55話 剣を持つ者
ミリアは、走りながら剣を抜いていた。
鞘から刃が抜ける音が、自分の耳にだけ大きく響く。
手が震えている。
当然だった。
目の前にいるのは、アランを地に伏せさせた相手だ。ガイルを血まみれにし、影狼を押し込み、薬草路を戦場に変えた黒蛇の剣士。ミリアがまともに斬り合える相手ではない。
そんなことは分かっている。
それでも、足は止まらなかった。
アランが倒れている。
その事実だけで、他の音が遠くなっていた。
「ミリア様、前へ出すぎです!」
ランバール家の護衛が叫ぶ。
聞こえている。
けれど、止まれない。
アランの前にヴァルグが立っている。剣が上がっている。レムはまだ数歩届かない。ゼイドは林の奥で弩兵を潰している。
誰かが、その一瞬を止めなければならない。
ミリアは剣を両手で握った。
レムから教わった言葉が、頭の奥でかろうじて形になる。
受け止めようとするな。
逃がせ。
勝とうとするな。
生き残れ。
守るための剣は、相手を倒す剣ではない。
アランの前に飛び込んだ瞬間、ヴァルグの目がミリアへ向いた。
灰色の目。
そこに驚きはほとんどない。ただ、面倒なものが増えた、という程度の冷たさだった。
「退け」
短い声。
ミリアは退かなかった。
剣先は震えている。呼吸も浅い。足元も悪い。
それでも、アランとヴァルグの間に立った。
「退きません」
声は震えなかった。
それだけで精一杯だった。
地面に倒れたアランが、かすかに唇を動かす。
来るな。
そう言っているのだと分かった。
だが、ミリアは目を逸らさない。
「私は、来ると決めました」
ヴァルグの剣が動いた。
見えたのではない。
空気が変わった。
ミリアは反射で剣を上げる。受け止めれば折れる。だから、刃の角度をずらした。レムに何度も直された形。腕ではなく、身体ごと逃がす。
金属音が弾けた。
衝撃が肩から背中へ抜ける。
受けきれてはいない。剣を持つ手が痺れ、足が滑った。それでも、刃はアランへ届かなかった。
二撃目が来る。
今度は見えない。
ミリアは半歩だけ下がった。下がるというより、崩れた。ヴァルグの刃が左腕を裂く。熱が走り、血が袖に広がった。
痛い。
けれど、倒れなかった。
アランの目が大きく開かれる。
声にならない声が漏れた。
ミリアは剣を構え直す。
腕が震える。
血が指先へ伝う。
ヴァルグはわずかに眉を動かした。
「素人だな」
「はい」
ミリアは短く答えた。
「ですから、時間を稼ぐことしかできません」
その言葉と同時に、レムが届いた。
細剣がヴァルグの剣を弾く。
音が変わった。
ミリアの剣とは違う。速く、鋭く、正確な音だった。
「下がってください!」
レムが叫ぶ。
ミリアはアランの外套を掴もうとする。
だが、アランの身体は重い。血で滑る。動かそうとした瞬間、彼が小さく呻いた。
「アラン様……!」
「呼吸はあります」
横から低い声がした。
ゼイドだった。
いつの間にか林から戻ってきていた。片手には血のついた短剣、もう片方の手には黒蛇の弩を掴んでいる。弦は切られていた。
「伏兵は半分潰した。全部ではない」
「撤退路は」
レムがヴァルグの一撃を受け流しながら問う。
「北側の溝沿い。荷馬車を一台捨てれば通れる」
「ガイルは?」
「まだ生きている」
その言葉に、ミリアは一瞬だけ息を吸った。
ガイルは荷馬車のそばで、斧を杖に立っていた。立っていると言うより、倒れるのを拒んでいる。騎士団の小隊長が肩を貸しているが、本人はまだ前を睨んでいた。
「殿下を先に運べ!」
ガイルの声はかすれている。
「俺は後でいい!」
レムが怒鳴り返す。
「あなたも運びます!」
「うるせえ、俺は重い!」
「知っています!」
こんな状況で、言い合う声が飛ぶ。
それが奇妙に、戦場の者たちの足を戻した。
薬草商たちが荷を捨て、負傷者の運搬を手伝い始める。騎士団は防壁になっていた荷馬車を一台斜めに倒し、黒蛇の進路を塞いだ。ランバール家の護衛がミリアの周囲へ入る。
守る形が、再び生まれる。
