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64話 橋を落とさぬ者



 トレイス子爵領には、二本の橋がある。


 南橋は領都と王都北街道を結び、北橋は川沿いの倉庫群と宿場をつなぐ。どちらか一方でも落とされれば、大型の荷馬車は遠く西へ迂回しなければならない。


 二本とも失えば、王都北側の流通はほぼ途切れる。


 黒蛇がトレイス子爵を脅し、橋を使い続けた理由は明白だった。


 通行させる荷を選べる。


 包囲側の兵を運べる。


 そして、王太子府の騎士団が近づけば、橋を落として道そのものを消せる。


 アランたちはラウゼンを発ち、領都から南へ一里ほど離れた果樹園に身を潜めていた。


 同行しているのは、レム、ミリア、ゼイド、セドリックと少数の影狼。救出された使者ローデンと橋番の老人は、治療のためラウゼンに残している。


 セドリックは右脚に添え木を巻き、杖をついていた。


 移動を止めるよう何度も言われたが、本人は譲らなかった。


「父上は、俺の顔を見なければ動けない」


「顔を見るだけなら、僕たちが連れていく必要はない」


 アランは領都の見取り図を広げた。


「君が生きていると分かった瞬間、子爵が黒蛇へ反旗を翻す可能性もある。そうなれば、橋番の家族が先に殺される」


 セドリックは唇を噛んだ。


「では、いつ父上へ知らせる」


「領民を逃がす道と、橋を落とす仕掛けを止める見通しが立ってから」


「その間も父上は」


「待たせることになる」


 アランは言葉を濁さなかった。


「でも、人質に取られている者たちを置いたまま、君だけが助かったと伝えるわけにはいかない」


 セドリックはすぐには答えなかった。


 焦りは当然だった。


 三月もの間、父は息子がどこで生きているかも分からず、黒蛇の命令に従っている。今すぐ城へ入り、生きていると伝えたいはずだ。


 それでも、やがて彼は地図へ目を落とした。


「橋番の家族は、領都東の古い兵舎に集められている」


「見張りは」


「黒蛇が六人。領兵もいるが、家族を盾にされて動けない」


 ゼイドが続けた。


「確認した。兵舎の外に六。中に四。領兵は武器を取り上げられている」


「城内は?」


「黒蛇の監視役が五人。子爵の執務室に一人、家族の居室に二人、落橋鍵を保管する地下室に二人」


 ミリアが尋ねる。


「子爵家の兵は、どの程度動けるのですか」


 セドリックが答えた。


「父上の命令があれば二百ほど。ただし、一度に動かせば北橋の黒蛇に悟られる。橋番の家族を殺され、落橋機構を使われる」


「なら、先に兵舎と地下室です」


 ミリアは地図の二か所を指した。


「人質を保護し、城側の起動鍵を確保する。その後、子爵へ王太子殿下の書状を渡す」


「書状は届くのか」


 セドリックが問う。


「王都から出たと連絡は受けています」


 ミリアは小さな商会帳簿を開いた。


 ラウゼンを通じて届いた暗号には、ルイがトレイス子爵へ正式書状を出したことが記されていた。


 黒蛇の強制下で行われた兵および物資の通行を、反逆とは見なさない。


 王太子府は子爵家と領民の保護を優先する。


 使者ローデンの救援要請を正式なものとして受理する。


 その書状があれば、トレイス子爵は黒蛇へ従った罪を恐れずに動ける。


 問題は、まだ手元に届いていないことだった。


「待ちますか」


 レムが問う。


 アランは首を横に振った。


「人質救出は始める。王太子府の書状を待っている間にも、古倉庫が奪われたことは黒蛇へ伝わる」


「北橋が落とされる可能性が」


「ある」


 アランは地図を畳んだ。


「ゼイドは兵舎。レムは城の地下室。僕はセドリックと城へ入る」


「また正面からですか」


「今回は裏から」


 セドリックが果樹園の北を指した。


「城の古井戸につながる水路がある。子どもの頃、城を抜け出す時に使った」


「嫡男が使う道ではありませんね」


 ミリアが言う。


「当時もそう言われた」


「今は役に立ちます」


 セドリックはわずかに笑った。


 王都からの書状は、作戦開始直前に届いた。


