64話 橋を落とさぬ者
トレイス子爵領には、二本の橋がある。
南橋は領都と王都北街道を結び、北橋は川沿いの倉庫群と宿場をつなぐ。どちらか一方でも落とされれば、大型の荷馬車は遠く西へ迂回しなければならない。
二本とも失えば、王都北側の流通はほぼ途切れる。
黒蛇がトレイス子爵を脅し、橋を使い続けた理由は明白だった。
通行させる荷を選べる。
包囲側の兵を運べる。
そして、王太子府の騎士団が近づけば、橋を落として道そのものを消せる。
アランたちはラウゼンを発ち、領都から南へ一里ほど離れた果樹園に身を潜めていた。
同行しているのは、レム、ミリア、ゼイド、セドリックと少数の影狼。救出された使者ローデンと橋番の老人は、治療のためラウゼンに残している。
セドリックは右脚に添え木を巻き、杖をついていた。
移動を止めるよう何度も言われたが、本人は譲らなかった。
「父上は、俺の顔を見なければ動けない」
「顔を見るだけなら、僕たちが連れていく必要はない」
アランは領都の見取り図を広げた。
「君が生きていると分かった瞬間、子爵が黒蛇へ反旗を翻す可能性もある。そうなれば、橋番の家族が先に殺される」
セドリックは唇を噛んだ。
「では、いつ父上へ知らせる」
「領民を逃がす道と、橋を落とす仕掛けを止める見通しが立ってから」
「その間も父上は」
「待たせることになる」
アランは言葉を濁さなかった。
「でも、人質に取られている者たちを置いたまま、君だけが助かったと伝えるわけにはいかない」
セドリックはすぐには答えなかった。
焦りは当然だった。
三月もの間、父は息子がどこで生きているかも分からず、黒蛇の命令に従っている。今すぐ城へ入り、生きていると伝えたいはずだ。
それでも、やがて彼は地図へ目を落とした。
「橋番の家族は、領都東の古い兵舎に集められている」
「見張りは」
「黒蛇が六人。領兵もいるが、家族を盾にされて動けない」
ゼイドが続けた。
「確認した。兵舎の外に六。中に四。領兵は武器を取り上げられている」
「城内は?」
「黒蛇の監視役が五人。子爵の執務室に一人、家族の居室に二人、落橋鍵を保管する地下室に二人」
ミリアが尋ねる。
「子爵家の兵は、どの程度動けるのですか」
セドリックが答えた。
「父上の命令があれば二百ほど。ただし、一度に動かせば北橋の黒蛇に悟られる。橋番の家族を殺され、落橋機構を使われる」
「なら、先に兵舎と地下室です」
ミリアは地図の二か所を指した。
「人質を保護し、城側の起動鍵を確保する。その後、子爵へ王太子殿下の書状を渡す」
「書状は届くのか」
セドリックが問う。
「王都から出たと連絡は受けています」
ミリアは小さな商会帳簿を開いた。
ラウゼンを通じて届いた暗号には、ルイがトレイス子爵へ正式書状を出したことが記されていた。
黒蛇の強制下で行われた兵および物資の通行を、反逆とは見なさない。
王太子府は子爵家と領民の保護を優先する。
使者ローデンの救援要請を正式なものとして受理する。
その書状があれば、トレイス子爵は黒蛇へ従った罪を恐れずに動ける。
問題は、まだ手元に届いていないことだった。
「待ちますか」
レムが問う。
アランは首を横に振った。
「人質救出は始める。王太子府の書状を待っている間にも、古倉庫が奪われたことは黒蛇へ伝わる」
「北橋が落とされる可能性が」
「ある」
アランは地図を畳んだ。
「ゼイドは兵舎。レムは城の地下室。僕はセドリックと城へ入る」
「また正面からですか」
「今回は裏から」
セドリックが果樹園の北を指した。
「城の古井戸につながる水路がある。子どもの頃、城を抜け出す時に使った」
「嫡男が使う道ではありませんね」
ミリアが言う。
「当時もそう言われた」
「今は役に立ちます」
セドリックはわずかに笑った。