ヴァルグはそれを見て、静かに剣を引いた。
退いたわけではない。
次の一撃のための間合いだ。
「逃がすと思うか」
レムは細剣を構えたまま答えた。
「思っていません。逃がします」
ヴァルグが踏み込む。
レムが受ける。
一撃、二撃、三撃。
剣の音が連なった。
レムは強い。だが、ヴァルグを押し返すほどではない。彼女の役目は勝つことではなく、アランを動かす数呼吸を作ることだった。
ゼイドがアランの肩へ手を入れる。
「動かす」
「傷が」
ミリアが言うと、ゼイドは短く返した。
「ここに置けば死ぬ」
その一言で、ミリアは唇を噛んだ。
分かっている。
分かっていても、アランの血が手につくたび、指先が冷たくなる。
アランの目は開いていた。
意識はある。
だが、焦点が合っていない。
それでも彼は、ミリアの腕に滲む血を見ていた。
「……ミリア」
かすれた声。
「大丈夫です」
嘘だった。
痛みで腕は震えている。
だが、今のアランにはその嘘が必要だった。
「だから、今は生きてください」
アランの唇が震えた。
何かを言おうとして、血の混じった息に変わる。
ゼイドと護衛がアランを引き上げた。アランの身体が動くたび、血が外套に広がる。ミリアは剣を持ったまま横についた。左腕は使いにくい。だが、右手だけでも剣は握れる。
ヴァルグが視線を向ける。
レムがそこへ踏み込んだ。
「見ている暇はありません」
レムの剣がヴァルグの頬を掠める。
浅い。
だが、初めてヴァルグの表情に苛立ちが出た。
「侍従か」
「副官です」
「では、主を守って死ぬか」
「死ぬつもりはありません」
レムは低く言った。
「生かして連れて帰ります」
ヴァルグの剣が重くなる。
レムの足がわずかに沈む。受け流すには強すぎる一撃。彼女は真正面から受けず、横へ逃がした。だが完全には逃がせず、肩口が裂ける。
血が飛ぶ。
それでも、レムは下がらない。
ゼイドが煙玉を地面へ叩きつけた。
灰色の煙が広がる。
黒蛇の弩兵が狙いを失う。騎士団がその隙に負傷者を引きずり、薬草商たちを溝沿いへ逃がした。
ガイルはまだ動こうとしている。
「俺は歩ける」
「無理です!」
騎士団の小隊長が怒鳴る。
「歩けるって言ってんだろ!」
「歩ける人は、そんなに血を流しません!」
「口答えするな!」
「今だけします!」
小隊長は半ば強引にガイルの腕を肩へ回した。
ガイルは抵抗しかけたが、足が沈んだ。もう限界だった。彼は悔しそうに奥歯を噛み、低く言う。
「……ダンは」
誰もすぐには答えなかった。
道端に倒れた若い隊員。
彼を置いていくことはできない。
だが、生きている者を先に逃がさなければ、さらに死ぬ。
その沈黙を破ったのは、ゼイドだった。
「回収する」
「一人でか」
「影は、そういう時に使う」
ゼイドはそれだけ言い、煙の中へ消えた。
ガイルは何も言えなかった。
煙の向こうで、ヴァルグの声がした。
「死者まで拾うか」
アランを支えていたミリアの手に力が入る。
ヴァルグの声は、煙の中でもはっきり届く。
「重くなるだけだ」
レムが答える。
「あなたには分からないでしょう」
「分かる必要がない」
「でしょうね」
次の瞬間、煙の中で剣がぶつかった。
レムが後ろへ弾かれる。倒れはしない。だが、膝が沈む。ヴァルグが煙を割って現れた。視線はアランへ向いている。
まだ狙うつもりだ。
ミリアはアランを支える護衛に彼の体を預け、前へ出た。
レムが叫ぶ。
「ミリア様!」
「一瞬だけです」
自分に言い聞かせるような声だった。
ヴァルグの剣が来る。
速い。
先ほどよりも重い。
ミリアは受け止めない。逃がす。下がる。半歩。
だが、足元の泥で滑った。
剣が弾かれ、ヴァルグの刃が右肩を掠める。浅いが、痛みで視界が白くなる。ミリアは倒れかけた。
その時、アランの手がわずかに動いた。
地面に落ちていた自分の剣へ、届かないまま伸びる。
ミリアはそれを見た。
そして、踏みとどまった。
剣を拾うのはアランではない。
今は、自分が立つ。
