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63話 廃関所の灯



 廃関所には、夜になっても灯がついていた。


 街道の役目を失ってから十年以上。門扉は片側が傾き、石壁には蔦が絡んでいる。それでも見張り台には人影があり、崩れたはずの厩には十数頭の馬がつながれていた。


 古倉庫から北へ送られる物資は、ここを通って王都包囲側へ運ばれていた。


 アランたちは、関所の南にある岩場から様子を見ていた。


 見張り台に二人。正門前に四人。裏手の厩周辺に三人。建物の窓にも、時折人影が動く。


 確認できるだけで十五人ほど。


 だが、ゼイドの報告では、それだけではなかった。


「地下に人がいる」


 彼は地面へ簡単な関所の見取り図を描いた。


「旧取調室の下だ。出入口は本館の内側と、裏手の排水路。地下には三人。見張りが二人、囚人が一人」


「トレイス子爵の息子?」


 ミリアが尋ねる。


「顔は確認できていない。二十代前半。右脚を傷めている」


 年齢は合う。


 だが、それだけで本人だと決めることはできない。


 アランは見取り図を見た。


「本館の牢にも誰かいる?」


「いる。窓から見える位置に一人。服装は貴族のものだ」


「見せるための人質ですね」


 レムが言った。


「おそらく」


 ゼイドは短く答える。


 本館の窓から見える人質。


 外から助けに来た者が、最初に目にする場所だ。


 正面から踏み込めば、その牢へ向かう。そこに火種か伏兵が置かれていれば、救出側をまとめて潰せる。


 南薬草路と同じ手口だった。


 守ろうとする者の目を、先に見せたものへ向ける。


 アランは右手を握った。


 ヴァルグの声が蘇りかける。


 後ろを見るな。前だけ見れば死ぬ。


 深く息を吸い、目の前の関所へ意識を戻した。


「本館の囚人は?」


「老人だ。貴族服は着せられたものに見える」


「替え玉かもしれない」


 ミリアはラウゼンから届いた書類を開いた。


 グレイストン家とリィナが調べた、トレイス子爵家の記録だった。


「嫡男セドリック・トレイス、二十四歳。濃い茶髪、灰青色の瞳。三年前に落馬して、右膝を痛めた記録があります」


「地下の人質と合うね」


「はい。騎士団への正式所属歴はありませんが、橋の管理と領地会計を補佐していたようです」


 さらに、トレイス子爵が三月前に出した使者についても記されていた。


 使者の名はローデン。


 王太子府への救援要請を携え、領地を出た。しかし王都には到着していない。その後、彼の名が東川港の偽通行証に使われていた。


「ローデン本人は?」


 アランが尋ねる。


 ミリアは首を横に振った。


「消息不明です。ただ、王都北西門の旧記録に、彼の馬の特徴と一致する入城申請の途中記載が残っていました。門を通る直前までは来ていた可能性があります」


「そこで消された」


「おそらく」


 黒蛇は人を消し、その名だけを使い続ける。


 死んでいるのか、まだ捕らえられているのかも分からない。


 ゼイドが関所の東側を指した。


「排水路は使える。ただし狭い。入れるのは二人まで」


「地下の救出はゼイドと影狼一人」


 アランは決めた。


「レムは裏手の厩を押さえて。馬を逃がさない。僕は正門側へ回る」


 レムの視線が上がる。


「また正面ですか」


「今回は名乗らない。見張りの目を集めるだけ」


「本館に偽の人質がいると分かっていても、敵はアラン様が正面へ来ると予測している可能性があります」


「うん。だから中には入らない」


 アランは見取り図上の門前を指した。


「正門の見張りを外へ出す。関所内に残る人数を減らす。地下の人質を救出したら、裏手から離脱する」


「本館の老人はどうしますか」


 ミリアの問いに、アランは少し考えた。


「置いてはいけない」


「罠でも?」


「罠だからといって、人ではないとは限らない」


 見せるために置かれた替え玉でも、その老人は黒蛇の仲間とは限らない。逃げ場のない者を貴族服に着替えさせただけかもしれない。


「本館は私が」


 レムが言った。


「厩を影狼に任せ、老人を救出します」


「火種がある可能性が高い」


「分かっています」


「レム」