王都からの書状は、作戦開始直前に届いた。
果樹園の外へ、一台の野菜荷車が入ってくる。
御者は近隣の農夫に見えたが、荷台から降りたのはランバール家の商会員だった。服の内側から青い封蝋の書状を取り出す。
「王太子殿下より、トレイス子爵閣下へ」
ミリアが封印を確認する。
本物だった。
アランは書状を受け取り、短く息を吐いた。
「間に合った」
セドリックは青い封蝋を見つめた。
「王太子殿下は、父上を信じてくださるのか」
「最初から反逆者だとは決めていない」
アランは答えた。
「君の父親が助けを求めた記録を、兄上は王都の中で探していた」
「あなたが頼んだのではなく?」
「僕が頼む前から」
セドリックはしばらく何も言わなかった。
黒蛇から聞かされていたのだろう。
王太子府は地方を見捨てた。
使者が届かなかったのは、王太子が救援を拒んだからだ。
銀の王子と王太子は指揮権を争っている。
そのどれもが、事実に見える形で作られた嘘だった。
「行こう」
アランの声で、三つの班が動き始めた。
領都東の古い兵舎は、表向きには橋の補修作業員の宿舎として使われていた。
周囲に積まれているのは縄、木材、鉄具。だが、建物の中にいるのは作業員ではない。橋番と領兵の家族、三十人ほどが一室に集められていた。
ゼイドは裏手の屋根から侵入した。
黒蛇の見張りは、正面から誰かが助けに来ることを警戒している。窓と扉には目を置いていたが、崩れかけた煙突までは見ていなかった。
屋根裏へ入り、梁の間を移動する。
下の部屋では、黒蛇の男が領兵へ告げていた。
「北橋に王太子府の兵が近づけば、家族を一人ずつ連れ出す」
領兵たちは黙っている。
怒りを押し殺しているのが、上からでも分かった。
「子爵が余計な命令を出した時も同じだ。お前たちは橋を守るのではない。我々の命令を守れ」
ゼイドは屋根裏の影狼へ指で合図した。
二人が裏手へ回る。
自分は梁から静かに降りた。
黒蛇の男が気づいた時には、短剣が首元に当たっている。
「声を出すな」
ほかの見張りが振り向く。
窓の外から影狼が入り、一人の口を塞ぐ。もう一人が剣へ手を伸ばしたが、囚われていた領兵が身体をぶつけた。
黒蛇の男が床へ倒れる。
「今だ!」
武器を奪われていた領兵たちが一斉に動いた。
椅子、木片、鎖。
手にしたものは武器ではない。
それでも、家族を守るために黒蛇へ飛びかかった。
戦いは短かった。
ゼイドは最後の一人を縛り、領兵の長へ言う。
「家族を西の果樹園へ移せ」
「子爵閣下の命令では」
「嫡男は生きている」
男の動きが止まる。
「セドリック様が?」
「説明は後だ。北橋が落ちる前に動け」
領兵の長は何度も問い返したそうな顔をした。
だが、すぐに振り返る。
「全員、裏口から出せ! 歩けない者を先に!」
人質の移送が始まった。
同じ頃、レムは城の地下へ入っていた。
果樹園側の城壁にある排水口から、影狼二人と進む。水路は途中で二つに分かれ、一方が古井戸へ、もう一方が地下貯蔵庫へ続いていた。
地下室の扉には、黒蛇の見張りが二人。
鍵箱はその奥だ。
レムは剣を抜かず、一人目の背後へ回った。口を押さえ、首筋を打つ。二人目が短剣を抜いたが、影狼が腕を押さえる。
「鍵はどこです」
男は答えない。
「時間がありません」
レムの声は静かだった。
「答えなければ探します。その間に北橋が落ちれば、あなた方も逃げられません」
男の目がわずかに動く。
「我々を脅すのか」
「事実を伝えています」
短い沈黙の後、男は壁の燭台を見た。
影狼が燭台を回す。
石壁の一部が開き、小さな鉄箱が現れた。
中には黒い鉄鍵と、赤い魔石が入っている。
「城側の起動鍵を確保」
レムは魔石を布で包み、鍵を腰へ収めた。
北橋側の鍵が残っている。
二つが同時に使われなければ落橋機構は完全には動かないが、片側だけでも橋脚へ損傷を与えられる。