 果樹園の外へ、一台の野菜荷車が入ってくる。


 御者は近隣の農夫に見えたが、荷台から降りたのはランバール家の商会員だった。服の内側から青い封蝋の書状を取り出す。


「王太子殿下より、トレイス子爵閣下へ」


 ミリアが封印を確認する。


 本物だった。


 アランは書状を受け取り、短く息を吐いた。


「間に合った」


 セドリックは青い封蝋を見つめた。


「王太子殿下は、父上を信じてくださるのか」


「最初から反逆者だとは決めていない」


 アランは答えた。


「君の父親が助けを求めた記録を、兄上は王都の中で探していた」


「あなたが頼んだのではなく?」


「僕が頼む前から」


 セドリックはしばらく何も言わなかった。


 黒蛇から聞かされていたのだろう。


 王太子府は地方を見捨てた。


 使者が届かなかったのは、王太子が救援を拒んだからだ。


 銀の王子と王太子は指揮権を争っている。


 そのどれもが、事実に見える形で作られた嘘だった。


「行こう」


 アランの声で、三つの班が動き始めた。


 領都東の古い兵舎は、表向きには橋の補修作業員の宿舎として使われていた。


 周囲に積まれているのは縄、木材、鉄具。だが、建物の中にいるのは作業員ではない。橋番と領兵の家族、三十人ほどが一室に集められていた。


 ゼイドは裏手の屋根から侵入した。


 黒蛇の見張りは、正面から誰かが助けに来ることを警戒している。窓と扉には目を置いていたが、崩れかけた煙突までは見ていなかった。


 屋根裏へ入り、梁の間を移動する。


 下の部屋では、黒蛇の男が領兵へ告げていた。


「北橋に王太子府の兵が近づけば、家族を一人ずつ連れ出す」


 領兵たちは黙っている。


 怒りを押し殺しているのが、上からでも分かった。


「子爵が余計な命令を出した時も同じだ。お前たちは橋を守るのではない。我々の命令を守れ」


 ゼイドは屋根裏の影狼へ指で合図した。


 二人が裏手へ回る。


 自分は梁から静かに降りた。


 黒蛇の男が気づいた時には、短剣が首元に当たっている。


「声を出すな」


 ほかの見張りが振り向く。


 窓の外から影狼が入り、一人の口を塞ぐ。もう一人が剣へ手を伸ばしたが、囚われていた領兵が身体をぶつけた。


 黒蛇の男が床へ倒れる。


「今だ!」


 武器を奪われていた領兵たちが一斉に動いた。


 椅子、木片、鎖。


 手にしたものは武器ではない。


 それでも、家族を守るために黒蛇へ飛びかかった。


 戦いは短かった。


 ゼイドは最後の一人を縛り、領兵の長へ言う。


「家族を西の果樹園へ移せ」


「子爵閣下の命令では」


「嫡男は生きている」


 男の動きが止まる。


「セドリック様が?」


「説明は後だ。北橋が落ちる前に動け」


 領兵の長は何度も問い返したそうな顔をした。


 だが、すぐに振り返る。


「全員、裏口から出せ! 歩けない者を先に!」


 人質の移送が始まった。


 同じ頃、レムは城の地下へ入っていた。


 果樹園側の城壁にある排水口から、影狼二人と進む。水路は途中で二つに分かれ、一方が古井戸へ、もう一方が地下貯蔵庫へ続いていた。


 地下室の扉には、黒蛇の見張りが二人。


 鍵箱はその奥だ。


 レムは剣を抜かず、一人目の背後へ回った。口を押さえ、首筋を打つ。二人目が短剣を抜いたが、影狼が腕を押さえる。


「鍵はどこです」


 男は答えない。


「時間がありません」


 レムの声は静かだった。


「答えなければ探します。その間に北橋が落ちれば、あなた方も逃げられません」


 男の目がわずかに動く。


「我々を脅すのか」


「事実を伝えています」


 短い沈黙の後、男は壁の燭台を見た。


 影狼が燭台を回す。


 石壁の一部が開き、小さな鉄箱が現れた。


 中には黒い鉄鍵と、赤い魔石が入っている。


「城側の起動鍵を確保」


 レムは魔石を布で包み、鍵を腰へ収めた。


 北橋側の鍵が残っている。


 二つが同時に使われなければ落橋機構は完全には動かないが、片側だけでも橋脚へ損傷を与えられる。


 急ぐ必要があった。


 アランとセドリックは古井戸から城内へ入った。