「アラン様が全てを受け持たないようにするための分担です」


 返す言葉がなかった。


 アランは短く息を吐く。


「分かった。ただし、火種を見つけても一人で処理しないで」


「承知しました」


 ミリアは見取り図へ視線を落とした。


「私は、どこに」


「岩場で待機して、救出した人の確認を」


「本人確認と証言の記録ですね」


「うん。それから、何かあった時はラウゼンへ伝令を出して」


「分かりました」


 自分が前線に立たないことを、ミリアは受け入れた。


 危険を避けるためだけではない。誰を救出したのか、どんな状態だったのか、何を証言したのか。それを正確に残す者がいなければ、黒蛇は後から意味を変える。


 役目は、剣を持つことだけではなかった。


 作戦は深夜に始まった。


 月は雲に隠れ、街道には関所の灯だけが浮いている。


 アランは外套をまとい、一人で旧街道を歩いた。


 足音を隠さない。


 門前の見張りがすぐに気づいた。


「止まれ」


 槍が向けられる。


「夜間の通行は禁止されている。所属と目的を言え」


「南から来た荷運びだ」


 アランは声を少し低くした。


「古倉庫からの便が着いていないと聞いた。確認に来た」


 見張りたちが顔を見合わせる。


 古倉庫が制圧されたことは、まだ届いていないらしい。


「合図は」


「倉庫にあった帳簿の最後に、鷹の欠けた印」


 アランが答えると、見張りの一人の表情が動いた。


 押収帳簿から得た言葉だ。


 完全な合図ではない。しかし、無関係な者が知るはずのない情報でもある。


「一人か」


「途中で馬を失った」


「荷は」


「ない」


 見張りの警戒が強まる。


「荷もなく、何を確認する」


「古倉庫の指揮役から伝言だ。荷が遅れた時は、廃関所側の記録を焼けと」


 門前の空気が変わった。


 アランは賭けに出ていた。


 黒蛇が古倉庫の帳簿と関所の記録をつないでいるなら、互いの証拠を残さない指示があるはずだ。


 見張りの一人が門の内側へ走った。


 残った三人は、槍を向けたままアランを囲う。


「ここで待て」


「急いだ方がいい。古倉庫はもう危ない」


「何があった」


「銀の王子が動いた」


 男たちの顔に緊張が走る。


 アランはフードの中で、自分の右手を開いた。


 剣の柄には触れない。


 まだ時間を稼ぐ。


「第二王子が古倉庫へ?」


「そう聞いた」


「本人を見たのか」


「見てない。だが、荷は奪われた」


 見張りの一人が小さく舌打ちした。


「だから、あの人質を移せと言ったんだ」


 別の男が睨む。


「余計なことを話すな」


「もう遅いだろ。銀の王子が来るなら、ここも」


「来れば殺す」


 アランは会話を聞きながら、関所の内側へ視線を動かした。


 見張り台から一人が下りた。


 本館からも二人が出てくる。


 正門へ人が集まり始めている。


 予定どおりだった。


 その頃、ゼイドは排水路を進んでいた。


 膝をつかなければ通れないほど狭い。古い水と泥の匂いがこもり、天井から根が垂れている。


 後ろには影狼の隊員が一人。


 地下へ続く鉄格子は錆びていたが、最近使われた痕跡がある。鍵穴には新しい油が残っていた。


 ゼイドは細い器具を差し込む。


 わずかな音。


 格子が開く。


 地下には小さな灯が一つだけあった。


 牢の前に見張りが二人。


 その奥、壁際に一人の若い男が座っている。髪は伸び、顔には殴られた痕がある。右脚には粗末な添え木が巻かれていた。


 灰青色の目が、闇から現れたゼイドを見た。


「誰だ」


 声は弱い。


 だが、怯えてはいない。


 ゼイドは答えず、見張りの背後へ移る。


 一人目の口を塞ぎ、首筋を打つ。


 二人目が振り向く前に、同行した影狼が足を払った。


 短い抵抗で終わった。


「セドリック・トレイスか」


 ゼイドが尋ねる。


 若い男の目が鋭くなる。


「その名を、どこで」


「父親は生きている。橋もまだ落ちていない」


 セドリックはしばらくゼイドを見つめた。


「王太子府の者か」


「影狼だ」


「銀の王子の」


「今は説明する時間がない」


 ゼイドは牢の鍵を開けた。


「歩けるか」


「右脚は使えない」


「なら運ぶ」


