表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
55/65

55話 剣を持つ者

 ミリアは、走りながら剣を抜いていた。


 鞘から刃が抜ける音が、自分の耳にだけ大きく響く。


 手が震えている。


 当然だった。


 目の前にいるのは、アランを地に伏せさせた相手だ。ガイルを血まみれにし、影狼を押し込み、薬草路を戦場に変えた黒蛇の剣士。ミリアがまともに斬り合える相手ではない。


 そんなことは分かっている。


 それでも、足は止まらなかった。


 アランが倒れている。


 その事実だけで、他の音が遠くなっていた。


「ミリア様、前へ出すぎです!」


 ランバール家の護衛が叫ぶ。


 聞こえている。


 けれど、止まれない。


 アランの前にヴァルグが立っている。剣が上がっている。レムはまだ数歩届かない。ゼイドは林の奥で弩兵を潰している。


 誰かが、その一瞬を止めなければならない。


 ミリアは剣を両手で握った。


 レムから教わった言葉が、頭の奥でかろうじて形になる。


 受け止めようとするな。


 逃がせ。


 勝とうとするな。


 生き残れ。


 守るための剣は、相手を倒す剣ではない。


 アランの前に飛び込んだ瞬間、ヴァルグの目がミリアへ向いた。


 灰色の目。


 そこに驚きはほとんどない。ただ、面倒なものが増えた、という程度の冷たさだった。


「退け」


 短い声。


 ミリアは退かなかった。


 剣先は震えている。呼吸も浅い。足元も悪い。


 それでも、アランとヴァルグの間に立った。


「退きません」


 声は震えなかった。


 それだけで精一杯だった。


 地面に倒れたアランが、かすかに唇を動かす。


 来るな。


 そう言っているのだと分かった。


 だが、ミリアは目を逸らさない。


「私は、来ると決めました」


 ヴァルグの剣が動いた。


 見えたのではない。


 空気が変わった。


 ミリアは反射で剣を上げる。受け止めれば折れる。だから、刃の角度をずらした。レムに何度も直された形。腕ではなく、身体ごと逃がす。


 金属音が弾けた。


 衝撃が肩から背中へ抜ける。


 受けきれてはいない。剣を持つ手が痺れ、足が滑った。それでも、刃はアランへ届かなかった。


 二撃目が来る。


 今度は見えない。


 ミリアは半歩だけ下がった。下がるというより、崩れた。ヴァルグの刃が左腕を裂く。熱が走り、血が袖に広がった。


 痛い。


 けれど、倒れなかった。


 アランの目が大きく開かれる。


 声にならない声が漏れた。


 ミリアは剣を構え直す。


 腕が震える。


 血が指先へ伝う。


 ヴァルグはわずかに眉を動かした。


「素人だな」


「はい」


 ミリアは短く答えた。


「ですから、時間を稼ぐことしかできません」


 その言葉と同時に、レムが届いた。


 細剣がヴァルグの剣を弾く。


 音が変わった。


 ミリアの剣とは違う。速く、鋭く、正確な音だった。


「下がってください!」


 レムが叫ぶ。


 ミリアはアランの外套を掴もうとする。


 だが、アランの身体は重い。血で滑る。動かそうとした瞬間、彼が小さく呻いた。


「アラン様……!」


「呼吸はあります」


 横から低い声がした。


 ゼイドだった。


 いつの間にか林から戻ってきていた。片手には血のついた短剣、もう片方の手には黒蛇の弩を掴んでいる。弦は切られていた。


「伏兵は半分潰した。全部ではない」


「撤退路は」


 レムがヴァルグの一撃を受け流しながら問う。


「北側の溝沿い。荷馬車を一台捨てれば通れる」


「ガイルは?」


「まだ生きている」


 その言葉に、ミリアは一瞬だけ息を吸った。


 ガイルは荷馬車のそばで、斧を杖に立っていた。立っていると言うより、倒れるのを拒んでいる。騎士団の小隊長が肩を貸しているが、本人はまだ前を睨んでいた。


「殿下を先に運べ!」


 ガイルの声はかすれている。


「俺は後でいい!」


 レムが怒鳴り返す。


「あなたも運びます!」


「うるせえ、俺は重い!」


「知っています!」


 こんな状況で、言い合う声が飛ぶ。


 それが奇妙に、戦場の者たちの足を戻した。


 薬草商たちが荷を捨て、負傷者の運搬を手伝い始める。騎士団は防壁になっていた荷馬車を一台斜めに倒し、黒蛇の進路を塞いだ。ランバール家の護衛がミリアの周囲へ入る。


