60話 閉じられる王都
王都の外に、旗が立ち始めた。
それは王国軍の旗ではない。
どこかの貴族家の私兵旗に似たものもあれば、商会警備の印を掲げたものもあった。盗賊討伐を名目にした武装隊、領境警備を名乗る傭兵、荷止めの確認役を装った集団。形はばらばらだ。
だが、集まる場所は同じだった。
王都へ続く道。
北街道。
東川港。
南薬草路。
西倉庫道。
半年かけて細らせられた道が、一斉に締められ始めていた。
王都は燃えていない。
城壁も破られていない。
市場も朝には開いた。
それでも、人々は気づいていた。いつも届く荷が届かない。いつも通れる道が通れない。門の前に並ぶ馬車が増え、兵の声が硬くなり、商人たちが空を見上げる回数が増えている。
王都は、外からゆっくり掴まれていた。
王太子府では、夜明け前から伝令が絶えなかった。
「北街道第二宿場、武装集団により封鎖。通行料を要求」
「東川港、荷船三隻が停船を強制されています。命令書なし」
「西倉庫道、貴族私兵を名乗る集団が穀物倉前に展開」
「南薬草路、昨日から連絡が途絶えた宿場あり」
ルイは地図の前で報告を聞いていた。
目の下には疲れがある。
半年間、王都を支え続けてきた疲れだ。だが、声は乱れない。
「近衛は王城と水門を維持。騎士団第一隊は北街道、第二隊は西倉庫道。東川港はベルドと港役人に任せ、必要なら水門を閉めずに検査だけ行え。商会には、正規の荷は王太子府が保護すると通達する」
命令が走る。
だが、地図の赤い札は増えていく。
ランバール公爵が低く言った。
「殿下。これは、もはや流通妨害ではありません」
「包囲の前段階、ではなくなったな」
「はい」
ルイは地図を見下ろした。
王都の周囲に、赤い札が輪を描き始めている。
「黒蛇は、王都を囲んだと宣言しないでしょう。各所の武装集団も、表向きは別の名目を使う。だが、実態は包囲です」
リィナが机の端に紙束を置いた。
「噂も来てるよ」
「読め」
「『王都の外で銀の王子の支持者が動き始めた』。『王太子府は第二王子の影狼を制御できていない』。『古い誓約を口実に、王都外の支援家が集まっている』。あと、これは貴族院方面から。『第二王子が戻れば、王太子府の指揮権が二つに割れる』」
部屋の空気が冷えた。
ランバール公爵が目を細める。
「やはり、そこへ来ましたか」
ルイは驚かなかった。
黒蛇が何を狙うか、ずっと見えていた。
アランとルイを並べる。
そして、並べた二人の間に線を引く。
本人たちが疑い合わなくても、周囲が疑えば王都は割れる。
「アランの状態は」
ルイが問う。
「剣を持てるようにはなりました」
リィナが答える。
「でも、戦えるとは言えない。まだ傷も完全じゃないし、手の震えも残ってる」
「戻ってこようとするだろうな」
「すると思う」
リィナは珍しく軽口を挟まなかった。
ルイは目を伏せる。
戻ってくれば、アランは王都を支える力になる。
だが同時に、黒蛇が待つ火種にもなる。
王都内に銀の王子が戻る。
影狼がその周りに集まる。
古い誓約の噂が広がる。
そこへエリウスの紙が一枚加われば、意味はいくらでも歪められる。
「殿下」
ランバール公爵が静かに言った。
「アラン殿下を、王都へ呼び戻しますか」
ルイはすぐには答えなかった。
王太子としてなら、答えは難しい。
兄としてなら、もっと難しい。
だが、ルイはやがて地図の外側を指した。
「王都の内側は、私が守る」
声は静かだった。
「外側の道は、アランの方が見える」
ランバール公爵は深く頷いた。
「では」
「正式には呼ばない。だが、状況は知らせる」
「おそらく、殿下が命じる前に動かれます」
「だろうな」
ルイはかすかに笑った。
疲れた笑みだった。
それでも、そこに疑いはなかった。
同じ頃、古い離宮の庭で、アランは王都からの急報を読み終えていた。
冬の終わりの風が、木々の間を抜ける。
手には先ほど持ち上げたばかりの剣がある。今は鞘に収め、膝の上に置いていた。指先の震えは完全には消えていない。だが、剣から目を逸らすことはなかった。
