56話 生き残った代償
南薬草路から最も近い騎士団詰所は、小さな石造りの砦だった。
普段は街道警備のための場所であり、重傷者を何人も受け入れるようにはできていない。それでも、その夜だけは詰所全体が臨時の治療所になった。食堂の長机は寝台に変わり、倉庫の布は包帯に裂かれ、井戸の水は休む間もなく運ばれた。
薬草の匂いと血の匂いが混じっている。
誰も大きな声を出さない。
だが、静かではなかった。
「湯をこちらへ!」
「包帯が足りません!」
「その荷は開けていい、薬草商の許可は取った!」
「ガイル隊長を押さえろ、暴れさせるな!」
「暴れてねえ!」
「暴れています!」
ガイルの声はまだ大きかった。
それだけで、周囲の者たちは少しだけ安心した。怒鳴る元気があるなら生きている。そう思いたかった。
だが、彼の傷は軽くない。
肩は深く裂かれ、脇腹と脚からも血が流れている。騎士団の医療係が傷口を縫おうとすると、ガイルは眉間に皺を寄せて歯を食いしばった。
「麻酔薬は」
「殿下に使え」
「こちらにも使います」
「俺はいい」
「黙ってください」
医療係は容赦なく言った。
ガイルは一瞬だけ言い返そうとしたが、途中で息を詰まらせた。顔色が悪い。強がりでどうにかなる出血量ではなかった。
少し離れた場所で、ミリアは左腕と肩の処置を受けていた。
傷は命に関わるほどではない。けれど、浅いとも言えなかった。腕を動かすたびに痛みが走り、手の震えが止まらない。
痛みのせいだけではないと、自分でも分かっていた。
ヴァルグの剣が迫った瞬間。
アランの前に立った瞬間。
刃を受け流した時の重み。
血を流して倒れていたアランの顔。
その全てが、目を閉じるたびに戻ってくる。
「ミリア様、こちらを見てください」
ランバール家の護衛が声をかけた。
ミリアははっとして顔を上げる。
「傷を縫います。少し痛みます」
「大丈夫です」
「大丈夫ではありません」
その言い方が、どこかレムに似ていた。
ミリアは小さく息を吐いた。
「分かりました」
針が皮膚を通るたびに、肩が強張る。
それでも声は出さなかった。
出せなかったのかもしれない。
この詰所の奥で、アランが処置を受けている。
彼の傷は、誰より深い。
王都から急ぎ呼ばれた侍医と、薬草商たちが持っていた止血草が、どうにか命をつなぎ止めている。レムはずっとそばにいた。自分の肩の傷も縫わず、アランの出血を押さえ、侍医の指示を受け、血で濡れた布を何度も替えている。
ゼイドは外にいた。
黒蛇が戻る可能性を潰すため、詰所の周囲を無言で歩いている。彼はダンの遺体を運び込んだ後、ほとんど言葉を発していない。
ミリアは奥の扉を見た。
「アラン様は」
「今は処置中です」
護衛が答える。
「行っても邪魔になります」
「……分かっています」
分かっている。
けれど、足がそちらへ向きそうになる。
自分の傷が縫い終わるまで、ミリアは拳を握って耐えた。
奥の部屋では、アランの呼吸が浅く続いていた。
侍医は額に汗を滲ませている。王城の寝所でアルバートを診ている者とは別の、王太子府付きの侍医だった。急報を受け、馬車で運ばれてきたのだ。
「止血布を」
レムがすぐに渡す。
「脇腹は押さえました。肩口は」
「こちらで縫う。胸の傷は深いが、臓器までは届いていない。だが、出血が多すぎる」
「助かりますか」
レムの声は普段通りに聞こえた。
けれど、手は血で濡れていた。
侍医は答えるまで、一瞬だけ間を置いた。
「助けるために処置しています」
それは確約ではない。
レムは理解した。
「必要なものは」
「温めた布。止血草を煎じたもの。清潔な針。あと、人を減らせ。空気が悪い」
「私は残ります」
「あなたは負傷している」
「残ります」
侍医はレムを見た。
その目に、怒りはない。説得する時間が惜しいと判断したのだろう。
「倒れたら外へ出す」
「分かりました」
レムは短く答えた。
アランの顔は白い。
普段の軽さも、余裕もない。血を失った唇は色をなくし、額には冷たい汗が浮かんでいる。時折、浅い息が途切れそうになるたび、レムの指に力が入った。
彼女は何度も戦場を見てきた。
負傷者も死者も見てきた。
それでも、アランがこの状態で横たわっている光景には、慣れようがなかった。
「……ミリア」
かすかな声が漏れた。
侍医が顔を上げる。
「意識が?」
レムはアランのそばへ寄った。
「アラン様」
アランの目は開いていない。
だが、唇だけがわずかに動く。
「来るな……」
それは、誰に向けた言葉か明らかだった。
