだ。

 それを理屈や彼女のためという言葉で、ずっと押し殺していた。

 だから、断れなかったのだと思う。

 私はディアナに、戦う前から負けていたのだ。

   *


 それから、半年ほどの月日が過ぎた。

 担ぎ込まれた女性は村人たちの懸命な治療により一命をとりとめ、奇跡的に回復した。

 ただ……。


「うーっ! あーっ!」

「どうした! うっ!」


 私が彼女の寝室に駆けつけると、部屋の中に尿の臭いが充満している。


「おお、また漏らしおったか。婆さん、すまんが頼む。ほれ、何しとる。ユグルタ殿、部屋の外へ出んか」

「あ、ああ……」


 女性は見たところ16から18の齢。

 年頃には変わりない。


「ゆぐぅたー! ゆぐぅたぁ!」

「はいはい、ユグルタさんは後で来ますから」


 老婆が閉じた扉の向こうで、女性がなにやら叫んでいる。


「すっかり、懐かれましたな」

「えぇ、ですがあの言動、彼女の記憶は……」

「まあ、頭が割れるほどの怪我じゃったからな。最初は喋れもせんかったじゃろう。それだけでも重畳じゃ。そう焦らず、ゆっくり待つしかないの」

「ですが、良いのですか? もうここにお邪魔して長い。急に私や彼女が押しかけてご迷惑では……」

「ほっほ、構わん構わん。わしらも息子を病気で亡くしてからというもの、あれほど静まり返っておった家が賑やかになって嬉しゅうてな。それにユグルタ殿が畑仕事を手伝ってくれるもんで、むしろこのままここに住み続けて欲しいくらいじゃて」

「……ありがとうございます」


 そんなこんなで老人に甘えさせてもらってはいたものの女性の身元は分からず、唯一判明していたのは彼女自身が口にした、ディアナという名前だけだった。

 馬車の荷物を探ってみたが、彼女の衣服とはまるで異なる華美な布や服ばかり。

 商人だったのか、あるいは落ち逃げていた貴族だったのか。

 彼女の記憶が回復しない限り、手がかりは皆無だった。

 