 守る形が、再び生まれる。


 ヴァルグはそれを見て、静かに剣を引いた。


 退いたわけではない。


 次の一撃のための間合いだ。


「逃がすと思うか」


 レムは細剣を構えたまま答えた。


「思っていません。逃がします」


 ヴァルグが踏み込む。


 レムが受ける。


 一撃、二撃、三撃。


 剣の音が連なった。


 レムは強い。だが、ヴァルグを押し返すほどではない。彼女の役目は勝つことではなく、アランを動かす数呼吸を作ることだった。


 ゼイドがアランの肩へ手を入れる。


「動かす」


「傷が」


 ミリアが言うと、ゼイドは短く返した。


「ここに置けば死ぬ」


 その一言で、ミリアは唇を噛んだ。


 分かっている。


 分かっていても、アランの血が手につくたび、指先が冷たくなる。


 アランの目は開いていた。


 意識はある。


 だが、焦点が合っていない。


 それでも彼は、ミリアの腕に滲む血を見ていた。


「……ミリア」


 かすれた声。


「大丈夫です」


 嘘だった。


 痛みで腕は震えている。


 だが、今のアランにはその嘘が必要だった。


「だから、今は生きてください」


 アランの唇が震えた。


 何かを言おうとして、血の混じった息に変わる。


 ゼイドと護衛がアランを引き上げた。アランの身体が動くたび、血が外套に広がる。ミリアは剣を持ったまま横についた。左腕は使いにくい。だが、右手だけでも剣は握れる。


 ヴァルグが視線を向ける。


 レムがそこへ踏み込んだ。


「見ている暇はありません」


 レムの剣がヴァルグの頬を掠める。


 浅い。


 だが、初めてヴァルグの表情に苛立ちが出た。


「侍従か」


「副官です」


「では、主を守って死ぬか」


「死ぬつもりはありません」


 レムは低く言った。


「生かして連れて帰ります」


 ヴァルグの剣が重くなる。


 レムの足がわずかに沈む。受け流すには強すぎる一撃。彼女は真正面から受けず、横へ逃がした。だが完全には逃がせず、肩口が裂ける。


 血が飛ぶ。


 それでも、レムは下がらない。


 ゼイドが煙玉を地面へ叩きつけた。


 灰色の煙が広がる。


 黒蛇の弩兵が狙いを失う。騎士団がその隙に負傷者を引きずり、薬草商たちを溝沿いへ逃がした。


 ガイルはまだ動こうとしている。


「俺は歩ける」


「無理です!」


 騎士団の小隊長が怒鳴る。


「歩けるって言ってんだろ!」


「歩ける人は、そんなに血を流しません!」


「口答えするな!」


「今だけします!」


 小隊長は半ば強引にガイルの腕を肩へ回した。


 ガイルは抵抗しかけたが、足が沈んだ。もう限界だった。彼は悔しそうに奥歯を噛み、低く言う。


「……ダンは」


 誰もすぐには答えなかった。


 道端に倒れた若い隊員。


 彼を置いていくことはできない。


 だが、生きている者を先に逃がさなければ、さらに死ぬ。


 その沈黙を破ったのは、ゼイドだった。


「回収する」


「一人でか」


「影は、そういう時に使う」


 ゼイドはそれだけ言い、煙の中へ消えた。


 ガイルは何も言えなかった。


 煙の向こうで、ヴァルグの声がした。


「死者まで拾うか」


 アランを支えていたミリアの手に力が入る。


 ヴァルグの声は、煙の中でもはっきり届く。


「重くなるだけだ」


 レムが答える。


「あなたには分からないでしょう」


「分かる必要がない」


「でしょうね」


 次の瞬間、煙の中で剣がぶつかった。


 レムが後ろへ弾かれる。倒れはしない。だが、膝が沈む。ヴァルグが煙を割って現れた。視線はアランへ向いている。


 まだ狙うつもりだ。


 ミリアはアランを支える護衛に彼の体を預け、前へ出た。


 レムが叫ぶ。


「ミリア様!」


「一瞬だけです」


 自分に言い聞かせるような声だった。


 ヴァルグの剣が来る。


 速い。


 先ほどよりも重い。


 ミリアは受け止めない。逃がす。下がる。半歩。


 だが、足元の泥で滑った。


 剣が弾かれ、ヴァルグの刃が右肩を掠める。浅いが、痛みで視界が白くなる。ミリアは倒れかけた。


 その時、アランの手がわずかに動いた。


 地面に落ちていた自分の剣へ、届かないまま伸びる。


 ミリアはそれを見た。


 そして、踏みとどまった。


 剣を拾うのはアランではない。


 今は、自分が立つ。