急ぐ必要があった。
アランとセドリックは古井戸から城内へ入った。
ミリアも同行している。
役目は王太子の書状を読み、子爵の返答を正式な記録として残すことだ。
井戸の内壁に設けられた古い足場を上る。
アランは一度、脇腹を押さえた。
半年の静養を経ても、深く受けた傷は完全には消えていない。狭い水路を進み、石壁を上ったことで痛みが戻っている。
「休みますか」
ミリアが小声で問う。
「大丈夫」
「本当に?」
「ここで長く止まる方が怪しまれる」
正しい理由だった。
だが、無理をしていないとは言えない。
ミリアは何も言わず、アランの歩調に合わせた。
井戸から出た先は、城の古い厨房だった。
今は使われておらず、埃が積もっている。セドリックが迷わず裏階段へ向かう。
「父上の執務室は二階です。黒蛇の監視役が常に一人いる」
「家族は?」
「母上と妹は西棟。そちらにも二人」
「まず子爵へ」
アランは言った。
「同時に全部を救おうとしない。子爵の協力を得てから城兵を動かす」
セドリックは頷いた。
裏階段を上り、執務室の裏にある書庫へ入る。壁一枚隔てた向こうから、男の声が聞こえた。
「古倉庫との連絡が途絶えました」
「私に何をしろという」
低く疲れた声。
トレイス子爵だ。
「北橋へ兵を追加してください。王太子府の部隊が動いた場合、即座に橋を落とします」
「橋を落とせば領民も王都へ行けなくなる」
「それが何か」
「王都を囲うためなら、我が領が飢えても構わないと?」
「子爵閣下が心配すべきは、ご子息の命でしょう」
沈黙が落ちた。
セドリックの拳が震える。
アランは彼の腕を押さえた。
今飛び込めば、監視役が声を上げる。
セドリックは歯を食いしばり、踏みとどまった。
監視役が続ける。
「今夜までに北橋へ百名を。従わなければ、ご子息の右手を届けます」
椅子がきしんだ。
子爵が立ち上がったのだろう。
「分かった」
絞り出すような声だった。
「兵は出す。だから、息子には」
「賢明です」
監視役が扉へ向かう。
出てきたところを、アランが書庫へ引き込んだ。
男は短剣へ手を伸ばしたが、セドリックがその腕を押さえる。右脚が使えず、身体ごと倒れ込むような動きだった。
ミリアが扉を閉める。
アランは男の短剣を奪い、音を立てずに床へ押さえた。
「殺しはしない。黙っていて」
監視役の顔が歪む。
「銀の王子……」
「その呼び方、黒蛇の中で流行ってるのかな」
男の口を塞ぎ、影狼へ渡す。
セドリックは執務室の扉を開いた。
トレイス子爵が振り返る。
五十代半ば。やつれた顔と、白いものの混じる茶髪。机には北街道の地図と、黒蛇が残した命令書が広げられていた。
彼は息子の姿を見たまま、動かなかった。
「父上」
セドリックが呼ぶ。
子爵の唇が震える。
「……セドリック」
「生きています」
子爵は机を回り込み、息子の肩を掴んだ。
傷を確かめるように顔と腕を見る。
「本当に」
「はい」
次の瞬間、子爵は息子を抱きしめた。
セドリックの杖が床へ落ちる。
長い言葉はなかった。
三月分の不安を、数呼吸で消せるはずもない。
それでも、生きている。
今は、それだけでよかった。
アランは二人から少し距離を取った。
急かさなかった。
やがて子爵は顔を上げ、アランに気づいた。
「第二王子殿下」
「お久しぶりです、トレイス子爵」
「なぜ殿下が」
「君の息子を助けたのはゼイドだけどね」
いつものように軽く言おうとしたが、声には疲れが残った。
ミリアが前へ出る。
「トレイス子爵閣下。王太子ルイ・ヴァルタイン殿下より、正式書状をお預かりしています」
青い封蝋を見た瞬間、子爵の表情が強張った。
「王太子殿下は、私を反逆者として」
「いいえ」
ミリアは即座に否定した。