「先に、隣を」


 セドリックが壁を指す。


 牢の隣には、板で塞がれた小さな空間があった。


 ゼイドが板を外す。


 中に、人が倒れていた。


 痩せ、髭が伸び、両手を縛られている。衣服は汚れているが、胸元にはトレイス子爵家の小さな紋章が残っていた。


 セドリックが声を絞る。


「ローデンだ。父が王都へ送った使者だ」


 消息不明だった男。


 生きていた。


 ゼイドはすぐに首へ指を当てる。


 弱いが脈がある。


「二人運ぶ」


 同行した影狼がローデンを背負う。


 ゼイドはセドリックの腕を肩へ回した。


「関所を出るまで声を出すな」


「待て」


「何だ」


「本館に老人がいる。橋番の父親だ。俺の身代わりとして服を着せられた」


「別の者が向かっている」


 セドリックの顔に、初めて安堵が浮かんだ。


 同じ頃、レムは裏手の厩へ入っていた。


 見張り二人を影狼へ任せ、馬の手綱を外す。逃がすためではない。追跡に使われないよう、厩の奥へつなぎ直す。


 本館の裏口には、細い導火線が伸びていた。


 赤い魔石。


 壁の内側へ四本。


「火種です」


 影狼の一人が囁く。


「老人の牢と、記録室につながっています」


 救出者が本館へ入れば起動する仕組みではない。


 外から操作する。


 正門か見張り台に起動役がいる。


 レムは導火線を切らず、途中の留め具だけを外した。切れば相手に気づかれる。線を床から浮かせ、濡れた布で包む。


「中へ入ります」


「お一人で?」


「入口を守ってください。火が走ったら線を外へ引き出す」


 本館へ入る。


 廊下には人がいない。


 正門の騒ぎへ向かったのだろう。


 窓から見えていた牢には、白髪の老人が座っていた。貴族服は大きすぎ、袖が余っている。手には橋番が使う硬い胼胝があった。


「助けに来ました」


 レムが小声で言う。


 老人は顔を上げた。


「若様は」


「別の者が向かっています」


 レムが鍵を開けようとした時、老人が首を振った。


「駄目だ。扉に仕掛けがある」


 足元を見る。


 鍵を回せば、扉の内側に張られた糸が切れる。糸は壁の小さな箱へつながっていた。


 赤い魔石の起動装置。


「分かりました」


 レムは鍵に触れず、細剣を抜いた。


 扉の蝶番を一本ずつ外す。


 時間はかかる。


 正門では、そろそろアランの正体が露見する頃だ。


 老人がレムを見る。


「銀の殿下が来たのか」


「はい」


「剣は、握れているのか」


 レムの手が一瞬だけ止まる。


「なぜ、それを」


「黒蛇の者が話していた。銀の王子は剣を落とした。次に会えば戦えない、と」


 黒蛇は知っている。


 南薬草路でアランの手が震えたことを。


 ヴァルグが伝えたのだろう。


「握れています」


 レムは答えた。


「震えていても」


 蝶番が最後の一本まで外れる。


 レムは扉そのものを横へずらした。


「立てますか」


「膝が悪い。だが、歩ける」


「支えます」


 その時、正門側から怒声が上がった。


「フードを取れ!」


 アランは門前で囲まれていた。


 見張りは八人まで増えている。


 もう十分だった。


 地下も、本館も、動き始めている。


「取らないなら、斬る」


 一人が剣を抜いた。


 アランは静かに息を吸った。


 右手を柄へ置く。


 震えが来た。


 だが、今は逃げない。


「それなら、見せるよ」


 フードを下ろす。


 銀髪が関所の灯に照らされた。


 男たちの表情が変わった。


「本当に……」


「第二王子!」


「殺せ!」


 最初の男が踏み込んだ。


 アランは剣を抜く。


 刃が一度、鞘に引っかかった。


 ほんのわずかな遅れ。


 男はそれを見て笑った。


「噂どおりだ!」


 剣が振り下ろされる。


 アランは受けず、半歩だけ横へ逃げた。


 刃が外套を掠める。


 自分の剣は構えきれていない。


 手は震えている。


 だが、足は動く。


 次の一撃が来る前に間合いを外す。


 正面から勝つ必要はない。


 地下と本館の救出が終わるまで、ここへ引きつければいい。


「戦えない王子一人に、八人も必要?」


 アランが言う。