「アラン様は、連れて帰ります」
ミリアはヴァルグを見た。
「あなたに、ここで終わらせません」
声は震えていた。
それでも、言葉は折れなかった。
ヴァルグはつまらなさそうに剣を上げる。
「なら、お前から」
その一撃は、ミリアには避けきれないものだった。
だが、届く前に、黒い影が間へ入った。
ゼイドだった。
彼は片腕にダンの体を抱えたまま、もう片方の短剣でヴァルグの刃を受けた。受けたというより、刃の進路をわずかにずらしただけだ。衝撃でゼイドの手から血が散る。
ミリアの肩を、刃が浅く裂いた。
深くは入らない。
しかし、血は流れた。
アランの目が見開かれる。
その瞬間だけ、彼の意識がはっきり戻った。
「ミリア……!」
声はかすれていた。
けれど、痛みよりも強い恐怖がそこにあった。
ミリアは振り返らない。
振り返れば、倒れる。
ゼイドが低く言った。
「退く」
レムが煙の中から戻り、ミリアの腕を掴んだ。
「もう十分です」
「でも」
「十分です」
それは命令だった。
ミリアは唇を噛み、頷いた。
その瞬間、林の奥から騎士団の援軍の角笛が響いた。
王太子府からの追加部隊だ。
黒蛇の動きが変わる。
ヴァルグは周囲を一瞥した。弩兵は潰され、火種も処理され、薬草商は逃げ始めている。ガイルは重傷だが生きている。アランは倒した。だが、殺しきるには援軍が近すぎる。
目的は、半分以上果たしている。
ヴァルグは剣を下げた。
「ここまでだ」
レムが睨む。
「逃げるのですか」
「役目を終えただけだ」
ヴァルグはアランを見た。
アランは護衛に支えられ、意識を保つのがやっとだった。だが、その目はまだヴァルグを追っている。
「銀の王子」
ヴァルグは静かに言った。
「届かない距離を覚えておけ」
その言葉が、アランの胸に沈んだ。
ヴァルグは林へ下がる。
黒蛇の残党も、無理に追撃せず撤退を始めた。騎士団が追おうとするが、レムが止めた。
「追わないでください。罠です」
小隊長は悔しげに歯を食いしばったが、従った。
今、追えば負傷者を置くことになる。
それこそ、黒蛇の思う壺だった。
南薬草路に残ったのは、血と煙と倒れた荷馬車だった。
薬草の匂いに、鉄の匂いが混じっている。
アランは担架に乗せられた。
ガイルも別の担架に押し込まれた。本人は最後まで文句を言っていたが、途中で力尽きるように黙った。ゼイドはダンの体を静かに荷馬車の陰へ置き、外套をかけた。
ミリアはその光景を見た。
何も言えなかった。
左腕と肩の傷が痛む。
けれど、それよりもアランの血の方が目に焼きついている。
アランは担架の上で、かろうじて目を開けていた。
視線がミリアの肩に止まる。
血で赤く染まった布。
その瞬間、彼の表情が壊れた。
「……僕の、せいで」
ミリアは首を振った。
「違います」
声が届いているかは分からない。
アランの目は、彼女を見ているようで、もっと別のものを見ているようだった。
ヴァルグの剣。
倒れたダン。
血まみれのガイル。
そして、剣を持って自分の前に立ったミリア。
その全てが、同じ場所に重なっている。
「違います」
ミリアはもう一度言った。
今度は、自分自身にも言い聞かせるように。
アランは何かを言おうとした。
だが、声にならないまま、意識が落ちた。
レムがすぐに傷口を押さえる。
「急ぎます。王都へ戻るより、近くの騎士団詰所で応急処置を」
「ガイル様も」
「同時です」
ゼイドが短く言う。
「黒蛇が戻る前に動く」
南薬草路を離れる時、誰も勝利の言葉を口にしなかった。
薬草商は守られた。
荷の一部も残った。
道は完全には閉じなかった。
だが、代償は大きすぎた。
アランは重傷を負い、ガイルは倒れ、影狼には死者が出た。
そして、ミリアの肩には、アランを守ろうとして受けた傷が残った。
夕闇の中、撤退する一行の後ろで、南薬草路の煙が細く立ち上っていた。
王都へ続く道は、まだ閉じていない。
けれど、その道の上で、アランの中の何かが深く折れかけていた。




