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61話 鳴らさぬ笛

 ラウゼンの門は開いていた。


 だが、以前とは違う緊張があった。


 門前には町の衛兵だけでなく、商人や荷運びの者たちが集まり、道の中央に止められた三台の荷馬車を囲んでいる。積まれているのは穀物袋と干し肉、薬草の束。どれも王都へ運べば役に立つ品だ。


 荷馬車の前には、灰色の外套を着た男たちが立っていた。


 胸元には王太子府の青印に似た徽章。


 しかし、形がわずかに違う。


 町側の先頭にはイレオンがいた。以前より顔色は戻っているが、右腕にはまだ古傷を庇う癖が残っている。


「王太子府の緊急徴発だとおっしゃるなら、正式な文書を見せていただきたい」


 イレオンの声は静かだった。


 灰色の外套の男が、苛立ったように紙を振る。


「ここにある。王都は包囲されている。周辺の町は備蓄を差し出すようにとの命令だ」


「責任者の署名がありません」


「緊急時だ。書式が整っていないこともある」


「王太子殿下は、緊急時ほど責任者名を残すよう通達されています」


 男の眉が動いた。


「地方の小領主が、王太子府の命令に逆らうのか」


「確認しているだけです」


「同じことだ」


 周囲の商人たちが不安そうに顔を見合わせた。


 王都が囲まれ始めたことは、すでにラウゼンにも伝わっている。食料が必要なのも事実だ。もし本物の命令なら、拒むことで王都を苦しめることになる。


 だが、全てを差し出せばラウゼンの冬がもたない。


 王都を助けるための命令か。


 王都と地方を争わせる罠か。


 判断を誤れば、どちらに転んでも黒蛇が得をする。


 町へ近づいていたアランは、街道脇の林からその様子を見ていた。


 外套のフードを深く被っている。銀髪も顔も、門前からは見えない。


 レムが隣で低く言った。


「徽章は偽物です」


「うん。青が濃すぎる」


「文書も、紙だけは王都のものに見えます」


 ミリアは少し後ろで、男が掲げている紙を見つめていた。


「王都の公用紙に似ています。ただ、折り方が違います」


「折り方?」


「王太子府から地方へ出す緊急通達は、封印を内側にして三つ折りにします。途中で中身を見られないためです。あれは二つ折りです」


 アランは紙へ目を凝らした。


 遠目では分からないほど小さな違いだ。


 だが、エリウスはそういう部分を意図的に残すことがある。完全な偽物にすれば、見破られた時点で終わる。少しだけ本物に似せ、受け取る側に迷わせる。


「ゼイド」


 アランが呼ぶ。


 返事はなかった。


 すでに姿を消している。


 灰色の外套の男は、ついに腰の剣へ手をかけた。


「王都が危機にある時、備蓄を抱え込む者は反逆と見なされる」


 町の衛兵たちにも緊張が走る。


 イレオンは退かなかった。


「王都を救うための荷なら、必ず届けます」


「ならば渡せ」


「あなた方が王都へ運ぶ証明をしてください」


 男が剣を抜きかけた。


 その手首に、小さな石が当たった。


 剣が鞘へ戻る。


「誰だ!」


 男たちが街道脇を見る。


 アランは林から出た。


 フードはまだ下ろしていない。レムとミリアも少し距離を空けて続く。影狼の者たちは姿を見せず、周囲の退路だけを押さえている。


「その荷、どの道で王都へ運ぶ予定?」


 アランは男へ尋ねた。


「貴様には関係ない」


「北街道は遮断されている。南薬草路も監視が増えた。西倉庫道を使うなら、今は途中の橋を渡れない。どこを通るのかな」


 男は一瞬だけ黙った。


「道は、こちらで確保している」


「誰が?」


「王太子府だ」


「王太子府が確保している道を知っているなら、責任者名も分かるよね」


「機密だ」


 アランは小さく息を吐いた。


「便利な言葉だね」


 灰色の外套の男たちが剣を抜く。


 町の衛兵も槍を構えた。


 だが、アランは剣へ手を伸ばさなかった。


「イレオン」


 名を呼ばれ、イレオンの表情が変わる。


 声で気づいたのだろう。


「その荷は、町で用意したもの?」


「はい。王都への支援分として、町の備蓄とは別に集めたものです」


「届ける相手は決まってる?」


「ランバール家の商会窓口を通し、王太子府へ届ける予定でした」


「なら、渡す必要はない」


 灰色の外套の男が怒鳴った。


「部外者が王太子府の命令を否定するな!」


「部外者ではないよ」


