66話 門を開けという手紙
偽の書状は、王太子府より先に市場へ届いた。
朝、野菜を並べに来た商人が壁に貼られた紙を見つけた。
同じ頃、騎士団の詰所では扉の下から差し込まれた封書が発見され、貴族院へ向かう馬車にも、何者かが同じ文面を投げ込んだ。
差出人は、第二王子アラン・ヴァルタイン。
『外側の領主と兵は、すでに僕の指揮下に入りました。
王都へ入る準備を進めます。
兄上は、門を開いてお待ちください』
短い文章だった。
だからこそ、広まるのも早かった。
北街道の橋を取り戻した。
トレイス子爵がアランへ協力した。
西倉庫道も解放され、王都へ物資を入れる道が開いた。
そこまでの事実を知る者には、書かれている内容がもっともらしく見えた。
銀の王子が外の領主をまとめた。
影狼と地方兵を率い、王都へ戻ろうとしている。
王太子へ門を開けと求めている。
書状そのものを信じなくても、不安は残る。
アランが王都へ戻った時、誰が指揮を執るのか。
地方兵は王太子府に従うのか、それとも第二王子に従うのか。
その疑問だけが広がれば、エリウスの目的は半分達成される。
王太子府へ最初の一枚が届けられたのは、日の出から半刻ほど後だった。
ルイは文面を一度読み、机へ置いた。
「偽物だ」
迷いはなかった。
ランバール公爵が尋ねる。
「筆跡でお分かりに?」
「筆跡を見るまでもない」
ルイは書状の中央を指した。
「アランは、外の領主や兵を自分の指揮下に入れたとは書かない。トレイス子爵の橋は、王太子府の正式管理へ戻したと報告してきた」
次に、最後の一文。
「それに、今の王都へ門を開けとは言わない」
「第二王子殿下なら、包囲側が待っている門を開けさせず、別の道から入ると」
「すでにそうしている」
西市場の地下へ、最初の穀物が届いたばかりだった。
門を開ける必要はない。
偽書状は、アランの最近の行動を知りながら、肝心な判断だけを逆にしている。
しかし、ルイが弟を知っているだけでは、王都全体を納得させられない。
ランバール公爵も同じことを考えたのだろう。
「殿下が偽物だと断じても、黒蛇は兄弟だけに通じる説明だと言い立てるでしょう」
「分かっている」
ルイは書状をリィナへ渡した。
「証拠を探せるか」
「もう探してる」
リィナは机の端に座り、紙を光へ透かした。
王都で普通に使われる紙より薄い。
だが、安物ではない。
繊維の間に、青く細い糸が混じっている。
「これ、昔の王立文書庫で使ってた控え紙だね。湿気に弱くて、十二年前に使用中止」
セリオ・グレイストンが顔を近づける。
「確かに。青糸を一本だけ混ぜ、外部持ち出しを見分ける紙です」
「今も残ってる?」
「旧文書庫の未使用束に、わずかに」
「先生が持ち出せる場所だ」
紙はエリウスへつながる。
しかし、それだけではアランの書状でない証明にはならない。古い紙を偶然使ったと言い逃れられる。
リィナは次に署名を見た。
「アラン様の昔の署名を写してる」
「昔?」
ルイが問う。
「今の字と、最後の払いが違う」
セリオが王太子府に保存されていた書類を数点持ってこさせた。
アランが近年提出した報告書。
数年前の王宮行事への出席確認。
さらに古い、第二王子府の備品申請。
並べると違いが見えた。
昔のアランは、名前の最後を大きく右へ払っていた。近年の署名は、払いを短く止めている。
「いつ変わったのですか」
ランバール公爵が尋ねる。
ルイは少し考えた。
「影狼の報告を書くようになった頃だ。狭い紙片にも書けるよう、癖を直したと言っていた」
偽書状の署名は古い方だった。
王宮の表向きの書類に残る、第二王子アランの署名。
影狼やルイとの間で使う現在の署名ではない。
「でも、これも説明が難しいね」
リィナが言う。
「署名の癖が変わったって公表したら、本物を偽造するための材料を渡すことになる」
「では、使わないのか」
「内側の確認には使う。外へは別の証拠を出す」
彼女は偽書状の写しが届いた場所を地図へ記した。
市場北部。
騎士団西詰所。
貴族院南門。
水門近くの宿舎。
ほぼ同じ時刻に、離れた四か所へ配られている。
「一人じゃない。配った人間は最低四人」
「捕らえられるか」
「一人は追ってる。でも、全員捕まえるのは難しい。それより先生の狙いが気になる」
リィナは地図上の場所を指で結んだ。
「この四か所、偽書状を見つけたら必ず王太子府へ確認が来る場所なんだ」
「確認させることが目的?」
「たぶんね」
市場は商務院へ。
騎士団詰所は軍務官へ。
貴族院は王太子府へ。
水門宿舎は港の管理官へ。
それぞれが別の経路で、真偽を確かめようとする。
王太子府がどの連絡経路を信用し、どの記録を使って否定するのか。
エリウスはその反応を見ようとしている。