 男の顔が歪んだ。


「強がるな!」


 二人が同時に来る。


 アランは一人目の手首へ剣の峰を当て、二人目の足を払った。追撃せず、すぐに離れる。


 手の震えは消えない。


 それでも、二人は倒れた。


「震えているぞ!」


「うん」


 アランは否定しなかった。


「でも、逃げるとは言ってない」


 三人目の槍が来る。


 柄で流す。


 腕に重い衝撃が走り、南薬草路の痛みが蘇る。


 呼吸が乱れかける。


 その時、関所裏手から鳥の鳴き声が二度響いた。


 ゼイドの合図。


 人質を確保した。


 続いて一度。


 レムも本館を出た。


「終わりだ」


 アランは短く言った。


 何が、と男たちが振り向く。


 厩の馬が一斉に嘶いた。


 影狼が綱を解き、裏門側へ走らせたのだ。追跡用の馬が関所内を駆け回り、見張りの隊列が崩れる。


 アランは後退する。


 敵を倒しきろうとはしない。


 正門の外へ引きつけ、岩場へ続く道を開ける。


 男の一人が見張り台へ叫んだ。


「火を入れろ!」


 起動役が赤い石を打つ。


 本館へ続く導火線に火が走った。


 だが、途中で止まる。


 レムが濡れた布で包み、床から浮かせた場所だった。


 火は建物へ届かない。


「なぜだ!」


 起動役が二つ目の石へ手を伸ばす。


 その腕に、ゼイドの投げた短刀が刺さった。


 石が落ちる。


 地下の排水路から、二人の人質を運び出した影狼が現れた。


 セドリックがアランを見る。


 顔は汚れ、右脚を引きずっている。それでも、自分を支えるゼイドの腕から離れようとした。


「父上は」


「生きてる」


 アランが答える。


「君を待ってる」


 セドリックの表情が崩れかけた。


 だが、すぐに正門の男たちを見る。


「彼らを殺すのですか」


「追ってこなければ」


 アランは剣を下げた。


「ここで全員を倒す必要はない」


 関所の指揮役らしい男が怒鳴る。


「人質を奪われたぞ! 追え!」


 だが、使える馬は厩から放たれている。


 見張り台の起動役も動けない。


 影狼は煙玉を投げ、旧街道を灰色の煙で覆った。


「退く!」


 アランの声で、一行は南の岩場へ向かう。


 レムが橋番の老人を支え、ゼイドがセドリックを運ぶ。別の影狼が意識のないローデンを背負う。


 敵の矢が煙の中から飛ぶ。


 アランは最後尾で一矢を剣に当てた。


 弾ききれず、矢が外套を裂く。


 それでも足は止めない。


 敵へ戻ることもない。


 守る者のそばへ下がる。


 関所から十分に離れた谷道で、追跡がないことを確認した。


 ミリアが待っていた。


 セドリックを見るなり、グレイストン家から届いた人物記録と照合する。顔立ち、右膝の古傷、家紋入りの指輪。


「セドリック・トレイス様ですね」


「そうだ」


「私はミリア・ランバール。王太子府へ提出するため、確認させてください。あなたは黒蛇の求めに応じ、自ら橋を通したのですか」


 セドリックの顔が硬くなる。


「違う」


「では、何があったのですか」


「父上は、王太子府へ救援を求めた。ローデンに書簡を持たせた。だが、その直後に俺が捕らえられた」


 彼は意識を失った使者を見る。


「黒蛇は父上に、俺と領民を殺されたくなければ、二つの橋を通せと言った。包囲側の荷と兵だけを。王太子府の兵が来た場合は、橋を落とせとも」


「橋を落とす仕掛けがある?」


 アランが問う。


「ある。古い防衛用の落橋機構だ。今は黒蛇が起動鍵を持っている」


「鍵はどこに」


「北橋を押さえている指揮官が一つ。もう一つは、父上の城に置かれている。ただし、城内にも黒蛇の監視役がいる」


 レムが地図を開く。


「嫡男を救出しただけでは、橋は戻らない」


「父上へ俺が生きていると伝えれば、動ける」


 セドリックは強く言った。


 しかし、すぐに顔を伏せた。


「だが、黒蛇は領民も人質にしている。橋番の家族、兵の妻子。父上は俺一人のためだけに従っているわけではない」


 アランは頷いた。


「分かってる。君を見せて、子爵へ決断を迫るつもりはない」


 セドリックが顔を上げる。


「では、どうする」


「橋を落とす仕掛けを先に止める。城内の監視役を切り離して、領民を逃がす道を作る。その後で、子爵と話す」