レム、ミリア、ガイル、ゼイド、リィナから残された情報班の者、そしてヴァイスベルクからの連絡役が庭に集まっている。
リィナ本人は王太子府にいる。
王都の内側で、エリウスの紙を追っているのだ。
アランは報告書を畳んだ。
「王都は、まだ落ちていない」
最初にそう言った。
「けれど、囲まれ始めている」
ガイルが松葉杖を地面に突いた。
「俺も出ます」
「却下」
アランは即答した。
「早いですよ、殿下」
「君が言う前から分かってた」
「歩けます」
「松葉杖で?」
「殴れます」
「戦場の基準がおかしい」
ガイルは不満そうに顔を歪めた。
だが、強くは言い返せなかった。彼自身、自分の身体がまだ戻りきっていないことを分かっている。
レムが地図を広げる。
「王都内へ戻る道は、いくつか残っています。ランバール家の外商門、旧水路、北西の補給門。ただし、どれも黒蛇が見ている可能性が高い」
「うん」
アランは地図を見た。
王都へ戻る。
それは、一番分かりやすい選択だ。
ルイのそばへ行く。王太子府で指示を出す。影狼を集める。表と影で王都を守る。
けれど、その光景は黒蛇にも見えている。
アランが王都へ戻れば、黒蛇は喜ぶ。
銀の王子が王都へ入った。
影狼が集まった。
古い誓約を持つ者が、王太子の横に立った。
それだけで、エリウスは紙を書ける。
王都の民が不安になり、貴族が疑い、兵が迷えば、ルイの足元が揺れる。
アランは剣の柄に触れた。
震えは、まだ小さく残っている。
「王都には戻らない」
その言葉に、庭の空気が止まった。
ミリアが顔を上げる。
「戻らない、とは」
「今、僕が王都へ入れば、黒蛇は兄上と僕を並べて毒を撒く。王都の中に火種を持ち込むことになる」
「ですが、王都は」
「兄上が守る」
アランは静かに言った。
迷いはなかった。
「兄上は王都を閉じさせない。なら、僕は王都へ続く道を取り戻す」
ミリアは息を呑んだ。
それは、逃げではない。
むしろ、王都に戻って兄の隣に立つより難しい選択だった。
自分の存在が火種になると分かって、外へ出る。
王都の中をルイに任せ、外側の包囲線に向かう。
兄を信じていなければ、選べない。
レムは地図へ視線を落とした。
「少数で動くのですね」
「大軍はまだ呼ばない」
アランははっきり言った。
「蒼狼の名を出すのは早い。今動かすのは、支援網。ラウゼン、フォルン、グレイストン、ヴァイスベルク。道を知っている人たち、記録を守る人たち、荷を隠せる人たち」
「真の軍勢ではなく、道を戻すための手」
「うん」
ミリアはその言葉を胸に刻んだ。
ここで大軍勢を出せば、黒蛇の望む通りになる。
銀の王子が古の軍を動かした。
王太子を越えて兵を集めた。
そんな噂にされる。
だから、まだ出さない。
支援だけで、外側の糸を切る。
ゼイドが地図の南側を指す。
「南薬草路は危険だ。ヴァルグがもう一度使う可能性がある」
「分かってる」
「北街道は目が多い。東川港は水路。西倉庫道は倉を押さえられると王都が痩せる」
「全部を一度には無理だね」
「なら、最初はどこへ」
アランは少し考えた。
そして、ラウゼンの位置に指を置いた。
「ラウゼンへ」
ミリアが目を動かす。
「フォルン家の伝令線を使うのですね」
「うん。王都へ戻らずに、王都と外側をつなぐなら、まずそこだ。ラウゼンから山岳領へ、山岳領から薬草路へ。グレイストンには王都内から記録を合わせてもらう」
「王太子殿下へは」
「手紙を書く」
アランは即答した。
「短く。黒蛇に奪われても、余計な情報が出ないように」
レムが眉を寄せる。
「離宮を出ることは、王太子殿下に事前に」
「知らせる。でも、止められる前に出る」
「それは、怒られます」
「だろうね」
アランは少しだけ笑った。
その笑みは、以前より弱い。
けれど、消えてはいなかった。
ミリアは静かに言った。
「私も行きます」
アランは顔を上げた。
「ミリア嬢」
「記録が必要です。山岳領、ラウゼン、王都。黒蛇はまた、あなたの行動の意味を変えようとします。なら、そばで記録する者が必要です」
「危ない」