レムは奥歯を噛んだ。
傷の痛みではない。
アランの中に、戦場がまだ続いている。
「ここは詰所です。撤退しました。ミリア様も生きています」
レムは静かに言った。
アランの呼吸が乱れる。
「血が……」
「ミリア様の傷は浅い。処置中です」
浅いと言い切った。
嘘ではない。
だが、アランを落ち着かせるために選んだ言葉だった。
それでも、彼の眉間には苦しげな皺が残ったままだ。
「ガイルは」
「生きています」
「ダンは……」
レムはすぐには答えられなかった。
その沈黙だけで、アランは分かってしまったのかもしれない。
目を閉じたまま、彼の指が布を掴んだ。
「僕が」
「今は話さないでください」
「僕が、遅れた」
「違います」
レムの声が少し強くなる。
「あなたが来たから、薬草商も騎士団も生きています。ガイルも生きています」
「でも」
「今は、生きることだけ考えてください」
レムはアランの手を押さえた。
彼の手は冷たかった。
その冷たさに、レムの表情がほんの一瞬だけ崩れかける。
だが、すぐに戻した。
「命令です。生きてください」
アランは答えなかった。
意識がまた沈んだのか、呼吸だけが浅く続く。
侍医が処置を再開した。
その夜、王太子府にも南薬草路の詳細が届いた。
ルイは報告を読み終えるまで、表情を変えなかった。
北街道の混乱は収束。
東川港も荷船の一部を動かせた。
南薬草路では、薬草商と荷の一部を守った。
だが、影狼に死者。
ガイル重傷。
ミリア負傷。
アラン重傷。
最後の一行で、ルイの指が紙を強く握った。
ランバール公爵もそばにいた。
彼は娘の負傷を知り、目を閉じた。父としての顔が浮かびかける。だが、王太子府の中で取り乱すことはしなかった。
「ミリアは」
「命に別状はない、とあります」
ルイは答えた。
「アランは」
「今夜が山、と」
部屋の空気が沈んだ。
リィナは壁際で報告書を受け取り、無言で目を通していた。いつもの軽口はない。エリウスの紙片、偽青印、三方面の発火。全てがここにつながった。
「本命は南だったね」
リィナが言った。
声は低い。
「騒がしかった北と東は、目を引くため。南は静かに薬草路とアラン様を狙った」
ルイは地図を見る。
王都へ続く道はまだ開いている。
だが、そのために払ったものが重すぎる。
「黒蛇は、これを使う」
ランバール公爵が言った。
「第二王子が負傷した。影狼が死んだ。街道で王族が剣を振るった。どう切り取っても、噂になります」
「先にこちらが出す」
ルイはすぐに言った。
「南薬草路で黒蛇の襲撃。薬草商保護のため、騎士団と王太子府の部隊が対応。第二王子は現場確認中に負傷。黒蛇幹部は逃走。薬草の一部は確保」
「アラン殿下の重傷は」
「隠しすぎれば、逆に毒になる。だが、詳細は出さない」
ルイは紙を取った。
筆を持つ手は、わずかに硬い。
「アランを、黒蛇の罠にかかった愚かな王子にはさせない。かといって、英雄として飾ることもしない。事実だけを出す」
「承知しました」
ランバール公爵は頷いた。
リィナが紙片を一枚机に置く。
「エリウスは、たぶん逆を書くよ。銀の王子が街道を混乱させた。影狼を私兵として動かした。王太子府の統制が取れていない。そんな感じ」
「なら、先に根を切る」
ルイは言った。
「セリオ殿に偽青印と紙片の照合を頼む。北街道、東川港、南薬草路を一つの黒蛇工作としてまとめる。個別の失態ではなく、同時工作だと示す」
「分かった」
リィナは頷いた。
少しだけ、いつもの調子が戻る。
「先生が紙で刺すなら、こっちも紙で縫うしかないね」
ルイは窓の外を見た。
今すぐアランのところへ行きたい。
だが、王太子が王太子府を離れれば、黒蛇はそれも利用する。王都の内側を守る者が必要だった。
アランが外で倒れたなら、なおさら。
「侍医を追加で送れ。近衛も護衛につける。黒蛇が詰所を狙う可能性がある」
「はい」
「それから、父上には」
言いかけて、ルイは止まった。
アルバートに知らせるべきか。
知らせれば、病身に負担がかかる。隠せば、王としての判断を奪うことになる。
少しの沈黙の後、ルイは言った。
「短く、正確に伝えろ。アランは重傷だが生存。黒蛇の襲撃から薬草路を守った。王太子府で対応中、と」
「承知しました」
報告が走っていく。
ルイはもう一度、南薬草路の札を見た。
そこには今、赤い印が重ねられている。
王都はまだ閉じていない。
しかし、その道の上で、弟が倒れた。
ルイは静かに息を吸った。
「黒蛇は、これで王都が揺れると思っている」
誰にともなく言う。
