59話 静養の季節
古い離宮の庭には、秋の風が長く残った。
南薬草路の戦いから、ひと月。
アランはまだ寝台の上にいた。
起き上がる時間は少しずつ増えたが、歩くには支えが必要だった。傷口は塞がり始めている。熱も下がった。侍医は「命の危機は越えた」と言った。
それでも、剣は持てない。
木の訓練剣を手にしただけで、指が震える。強く握ろうとすると、南薬草路の土の匂いが戻ってくる。倒れたダン。血まみれのガイル。自分の前に立ったミリア。ヴァルグの灰色の目。
その全てが、剣の柄に染み込んでいるようだった。
「今日はここまでにしましょう」
レムが言った。
床に落ちた訓練剣を拾い、壁際へ置く。
アランは椅子に座ったまま、右手を見ていた。
震えはまだ残っている。
「昨日より短かった?」
「いいえ」
「嘘だ」
「では、少し短かったです」
「ほら」
「ただし、握るところまではいきました」
レムの声は淡々としている。
慰めではない。事実だけを置く言い方だった。
アランは小さく息を吐いた。
「握ったうちに入るかな」
「入ります」
「落としたよ」
「一度持ちました」
「厳しいのか甘いのか分からない」
「必要な方です」
レムはそう言って、窓を少し開けた。
冷たい風が部屋へ入る。
アランは目を閉じた。
南薬草路の煙ではない。
ただの秋の風だ。
そう自分に言い聞かせる。
それでも、手の震えはすぐには止まらなかった。
その頃、王都ではルイが王太子府に残り続けていた。
アランが療養している間、黒蛇は目立つ大攻勢を控えた。だが、何もしていなかったわけではない。
北街道では、荷馬車の通行許可に偽の照会が混じるようになった。偽青印は取り締まられたが、今度は青印のない口頭確認が増えた。
東川港では、船主同士の不信が広がった。誰の荷に油壺が紛れたのか。どの商会が黒蛇に通じているのか。答えのない疑いが、荷の積み下ろしを遅らせる。
南薬草路では、薬草商が道を変え始めた。黒蛇を避けるための判断だったが、その分だけ王都へ届く日数が伸びる。
王都はまだ飢えていない。
だが、少しずつ不便になっていた。
ルイは地図の前で報告を聞き、ひとつずつ手を打った。騎士団を増やしすぎれば、商人が恐れる。減らせば、黒蛇が入り込む。貴族私兵を使えば、命令系統が濁る。使わなければ、手が足りない。
だからルイは、場所ごとに責任者を置いた。
北街道は騎士団と商会代表の共同確認。
東川港は水門番ベルドを中心に、古い港役人を再配置。
南薬草路はランバール家の商会網と、ヴァイスベルクからの使者経由の薬草路を併用。
影狼は、表に立たせすぎない。
アラン不在の穴を、完全には埋められない。
それでも、ルイは王都を崩さなかった。
「殿下、北街道の照会文です」
ランバール公爵が紙束を差し出す。
ルイはそれに目を通し、三枚目で止まった。
「この責任者名、昨日も見た」
「はい。ですが、昨日は東川港の荷止め命令に使われていました」
「同じ名を別の場所に」
「実在する人物ではありません。おそらく、エリウスの仕込みでしょう」
ルイは紙を置いた。
「リィナへ回せ」
「すでに写しを」
公爵が言うより早く、窓の外から声がした。
「見てるよ」
リィナが窓枠に腰かけていた。
近衛が反応しかけたが、ルイは手で止める。
「扉から入れ」
「急ぎだったから」
「毎回急ぎだな」
「王都が暇になったら扉から入るね」
リィナは机へ紙を置いた。
「この偽名、三系統で使われてる。北街道、東川港、あと貴族院近くの噂紙。先生、わざと同じ名を使ってる」
「なぜ」
「追わせたいから。たぶん、この名前を追うと別の偽倉庫へ行く」
「罠か」
「罠。でも罠なら、罠を用意した場所がある」
リィナの目は笑っていなかった。
エリウスとの情報戦は、表に見えないまま続いている。
黒蛇は剣を抜かずに道を細らせ、言葉で王都を疲れさせていた。
ふた月目に入る頃、アランは庭まで歩けるようになった。
杖をつき、レムかミリアがそばにつく。最初は十歩で息が上がった。次は庭の噴水まで。さらに数日後には、離宮の門が見える場所まで。
身体は、ゆっくり戻っていた。
心は、置き去りになったままだった。
ある日、庭の片隅で木剣を握った。