「時間がかかる」


「急がないわけじゃない」


 アランは右手を見た。


 先ほどの戦いで、震えは強くなっている。


 剣を握っていた指が、まだ硬い。


「でも、急いで父親に選ばせれば、黒蛇と同じになる」


 セドリックはしばらく黙っていた。


 やがて、深く頭を下げようとする。


 右脚の痛みで姿勢が崩れ、ゼイドが支えた。


「礼は、まだいい」


 アランは言った。


「橋を取り戻してからにしよう」


 ミリアはローデンの状態を確認していた。


 衰弱しているが、呼吸は安定している。衣服の内側には、細い革紐で小さな金属板が縫いつけられていた。


 トレイス子爵家の伝令証。


 そして裏面には、爪で刻んだような文字がある。


『王太子へ。子爵、反意なし。北橋、強制下』


 ミリアは静かに息を呑んだ。


「証拠があります」


 彼女は金属板をアランへ見せた。


「ローデン様は捕らえられた後も、救援要請の内容を残そうとしていました」


 セドリックは金属板を受け取り、目を閉じた。


「父上は、裏切っていない」


「うん」


 アランは答えた。


「兄上も、最初からそう考えて調べている」


「王太子殿下が?」


「王都の中で、君の父親が出した使者の記録を探してる。僕たちは外で君たちを探した。同じ橋を、両側から開けようとしてる」


 セドリックは銀髪の王子を見つめた。


「噂では、あなたと王太子殿下は」


「仲が悪い?」


「指揮権を争っていると」


「残念ながら、兄上に怒られることは多いけど、争ってはいないよ」


 わずかな笑いが、張り詰めていた空気を緩めた。


 夜明け前、一行は廃関所を離れた。


 関所そのものは黒蛇の手に残っている。


 しかし、人質は救出した。


 使者ローデンも生きていた。


 そして、トレイス子爵が王太子府へ反旗を翻したのではなく、救援を求めていた証拠も得た。


 黒蛇の包囲線を支えていた嘘が、一つ崩れた。


 ラウゼンへ戻る途中、アランは馬を止めた。


 右手が震えていた。


 レムが隣へ馬を寄せる。


「痛みますか」


「少し」


「傷が?」


「違う」


 アランは鞘に入った剣を見た。


「戦えないと言われた時、一瞬、本当に動けなくなりそうだった」


「それでも動きました」


「逃げ回っただけだけど」


「目的は敵を倒すことではありませんでした」


 アランは廃関所の方向を振り返る。


「前なら、全員倒そうとしたかな」


「おそらく」


「否定してほしかった」


「事実ですので」


 アランは小さく笑った。


 手の震えは、すぐには止まらない。


 だが、今夜救った者たちは生きている。


 敵を全員倒さなくても、守るべきものへ届くことはできた。


 それを、忘れないようにしようと思った。


 ラウゼンへ着くと、すぐに王都への暗号便が出された。


 嫡男救出。


 使者ローデン生存。


 子爵に反意なし。


 北橋、強制下。


 落橋機構あり。


 城内に黒蛇監視役。


 その報告を受け取ったルイは、王太子府の地図からトレイス子爵領に置かれていた反逆疑いの札を外した。


 代わりに、救援を示す青い札を置く。


「北橋を取り戻せば、王都へ大きな道が戻ります」


 ランバール公爵が言った。


「だが、黒蛇も簡単には渡さない」


 ルイはローデンの金属板の写しを見た。


『子爵、反意なし』


 捕らえられながら残された、わずかな言葉。


「トレイス子爵へ正式な赦免状を出す」


「まだ罪は確定していません」


「だからこそだ」


 ルイは筆を取る。


「黒蛇の強制下で行われた通行許可を、反逆とは見なさない。王太子府は子爵と領民の保護を優先する。そう書く」


 リィナが頷いた。


「エリウスより先に、意味を戻すんだね」


「アランが人を戻した。私は、その人が帰る場所を戻す」


 ルイは書状へ青印を押した。


 王都の内側から、正式な言葉が出る。


 外側では、アランたちが橋を落とす仕掛けへ向かう。


 黒蛇に握られていた北街道の二つの橋は、まだ閉ざされている。


 だが、その橋を守る領主は、もう一人ではなかった。

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