8話 白薔薇の一歩
ミリア・ランバールが剣を取ったという事実は、まだ屋敷の外には出されていなかった。
ランバール公爵邸の中庭は、今日も静かだった。朝の光は白薔薇の花びらを淡く透かし、噴水の水音が穏やかに響いている。貴族街の屋敷らしい優雅さと静謐さは変わらない。けれど、その一角に設けられた小さな訓練場だけは、昨日までとは違う空気を帯びていた。
そこには、甘やかな花の香りよりも、土を踏みしめる音と、木剣が空を切る音があった。
「足が先です」
レムの声が飛ぶ。
厳しいが、怒鳴る声ではない。冷静で、無駄がなく、逃げ道を与えない声だった。
ミリアは息を整えながら、木剣を構え直した。白と淡い青を基調にした訓練用のドレスは、普段の礼装よりもずっと動きやすい。裾は短く調整され、袖も余計な飾りを外してある。それでも公爵令嬢としての品位を失わないよう仕立てられているあたり、ランバール家の職人たちの意地が感じられた。
だが、今のミリアには、その美しさを気にする余裕はほとんどない。
右足を半歩引く。
膝を固めない。
肩の力を抜く。
剣を握り込みすぎない。
昨日から繰り返し言われていることなのに、少し気を抜くとすぐ崩れる。剣を持つと腕に意識が行き、腕に意識が行くと足が止まる。足が止まると、全身の動きが固まる。舞踏ならば美しい姿勢と見えるものが、剣術では隙になる。
その違いを、ミリアは体で思い知らされていた。
「もう一度」
「はい」
木剣を構え、前へ一歩。
レムが横から軽く木剣を振る。
ミリアはそれを受けようとした。だが、腕だけが先に動き、足が遅れる。結果、木剣の角度がずれた。
乾いた音が鳴り、ミリアの木剣が弾かれる。
「腕で受けないでください」
「……はい」
「剣だけを見ない。相手の肩、腰、足を見る。刃は最後に来ます」
「最後に……」
「相手が剣を振る前に、身体は動いています」
レムはゆっくりと木剣を構えた。
「たとえば、私が右から打つ場合」
彼女はごくゆっくりと身体を動かす。
「肩が開き、腰が回り、足の重心が移る。その後に剣が来ます。剣だけを追えば遅れます。身体の変化を見ることです」
ミリアは真剣に頷いた。
そして、もう一度構える。
レムが軽く踏み込む。
右肩が動く。腰が回る。剣が来る。
ミリアは半歩下がった。
木剣の先が、ほんのわずかに彼女の前を通り過ぎる。
避けた。
完全ではない。姿勢も崩れた。だが、今までのように腕で無理に受けようとはしなかった。
レムの赤い瞳が、わずかに細くなる。
「今の感覚を覚えてください」
「はい」
「もう一度」
そこから何度も繰り返した。
右から来る打ち込みを下がって避ける。左から来る打ち込みに対して体を開く。正面からの突きに対して半歩ずれる。受けるのではなく、まず当たらない位置へ動く。剣を振るより先に、足で生き残る。
単純な訓練だった。
だが、続けるほど難しい。
ミリアの呼吸は徐々に荒くなり、額から汗が落ちた。手のひらは痛み、足も重い。それでも、彼女の目から集中は消えなかった。
レムはそれを見ていた。
正直に言えば、予想よりずっと早い。
ミリアは剣の経験こそないが、身体の覚えが良い。指示を感情で受け止めず、すぐ動きに反映しようとする。失敗しても、なぜ失敗したのかを考える。悔しさは顔に出るが、それで動きが乱れすぎることはない。
王族や貴族の子女が護身のために剣を学ぶことは珍しくない。
だが、多くは形だけで終わる。痛みを嫌がり、疲れを避け、泥や汗に顔をしかめる。剣を飾りとして持つことと、剣を扱うために身体を作ることは違う。
ミリアは、その違いから目を逸らしていなかった。
「休憩にしましょう」
レムが告げると、ミリアは一瞬だけ何かを言いかけ、すぐに頷いた。
「はい」
「無理をすると明日に響きます」
「分かっています。……少しだけ、まだできる気がしてしまって」
「それが危険です」
レムは淡々と言った。
「上達が早い方ほど、自分の身体が追いつく前に先へ進もうとします。今のミリア様に必要なのは、できることを増やすことではなく、崩れない基礎を作ることです」
