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58話 剣の震え

 アランが騎士団詰所から移されたのは、南薬草路の戦いから七日後のことだった。


 王都へ直接戻す案は、早々に退けられた。


 傷が深すぎる。馬車の揺れにも耐えられない。何より、王都の門を通れば噂がまた燃える。第二王子が血に濡れて帰還したというだけで、黒蛇は新しい紙を書くだろう。


 ルイが選んだのは、王都南西の森にある古い離宮だった。


 今はほとんど使われていない。だが井戸があり、外壁があり、王家の管理下にある。表向きは王太子府の臨時療養所。内側では、影狼と近衛が交代で守り、ランバール家の手配した薬草商が物資を運んだ。


 ガイルもそこへ移された。


 本人は「俺は王都の詰所でいい」と言い張ったが、移送用の担架に乗せられた時点で反論する力は残っていなかった。


 ミリアも、王都の屋敷へ戻るよう言われた。


 けれど、彼女は一度だけ首を横に振った。


「私も処置を受けます。けれど、ここで記録を続けます」


 ランバール公爵夫人は、娘の顔をしばらく見つめた。


 包帯の巻かれた腕。疲れた目。けれど、決めてしまった者の顔。


「無理をしたら、連れ戻します」


「はい」


「返事だけはよいのですね」


「母様に似ました」


「そこは父に似たと言いなさい」


 短いやり取りの後、夫人は溜息をつきながらも必要な侍女と医療係を送った。


 こうして、古い離宮は静かな療養所になった。


 静か、と言っても穏やかではない。


 夜になれば、アランはうなされた。


 南薬草路の名を呼ぶ。ガイルの名を呼ぶ。ダンの名を呼ぶ。時には、ミリアへ「来るな」とかすれた声で言った。


 その声が廊下に漏れるたび、ミリアは扉の前で足を止めた。


 入っていい時と、入ってはいけない時がある。


 侍医はそう言った。


 今のアランは、目の前にいる者と戦場の記憶を重ねてしまう。ミリアが近づくことで落ち着く時もあれば、逆に傷を見て混乱する時もある。


 だから、彼女は待った。


 待つことが、これほど苦しいとは思わなかった。


 十日目の朝、アランは初めて長く目を覚ましていた。


 寝台の上で上体を起こすこともできない。脇腹と胸、肩口に厚い包帯が巻かれている。顔色はまだ白く、少し話すだけで息が浅くなった。


 それでも、意識ははっきりしていた。


 レムが水を渡す。


「少しずつです」


「分かってる」


 アランは杯に口をつけた。


 手がかすかに震え、水面が揺れる。


 レムは見ていた。


 けれど、何も言わなかった。


「ガイルは」


「隣の棟です。傷は深いですが、命に別状はありません。文句も増えました」


「それはよかった」


「よくはありません。医療係が疲れています」


 アランは少しだけ笑った。


 笑った瞬間、脇腹が痛んだのか、顔を歪める。


 レムは杯を受け取った。


「無理に笑わないでください」


「笑うのも許可制?」


「今はそうです」


「厳しいな」


「生きているから言えます」


 その言葉に、アランの表情が止まった。


 レムは後悔しなかった。


 必要な言葉だった。


 アランはしばらく黙り、窓の外へ視線を向けた。


 庭には古い噴水がある。水は止まっているが、縁には苔が残っている。秋の初めの光が、静かに石へ落ちていた。


「ダンの家には」


「まだです。ガイルが自分で行くと言っています」


「動けるの?」


「今は無理です」


「だろうね」


 アランは目を伏せた。


「僕が行くべきだ」


「今は寝台からも降りられません」


「分かってる」


「分かっているなら、言わないでください」


 レムの声は少しだけ鋭かった。


 アランは彼女を見る。


 レムの肩にも包帯がある。顔には疲れが残り、目の下には薄い影がある。ずっとそばにいたのだと、今さら気づく。


「レムも、休んでない」


「休んでいます」


「嘘だ」


「アラン様ほどではありません」


「それ、比較対象がおかしいよ」


 レムは答えなかった。


 その沈黙に、アランは少しだけ息を吐く。