「揺れさせない」
その声は、王太子のものだった。
深夜、騎士団詰所の奥で、アランの処置がようやく終わった。
命はつながった。
侍医がそう告げた時、レムは初めて壁に手をついた。
倒れはしない。
だが、膝から力が抜けかけていた。
「まだ安心はできません」
侍医は言った。
「熱が出るでしょう。傷が膿めば危険です。数日は動かせません」
「王都へ戻すのは」
「今すぐは無理です。動かせば傷が開く」
「分かりました」
レムは頷いた。
そこへ、ミリアが入ってきた。
左腕と肩には包帯が巻かれている。顔色は悪いが、歩けている。護衛が止めたのだろうが、結局止めきれなかったのだと分かった。
レムは何か言おうとして、やめた。
「少しだけです」
ミリアが先に言った。
「分かっています」
レムは黙って場所を譲った。
ミリアは寝台のそばへ立った。
アランは眠っている。
眠っているというより、意識を落としているだけに見えた。包帯は赤く滲み、呼吸は浅い。それでも、生きている。
ミリアは膝をつきそうになった。
けれど、立ったまま見つめた。
「アラン様」
返事はない。
「私は、生きています」
声が震えた。
「ガイル様も、生きています。薬草商の方々も、助かりました。あなたが来たからです」
それを伝えたかった。
今のアランが聞いているかは分からない。
それでも、言わずにはいられなかった。
「だから、どうか……自分だけを責めないでください」
アランの指が、ほんのわずかに動いた。
聞こえたのかもしれない。
ただの反応かもしれない。
ミリアはその手に触れようとして、途中で止めた。包帯の巻かれた自分の手を見たからだ。
アランが目覚めた時、この傷を見て何を思うか。
それを考えると、胸が痛んだ。
背後でレムが静かに言った。
「ミリア様」
「はい」
「あなたが前に出なければ、アラン様は助かりませんでした」
ミリアは振り返る。
レムの顔は疲れきっていた。
それでも、言葉ははっきりしていた。
「だから、その傷をアラン様の罪にしないでください」
ミリアは息を詰めた。
そう言われて初めて、自分もまた同じ罠にかかりかけていると気づいた。
自分が傷ついたことを、アランに背負わせる。
ヴァルグが残していった毒は、そこにもある。
「……はい」
ミリアは小さく頷いた。
「覚えておきます」
外では、ゼイドが戻ってきていた。
詰所の裏庭に、布をかけられたダンの遺体が安置されている。ほかにも二人、騎士団の兵が亡くなっていた。薬草商の中にも重傷者がいる。
ゼイドはしばらくその前に立っていた。
祈りの言葉は言わない。
ただ、名前を確認する。
誰が死んだのか。
誰を連れて帰るのか。
誰の家に知らせるのか。
影は、死者を数から名前へ戻さなければならない。
「ダン・リオット」
ゼイドは低く言った。
「影狼南班。薬草荷を守り、火種を処理。戦死」
記録係が震える手で書き取る。
ゼイドは続けた。
「家族へは、隊長から」
ガイルが聞けば、自分で行くと言うだろう。
今の傷では無理だ。
それでも、彼は言う。
ゼイドには分かっていた。
夜明け前、ガイルは一度だけ目を覚ました。
寝台の横には騎士団の小隊長が座っていた。ガイルはぼんやりした目で天井を見て、最初に言った。
「殿下は」
「生きています」
「ダンは」
小隊長は答えなかった。
ガイルはそれだけで察した。
彼は目を閉じた。
大きな体が、ほんの少しだけ小さく見えた。
「……そうか」
それだけだった。
怒鳴らない。
泣かない。
ただ、その一言だけを落とす。
しばらくして、ガイルはかすれた声で言った。
「俺が、家に行く」
「今は動けません」
「分かってる」
「では」
「動けるようになったら、俺が行く」
小隊長は頷いた。
「伝えておきます」
ガイルは返事をしなかった。
再び意識が落ちる直前、彼は小さく呟いた。
「守ったんだよな」
それは誰に問うた言葉でもなかった。
小隊長は答えた。
「守りました」
ガイルの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
だが、その目尻には、乾ききらないものが残っていた。
朝が近づいていた。
騎士団詰所の窓の外で、空が薄く白み始める。
王都へ続く南薬草路は、まだ完全には閉じていない。
薬草の一部は守られた。
人も、全員ではないが救われた。
けれど、その代償は、誰の胸にも深く残った。
アランは眠ったまま、時折うなされていた。
その手は、見えない剣を探すように、布の上でかすかに震えていた。