「はい」
ミリアは木剣を下ろし、深く息を吐いた。
悔しさはある。
もっと動けると思っていた。もっとすぐに形になると思っていた。自分は運動神経が良い方だという自覚もあった。乗馬も舞踏も、人より苦労した記憶は少ない。
だが、剣は違う。
できたと思った瞬間、崩れる。
分かったと思った瞬間、身体が遅れる。
それが悔しい。
けれど、その悔しさは不快ではなかった。むしろ、胸の奥に静かな火を灯すものだった。
「レムさん」
「はい」
「アラン殿下は、最初から強かったのですか」
昨日と似た問いだった。
だが、今日は少し意味が違う。
レムはしばらく黙り、それから訓練場の端に置かれた水差しを手に取った。
「才能はありました」
「やはり」
「ですが、才能だけで今のアラン様になられたわけではありません」
レムは水を杯に注ぎ、ミリアへ渡した。
「アラン様は、誰にも見せないところで剣を振ってこられました。学問も、軍略も、政治も、魔道具の知識も。すべてです」
「なぜ、そこまで隠すのでしょう」
「隠す必要があったからです」
「ルイ殿下のために、ですか」
「それもあります」
レムは少しだけ視線を落とした。
「ですが、それだけではありません。アラン様は、ご自身が表に立てば、多くの者がその力を利用しようとすると分かっておられた。第二王子であり、王位継承権を持ち、剣も頭脳もある。もしその力が公になれば、必ず派閥が生まれます」
ミリアは息を止めた。
考えれば当然のことだった。
優秀な第一王子ルイ。
そして、もし第二王子アランまでもが優秀だと知られれば、王国内には必ず比較が生まれる。どちらを担ぐか。どちらに近づくか。どちらを利用するか。王位を巡る争いが起きないとも限らない。
アランはそれを避けるために、自分を愚か者として見せているのか。
「王位を望まないと示すために」
「はい」
レムは静かに頷いた。
「アラン様は、ルイ殿下こそが王になるべきだと心から信じておられます。そのために、ご自身は比較対象にすらならない道を選ばれた」
ミリアは杯を握る手に力を込めた。
駄王子。
王家の恥。
無能な第二王子。
その言葉の裏に、どれほどの覚悟が隠されていたのか。少しずつ知るたびに、胸が苦しくなる。
彼は何も背負っていないのではない。
背負いすぎている。
そして、それを誰にも見せない。
「私は、やはりあの方を誤解していました」
「アラン様は誤解されるように振る舞っておられます。ミリア様だけの責ではありません」
「それでも、私があの方に言った言葉は消えません」
残念です。
夜会でそう言った自分を、ミリアは忘れられなかった。
あの時、アランは笑っていた。いつものように軽く、傷ついていないように。だが、今なら分かる。彼はきっと、傷ついていないふりが上手いだけだ。
レムはミリアを見た。
「ならば、これからの行動で示されればよいかと」
「行動で」
「はい。アラン様は言葉で称えられることに慣れておられません。むしろ警戒されます。ですが、行動は見ておられます」
ミリアは小さく笑った。
「難しい方ですね」
「とても」
レムは即答した。
その迷いのなさに、ミリアは思わずまた笑った。
その時、訓練場の入口から声がした。
「僕の悪口で盛り上がっているのかな」
ミリアは振り向いた。
アランが立っていた。
白と紺を基調とした上着に、黒い外套。いつものようにどこか気だるげな表情を浮かべている。だが、彼の視線はミリアの木剣と足元を一瞬で確認していた。
「悪口ではありません。事実確認です」
レムが淡々と答える。
「事実確認は時に悪口より鋭いね」
「心当たりがおありで?」
「たくさん」
アランは軽く肩をすくめ、ミリアの方へ歩いてきた。
「調子はどう?」
「まだ、立つだけで精一杯です」
「最初はそれでいい。立てない人間は、剣を振る前に倒れるから」
「レムさんと同じことをおっしゃるのですね」
「僕が教えたからね」
アランがそう言うと、レムがわずかに眉を動かした。