書状を開き、内容を読み上げる。
強制下で行われた通行許可を反逆とは見なさない。
使者ローデンの救援要請を正式に受理する。
子爵家と領民の保護を優先する。
黒蛇による監視と人質拘束を排除した後、北街道二橋を王太子府の管理下へ戻す。
読み終えた時、子爵は目を閉じていた。
「ローデンは」
「生きています」
アランが答える。
「ラウゼンで治療中です。捕らえられても、君に反意がないことを記録に残していた」
子爵は両手で顔を覆いかけ、途中で止めた。
領主としての姿勢を保とうとしている。
だが、その手は震えていた。
「私は、包囲側の兵を橋へ通しました」
「脅されていた」
「それでも、通した事実は消えません」
「消さなくていい」
アランは言った。
「何が起きたかを、正しく残せばいい。兄上もそのために書状を出した」
子爵はアランを見る。
「殿下は、私をお許しになるのですか」
「許すかどうかを決めるのは、僕じゃない」
アランは首を横に振った。
「今必要なのは、橋を落とさず、領民と王都へ道を戻すことだ」
子爵は長く黙った。
そして、机の下から領主印を取り出した。
「城兵へ命じます」
「その前に、人質は救出済みです」
アランが告げる。
「橋番と領兵の家族は、果樹園へ移動中。城側の落橋鍵もレムが確保しました」
子爵は目を見開く。
「すでに、そこまで」
「君だけに選ばせるために来たわけじゃないから」
アランは北橋の地図を指した。
「残るのは北橋側の鍵と、黒蛇の指揮官。領兵を一斉に動かせば、橋を壊される。だから、城兵は南橋を確保。北橋へは僕たちが先に入る」
「殿下ご自身が?」
「少数で行く」
「傷は」
子爵の視線が、アランの右手へ落ちる。
噂を知っているのだろう。
剣を握れない銀の王子。
その話はここにも届いている。
アランは右手を隠さなかった。
「震える。でも、橋の鍵を取るくらいならできる」
トレイス子爵は息子を見た。
セドリックが頷く。
「父上。俺も北橋の構造を知っています」
「お前は動くな」
「ですが」
「三月捕らわれ、脚を傷めた者が何を言う」
父親の声だった。
アランは少しだけ笑う。
「そこは子爵に賛成」
セドリックは不満そうだったが、反論する前にミリアが書類を差し出した。
「セドリック様には、北橋の構造図を書いていただきます。それも重要な役目です」
「……分かりました」
作戦はすぐに動いた。
トレイス子爵の命令で、城兵は騒ぎを起こさず各所へ配置される。表向きは、黒蛇の要求に応じて北橋へ増援を出す準備だった。
実際には南橋と領都の門を確保し、黒蛇の監視役を一人ずつ拘束していく。
子爵夫人と娘も保護された。
城内で大きな戦闘は起きなかった。
監視役たちは、自分たちがまだ人質を握っていると思っていたからだ。
北橋へ向かったのは、アラン、レム、ゼイドと影狼八名。
夜明け前、子爵家の増援を装って橋へ近づく。
北橋は石造りの橋脚に木製の床板を渡した長い橋だった。中央下部には古い落橋機構があり、鍵を差して鉄鎖を外せば、床板の一部が川へ落ちる仕組みになっている。
黒蛇の兵は四十ほど。
正面から戦えば、起動鍵を使う時間を与える。
アランはセドリックが描いた構造図を見た。
「起動室は橋の北詰め。見張り台の下」
「入口は一つです」
レムが答える。
「表から入れば、橋上の兵に見られます」
ゼイドが川岸を指す。
「橋脚の点検路がある。水面に近いが、入れる」
「僕とゼイドで起動室へ。レムは増援役のまま橋上へ入って」
「アラン様が点検路を?」
「狭い方が、敵の数は少ない」
「傷に響きます」
「響くと思う」
「認めないでください」
「でも、鍵を使われる前に行く必要がある」
レムは不満を残したまま頷いた。
橋上では、子爵家の旗をつけた荷車が止められた。
レムが兵を率いる副官のように前へ出る。