 アランはフードを下ろした。


 銀髪が朝の光を受ける。


 門前が静まり返った。


「アラン殿下……」


 商人の一人が呟く。


 灰色の外套の男たちの顔に、明確な動揺が走った。


 アランは彼らを見た。


「兄上は、地方の備蓄を奪って王都を救おうとはしない。必要な支援には、届け先と責任者を必ず示す」


「第二王子が、王太子殿下の命令を否定するのか」


 男はすぐに言葉を返した。


 用意していたのだろう。


 アランとルイを対立させるための一文。


 しかし、アランは怒らなかった。


「否定していない」


「今、偽の命令だと」


「兄上の命令ではないからだ」


「証拠はあるのか」


「あるよ」


 声は街道の上からした。


 いつの間にか、ゼイドが荷馬車の屋根へ立っていた。


 片手には小さな革袋。もう一方の手には、灰色の外套の男たちが乗ってきた馬の鞍袋から抜き取った紙束がある。


 男たちが一斉に振り返る。


「いつの間に!」


 ゼイドは紙束をアランへ投げた。


 レムが受け取り、中身を確認する。


「徴発先の一覧です」


「王太子府の命令書は?」


「ない」


 ゼイドが答えた。


「代わりに、西の旧塩道へ運べとある」


 門前の空気が変わった。


 王都へ向かう道ではない。


 旧塩道はラウゼンの西を通り、現在はほとんど使われていない。王都を囲み始めた武装集団の一部が潜む地域へつながる道だ。


 ミリアがレムから紙を受け取った。


 紙面へ素早く目を走らせる。


「ラウゼンだけではありません。近隣の村、宿場、修道院の備蓄も記載されています」


「何のために」


 イレオンが問う。


 ミリアは表情を曇らせた。


「王都へ入る物資を奪い、包囲側へ流すためです」


 商人たちから怒りの声が上がった。


 灰色の外套の男が剣を抜く。


「捕らえろ!」


 命令を受け、残りの男たちも動いた。


 アランは反射的に剣へ手をかけた。


 指先が柄に触れる。


 その瞬間、南薬草路の記憶がよぎった。


 ヴァルグの剣。


 血に濡れた土。


 届かなかった右手。


 わずかな震えが、指先に走る。


 レムは気づいた。


 だが、アランより前へは出なかった。


 代わりに、落ち着いた声で言う。


「正面に三人。右に二人です」


 アランは息を吸った。


 ここは南薬草路ではない。


 目の前にヴァルグはいない。


 背後には、まだ戦っていない者たちがいる。


 守るために全てを一人で斬る必要はない。


「町の衛兵は荷馬車を守って。影狼は逃げ道を」


 アランは命じた。


 そして、剣を抜く。


 手の震えは消えていない。


 それでも、刃は鞘から抜けた。


 向かってきた男の剣を正面から受けず、横へ流す。以前ならそのまま懐へ入り、一撃で倒しただろう。だが今は追わない。


 レムが別の男を止める。


 町の衛兵が二人を取り押さえる。


 林へ逃げようとした者は、影狼に足を払われた。


 ゼイドは荷馬車の上から動かず、外側の気配を見ている。


 アランは一人を倒しただけだった。


 それで十分だった。


 灰色の外套の男たちは、ほどなく全員が拘束された。


 剣を収めた時、アランの右手はまだ小さく震えていた。


 ミリアはそれを見た。


 何も言わない。


 アランも隠さなかった。


「殿下」


 イレオンが進み出る。


「お戻りになられたのですね」


「王都には戻ってないけどね」


「では、これから」


「王都へ続く道を開く」


 アランは押収した一覧を見た。


 徴発先。


 運搬先。


 旧塩道。


 黒蛇側へ流れる物資。


 これは偽命令の証拠であると同時に、包囲側の補給線を示す地図でもあった。


「この荷は予定通り王都へ送る。ただし、表の道は使わない」


 イレオンが銀の笛へ手を添える。


「笛を使いますか」


 アランは首を横に振った。


「まだ鳴らさない」


「では、旧伝令を」


「うん。フォルン家の道で、まず三つに分ける」


 アランは紙の裏へ簡単な線を引いた。


「一つは王都へ。ランバール家の外商便に混ぜる。食料と薬草を少量ずつ、別々の荷として入れる」


「はい」


「一つはヴァイスベルクへ。旧塩道の動きを伝えて、山側から見張ってもらう。ただし兵は求めない」


「承知しました」


「もう一つは、近隣の町と村へ」


 イレオンが目を上げる。


「黒蛇の偽徴発を知らせるのですか」