 ミリアも同行している。


 役目は王太子の書状を読み、子爵の返答を正式な記録として残すことだ。


 井戸の内壁に設けられた古い足場を上る。


 アランは一度、脇腹を押さえた。


 半年の静養を経ても、深く受けた傷は完全には消えていない。狭い水路を進み、石壁を上ったことで痛みが戻っている。


「休みますか」


 ミリアが小声で問う。


「大丈夫」


「本当に?」


「ここで長く止まる方が怪しまれる」


 正しい理由だった。


 だが、無理をしていないとは言えない。


 ミリアは何も言わず、アランの歩調に合わせた。


 井戸から出た先は、城の古い厨房だった。


 今は使われておらず、埃が積もっている。セドリックが迷わず裏階段へ向かう。


「父上の執務室は二階です。黒蛇の監視役が常に一人いる」


「家族は?」


「母上と妹は西棟。そちらにも二人」


「まず子爵へ」


 アランは言った。


「同時に全部を救おうとしない。子爵の協力を得てから城兵を動かす」


 セドリックは頷いた。


 裏階段を上り、執務室の裏にある書庫へ入る。壁一枚隔てた向こうから、男の声が聞こえた。


「古倉庫との連絡が途絶えました」


「私に何をしろという」


 低く疲れた声。


 トレイス子爵だ。


「北橋へ兵を追加してください。王太子府の部隊が動いた場合、即座に橋を落とします」


「橋を落とせば領民も王都へ行けなくなる」


「それが何か」


「王都を囲うためなら、我が領が飢えても構わないと?」


「子爵閣下が心配すべきは、ご子息の命でしょう」


 沈黙が落ちた。


 セドリックの拳が震える。


 アランは彼の腕を押さえた。


 今飛び込めば、監視役が声を上げる。


 セドリックは歯を食いしばり、踏みとどまった。


 監視役が続ける。


「今夜までに北橋へ百名を。従わなければ、ご子息の右手を届けます」


 椅子がきしんだ。


 子爵が立ち上がったのだろう。


「分かった」


 絞り出すような声だった。


「兵は出す。だから、息子には」


「賢明です」


 監視役が扉へ向かう。


 出てきたところを、アランが書庫へ引き込んだ。


 男は短剣へ手を伸ばしたが、セドリックがその腕を押さえる。右脚が使えず、身体ごと倒れ込むような動きだった。


 ミリアが扉を閉める。


 アランは男の短剣を奪い、音を立てずに床へ押さえた。


「殺しはしない。黙っていて」


 監視役の顔が歪む。


「銀の王子……」


「その呼び方、黒蛇の中で流行ってるのかな」


 男の口を塞ぎ、影狼へ渡す。


 セドリックは執務室の扉を開いた。


 トレイス子爵が振り返る。


 五十代半ば。やつれた顔と、白いものの混じる茶髪。机には北街道の地図と、黒蛇が残した命令書が広げられていた。


 彼は息子の姿を見たまま、動かなかった。


「父上」


 セドリックが呼ぶ。


 子爵の唇が震える。


「……セドリック」


「生きています」


 子爵は机を回り込み、息子の肩を掴んだ。


 傷を確かめるように顔と腕を見る。


「本当に」


「はい」


 次の瞬間、子爵は息子を抱きしめた。


 セドリックの杖が床へ落ちる。


 長い言葉はなかった。


 三月分の不安を、数呼吸で消せるはずもない。


 それでも、生きている。


 今は、それだけでよかった。


 アランは二人から少し距離を取った。


 急かさなかった。


 やがて子爵は顔を上げ、アランに気づいた。


「第二王子殿下」


「お久しぶりです、トレイス子爵」


「なぜ殿下が」


「君の息子を助けたのはゼイドだけどね」


 いつものように軽く言おうとしたが、声には疲れが残った。


 ミリアが前へ出る。


「トレイス子爵閣下。王太子ルイ・ヴァルタイン殿下より、正式書状をお預かりしています」


 青い封蝋を見た瞬間、子爵の表情が強張った。


「王太子殿下は、私を反逆者として」


「いいえ」


 ミリアは即座に否定した。


 書状を開き、内容を読み上げる。


 強制下で行われた通行許可を反逆とは見なさない。


 使者ローデンの救援要請を正式に受理する。


