57話 毒になる噂
アランを王都へ戻せないまま、三日が過ぎた。
南薬草路の騎士団詰所は、臨時の治療所であり、臨時の防衛拠点でもあった。門には近衛が立ち、屋根の上には影狼が潜み、周囲の林道にはゼイドが張った警戒線が敷かれている。
黒蛇がもう一度襲ってくる可能性は低くなかった。
だが、実際に襲ってきたのは剣ではない。
噂だった。
王都では、すでにいくつもの話が流れ始めていた。
第二王子アランが影狼を私兵として動かし、街道で独断交戦した。
南薬草路の混乱は、黒蛇ではなく王太子府の命令系統の乱れが原因だった。
薬草商の荷が止まったのは、第二王子が古い支援網を無理に使おうとしたせいだ。
銀の王子は、王太子府の外で勝手に兵を動かしている。
どれも、事実の断片を含んでいた。
だからこそ、毒になった。
ルイは王太子府の執務室で、その報告を黙って聞いていた。
机上には、南薬草路の正式報告書、北街道と東川港の照合記録、偽青印の木札、エリウスの紙片が並んでいる。
リィナが壁際に立ち、腕を組んでいた。
「先生、早いね」
「エリウスか」
「うん。南薬草路で何があったか、全部知らないはずなのに、噂の形だけはもうできてる。たぶん、結果に関係なく流す文を用意してた」
セリオ・グレイストンが、震える指で紙をめくる。
「噂の文言に、古誓約の一節が混ざっています。直接ではありませんが、『道なきところへ道を開く銀』という表現が、商人街の噂に使われています」
ランバール公爵が険しい顔になる。
「アラン殿下を、王太子府の命令外で動く古い守護者として見せたいわけですな」
「はい」
セリオは頷いた。
「しかも、まだ反逆とは言っていません。まずは、別系統の力として意識させる書き方です」
ルイは静かに息を吐いた。
「分断の下準備か」
王太子府とアラン。
表の王太子と、影の第二王子。
その二つを並べ、少しずつ距離があるように見せる。実際には互いに信じて動いているのに、周囲がそう見なくなれば意味は変わる。
黒蛇が狙っているのは、そこだった。
「こちらの布告は」
ルイが問う。
ミリアがいないため、ランバール公爵が草案を読み上げた。
「南薬草路にて黒蛇による襲撃を確認。騎士団、王太子府直属部隊、影狼が薬草商および荷を保護。第二王子アラン殿下は現場確認中に負傷。なお、北街道、東川港の混乱と合わせ、同一組織による流通妨害と見て調査中」
「よい。影狼の名は出すのか」
「隠せば、私兵という噂が強まります。王太子府直属部隊の一部として記載した方がよろしいかと」
ルイは頷いた。
「そうする。アランの負傷は」
「重傷とは書かず、治療中と」
「いや」
ルイは短く止めた。
「曖昧にすれば、死んだという噂が出る。重傷だが命は保たれている、と書け」
部屋が静かになる。
ランバール公爵は少し間を置いて頷いた。
「承知しました」
「それから、薬草商の証言を取る。彼らが守られたことを、商会筋から流す。王太子府の布告だけでは足りない」
リィナが片手を上げた。
「その役、こっちでやる。助かった薬草商の中に、商人街で顔が広いおじいちゃんがいた。話してくれると思う」
「頼む」
「あと、エリウスの噂はすぐ消せない。消そうとすれば、隠したって言われる」
「なら、どうする」
「横に別の事実を置く」
リィナは地図に三つの札を置いた。
北街道。
東川港。
南薬草路。
「三つを一つの工作として見せる。アラン様だけの話にさせない。黒蛇が王都の道を閉じ始めてるって、みんなに分からせる」
ルイは地図を見た。
弟が倒れた場所。
王都へ続く道。
黒蛇が絡めた糸。
「それでいく」
迷いはなかった。
アランの傷を隠すのではない。
アランの傷が何のために負ったものかを、奪わせない。
それが、今ルイにできることだった。
同じ頃、騎士団詰所では、アランの熱が続いていた。
傷は縫われ、出血は止まった。
だが、夜になるたびに熱が上がり、浅い眠りの中でうなされる。侍医は薬草湯を使い、レムは何度も布を替えた。ミリアは自分の傷を押さえながら、部屋の外で待った。