「基礎を教えたのは私です。アラン様は横から余計なことを言っていただけです」
「それを世間では助言と言う」
「妨害とも言います」
ミリアは二人のやり取りを見て、少しだけ表情を緩めた。
影狼の指揮官と副官。
王国の闇を守る者たち。
そう聞けば、もっと冷たく厳しい関係を想像していた。だが、彼らの間には確かな信頼がある。遠慮のない言葉の奥に、長い時間を共にしてきた者同士の呼吸があった。
アランはミリアの木剣を見た。
「少し見ても?」
「はい」
ミリアが木剣を渡すと、アランはそれを軽く握った。
その瞬間、空気が変わった。
ただ木剣を持っただけだ。
剣を振ったわけでもない。構えたわけでもない。だが、彼の重心が沈み、身体から余計な揺れが消えた。先ほどまで気だるげに立っていた男が、まるで一本の細い刃のように静かになる。
ミリアは息を呑んだ。
これが、アランの剣。
彼はゆっくりと構えた。
「ミリア嬢は腕に意識が行きすぎる。多分、真面目だからだね」
「真面目だと、そうなるのですか」
「真面目な人は、正しく振ろうとする。正しく握ろう、正しく構えよう、正しく受けよう、と考える。すると、動きが頭から始まる」
アランは軽く一歩踏み出した。
木剣が揺れる。
速くはない。
けれど、流れるようだった。
「でも、本当に必要なのは、まず身体が自然に逃げることだ。剣はその後でいい」
彼はレムに視線を向けた。
「軽く打って」
「承知しました」
レムが木剣を取る。
次の瞬間、彼女は鋭く踏み込んだ。
ミリアの目には、ほとんど反応できない速さだった。だが、アランは大きく動かなかった。半歩、ほんの半歩だけずれる。レムの木剣が空を切る。アランの木剣は、その瞬間にはすでに彼女の手首の近くに添えられていた。
打っていない。
ただ、置いたように見えた。
それだけで、レムの次の動きは封じられていた。
「こういうこと」
アランは軽く言った。
ミリアは言葉を失った。
強い、という言葉だけでは足りない。
力で圧倒するのではない。速さを見せつけるのでもない。相手が動く場所を先に取り、動こうとした時にはもう遅い。そんな剣だった。
「今のは、私にはまだ無理です」
「当然だよ。今できたら僕が困る」
「ですが、理屈は少し分かりました。剣で受けるのではなく、相手の動きが届かない場所に立つ」
「そう」
アランは嬉しそうに笑った。
「理解が早い」
「褒めてくださっているのですか」
「心から」
「珍しいですね」
「僕はいつも素直だよ」
「それは違うと思います」
ミリアが即答すると、レムが小さく頷いた。
「同意します」
「二対一はずるい」
アランは苦笑した。
その軽いやり取りのあと、彼はミリアへ木剣を返した。
「今日はもう無理しない方がいい」
「まだ少しできます」
「その“まだ少し”が明日の痛みになる」
「……経験者の言葉ですか」
「痛い目を見たことは何度もある」
アランの声は軽かったが、ミリアはその奥に別の響きを感じた。
痛い目。
それは剣の訓練だけの話ではないのだろう。
「アラン殿下」
「何かな」
「私は、あなたの力になりたいです」
訓練場の空気が静かになった。
レムは口を挟まなかった。
アランもすぐには答えない。
ミリアは木剣を握ったまま、まっすぐ彼を見た。
「今の私にできることは少ないです。剣もまだ構えるだけで精一杯です。戦いの場に立てるなどと思っていません。ですが、私は何も知らずに守られるだけでいたくありません」
「ミリア嬢」
「昨日、あなたは私に公爵家の資料を調べるよう言いました。香水商、馬車屋、仕立屋。この三つと繋がる家や商会を調べるように」
「ああ」
「少し、分かりました」
アランの表情が変わった。
「もう?」
「まだ断片です。ですが、三つの店すべてに共通して品を卸している商会があります。ローデン商会という名です」
アランの目が細くなる。
レムも反応した。