 子爵家と領民の保護を優先する。


 黒蛇による監視と人質拘束を排除した後、北街道二橋を王太子府の管理下へ戻す。


 読み終えた時、子爵は目を閉じていた。


「ローデンは」


「生きています」


 アランが答える。


「ラウゼンで治療中です。捕らえられても、君に反意がないことを記録に残していた」


 子爵は両手で顔を覆いかけ、途中で止めた。


 領主としての姿勢を保とうとしている。


 だが、その手は震えていた。


「私は、包囲側の兵を橋へ通しました」


「脅されていた」


「それでも、通した事実は消えません」


「消さなくていい」


 アランは言った。


「何が起きたかを、正しく残せばいい。兄上もそのために書状を出した」


 子爵はアランを見る。


「殿下は、私をお許しになるのですか」


「許すかどうかを決めるのは、僕じゃない」


 アランは首を横に振った。


「今必要なのは、橋を落とさず、領民と王都へ道を戻すことだ」


 子爵は長く黙った。


 そして、机の下から領主印を取り出した。


「城兵へ命じます」


「その前に、人質は救出済みです」


 アランが告げる。


「橋番と領兵の家族は、果樹園へ移動中。城側の落橋鍵もレムが確保しました」


 子爵は目を見開く。


「すでに、そこまで」


「君だけに選ばせるために来たわけじゃないから」


 アランは北橋の地図を指した。


「残るのは北橋側の鍵と、黒蛇の指揮官。領兵を一斉に動かせば、橋を壊される。だから、城兵は南橋を確保。北橋へは僕たちが先に入る」


「殿下ご自身が?」


「少数で行く」


「傷は」


 子爵の視線が、アランの右手へ落ちる。


 噂を知っているのだろう。


 剣を握れない銀の王子。


 その話はここにも届いている。


 アランは右手を隠さなかった。


「震える。でも、橋の鍵を取るくらいならできる」


 トレイス子爵は息子を見た。


 セドリックが頷く。


「父上。俺も北橋の構造を知っています」


「お前は動くな」


「ですが」


「三月捕らわれ、脚を傷めた者が何を言う」


 父親の声だった。


 アランは少しだけ笑う。


「そこは子爵に賛成」


 セドリックは不満そうだったが、反論する前にミリアが書類を差し出した。


「セドリック様には、北橋の構造図を書いていただきます。それも重要な役目です」


「……分かりました」


 作戦はすぐに動いた。


 トレイス子爵の命令で、城兵は騒ぎを起こさず各所へ配置される。表向きは、黒蛇の要求に応じて北橋へ増援を出す準備だった。


 実際には南橋と領都の門を確保し、黒蛇の監視役を一人ずつ拘束していく。


 子爵夫人と娘も保護された。


 城内で大きな戦闘は起きなかった。


 監視役たちは、自分たちがまだ人質を握っていると思っていたからだ。


 北橋へ向かったのは、アラン、レム、ゼイドと影狼八名。


 夜明け前、子爵家の増援を装って橋へ近づく。


 北橋は石造りの橋脚に木製の床板を渡した長い橋だった。中央下部には古い落橋機構があり、鍵を差して鉄鎖を外せば、床板の一部が川へ落ちる仕組みになっている。


 黒蛇の兵は四十ほど。


 正面から戦えば、起動鍵を使う時間を与える。


 アランはセドリックが描いた構造図を見た。


「起動室は橋の北詰め。見張り台の下」


「入口は一つです」


 レムが答える。


「表から入れば、橋上の兵に見られます」


 ゼイドが川岸を指す。


「橋脚の点検路がある。水面に近いが、入れる」


「僕とゼイドで起動室へ。レムは増援役のまま橋上へ入って」


「アラン様が点検路を?」


「狭い方が、敵の数は少ない」


「傷に響きます」


「響くと思う」


「認めないでください」


「でも、鍵を使われる前に行く必要がある」


 レムは不満を残したまま頷いた。


 橋上では、子爵家の旗をつけた荷車が止められた。


 レムが兵を率いる副官のように前へ出る。


「トレイス子爵閣下の命令で増援に来た。王太子府の騎士団が南へ動いている」


 黒蛇の指揮官が現れる。


 黒い胸当てをつけた、太い首の男だった。