握るだけ。
振らない。
そう決めていた。
指が柄に触れる。
震えが来る。
アランは目を閉じた。
南薬草路ではない。
ここは離宮の庭。
隣にいるのはヴァルグではない。
レムと、少し離れた場所にいるミリアだ。
そう思っても、手は震えた。
木剣が落ちる。
乾いた音が庭に響く。
アランはしばらく動かなかった。
ミリアは駆け寄らなかった。
レムも拾わない。
アランは自分で膝を折ろうとして、傷の痛みに顔を歪めた。それでも、手を伸ばす。
木剣の柄に指が触れた。
今度は、持ち上げる前に震えた。
「今日は、触れました」
レムが言った。
アランは苦笑する。
「またそれ?」
「昨日は、途中で手を引きました」
「よく見てる」
「見るのが役目です」
アランは木剣を持ち上げられなかった。
だが、手を引かなかった。
それだけを、その日の記録にした。
ミリアは離宮の書斎で、南薬草路の記録を何度も書き直していた。
戦いの記録ではない。
その後の記録だ。
ダン・リオットの家へ、ガイルが行った日のこと。
ガイルはまだ松葉杖が必要だった。医療係に止められ、レムにも止められ、最後にはアランにまで止められた。
それでも、彼は行った。
アランは同行できなかった。
まだ長く外へ出られる状態ではなかったからだ。
ガイルは戻ってきた時、何も話さなかった。大きな体で離宮の廊下を歩き、アランの部屋の前で足を止めた。
「伝えました」
それだけ言った。
アランは寝台の上で、長く黙っていた。
「家族は」
「泣いてました」
「……そう」
「誇りだとも言ってました」
ガイルの声が震えた。
「でも、誇りだから悲しくないわけじゃねえ」
アランは何も言えなかった。
ガイルは続けた。
「俺は、守ったって言いました。あいつは逃げなかったって。薬草荷も、人も守ったって」
「うん」
「だから殿下も、いつか自分の口で言ってください」
アランは顔を上げた。
「僕が?」
「はい。今じゃなくていい。立てるようになってからでいい。あいつを、殿下の後悔の中だけに置かないでください」
その言葉は、アランの胸に深く残った。
ミリアはその日のことを記録に書いた。
死者を、後悔ではなく名で残すために。
三月目、冬が近づいた。
王都では、薪の値が上がり始めた。
戦争が起きたわけではない。
王都が包囲されたわけでもない。
ただ、北の林道から入る薪の荷が少し遅れ、西の倉庫で帳簿違いが起き、南の商人が「王都に近づくと荷止めされる」と言い始めた。
ひとつひとつは小さな乱れだ。
だが、暮らしには響く。
市場の女たちは値札を見て眉をひそめ、職人は材料の遅れを嘆き、宿屋は客の減りを気にした。
黒蛇は、王都を一気に締めない。
日常の端を、少しずつ削っていく。
ルイは王太子府で、毎日のように報告を受けた。
そのたびに、アランがいればと思う。
だが、その思いを指示には混ぜなかった。
アランは今、戻ってこられない。
ならば、王太子である自分が内側を支える。
それだけだった。
ある夜、アルバートは病床でルイを呼んだ。
王の体はさらに細くなっていた。だが、目はまだ濁っていない。
「王都は、細っているか」
「はい。ですが、崩れてはいません」
「よい答えだ」
アルバートは小さく頷いた。
「崩れていないなら、まだ王都だ」
「父上」
「アランは」
「命は安定しました。歩く訓練も始めています。ただ、剣はまだ」
言い切れなかった。
アルバートは目を伏せる。
「ヴァルグか」
「はい」
「あれは、剣で斬るだけの敵ではないな」
「アランの心に傷を残しました」
「なら、その傷を急かすな」
アルバートは静かに言った。
「剣を握れぬ時間も、あれには必要なのだろう」
ルイは驚いて父を見た。
「必要、ですか」
「強い者は、自分が届くと思いすぎる。アランはそう見せぬが、奥では同じだ。届かなかった距離を知ったなら、次は届かせるための道を探す」
「その間に、黒蛇は進みます」
「だから、お前がいる」
アルバートの声は弱い。
だが、その一言は重かった。
「王は、影が動けぬ時にも立つ。影は、王が立つから戻れる」
ルイは深く頭を下げた。
「はい」
アルバートは侍従長へ目を向ける。
「文書は」