「ローデン商会は、表向きは香料と織物の取引を行う中堅商会です。ですが、過去三か月で急に取引先が増えています。しかも、増えた先の多くが貴族家の使用人が頻繁に出入りする店ばかりです」
「資金源は?」
「そこまではまだ。ただ、ランバール家の資料だけを見る限り、支払いの遅延が急に解消された店がいくつかあります。昨日、リィナさんが言っていた“綺麗すぎる帳簿”と似ているのではないかと思いました」
アランは黙った。
驚いていた。
正直に、驚いていた。
頼んだのは昨日だ。それも、無理のない範囲で資料を見てほしいという程度だった。だが、彼女はすでに共通する商会名を拾い、資金の流れの不自然さに気づいている。
剣の基礎だけではない。
頭も早い。
いや、元々そこにこそ彼女の本領がある。
「ミリア嬢」
「はい」
「君は本当に厄介だね」
「それは褒め言葉ですか」
「かなり」
アランは笑った。
今度の笑みには、はっきりとした感心があった。
「ローデン商会は、こちらでも名前が出始めていた。まだ確証はなかったけど、君の情報で線が濃くなる」
「お役に立てますか」
「立てる」
アランは即答した。
ミリアは一瞬だけ目を見開いた。
その言葉が、思った以上に嬉しかった。
守ると言われるよりも。
危ないから下がっていろと言われるよりも。
役に立てると、はっきり認められたことが。
「ただし、条件は守って」
アランはすぐに続けた。
「独断で商会に近づかない。資料は公爵邸内で確認できる範囲だけ。怪しい手紙や接触があれば、必ず僕か公爵に知らせる」
「分かっています」
「本当に?」
「信用し始めてくださっているのでは?」
「信用しているから確認している」
ミリアは少しだけ笑った。
「では、約束します」
アランは頷いた。
その時、彼の中で何かが変わった。
ミリアはもう、単なる守る対象ではなかった。
戦場に立たせるつもりはない。危険に晒したいわけでもない。だが、彼女は彼女の場所で戦おうとしている。剣を学び、資料を読み、貴族社会の流れを見極め、自分にできることで王国を支えようとしている。
その意思を、アランはもう否定できない。
むしろ、認めなければならない。
「ミリア嬢」
「はい」
「君に正式に頼みたいことがある」
ミリアの表情が引き締まった。
「ローデン商会について、公爵家側で確認できる範囲を調べてほしい。取引先、出入りの時期、支払いの変化、関わる貴族家。ただし、危険な接触はしない」
「承知しました」
「それから剣の訓練は、週三回。レムの判断で進める。焦らないこと」
「はい」
「そして」
アランは少しだけ迷った。
だが、言った。
「君はもう、何も知らない婚約者候補ではない。だから、こちらも必要な範囲では情報を共有する」
ミリアは静かに息を呑んだ。
「それは、私を信頼してくださるということですか」
「そうだね」
アランは少し照れくさそうに目を逸らした。
「不本意ながら」
「不本意なのですか」
「君が危なっかしいから」
「それは否定しません」
「否定してほしかった」
二人の間に、小さな笑みが生まれる。
レムはその様子を静かに見ていた。
アランが誰かを遠ざけるのではなく、隣に置くことを選び始めている。それは、彼を長く見てきたレムにとっても珍しい変化だった。
そして、悪い変化ではない。
訓練場に朝の光が満ちていた。
白薔薇が風に揺れる。
その中で、ミリアは木剣を握り直した。
まだ剣士ではない。
まだ戦えない。
まだ影狼の一員でもない。
けれど、彼女は確かに一歩を踏み出していた。
守られるだけの令嬢から、王国の影を見つめ、自らも支えようとする者へ。
そしてアランは、その一歩を見届けた。
不安は消えない。
危険も消えない。
黒蛇は必ず次の手を打つ。
ローデン商会という名が浮かんだ以上、王都の裏に張られた糸はさらに複雑に絡み合っていくだろう。
だが、アランはもう、ミリアをただ遠ざけることだけが正解だとは思えなくなっていた。
白薔薇は、剣を取った。
ならば、自分はその棘が折れぬよう、正しい形で支えなければならない。
アランは静かに、そう思った。