「アラン様は、連れて帰ります」


 ミリアはヴァルグを見た。


「あなたに、ここで終わらせません」


 声は震えていた。


 それでも、言葉は折れなかった。


 ヴァルグはつまらなさそうに剣を上げる。


「なら、お前から」


 その一撃は、ミリアには避けきれないものだった。


 だが、届く前に、黒い影が間へ入った。


 ゼイドだった。


 彼は片腕にダンの体を抱えたまま、もう片方の短剣でヴァルグの刃を受けた。受けたというより、刃の進路をわずかにずらしただけだ。衝撃でゼイドの手から血が散る。


 ミリアの肩を、刃が浅く裂いた。


 深くは入らない。


 しかし、血は流れた。


 アランの目が見開かれる。


 その瞬間だけ、彼の意識がはっきり戻った。


「ミリア……!」


 声はかすれていた。


 けれど、痛みよりも強い恐怖がそこにあった。


 ミリアは振り返らない。


 振り返れば、倒れる。


 ゼイドが低く言った。


「退く」


 レムが煙の中から戻り、ミリアの腕を掴んだ。


「もう十分です」


「でも」


「十分です」


 それは命令だった。


 ミリアは唇を噛み、頷いた。


 その瞬間、林の奥から騎士団の援軍の角笛が響いた。


 王太子府からの追加部隊だ。


 黒蛇の動きが変わる。


 ヴァルグは周囲を一瞥した。弩兵は潰され、火種も処理され、薬草商は逃げ始めている。ガイルは重傷だが生きている。アランは倒した。だが、殺しきるには援軍が近すぎる。


 目的は、半分以上果たしている。


 ヴァルグは剣を下げた。


「ここまでだ」


 レムが睨む。


「逃げるのですか」


「役目を終えただけだ」


 ヴァルグはアランを見た。


 アランは護衛に支えられ、意識を保つのがやっとだった。だが、その目はまだヴァルグを追っている。


「銀の王子」


 ヴァルグは静かに言った。


「届かない距離を覚えておけ」


 その言葉が、アランの胸に沈んだ。


 ヴァルグは林へ下がる。


 黒蛇の残党も、無理に追撃せず撤退を始めた。騎士団が追おうとするが、レムが止めた。


「追わないでください。罠です」


 小隊長は悔しげに歯を食いしばったが、従った。


 今、追えば負傷者を置くことになる。


 それこそ、黒蛇の思う壺だった。


 南薬草路に残ったのは、血と煙と倒れた荷馬車だった。


 薬草の匂いに、鉄の匂いが混じっている。


 アランは担架に乗せられた。


 ガイルも別の担架に押し込まれた。本人は最後まで文句を言っていたが、途中で力尽きるように黙った。ゼイドはダンの体を静かに荷馬車の陰へ置き、外套をかけた。


 ミリアはその光景を見た。


 何も言えなかった。


 左腕と肩の傷が痛む。


 けれど、それよりもアランの血の方が目に焼きついている。


 アランは担架の上で、かろうじて目を開けていた。


 視線がミリアの肩に止まる。


 血で赤く染まった布。


 その瞬間、彼の表情が壊れた。


「……僕の、せいで」


 ミリアは首を振った。


「違います」


 声が届いているかは分からない。


 アランの目は、彼女を見ているようで、もっと別のものを見ているようだった。


 ヴァルグの剣。


 倒れたダン。


 血まみれのガイル。


 そして、剣を持って自分の前に立ったミリア。


 その全てが、同じ場所に重なっている。


「違います」


 ミリアはもう一度言った。


 今度は、自分自身にも言い聞かせるように。


 アランは何かを言おうとした。


 だが、声にならないまま、意識が落ちた。


 レムがすぐに傷口を押さえる。


「急ぎます。王都へ戻るより、近くの騎士団詰所で応急処置を」


「ガイル様も」


「同時です」


 ゼイドが短く言う。


「黒蛇が戻る前に動く」


 南薬草路を離れる時、誰も勝利の言葉を口にしなかった。


 薬草商は守られた。


 荷の一部も残った。


 道は完全には閉じなかった。


 だが、代償は大きすぎた。


 アランは重傷を負い、ガイルは倒れ、影狼には死者が出た。


 そして、ミリアの肩には、アランを守ろうとして受けた傷が残った。


 夕闇の中、撤退する一行の後ろで、南薬草路の煙が細く立ち上っていた。


 王都へ続く道は、まだ閉じていない。


 けれど、その道の上で、アランの中の何かが深く折れかけていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