「知らせる。でも、僕の名前は出さない。王太子府の正式文書には責任者名と青印が必要。備蓄を求める者には届け先を確認する。それだけでいい」


 ミリアが頷いた。


「第二王子が偽命令を見破った、という話にしてしまえば、またアラン様と王太子殿下を分ける材料にされます」


「だから、町と商人が確認した形にする」


 アランは拘束された男たちを見た。


「僕が救ったことにする必要はない。次の町が、自分たちで見破れるようになればいい」


 イレオンはしばらく黙っていた。


 やがて、深く頭を下げる。


「では、ラウゼンの名で伝えます」


「お願い」


 町の者たちが荷馬車を動かし始めた。


 三台の荷はそのまま王都へ向かわせず、倉へ戻す。袋を小分けにし、荷札を変え、別々の日に別々の商人が運ぶ。黒蛇が一つを止めても、全ては止まらないようにするためだ。


 フォルン家の旧伝令たちは、薬売り、行商人、修道士に姿を変える準備を始めた。


 銀の笛は鳴らない。


 それでも、道は動き始める。


 その日の夕方、アランたちは庁舎の一室で旧塩道の地図を広げていた。


 押収した一覧には、物資の集積地点が三つ記されている。


 廃止された関所。


 塩商人の古倉庫。


 谷沿いの石切り場。


 レムが問う。


「どれを先に調べますか」


「全部を同時には無理だね」


 アランは地図を見た。


 最も王都に近いのは廃関所。


 最も物資を隠せるのは古倉庫。


 石切り場は、軍勢を伏せるには向いている。


 ゼイドが古倉庫を指す。


「足跡が多い。今日の連中も、そこから来た可能性が高い」


「なら、最初は古倉庫」


「襲うのですか」


 ミリアが尋ねる。


 アランは首を横に振った。


「まず見る。中にいるのが黒蛇だけとは限らない。脅されて働かされている商人や荷運びもいるかもしれない」


「半年休んで、慎重になりましたね」


 ゼイドが珍しく言った。


 アランは少しだけ笑う。


「前から慎重だったつもりだけど」


「前は、自分の分だけ数えていなかった」


 部屋が静かになる。


 責める言葉ではなかった。


 だからこそ、アランは否定できなかった。


「今も、上手く数えられてはいないよ」


「それでいい」


 ゼイドは地図から目を離さないまま言った。


「数えようとしている」


 アランは自分の右手を見た。


 先ほど剣を抜いた時の震えは、まだ指の奥に残っている。


 消えてはいない。


 それでも、剣を抜けた。


 しかも、一人で全てを倒そうとはしなかった。


 今は、それでいい。


 夜になる前に、最初の伝令がラウゼンを出た。


 笛の音はない。


 旗も上がらない。


 ただ、薬箱を背負った一人の行商人が東へ歩き、古びた馬車が北へ向かい、修道士の服を着た伝令が西の村へ進んだ。


 それぞれが、小さな事実を運んでいる。


 王太子府は、責任者のない徴発を命じていない。


 備蓄を奪う者の届け先を確認せよ。


 王都へ送る荷は、一つにまとめるな。


 それだけだった。


 だが、黒蛇が偽命令で結んだ糸を切るには十分だった。


 翌朝、王太子府へ一枚の商会帳簿が届いた。


 表向きは、ラウゼンから届いた穀物の取引記録。


 リィナは数字の並びを見て、すぐに裏の意味を読んだ。


 三台を九つに分ける。


 旧塩道に偽徴発あり。


 古倉庫へ集積。


 銀の名は使わず。


 笛は鳴らさず。


「始めたんだ」


 リィナが小さく呟く。


 ルイは帳簿を受け取り、短い暗号文を読んだ。


 弟の名は、どこにも書かれていない。


 それでも、アランの判断だと分かった。


「道は」


 ランバール公爵が問う。


「一本、戻り始めた」


 ルイは帳簿を閉じた。


「こちらも受け取る準備をする。ラウゼンから来る小口の荷は、検査後すぐに市場へ回せ。王家の倉へ集めるな」


「備蓄しないのですか」


「王家だけが抱えれば、また奪ったと言われる。届いたことを民に見せる」


 ランバール公爵は頷いた。


 ルイは窓の外へ視線を向ける。


 王都の門の向こうは見えない。


 だが、外側でアランが動いている。


 軍旗はない。


 古の軍勢もいない。


 ただ、町と町の間に小さな道が戻り始めている。


 黒蛇が作った包囲の輪に、最初の細い亀裂が入った。


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