「……ごめん」


「謝る相手を増やさないでください」


 レムの声は静かだった。


「あなたが全員分を背負おうとすると、残された者の役目まで奪います」


 アランは何も言えなかった。


 数日後、ガイルが初めてアランの部屋へ運ばれてきた。


 歩ける状態ではない。椅子に座らされ、医療係二人に支えられている。それでも本人は不満そうだった。


「こんな運ばれ方、隊長の威厳がねえ」


「威厳より命です」


 医療係が冷たく返す。


 ガイルは舌打ちしたが、言い返す力はなかった。


 アランは寝台から彼を見た。


 ガイルの肩と脇腹には厚い包帯。顔色も悪い。普段なら部屋に入るだけで空気が動く男が、今は椅子に座っているだけで息を整えている。


「ガイル」


「殿下、先に言っときます」


 ガイルはアランの言葉を遮った。


「謝罪禁止です」


 アランは口を閉じた。


「あと、自分のせい禁止。俺が守った場所で、俺が傷を負った。それだけです」


「でも」


「でもも禁止です」


 ガイルの声はかすれている。


 それでも、妙な迫力があった。


「俺は負けました。悔しいです。ダンも死んだ。あいつの家には、動けるようになったら俺が行きます。そこは譲りません」


「僕も」


「殿下は、生きて立てるようになってからです」


 ガイルは真っ直ぐアランを見た。


「俺たちは道具じゃありません。殿下に守られるだけの人形でもない。自分で選んで、あそこにいました」


 アランの目が揺れる。


「ダンも?」


「そうです」


 ガイルの拳が震えた。


 怒りなのか、痛みなのかは分からない。


「だから、あいつの死を殿下だけのものにしないでください。俺が背負う分もある。あいつ自身の誇りもある」


 部屋が静かになった。


 アランは長い間、答えられなかった。


 やがて、小さく頷く。


「……分かった、とはまだ言えない」


「それでいいです」


 ガイルは短く息を吐いた。


「今すぐ分かりましたって言われたら、逆に殴ってます」


「重傷者が?」


「気合いで」


「やめてください」


 レムが即座に言った。


 少しだけ空気が緩んだ。


 そのわずかな緩みが、今は貴重だった。


 ミリアがアランの部屋へ入ったのは、その日の夕方だった。


 包帯はまだ取れていない。だが、腕の傷は落ち着き始めている。肩の痛みも、動かさなければ耐えられる。


 彼女は扉の前で一度だけ深呼吸をした。


 中へ入ると、アランは窓の方を見ていた。


 ミリアに気づくと、目が彼女の腕へ動く。


 包帯。


 その一瞬で、アランの顔から色が引いた。


「アラン様」


 ミリアは先に呼んだ。


「私は、ここにいます」


 アランは小さく頷く。


「うん」


「傷は痛みますが、命に関わるものではありません。医療係にもそう言われました」


「……うん」


「そして、私は後悔していません」


 同じ言葉を、何度でも言う必要がある。


 ミリアはそう思っていた。


 アランが信じられないなら、信じられるまで置き続けるしかない。


「今日は、記録を持ってきました」


「記録?」


「南薬草路の正式記録です。王太子府へ出す前に、確認が必要な箇所があります。ただし、読むのは私です。アラン様は聞いてください」


「仕事を持ってくるの?」


「はい。寝ているだけでは、余計なことを考えるでしょう」


 アランは虚を突かれたような顔をした。


 そして、ほんの少しだけ笑った。


「ミリア嬢、強くなったね」


「強くなったのではなく、周りに厳しい方が多いだけです」


「誰のことだろう」


「心当たりが多そうですね」


 ミリアは椅子に座り、記録を開いた。


 淡々と読む。


 黒蛇襲撃。


 薬草商の保護。


 ガイル隊の防戦。


 ダン・リオットの戦死。


 アランの到着。


 レム、ゼイド、ランバール家護衛の救援。


 事実を並べるたびに、アランの表情は揺れた。


 だが、逃げなかった。


 ミリアも言葉を飾らない。


 誰かの死を美談にはしない。誰かの傷を罪にも変えない。