「トレイス子爵閣下の命令で増援に来た。王太子府の騎士団が南へ動いている」
黒蛇の指揮官が現れる。
黒い胸当てをつけた、太い首の男だった。
「増援は百と聞いている」
「先発だ。残りは南橋の確認後に来る」
「城側の起動鍵は」
「子爵閣下が保管している」
指揮官の眉が寄る。
「持ってこさせろと言ったはずだ」
「領主が渡すと思うのか」
「息子の指を届ければ渡す」
レムの目が冷える。
「その必要はありません」
「何?」
その頃、アランとゼイドは川岸から橋脚の点検路へ入っていた。
湿った石の上を進む。
頭上では橋を渡る兵の足音が響く。
アランの脇腹に鈍い痛みが走った。低い姿勢で進むたび、古傷が引かれる。
「遅れるなら置いていく」
ゼイドが言う。
「主に言う言葉かな」
「今は橋を落とさない方が先だ」
「正しいね」
起動室の裏側には、補修用の小さな鉄扉があった。
錆びた鍵はゼイドが開ける。
中にいたのは三人。
一人は起動鍵を握っていた。
こちらを見るなり、鍵を装置へ差し込もうとする。
アランは剣を抜いた。
右手が震える。
刃先がわずかに下がった。
それでも踏み込む。
男を斬るのではなく、鍵を持つ手へ剣の峰を当てた。
鍵が床へ落ちる。
ゼイドが二人目を倒し、三人目の足を払う。
男は倒れながら装置の横にある赤い魔石へ手を伸ばした。
アランは剣を戻せない。
手の震えで、一瞬だけ遅れた。
ゼイドも別の敵を押さえている。
アランは剣を捨てた。
右手では間に合わない。
左足で魔石を蹴り、装置から離す。
石が壁へ当たり、床を転がった。
男の手は空を掴む。
アランはそのまま身体をぶつけ、男を床へ押さえ込んだ。
脇腹に痛みが走る。
息が詰まる。
それでも離さない。
ゼイドが残る敵を縛り、落ちた鍵を拾った。
「確保した」
アランは床に片膝をついたまま、息を整えた。
剣は少し離れた場所に落ちている。
その光景が、南薬草路と重なりかける。
届かなかった剣。
地面を掻いた指。
ヴァルグの声。
アランは目を閉じず、剣を見た。
今は拾わなくていい。
目的は鍵だった。
「橋は」
「落ちない」
ゼイドが答えた。
それで十分だった。
起動室の外へ合図を出す。
橋上で、レムが剣を抜いた。
「城側の鍵は確保しました。人質も全員保護されています」
黒蛇の指揮官の顔色が変わる。
「嘘だ」
「セドリック・トレイス様も、使者ローデン様も生存しています」
周囲にいたトレイス領兵が顔を上げる。
自分たちの家族が救われた。
子爵の息子も生きている。
黒蛇へ従う理由が、そこで消えた。
「トレイス子爵閣下より命令です」
レムは領主印の押された書状を掲げた。
「北橋を王太子府の管理下へ戻す。黒蛇の武装兵は武器を捨てよ」
領兵たちが、黒蛇へ槍を向け直す。
指揮官は起動室の方角を見る。
橋を落とすはずの合図は来ない。
「殺せ!」
彼は怒鳴り、自らレムへ斬りかかった。
橋上で戦いが始まる。
だが、数はすでに逆転していた。
トレイス領兵が黒蛇を挟み、影狼が退路を塞ぐ。レムは指揮官の剣を受け流し、膝を打つ。
男が倒れる。
残る黒蛇の兵の多くは武器を捨てた。
逃げようとした者もいたが、追い詰めすぎない。川へ飛び込ませれば死者が増えるだけだ。武器を捨てた者から拘束し、抵抗する者だけを制圧した。
夜明けの光が川面に差す頃、北橋はトレイス子爵家へ戻った。
南橋も城兵によって確保されている。
二本の橋は、どちらも落ちなかった。
アランが起動室から上がってきた時、右手には剣がなかった。
ゼイドが拾って持っている。
レムはそれを見たが、すぐには問わなかった。
「橋は確保しました」
「うん」
「負傷は」
「古傷が少し痛むだけ」
「剣は」
アランはゼイドの手にある剣を見た。
「鍵を止める時に捨てた」
「握れなかったのですか」