「増援は百と聞いている」


「先発だ。残りは南橋の確認後に来る」


「城側の起動鍵は」


「子爵閣下が保管している」


 指揮官の眉が寄る。


「持ってこさせろと言ったはずだ」


「領主が渡すと思うのか」


「息子の指を届ければ渡す」


 レムの目が冷える。


「その必要はありません」


「何?」


 その頃、アランとゼイドは川岸から橋脚の点検路へ入っていた。


 湿った石の上を進む。


 頭上では橋を渡る兵の足音が響く。


 アランの脇腹に鈍い痛みが走った。低い姿勢で進むたび、古傷が引かれる。


「遅れるなら置いていく」


 ゼイドが言う。


「主に言う言葉かな」


「今は橋を落とさない方が先だ」


「正しいね」


 起動室の裏側には、補修用の小さな鉄扉があった。


 錆びた鍵はゼイドが開ける。


 中にいたのは三人。


 一人は起動鍵を握っていた。


 こちらを見るなり、鍵を装置へ差し込もうとする。


 アランは剣を抜いた。


 右手が震える。


 刃先がわずかに下がった。


 それでも踏み込む。


 男を斬るのではなく、鍵を持つ手へ剣の峰を当てた。


 鍵が床へ落ちる。


 ゼイドが二人目を倒し、三人目の足を払う。


 男は倒れながら装置の横にある赤い魔石へ手を伸ばした。


 アランは剣を戻せない。


 手の震えで、一瞬だけ遅れた。


 ゼイドも別の敵を押さえている。


 アランは剣を捨てた。


 右手では間に合わない。


 左足で魔石を蹴り、装置から離す。


 石が壁へ当たり、床を転がった。


 男の手は空を掴む。


 アランはそのまま身体をぶつけ、男を床へ押さえ込んだ。


 脇腹に痛みが走る。


 息が詰まる。


 それでも離さない。


 ゼイドが残る敵を縛り、落ちた鍵を拾った。


「確保した」


 アランは床に片膝をついたまま、息を整えた。


 剣は少し離れた場所に落ちている。


 その光景が、南薬草路と重なりかける。


 届かなかった剣。


 地面を掻いた指。


 ヴァルグの声。


 アランは目を閉じず、剣を見た。


 今は拾わなくていい。


 目的は鍵だった。


「橋は」


「落ちない」


 ゼイドが答えた。


 それで十分だった。


 起動室の外へ合図を出す。


 橋上で、レムが剣を抜いた。


「城側の鍵は確保しました。人質も全員保護されています」


 黒蛇の指揮官の顔色が変わる。


「嘘だ」


「セドリック・トレイス様も、使者ローデン様も生存しています」


 周囲にいたトレイス領兵が顔を上げる。


 自分たちの家族が救われた。


 子爵の息子も生きている。


 黒蛇へ従う理由が、そこで消えた。


「トレイス子爵閣下より命令です」


 レムは領主印の押された書状を掲げた。


「北橋を王太子府の管理下へ戻す。黒蛇の武装兵は武器を捨てよ」


 領兵たちが、黒蛇へ槍を向け直す。


 指揮官は起動室の方角を見る。


 橋を落とすはずの合図は来ない。


「殺せ!」


 彼は怒鳴り、自らレムへ斬りかかった。


 橋上で戦いが始まる。


 だが、数はすでに逆転していた。


 トレイス領兵が黒蛇を挟み、影狼が退路を塞ぐ。レムは指揮官の剣を受け流し、膝を打つ。


 男が倒れる。


 残る黒蛇の兵の多くは武器を捨てた。


 逃げようとした者もいたが、追い詰めすぎない。川へ飛び込ませれば死者が増えるだけだ。武器を捨てた者から拘束し、抵抗する者だけを制圧した。


 夜明けの光が川面に差す頃、北橋はトレイス子爵家へ戻った。


 南橋も城兵によって確保されている。


 二本の橋は、どちらも落ちなかった。


 アランが起動室から上がってきた時、右手には剣がなかった。


 ゼイドが拾って持っている。


 レムはそれを見たが、すぐには問わなかった。


「橋は確保しました」


「うん」


「負傷は」


「古傷が少し痛むだけ」


「剣は」


 アランはゼイドの手にある剣を見た。


「鍵を止める時に捨てた」


「握れなかったのですか」


 問いは厳しかった。


 だが、責めてはいない。


「間に合わなかった」


 アランは正直に答えた。