 記録は、残された者を縛るためではなく、奪われた意味を取り返すためにある。


 読み終えた時、部屋は夕闇に沈みかけていた。


「この記録で、よいでしょうか」


 ミリアが問う。


 アランは長く黙った。


「ダンのところ」


「はい」


「火種を処理した、だけじゃ足りない」


 ミリアは筆を構える。


 アランは苦しそうに息を整えながら言った。


「薬草荷と、後方の避難者を守るため、自ら危険を引き受けた。そう書いて」


「はい」


「あと、ガイルは戦線を維持した。重傷を負いながら、退路ができるまで前線を離れなかった」


「分かりました」


「僕は」


 そこで、声が止まった。


 ミリアは顔を上げる。


 アランは自分の手を見ていた。


「僕は、何て書けばいいのかな」


 その問いに、ミリアはすぐには答えなかった。


 慰めでは足りない。


 英雄として飾れば、アランは受け取らない。


 だから、事実を言う。


「第二王子アランは、北街道の処理後、南薬草路へ急行。到着後、戦線を一時回復させ、薬草商および負傷者の撤退時間を確保。その後、黒蛇幹部ヴァルグとの交戦で重傷」


 ミリアは静かに続けた。


「それが、私の記録です」


 アランは目を伏せた。


「負けたことも書く?」


「はい」


「そっか」


「負けたことを書かなければ、次に勝つための記録になりません」


 アランはその言葉を聞き、窓の外へ目を向けた。


「次」


 小さく呟く。


 その声には、まだ力がない。


 けれど、完全に消えてもいなかった。


 その夜、アランは初めて剣を求めた。


 レムは止めた。


「まだ早いです」


「持つだけ」


「傷が開きます」


「持つだけでいい」


 押し問答の末、レムは短剣のように軽い訓練剣を持ってきた。真剣ではない。木の芯に革を巻いたものだ。


 アランはそれを見て、少しだけ苦笑した。


「子ども用みたいだ」


「今はそれでも早いくらいです」


「厳しい」


「いつも通りです」


 アランは右手を伸ばした。


 柄に指が触れる。


 その瞬間、南薬草路の感触が戻った。


 血で濡れた土。


 届かなかった剣。


 ヴァルグの灰色の目。


 ミリアの肩から流れた血。


 ダンの動かない体。


 指が震えた。


 訓練剣の柄が、手の中で揺れる。


 掴もうとした。


 掴めない。


 力を入れようとすると、手首から先が凍ったようになる。


 木の剣が、床へ落ちた。


 乾いた音が部屋に響く。


 アランはその音を見つめた。


 誰もすぐには動かなかった。


 レムも、ミリアも、言葉を失っていた。


 アランは右手を膝の上に置いた。


 震えは止まらない。


「……やっぱり」


 声は小さかった。


 ミリアは立ち上がりかけた。


 だが、レムがそっと目で止めた。


 今、拾って渡しても、アランはまた落とす。


 それは優しさに見えて、傷を深くするかもしれない。


 しばらくして、アランは自分で床へ手を伸ばそうとした。


 痛みで顔を歪める。


 それでも伸ばす。


 指先が訓練剣に届く前に、震えが強くなった。


 アランは手を止めた。


 そして、笑おうとした。


 失敗した。


「情けないね」


 その言葉に、ミリアは首を横に振った。


「情けなくありません」


「でも、持てない」


「今は、です」


 ミリアは強く言い切った。


 アランは彼女を見る。


「今は、持てないだけです」


 その言葉は、慰めではなく、未来を断ち切らないための線だった。


 アランは答えなかった。


 だが、震える手を隠そうとはしなかった。


 それだけでも、今は精一杯だった。


 古い離宮の外では、秋の風が木々を揺らしていた。


 王都へ続く道では、黒蛇の影がまだ動いている。


 北街道も、川港も、薬草路も、完全に静まったわけではない。


 それでも、この部屋では別の戦いが始まっていた。


 剣を握れない銀の王子が、もう一度自分の手を見るための、長い静養の日々が。


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