入れば、アランを刺激するかもしれない。
そう侍医に止められていた。
理由は分かる。
アランは熱に浮かされながら、何度も同じ言葉を繰り返していた。
来るな。
下がれ。
僕が遅れた。
ミリアの名前も、ガイルの名前も、ダンの名前も呼んだ。
ミリアは扉の外でそれを聞き、何度も手を握りしめた。
包帯の下の傷が痛む。
だが、痛みよりも、扉一枚向こうにいるアランの声の方がつらかった。
「ミリア様」
ゼイドが廊下の端から声をかけた。
彼はいつも通り静かだったが、目の下に疲れが見える。三日間、ほとんど眠っていないはずだ。
「外の警戒は」
「交代した」
「ダンさんは」
「明日、王都へ送る。ガイルが目を覚ませば止めるだろうが、今は動かせない」
ミリアは俯いた。
「ガイル様は、ご自分でご家族へ行くと」
「言うだろう」
「行けるのでしょうか」
「今は無理だ」
ゼイドの返答は短い。
だが、冷たくはなかった。
「それでも、いつか行く。あの男は、そういう男だ」
ミリアは頷いた。
廊下の奥で、ガイルの寝ている部屋から騒ぎが聞こえた。包帯を替える医療係に文句を言っているらしい。声は弱いが、まだ怒鳴れる。
その声があるだけで、少しだけ救われる。
ゼイドは扉を見る。
「アラン様は、目覚めた後が難しい」
「身体ではなく、心が、ですか」
「両方だ」
ゼイドは壁にもたれた。
「ヴァルグは傷を残すのが上手い。剣の傷だけではない。何を見せれば相手が折れるかを知っている」
「アラン様は、折れません」
ミリアは反射的に言った。
ゼイドは否定しなかった。
「折れない者ほど、ひびが深くなることもある」
その言葉に、ミリアは何も返せなかった。
夜が更けた頃、アランが目を覚ました。
最初に見えたのは、低い天井だった。
王城ではない。
王太子府でもない。
石造りの詰所の天井。薬草の匂い。湿った布の冷たさ。身体のあちこちが重く、少し動こうとしただけで脇腹に鋭い痛みが走った。
「動かないでください」
レムの声がした。
アランは目だけを動かす。
レムが椅子に座っていた。肩に包帯を巻いている。顔色は悪い。それでも姿勢は崩していなかった。
「……レム」
「はい」
「ここは」
「南薬草路の騎士団詰所です。戦闘は終わりました。薬草商は保護。ガイルは生存。ミリア様も生存。ゼイドも無事です」
必要な情報を、先に並べた。
アランが何を聞くか、分かっていたからだ。
だが、最後に一つだけ、答えていない。
アランの目が揺れる。
「ダンは」
レムは静かに答えた。
「戦死しました」
アランは目を閉じた。
それだけだった。
叫ばない。
取り乱さない。
ただ、顔から血の気が引いていく。
「……僕が」
「違います」
レムはすぐに言った。
「彼は薬草荷を守りました。自分の役目を果たしました」
「僕が遅れた」
「あなたが来たから、戦線は崩れませんでした」
「でも、死んだ」
声はかすれていた。
レムは言葉を失いかけた。
死んだ。
その事実だけは、どんな言葉でも消せない。
アランは天井を見たまま続ける。
「ガイルは」
「重傷ですが、生きています」
「ミリアは」
「腕と肩に傷を。命に別状はありません」
アランの呼吸が乱れた。
レムはすぐに近づく。
「アラン様」
「見た」
アランの目が、どこか遠くを見る。
「僕の前に、立った」
「ミリア様が前に出なければ、あなたは助かりませんでした」
「違う」
アランは小さく首を振ろうとして、痛みに顔を歪めた。
「僕のせいで、前に出た」
「違います」
「違わない」
声が弱い。
弱いのに、頑なだった。
レムは唇を引き結んだ。
今ここで強く否定しても、届かない。アランの中では、まだ南薬草路が続いている。
その時、扉が静かに開いた。
ミリアだった。
レムは止めようとして、やめた。
アランの目が、彼女へ向く。
包帯の巻かれた左腕。
右肩の白い布。
顔色は悪いが、立っている。
それを見た瞬間、アランの表情が崩れた。
「ミリア……」
「はい」
「どうして」
「私が、そうすると決めたからです」