「右手で戻そうとしたら、魔石を起動されてた。だから捨てた」


 レムはわずかに目を細める。


「それでよいと思います」


「剣を捨てたのに?」


「橋を守るためです」


 ゼイドが剣を差し出す。


 アランは一瞬だけ柄を見た。


 手の震えはまだある。


 それでも、今度は自分で受け取った。


「ありがとう」


 剣を鞘へ収める。


 戦うためではなく、持ち帰るために。


 橋の南詰めへ、トレイス子爵とセドリックが到着した。


 父子が並ぶ姿を見て、領兵たちが次々に膝をつく。


 子爵は北橋の中央まで歩き、兵と橋番へ向き直った。


「我が判断により、皆と家族を危険にさらした」


 声が川の上に響く。


「黒蛇に従った責任は、領主である私にある。だが、この橋は王都を閉ざすためのものではない。領民と王国をつなぐためのものだ」


 彼は王太子ルイの書状を掲げた。


「本日より二橋は王太子府の正式管理下へ戻す。王都へ向かう正規の荷を通し、黒蛇の兵と物資を拒む」


 領兵たちが槍の石突きを橋へ打ちつける。


 一度。


 二度。


 音が重なり、川沿いに響いた。


 軍の歓声ではない。


 橋を守る者たちの返答だった。


 アランはその光景を少し離れて見ていた。


 自分が前へ出る必要はない。


 橋を取り戻したのは、脅されていた領主と兵が自分たちの役目を取り戻したからだ。


 ミリアは全てを記録している。


 トレイス子爵が黒蛇へ反旗を翻した、とは書かない。


 王太子府へ出した救援要請が確認され、人質が救出され、強制下から解放された子爵が正式な管理権を回復した。


 事実を、そのまま残す。


 午前中には、最初の荷馬車が北橋を渡った。


 ラウゼンから小分けにされた穀物と塩。


 荷台には王太子府の青印と、トレイス子爵家の鷹の印が並んでいる。


 橋の先では、ランバール家の商会員が待っていた。


 荷は王都へ向かう。


 一度に多くは運ばない。


 黒蛇が別の場所で止めても、全ては失わないようにするためだ。


 アランは渡っていく荷馬車を見た。


「大きな道が戻りましたね」


 ミリアが言う。


「うん。でも、黒蛇も黙ってはいない」


「次は橋を奪い返しに?」


「それだけじゃないと思う」


 トレイス子爵が王太子府へ戻った。


 北街道の二橋が開いた。


 黒蛇の補給線は古倉庫と廃関所で傷つき、人質も失った。


 エリウスなら、別の意味を作る。


 トレイス子爵が銀の王子へ寝返った。


 第二王子が地方領主を支配下に置いた。


 王太子府の書状は、アランが強要して出させた。


 どんな嘘でも書ける。


「王都へ記録を急いで送ります」


 ミリアが言った。


「橋が戻った意味を、黒蛇より先に届けます」


「お願い」


 その時、北橋の向こうから早馬が来た。


 王太子府の伝令だった。


 封書を受け取ったトレイス子爵が、アランへ差し出す。


「殿下。王都からです」


 中には、ルイの短い文があった。


『二橋の復帰を確認した。


 北街道の荷は王太子府が受け取る。


 西倉庫道の包囲が強まっている。


 王都内の食料備蓄は、直ちに尽きる状態ではない。


 無理に急ぐな。


 道を一本ずつ戻せ。


 ルイ』


 アランは最後の一文を見て、かすかに笑った。


「兄上らしいですね」


 ミリアが言う。


「僕が急ぐと思ってる」


「正しい心配です」


「否定してほしかった」


「事実ですので」


 レムと同じ返事だった。


 アランは手紙を畳み、胸元へ入れた。


 北の二本の橋は戻った。


 次は西倉庫道。


 だが、急がない。


 今ある道を確実に王都へつなぎ、黒蛇に奪い返されない形にする。


 王都包囲の輪に開いた亀裂は、荷馬車が通れるほどに広がっていた。


 それでも輪は、まだ残っている。


 アランは王都の方角を見た。


「一本ずつ、か」


 右手の震えは消えていない。


 だからこそ、その言葉を忘れないようにした。

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