53話 届いた銀
馬蹄の音が、南薬草路に近づいていた。
最初に気づいたのは、倒れかけた荷馬車の陰にいた薬草商の老人だった。彼は血と土で汚れた顔を上げ、道の向こうを見る。林の影、煙、倒れた荷。そこを越えた先で、数騎がこちらへ駆けてくる。
先頭の外套が風に翻った。
銀の髪が、夕方の光を受ける。
「殿下……」
誰かが呟いた。
その声は小さかったが、戦場の中で不思議と広がった。
影狼の隊員たちが顔を上げる。騎士団の兵が息を呑む。薬草商たちも、恐怖に強張ったまま、その名を聞いて視線を向けた。
アランは馬上から戦場を見た。
荷馬車が防壁のように並べられている。薬草商たちは後方へ下げられている。騎士団は崩れかけながらも列を保っている。影狼は左右で敵を止めている。
そして、前線にガイルが立っていた。
血に濡れている。
肩、脇腹、脚。どれも浅くない。大斧を杖のように支えにし、それでも敵の前にいる。
その少し後ろに、道端へ倒れた若い隊員が見えた。
アランの胸の奥が、冷たく沈む。
だが、止まることはできなかった。
「レム、右を!」
「はい!」
レムが馬から飛び降りるように地へ降り、荷馬車の右側へ走る。黒蛇の剣士が薬草商の少年へ迫っていた。レムの細剣がその剣を弾き、柄で顎を打つ。敵が崩れたところへ騎士団が踏み込み、後方へ押し戻した。
アランは左へ回った。
馬を止めるより早く鞍から降り、剣を抜く。黒蛇の一人が弩を構えた。狙いはガイルではない。負傷者を運ぼうとしている騎士団の背中。
アランは地を蹴った。
弩の弦が鳴る前に、剣の峰で男の手首を打つ。骨の折れる音がして、弩が落ちた。続けて足を払う。殺さない。ここで倒すべきは敵だけではなく、混乱そのものだった。
「騎士団、荷馬車の後ろを維持! 薬草商は北側の溝へ下がってください! 影狼は敵を林へ戻すな!」
声が通った。
それまでばらばらになりかけていた戦線が、少しずつ形を取り戻す。
アランが来た。
それだけで、押されていた者たちの足に力が戻る。
ガイルは血を吐くように笑った。
「遅いですよ、殿下」
「急いだつもりなんだけど」
「じゃあ、俺が早く倒れすぎましたかね」
「倒れてないだろ」
「まだ、かろうじて」
軽口の形をしていた。
だが、ガイルの声には力がなかった。
アランは一瞬だけ彼の傷を見た。見てしまった。肩の裂け方、脇腹の血、脚の震え。
怒りが腹の奥で熱を持つ。
それを押し込め、アランは前を向いた。
ヴァルグがそこにいた。
黒髪が風に揺れ、灰色の目がアランを見ている。剣にはガイルの血がついていた。彼は焦っていない。アランが到着したというのに、むしろ待っていたように静かだった。
「来たか」
「待っていたみたいだね」
「待っていた」
ヴァルグはあっさり認めた。
「この場所を選んだのも、ガイルを削ったのも、あなたをここへ呼ぶためか」
「それだけではない。王都へ薬を送る道を折る意味もある」
「でも、僕を呼ぶ方が本命だった」
「お前は来る。守る者がいれば必ず」
アランは剣を構えた。
レムが少し離れた位置から視線を送る。
踏み込みすぎるな。
言葉にしなくても分かった。
アランは小さく頷いた。
「ガイル、下がって」
「嫌です」
「命令」
「なら、荷馬車の後ろまで下がります。戦線からは消えません」
「ガイル」
「殿下」
ガイルは斧を握り直した。
顔色は悪い。立っているのが不思議なほどだ。それでも、その目だけは折れていなかった。
「俺が下がりすぎたら、こいつらの足が止まります」
アランは言葉を飲み込んだ。
分かっている。
だから、つらい。
「……荷馬車の後ろまで」
「承知」
ガイルは二歩下がった。
それだけでも、彼には大きな負担だった。騎士団の小隊長が肩を貸そうとしたが、ガイルは首を横に振る。代わりに、斧を荷馬車の車輪横へ突き立てた。
「ここから先は通すな!」
その声に、後ろの者たちが応える。
戦線が持ち直す。
アランはヴァルグへ向き直った。
「君は、僕がここで怒るのを待ってる」
「怒っていないのか」
「怒っているよ」
アランの声は静かだった。
「でも、怒ったまま斬れば、君の思う通りになる」
ヴァルグの目がわずかに細まる。
次の瞬間、二人の距離が消えた。
剣と剣がぶつかる。
細い金属音が、戦場の雑音を切り裂いた。
ヴァルグの剣は軽い。だが、軽いだけではない。受けたと思った瞬間、力の向きが変わる。アランの剣筋を正面から止めず、ほんのわずかに逸らして、次の位置を潰してくる。
ガイルの大斧がやりにくい相手なら、アランの剣にもやりにくい相手だった。
しかし、アランは対応した。
一撃目を受け、二撃目を流し、三撃目で踏み込みを変える。ヴァルグが半歩引く。そこへアランは追わず、横から来た黒蛇の短剣を弾いた。
周囲がある。
負傷者がいる。
薬草商がいる。
この戦いは一対一ではない。
それを忘れない。
「レム!」
「分かっています」