ミリアは寝台のそばまで歩いた。
アランは視線を逸らそうとした。
だが、逸らしきれなかった。
彼女の傷が、そこにある。
自分を守るために負った傷だと、どうしても思ってしまう。
「僕は、君を」
「アラン様」
ミリアは静かに遮った。
「私は、あなたの命令で前に出たのではありません」
「でも」
「あなたに守られるためだけに、ここまで来たのでもありません」
アランは何も言えなかった。
ミリアの声は強くはない。
だが、逃がさない響きがあった。
「怖かったです」
彼女は言った。
「ヴァルグの剣も、血も、あなたが倒れている姿も。今でも思い出すと手が震えます」
包帯の巻かれた手が、わずかに揺れる。
「でも、後悔はしていません。あの時、私は前に出ると決めました。その傷を、あなたの罪にしないでください」
アランの目が揺れた。
レムが先に言った言葉と同じだった。
だが、ミリア本人から聞くと、重さが違った。
「……できない」
アランはかすれた声で言った。
「今は、できない」
ミリアは小さく息を吸った。
その正直さに、胸が痛む。
それでも彼女は頷いた。
「では、今は覚えておいてください。私は、あなたを責めていません」
アランは目を閉じた。
まぶたの裏に、また南薬草路が蘇る。
ヴァルグの剣。
届かなかった自分の手。
ミリアの血。
ダンの体。
ガイルの声。
そして、地面に落ちた剣。
アランは右手を動かそうとした。
剣を探すように。
しかし、指先が震えた。
痛みではない。
恐怖だった。
自分の手が、思うように動かない。
それに気づいた瞬間、アランの呼吸が浅くなった。
レムが手を押さえる。
「アラン様」
「……剣が」
「今は持てません。傷が開きます」
「違う」
アランは震える指を見た。
「持てない」
部屋の空気が止まった。
ミリアも、レムも、その意味をすぐに理解した。
身体の傷だけではない。
ヴァルグの剣が、アランの中に残っている。
アランは自分の手を見つめたまま、声を失った。
ミリアはその手に触れたかった。
けれど、触れなかった。
今、安易に慰めれば、その震えを隠させてしまう気がした。
レムも何も言わない。
部屋には、アランの浅い呼吸だけが残った。
夜明け前、王太子府から正式布告が出された。
北街道、東川港、南薬草路で発生した一連の混乱は、黒蛇による流通妨害工作である。
王太子府は商人、各貴族家、騎士団と協力し、正式な命令系統を明示する。
南薬草路では薬草商と荷の一部を保護した。
第二王子アランは現場対応中に重傷を負ったが、生存し治療中である。
その布告は、王都中に貼り出された。
同時に、商人街では薬草商の老人が語った。
銀の王子が来たから、荷馬車は燃えずに済んだ。
影狼の若い隊員が、火種を抱えて薬草を守った。
騎士団も、ランバール家の者も、皆で逃げ道を作った。
話は完璧ではない。
人から人へ渡れば、形は変わる。
それでも、黒蛇の噂だけが王都を染めることは防がれた。
エリウスの毒は残る。
だが、ルイの布告とリィナの手配により、別の事実も並んだ。
王都はまだ、完全には黒蛇の言葉を信じていない。
その日の夕刻、アルバートは病床で報告を読んだ。
アラン重傷。
ガイル重傷。
影狼に死者。
ミリア負傷。
黒蛇幹部ヴァルグ逃走。
王の手は、紙の上で止まった。
長い沈黙の後、彼は侍従長へ言った。
「文箱を」
「陛下」
「まだ出さぬ」
アルバートは低く言った。
「だが、急がねばならん」
侍従長は深く頭を下げた。
王印文書。
古い誓約の正しい解釈。
それは、まだ表に出すものではない。
だが、黒蛇が銀の名を毒に変え始めた以上、王として残すべき言葉を遅らせるわけにはいかなかった。
アルバートは窓の外を見た。
王都の空は、薄く曇っている。
「アラン」
その名は、父としての声だった。
だが、次の言葉は王としてのものだった。
「生きて戻れ。まだ、お前の道は終わっておらぬ」
その声は、詰所のアランには届かない。
けれど、王都の奥で、ひとつの準備が確かに進み始めていた。