「ゆぐぅたぁ!」


 扉を開けて飛び出してきたディアナは、床に這いつくばる。

 手足は治癒しているはずだったが、彼女はひとりで立つことができず、私の体をよじ登るようにして顔を近づけてくる。


「えへぇ、でぃあな、ゆぐぅた!」

「ユグルタ、だ」

「ゆ、ぐ、う、た」

「ユ、グ、ル、タ」

「ゆ、ぐ、るるぅ、た」

「惜しい。ユ、グ、ル、タ!」

「ゆー、ぐー、るー、た!」

「おおっ! 言えたじゃないか! すごいぞ!」

「えへへぇ! ゆぐぅた! ゆぐぅた!」

「も、戻っているぞ……」


 そんな日々が続き、ディアナは1年の歳月を経て、ようやく普通に喋れるようになった。

 ただ彼女の記憶だけは、結局戻ることはなかった。


「ユグルタ、帰るの遅い!」

「はは、今日はご機嫌斜めだな。いつもと帰る時間は変わらないはずだが」

「遅い遅い! せっかくディアナがユグルタのために料理作って待ってたのに! あっ!」


 ディアナは手を口に当てて勝手に驚く。

 そしてみるみるうちに、涙目になっていった。


「~~っ! もうっ! ビックリさせようとして準備してたのに! ユグルタのバカっ!」


 振り回される拳を軽く身を引いて避けつつ、あまりの理不尽に苦笑が漏れる。


「わかった、わかったから。それで、料理はどこなんだ?」

「あれ! テーブルの上!」


 ディアナが指さした先にあったのは、皿に盛られた炭の山。


「……あれは?」

「目玉焼き!」

「……目玉は、どこにあるんだ……?」

「おいしいって、言ってね!」

「強制なのか……」


 時間が、緩やかに流れていた。

 かつて母と王都の片隅で暮らしていたときのような、穏やかな日々。

 ディアナは記憶を失う前の性格がそうなのか、はたまた老婆や老人の優しさに触れたからか、真っ直ぐで素直、そして私以上に努力家だった。


「ユグルタ、本を読んで!」

「ユグルタ、文字を教えて!」

「ユグルタ、畑のお仕事教えて!」

「ユグルタ、いつもの避けるシュッシュッってやつ、教えて!」

「ユグルタ、このお野菜収穫し終えたら、組手に付き合って!」


 ユグルタ、ユグルタと私を慕う彼女は、ひどく眩しかった。

 ディアナはいつだって手や足に傷を作りながらも、弱音を吐かずに立ち向かう。

 何度失敗しても諦めず、うまくいくまで決して諦めなかった。

 革命以降何ひとつ前に進めなかった私の心は、彼女のそんな姿を見て、少しづつ癒やされていたのかもしれない。

 5年の歳月が経ち、老婆の後を追うように息を引き取った老人の葬儀を終え、私もようやく自分の足で歩き出す決意が固まった。

 

「ディアナ。私はもう一度旅に出ようと思う。この私にできることが、きっとまだあるはずだと思うのだ」

「……そう。ま、そんなことよりほら、料理の味見してよ」

「そんなことって……私の一大決心だぞ」

「その決心は明日になっても冷めちゃったりなんかしないでしょ? でも私の料理は違う。そうでしょ?」

「……うむ」

「ほらほら、どうなのよ。今日は私の得意料理、野菜と鶏肉のスープよ!」


 ディアナは鍋蓋を手に、小指をピンと立てウインクする。

 どうやら私に選択権はないらしい。

 渡された小皿を傾け、口の中に広がる優しい味を堪能する。


「……上達したな。ディアナ」

「あら、随分と上からね。武術はまだまだだけど、料理の腕はとっくの昔に抜いてるわ。だから、ね。こういうときには、他に言うことがあるでしょ?」

「お、おいしい……です」

「よろしい」


 私にとって、最大の懸念はディアナだった。

 気立てが良く、美しく成長した彼女を、私の贖罪の旅に付き合わせるわけにはいかなかった。

 村には彼女に気がある男も複数いると聞いている。

 私なんかと旅に出るより、この村で幸せな家庭を築く方が彼女のためになる。

 そう、思っていた。

 だが、旅立ちを決意した翌日の朝。


「ディアナ……?」


 寝室にも、キッチンにも、彼女の姿が見当たらない。


「買い出しか……? こんな朝早くから?」

 

 最後に声をかけようと思っていた私は拍子抜けしつつも、黙って去ることも運命か、とすぐに受け入れた。

 荷を整え、家の扉を開ける。

 すると畑の先で、ストロベリーブロンドの髪が風に揺れていた。


「ディアナ、今までどこへ……?」


 外へ足を踏み出して、ハッとした。

 ディアナは普段着ではなく、プレートメイルに剣を佩いている。

 背中に大きなリュックサックを携えて。


「ユグルタって、準備に結構時間かけるタイプなのね。随分待ったわ」

「いや、ディアナ、君はこの村に残って……」

「嫌よっ!」

「っ!」


 思えば、これが初めてだったと思う。

 ディアナが、強い拒絶の意を示したのは。


「嫌。私は、ユグルタに付いて行く。どんな旅かわからないけど、付いて行く。足手まといには、ならないよう頑張るから、お願い。ね?」

「ディアナ……」


 彼女の頑固さと、折れない心は誰よりも私が知っていた。

 深緑の真っ直ぐな瞳を前に、私の目論見は脆くも崩れ去った。

 強くその意志を否定することだってできた。

 だが、そうしなかった。

 なぜなら心の奥底で彼女と一緒にいたいと、渇望する思いがあったからだ。

 それを理屈や彼女のためという言葉で、ずっと押し殺していた。

 だから、断れなかったのだと思う。

 私はディアナに、戦う前から負けていたのだ。

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