問いは厳しかった。
だが、責めてはいない。
「間に合わなかった」
アランは正直に答えた。
「右手で戻そうとしたら、魔石を起動されてた。だから捨てた」
レムはわずかに目を細める。
「それでよいと思います」
「剣を捨てたのに?」
「橋を守るためです」
ゼイドが剣を差し出す。
アランは一瞬だけ柄を見た。
手の震えはまだある。
それでも、今度は自分で受け取った。
「ありがとう」
剣を鞘へ収める。
戦うためではなく、持ち帰るために。
橋の南詰めへ、トレイス子爵とセドリックが到着した。
父子が並ぶ姿を見て、領兵たちが次々に膝をつく。
子爵は北橋の中央まで歩き、兵と橋番へ向き直った。
「我が判断により、皆と家族を危険にさらした」
声が川の上に響く。
「黒蛇に従った責任は、領主である私にある。だが、この橋は王都を閉ざすためのものではない。領民と王国をつなぐためのものだ」
彼は王太子ルイの書状を掲げた。
「本日より二橋は王太子府の正式管理下へ戻す。王都へ向かう正規の荷を通し、黒蛇の兵と物資を拒む」
領兵たちが槍の石突きを橋へ打ちつける。
一度。
二度。
音が重なり、川沿いに響いた。
軍の歓声ではない。
橋を守る者たちの返答だった。
アランはその光景を少し離れて見ていた。
自分が前へ出る必要はない。
橋を取り戻したのは、脅されていた領主と兵が自分たちの役目を取り戻したからだ。
ミリアは全てを記録している。
トレイス子爵が黒蛇へ反旗を翻した、とは書かない。
王太子府へ出した救援要請が確認され、人質が救出され、強制下から解放された子爵が正式な管理権を回復した。
事実を、そのまま残す。
午前中には、最初の荷馬車が北橋を渡った。
ラウゼンから小分けにされた穀物と塩。
荷台には王太子府の青印と、トレイス子爵家の鷹の印が並んでいる。
橋の先では、ランバール家の商会員が待っていた。
荷は王都へ向かう。
一度に多くは運ばない。
黒蛇が別の場所で止めても、全ては失わないようにするためだ。
アランは渡っていく荷馬車を見た。
「大きな道が戻りましたね」
ミリアが言う。
「うん。でも、黒蛇も黙ってはいない」
「次は橋を奪い返しに?」
「それだけじゃないと思う」
トレイス子爵が王太子府へ戻った。
北街道の二橋が開いた。
黒蛇の補給線は古倉庫と廃関所で傷つき、人質も失った。
エリウスなら、別の意味を作る。
トレイス子爵が銀の王子へ寝返った。
第二王子が地方領主を支配下に置いた。
王太子府の書状は、アランが強要して出させた。
どんな嘘でも書ける。
「王都へ記録を急いで送ります」
ミリアが言った。
「橋が戻った意味を、黒蛇より先に届けます」
「お願い」
その時、北橋の向こうから早馬が来た。
王太子府の伝令だった。
封書を受け取ったトレイス子爵が、アランへ差し出す。
「殿下。王都からです」
中には、ルイの短い文があった。
『二橋の復帰を確認した。
北街道の荷は王太子府が受け取る。
西倉庫道の包囲が強まっている。
王都内の食料備蓄は、直ちに尽きる状態ではない。
無理に急ぐな。
道を一本ずつ戻せ。
ルイ』
アランは最後の一文を見て、かすかに笑った。
「兄上らしいですね」
ミリアが言う。
「僕が急ぐと思ってる」
「正しい心配です」
「否定してほしかった」
「事実ですので」
レムと同じ返事だった。
アランは手紙を畳み、胸元へ入れた。
北の二本の橋は戻った。
次は西倉庫道。
だが、急がない。
今ある道を確実に王都へつなぎ、黒蛇に奪い返されない形にする。
王都包囲の輪に開いた亀裂は、荷馬車が通れるほどに広がっていた。
それでも輪は、まだ残っている。
アランは王都の方角を見た。
「一本ずつ、か」
右手の震えは消えていない。
だからこそ、その言葉を忘れないようにした。