「知っています」
「傷は」
「動けます」
「僕が言えたことじゃないけど、無理は」
「アラン様」
ミリアは彼をまっすぐ見た。
「私は、あなたの罪になりに行くのではありません。自分の役目として行きます」
アランは言葉を失った。
南薬草路の記憶が、胸の奥で疼く。
だが、ミリアは目を逸らさなかった。
彼女を守るために遠ざける。
それは優しさに見えて、彼女の選択を奪うことにもなる。
アランはゆっくり息を吐いた。
「……分かった。ただし、前線には出ない」
「はい」
「危険なら下がる」
「努力します」
「善処じゃなくて?」
「努力です」
レムが横から言った。
「お二人とも信用できません」
アランとミリアは同時に黙った。
ガイルが小さく笑い、傷に響いたのか顔をしかめる。
その日の夕方、アランはルイへの手紙を書いた。
長い文ではない。
多くを書けば、奪われた時に毒になる。だから、必要なことだけを残す。
『兄上。
僕が王都へ戻れば、黒蛇は僕と兄上を並べて毒を撒きます。
だから、王都へは入りません。
王都の内側は兄上に。
王都へ続く道は、僕が外から取り戻します。
僕は兄上を疑いません。
どうか、僕のことも疑わないでください。
アラン』
書き終えた後、アランはしばらく筆を置けなかった。
これを読んだルイは怒るかもしれない。
心配もするだろう。
それでも、分かってくれる。
そう信じられるから、書ける。
手紙はレムが封じた。
王太子府へ送る伝令は、影狼ではなくランバール家の商会便を使うことになった。影狼を使えば黒蛇に読まれやすい。商会便なら、外商報告の一つに紛れ込ませられる。
夜。
アランは離宮の門を出た。
同行するのは、レム、ミリア、ゼイド、少数の影狼。ガイルは残る。本人は最後まで文句を言ったが、医療係とレムとミリアに同時に睨まれ、最後には松葉杖を握りしめて黙った。
「殿下」
ガイルは門前で言った。
「俺は、動けるようになったら追います」
「分かってる」
「止めても行きます」
「その前に治して」
「努力します」
「みんな努力って言うね」
アランは苦笑した。
ガイルは真顔になった。
「ヴァルグに会ったら、俺の分も一発」
「まだ会わないよ」
「会ったらです」
「分かった。覚えておく」
ガイルは深く頭を下げようとして、傷に響いて途中で止まった。
アランはそれを見て、少しだけ目を細める。
「生きていてくれて、ありがとう」
ガイルは一瞬だけ顔を歪めた。
「それは、こっちの台詞です」
それ以上は言わなかった。
夜道へ出ると、王都の灯りが遠くに見えた。
美しい灯りだった。
だが、その周囲には黒い輪ができ始めている。
アランはその灯りを見つめた。
王都へ戻りたい気持ちはある。
ルイのそばへ行きたい。
王城へ入り、父の顔も見たい。
けれど、今は違う。
王都の中はルイが守る。
なら、自分は外から道を開く。
剣を握る手は、まだわずかに震えている。
それでも、アランはその手を隠さなかった。
「行こう」
短い声で、一行はラウゼンへ向かった。
その頃、王太子府でルイは手紙を受け取っていた。
封を切り、短い文を読む。
読み終えた後、彼は長く黙った。
ランバール公爵がそばで待つ。
「殿下」
「怒るべきだな」
ルイは言った。
「兄としては」
「王太子としては」
「正しい」
ルイは手紙を畳んだ。
その指には、わずかに力が入っている。
「アランらしい。腹が立つほどに」
声は静かだった。
だが、そこには確かな痛みがあった。
弟を王都へ戻したい。
守りたい。
だが、それをすれば黒蛇の毒にかかる。
アランもそれを分かっている。
だから、外へ出た。
ルイは地図の外側を見た。
「王都の内側は、私が守る」
彼は手紙を胸元の内ポケットへしまった。
「外側は、アランに任せる」
ランバール公爵は深く礼を取った。
その夜、王都の門はさらに固められた。
だが、完全には閉じなかった。
内側でルイが立ち、外側でアランが動き始めたからだ。
黒蛇が描いた包囲の輪は、まだ完成していない。
その輪の外へ、銀の王子は静かに消えていった。