レムが黒蛇の横槍を断つ。騎士団は荷馬車を守り、影狼は林側の敵を押し返す。アランとレムが入ったことで、黒蛇の勢いは明らかに落ちた。
ヴァルグの周囲から、味方が剥がれていく。
アランは剣を下げずに言った。
「ここは崩れない」
「そうか」
「退くなら今だよ」
「退く理由がない」
ヴァルグの返答は、あまりに静かだった。
その静けさが、アランの背筋を冷やす。
形勢は戻りつつある。
なのに、ヴァルグは焦っていない。
まだ、何かある。
アランは周囲を見た。
林の奥、荷馬車の下、倒れた黒蛇の懐、道脇の溝。赤い魔石はないか。弩兵は残っているか。退路は確保されているか。
その視線が、道端に倒れた若い隊員で止まった。
ダン。
名を思い出したのは、その時だった。
王太子府で一度、ガイルの後ろにいた若い隊員。荷物を運ぶ時に、リィナにからかわれていた。ガイルに怒られて、笑っていた。
その隊員が、赤く濡れた外套の中で動かない。
アランの呼吸が一瞬だけ乱れた。
ほんの一瞬。
だが、ヴァルグは見ていた。
「見たか」
声が来る。
アランは剣を構え直した。
「何を」
「お前が守ると言った者たちだ」
ヴァルグは一歩も踏み込まない。
ただ、言葉だけを置く。
「来るのが遅かった」
アランの指が、剣の柄を強く握った。
レムがすぐに気づく。
「アラン様」
「大丈夫」
答えは早すぎた。
レムの表情が硬くなる。
ヴァルグは続ける。
「ガイルは、お前を呼ぶために削った。あの若い隊員は、荷を守るために死んだ。薬草商は震え、騎士団はお前の到着でようやく息をした」
「黙れ」
声が低く落ちた。
アラン自身が、その声に気づいていなかった。
ヴァルグは静かに剣を構える。
「守る者が多いほど、お前は遅れる」
アランは踏み込んだ。
それは、普段の彼なら選ばない踏み込みだった。
速い。
鋭い。
だが、深い。
ヴァルグは待っていた。
剣が交わる。アランの一撃はヴァルグの肩を掠めた。黒衣が裂け、血が滲む。初めて、ヴァルグの体がわずかに揺れた。
それでも、彼は退かない。
むしろ笑ったように見えた。
「届くな」
次の一撃で、アランの剣が弾かれる。
完全にではない。
だが、ほんの少しだけ剣先が上がった。
その隙を狙い、林の奥から弩の音がした。
レムが叫ぶ。
「伏せて!」
アランは反応した。
矢は肩を掠めた。致命傷ではない。だが、外套が裂け、血が飛ぶ。
弩兵はまだ残っていた。
ヴァルグが、アランの視線をダンへ向けた間に。
アランは歯を食いしばる。
痛みより、怒りが先に来た。
レムが弩兵へ走ろうとするが、黒蛇の剣士が阻む。騎士団も動けない。荷馬車の防壁を捨てれば、薬草商が危ない。
ガイルが叫んだ。
「殿下、そいつだけ見るな!」
その声は、血でかすれていた。
アランは聞いた。
聞いたはずだった。
だが、視界の端に倒れたダンがいる。
血まみれのガイルがいる。
震える薬草商の少年がいる。
守るべきものが多すぎる。
そして、自分は遅れた。
その考えが、胸の奥で形を持ち始める。
ヴァルグが静かに踏み込んだ。
「遅れた分を、取り返してみろ」
アランは剣を上げる。
その剣筋はまだ鋭い。
だが、ほんの少しだけ荒れていた。
レムはそれを見て、顔色を変えた。
「アラン様、下がってください!」
「下がれない」
「今は」
「下がれない」
同じ言葉を繰り返した。
それが危うい。
アランはヴァルグへ斬り込んだ。ヴァルグは受け流し、斜めに下がる。アランは追う。追ってしまう。二歩、三歩。荷馬車の防壁から離れる。
レムが追おうとした。
その時、道脇の溝から黒蛇が二人飛び出した。
狙いはレムではない。
負傷したガイルと、倒れたダンの体。
ガイルが斧を振るが、傷が深く力が入らない。騎士団が庇う。戦線がまた揺れる。
アランが振り返った。
その一瞬を、ヴァルグは逃さなかった。
剣が、アランの脇腹を浅く裂く。
血が滲む。
浅い。
だが、それは警告だった。
ヴァルグは言う。
「後ろを見るな。前だけ見れば死ぬ。後ろを見れば、もっと死ぬ」
アランの表情が消えた。
レムが敵を斬り伏せ、ガイルの前へ入る。
ガイルは荒い息のまま叫んだ。
「殿下! 俺はまだ生きてます! こっちを見るな!」
その声が、アランに届いた。
届いたからこそ、余計に苦しくなる。
アランは剣を握り直した。
指先に血がついている。自分のものか、敵のものか分からない。
戦場は、再び傾きかけていた。
アランが来たことで形勢は戻った。
けれど、ヴァルグは最初からそれを待っていた。
アランが希望として現れた瞬間、その希望の重さを彼自身に背負わせるために。
遠く、王都の方角から別の馬蹄が聞こえた。
まだ小さい。
誰かが来る。
だが、今のアランには、その音を確かめる余裕がなかった。
ヴァルグは静かに剣を構え直す。
「次で、沈める」
アランは答えなかった。
答える代わりに、踏み込んだ。
レムの制止が、風に消えた。