「偽書状を信じさせることだけが目的ではない」
ルイが言った。
「こちらの確認手段を探っているのか」
「うん。だから、アラン様との秘密の連絡方法を証拠に使ったら、次からそこを狙われる」
ランバール公爵の顔が険しくなる。
「では、どう証明します」
「秘密じゃないものを使う」
リィナは西市場の方角を指した。
「もう届いてる荷だよ」
王都西市場の地下では、旧運搬水路を通った三艘目の小舟が到着していた。
積まれていたのは穀物袋十五袋と、豆、塩、乾燥薬草。
王太子府の役人だけでなく、商務院の検査官、西市場の代表、神殿の施療院から来た薬師が立ち会っている。
荷を運んできたのは、西倉庫の作業員たちだった。
その一人が、地下計量所で何度も同じ説明をした。
「倉庫の穀物は腐っていませんでした。俺たちは、運び出しを見たために閉じ込められたんです」
「第二王子殿下が、倉庫を私兵の管理下へ置いたという話は」
商務院の役人が尋ねる。
作業員は眉をひそめた。
「私兵なんていません。俺たちが倉へ戻りました。王太子府の管理官が来るまで、ランバール家の商会員と帳簿を合わせることになっています」
「外の領主や兵は、アラン殿下の指揮下に?」
「領主様のことは知りません。でも、殿下は倉庫を自分の物にしなかった」
別の作業員が口を挟む。
「荷も全部王都へ寄越したわけじゃない。周りの町へ戻す分を先に分けた。王都だけ助かればいいとは言わなかった」
それは、偽書状の内容と正反対だった。
アランが外の物資と人を自分の指揮下へ集めているなら、倉庫の管理を現地へ戻す必要はない。
王都へ全てを集中させず、周辺の町へ分ける理由もない。
そして、門を開けて待てと書いた本人が、門を使わない運搬水路を開くはずもなかった。
ルイは地下計量所へ足を運んだ。
王太子が市場地下へ現れたことで、周囲に緊張が走る。
だが、彼は高台を用意させず、運ばれた穀物袋の横に立った。
「西倉庫から届いた荷は、検査後、市場と施療院へ回す」
集まった商人と役人を見渡す。
「王家の倉へ集めることはしない。王都へ入った物資は、必要な場所へ配る」
一人の商人が恐る恐る尋ねた。
「第二王子殿下から、門を開くよう求める書状が出たと聞きました」
ルイは否定を急がなかった。
「その書状は偽物だ」
ざわめきが起きる。
「そう断じられる証拠は」
貴族院から派遣された書記官が尋ねた。
「ある」
ルイは穀物袋を示した。
「アランは王都の門を開けさせず、門の下に残された水路を使って物資を入れた。西倉庫を自分の支配下には置かず、元の管理者へ戻している」
次に、トレイス子爵から届いた正式報告書を掲げる。
「北街道二橋も、第二王子の指揮下ではない。王太子府の管理下へ復帰し、トレイス子爵が現地責任者として守っている」
青印と、トレイス家の鷹の印が並んでいた。
「偽書状は、起きた出来事の形だけを借り、意味を逆にしている。第二王子が領主と兵を集めて王都へ入ろうとしているのではない。各地の者が自らの役目を取り戻し、王太子府との道をつなぎ直している」
商人たちは穀物袋と書状を見比べた。
兄だから信じるのではない。
第二王子を英雄として飾るのでもない。
実際に届いた荷。
現地から来た作業員。
領主の印。
管理を戻した記録。
誰にでも確認できる事実が、そこにあった。
「王都の門は開けない」
ルイは明確に告げた。
「外から正規の合図があっても、今の門を大きく開くことはしない。物資は小口に分け、安全を確かめた道から入れる」
偽書状が求めた行動を、公の場で否定する。
同時に、アランが外で集めているのは私兵ではないと示す。
「第二王子の行動は、王太子府の外で行われている。しかし、王太子府に反してはいない」
ルイは続けた。
「王都の内側は私が守る。外側の道はアランが開く。その役割に、二つの王国はない」
広場に歓声は起きなかった。
今は歓声を上げる場面ではない。
だが、ざわめきの質が変わった。
疑いが消えたわけではない。
それでも、偽書状だけが事実として残ることは防がれた。
その日のうちに、王太子府から短い告示が出された。
第二王子名義の書状は偽造である。
地方領主および地方兵は第二王子の私兵ではなく、各領主と王太子府の正式な命令系統下にある。
王都の門を開く命令は出されていない。
王太子府の正式命令は、責任者名、現行青印、受取側の照合印を必要とする。
偽書状を所持している者は処罰せず、最寄りの役所へ提出すること。
最後の一文は、リィナの提案だった。
所持者を処罰すれば、人々は紙を隠す。
隠された偽物は、いつまでも噂として残る。
提出しても罪に問わないと示せば、流通経路を調べられる。
夕刻までに、王太子府へ二十七枚の偽書状が集まった。