「下書きは整っております」
「よい。まだ出すな。だが、王印を押す準備は進めよ」
ルイは文書の意味を理解していた。
銀の名が毒に変えられた時、王として正しい意味を示すためのもの。
それが必要になる時は、近づいている。
四月目、アランは木剣を持ち上げた。
ほんの一瞬だった。
持ち上げて、すぐ落とした。
けれど、落とす前に確かに持った。
レムはその日の訓練をそこで終わらせた。
「もう一度」
アランは言った。
「今日は終わりです」
「持てたんだ。もう一度」
「だから終わりです」
レムは譲らなかった。
「今、無理をして失敗すれば、今日の成功が失敗に変わります」
アランは黙った。
不満そうだった。
その顔が、少しだけ以前のアランに似ていて、ミリアは胸の奥が緩むのを感じた。
その夜、アランは久しぶりに短く笑った。
「レムに勝てない」
ミリアは答える。
「勝てたことがあるのですか」
「たまに」
「本当に?」
「記憶の中では」
その会話は、何でもないものだった。
だが、何でもない言葉を交わせることが、今は大きな前進だった。
五か月目、王都の外では小さな武装集団が増えた。
盗賊ではない。
盗賊のふりをした黒蛇。
護衛のふりをした雇われ兵。
領主の私兵を名乗るが、誰の命令か曖昧な者たち。
騎士団は出動を増やしたが、全てを押さえるには広すぎる。影狼も動いたが、アランが前線に立てない分、連携にわずかな遅れが出た。
ゼイドは水路を潰し、リィナは噂を切り、ガイルは歩けるようになった途端に現場へ戻ろうとして医療係に怒鳴られた。
ルイは王都内の秩序を保ち続けた。
それでも、黒蛇の線は消えない。
王都の周囲に、薄い輪が描かれ始めていた。
まだ包囲ではない。
だが、包囲の形をした影だった。
半年目の朝、離宮の庭には冬の終わりの光が差していた。
アランは木剣ではなく、自分の剣を前に置いていた。
真剣。
南薬草路で落とした剣だ。回収され、手入れされ、ここに戻ってきた。柄には新しい革が巻かれている。血の痕はもうない。
だが、アランには見える気がした。
あの時の土。
届かなかった距離。
ヴァルグの声。
忘れたわけではない。
消えたわけでもない。
ただ、今はその前に座っていられる。
レムがそばに立つ。
ミリアは少し離れて見守っている。
ガイルも松葉杖をつきながら庭の端にいた。ゼイドは木陰にいる。リィナは王都から戻ったばかりで、塀の上に座っていた。
「持つだけです」
レムが言った。
「分かってる」
アランは右手を伸ばした。
柄に触れる。
震えは来た。
完全には消えていない。
けれど、以前のように手を引くほどではなかった。
指を一本ずつかける。
握る。
息を吸う。
南薬草路の光景が、胸の奥をよぎった。
ダン。
ガイル。
ミリア。
ヴァルグ。
届かなかった剣。
それでも、アランは手を離さなかった。
剣を、ゆっくりと持ち上げる。
重い。
以前よりずっと重く感じた。
だが、落とさなかった。
庭にいた誰も、声を出さなかった。
アランは剣を構えない。
振らない。
ただ、持った。
しばらくして、静かに下ろす。
手は震えている。
けれど、剣は落ちていなかった。
「……持てた」
アランが呟いた。
レムは頷く。
「はい」
ミリアは目を伏せ、息を吐いた。
ガイルは大きく笑おうとして、医療係に睨まれ、声を抑えた。
リィナは塀の上で小さく言う。
「ようやく、ですね」
ゼイドは何も言わない。
ただ、木陰から少しだけ目を細めた。
その時、王都から早馬が来た。
伝令は庭へ入るなり、片膝をつく。
「王太子府より急報です」
アランは剣を置いた。
今度は、自分の意思で。
「何があった」
伝令は顔を上げた。
「王都周辺にて、複数の武装集団が同時に集結。北街道、東川港、南薬草路、西倉庫道の一部が遮断されました。王太子殿下は、王都内の防衛を固めるとのこと」
庭の空気が変わった。
半年かけて細っていた道が、ついに形を持ち始めた。
王都包囲。
その言葉は、まだ伝令の口から出ていない。
だが、誰もが理解した。
黒蛇が次の段階へ移ったのだ。
アランは王都の方角を見た。
剣を持つ手には、まだ震えが残っている。
それでも、彼はもう目を逸らさなかった。