一枚ずつ紙質、筆跡、折り方、発見場所を記録する。
リィナはその一覧を見ながら、一本の線を見つけた。
「配った人たちは四組。でも、紙を渡した場所は二つ」
「どこだ」
ルイが問う。
「貴族院近くの貸馬車屋と、西水門の古い宿」
どちらも人の出入りが多い。
誰が紙を置いても不自然ではない。
「踏み込みますか」
「まだ」
リィナは首を横に振った。
「先生は、こっちが追うことを知ってる。残ってるのは捨て駒か、次の偽情報だよ」
「放置もできない」
「見張る。出入りする人と紙だけ追う」
ルイは頷いた。
「任せる」
一方、西倉庫では、アランも偽書状の写しを受け取っていた。
王都から戻った小舟が、空の穀物袋に混ぜて運んできたものだ。
アランは自分の名で書かれた文章を読み、しばらく黙った。
「上手いですね」
ミリアが言った。
「上手い?」
「アラン様が外側で成果を上げているという事実は変えず、その目的だけを王太子殿下との対立へ置き換えています」
「褒めたくはないけど、エリウスらしいね」
レムが署名を見る。
「過去の筆跡です」
「昔の僕は、こんなに大きく払ってた?」
「書類を書く時は」
「覚えてないな」
「書類を真面目に見ていなかったからです」
「レムは昔から厳しい」
軽く返したものの、アランの目は笑っていなかった。
偽書状の文面には、自分が最も避けたかったものが書かれている。
外の領主を従える銀の王子。
兵を率い、兄へ門を開けさせる第二王子。
黒蛇が王都を囲み始めた時から、エリウスが作ろうとしていた姿だった。
「否定の書状を書きますか」
ミリアが尋ねる。
アランは首を横に振る。
「長い否定を書けば、また一部だけ切り取られる」
「では、何も送らないのですか」
「兄上には、もう届いてる」
アランは地下水路を指した。
「穀物と、倉庫の人たちが」
書状より早く、実際の行動が王都へ入っている。
ルイなら、それを使う。
そう考えた直後、王都からの返書が差し出された。
ルイからではない。
王太子府の物流確認書だった。
『西倉庫発、穀物十五袋、豆四袋、塩二箱、薬草三箱を受領。
西市場、施療院、北区共同炊事場へ配分。
王都門の開放予定なし。
次便も小口にて受け入れる』
公的な帳簿だった。
兄弟だけの言葉は、どこにもない。
それでも、アランは小さく笑った。
「兄上も、手紙を書かなかった」
「必要がなかったのでしょう」
ミリアが答える。
「はい」
ルイは弟が外の兵を集めているとは疑わなかった。
アランも、兄が偽書状を信じるとは思わなかった。
問題は兄弟の間ではなく、その周りにある。
「トレイス子爵と西倉庫へ、改めて通達を出そう」
アランは言った。
「僕の指揮下ではなく、それぞれの正式な責任者の下で動いていると記録に残す」
「王都だけでなく、周辺の町にも?」
「うん。僕の名前で否定するんじゃない。子爵と管理官が、自分の権限を確認する形にする」
ミリアはすぐに文面を整え始めた。
アランは偽書状を折り畳む。
「それから、門は開けないでって伝えて」
「すでに王太子殿下が公表されています」
「早いな」
「アラン様が無理をすることも、戻ろうとすることも、よくご存じなのでしょう」
「今回は戻ろうとしてないよ」
「今回は、ですね」
レムの言葉に、アランは反論できなかった。
夜になると、二便目の小舟が王都へ向かった。
荷と共に運ばれたのは、トレイス子爵の橋管理記録、西倉庫管理官の復職確認書、救出された作業員の名簿。
銀の王子が従えた者の一覧ではない。
それぞれが、自分の場所へ戻った記録だった。
その頃、エリウスは王都から届いた報告を読んでいた。
偽書状は否定された。
門も開かなかった。
王太子は弟を疑わず、第二王子も長い弁明を送らなかった。
向かいの伝令が恐る恐る尋ねる。
「失敗、でしょうか」
エリウスはすぐには答えなかった。
紙の端に記された、王太子府の動きを読む。
偽書状の回収。
市場地下での公開確認。
トレイス子爵の正式報告。
西倉庫からの物流帳簿。
「兄弟を疑わせることはできなかった」
彼は静かに言った。
「では」
「だが、何を証拠に使うかは見えた」
人ではなく記録。
秘密の合図ではなく、複数の責任者が持つ帳簿。
荷の動きと、受取側の確認。
兄弟の信頼を支えているのは、二人だけの言葉ではない。
その周囲に作られた、小さな事実の連なりだった。
「次は書状を作る必要はない」
エリウスは王都周辺の地図を広げた。
北街道の橋。
西倉庫。
地下水路。
それぞれを結ぶ記録の線へ、指を置く。
「事実の方を、食い違わせればいい」
黒蛇の次の狙いは、偽の言葉を信じさせることではない。
正しいはずの記録同士を、互いに矛盾させることだった。




