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52話 南薬草路の牙

 ヴァルグが剣を抜いた瞬間、南薬草路の空気が変わった。


 それまで林の奥に潜んでいた黒蛇の者たちが、一斉に距離を詰めてくる。狙いはガイルではない。薬草商の荷馬車と、護衛に入った騎士団の横腹。こちらを正面から倒すつもりではなく、守るべきものを散らして、隊列そのものを崩す動きだった。


 ガイルは大斧を構えたまま、腹の底から声を出した。


「荷馬車を下げろ! 薬草商は騎士団の後ろだ! 影狼は左右、抜けた奴を通すな!」


 命令に、影狼の隊員たちが即座に動く。


 若い隊員のダンが、薬草商の老人を荷馬車の陰へ押し込んだ。先ほど「急がないのか」と聞いてきた男だ。まだ若い。だが、こういう時に足が止まらないだけで十分に鍛えられている。


 ガイルはそれを横目で確認し、大斧を振った。


 最初に飛び込んできた黒蛇の剣士が、鎧ごと吹き飛ぶ。二人目の槍を柄で受け、膝で腹を蹴り抜く。三人目は距離を取ろうとしたが、ガイルは踏み込み、斧の背で肩を砕いた。


 力で押す。


 それがガイルの戦い方だった。


 だが、今日はただ押せばいい戦場ではない。


 背後には薬草商がいる。荷馬車には王都へ運ぶ薬草が積まれている。ここを失えば、王都の薬が遅れる。怪我人、病人、王城の侍医たちまで影響を受ける。


 壊して終わり、では済まない。


「おい、騎士さん!」


 ガイルは横の小隊長へ叫んだ。


「荷馬車の車輪を道の内側へ向けろ! 壁にする!」


「承知!」


 騎士団の小隊長はすぐに部下へ指示を出した。


 荷馬車がきしみながら動く。薬草商たちは怯えながらも、車輪止めを外し、荷を押した。林から矢が飛ぶが、影狼の一人が盾を拾って受ける。騎士団も並びを変え、荷馬車を簡易の防壁にした。


 そこまでは、持ち直せた。


 だが、ヴァルグはまだ動いていない。


 灰色の目で、静かに戦場を見ている。


 その沈黙が、ガイルには気に食わなかった。


「見物かよ」


 ガイルが言うと、ヴァルグはわずかに目を向けた。


「守る物が多いな」


「おかげで退屈しねえ」


「それは、弱点が多いという意味だ」


「言い方が暗いんだよ」


 ガイルは大斧を肩に担ぎ直した。


「来いよ。俺が相手してやる」


 ヴァルグはすぐには踏み込まない。


 代わりに、指先をわずかに動かした。


 林の奥から、別の矢が飛んだ。


 狙いはガイルではない。


 荷馬車の下に潜り込んでいた薬草商の少年だった。


 ガイルは舌打ちし、横へ跳んだ。大斧で矢を叩き落とす。そこへ黒蛇の剣士が二人、左右から斬り込んできた。


 誘いだ。


 分かっていても、避けられない。


 ガイルは片方を肩で弾き飛ばし、もう片方を柄で受けた。だが、その瞬間、ヴァルグが動く。


 速い。


 黒い影が、戦場を滑るように近づいた。


 ガイルは反射で斧を引き戻す。重い刃と細い剣がぶつかり、耳障りな音がした。


 力なら、ガイルが上だ。


 だが、ヴァルグの剣は力を受け止めない。斧の重みをわずかに逸らし、ガイルの踏み込みを半歩ずらす。斧を振れば振るほど、体の向きが崩される。


 ガイルは歯を食いしばった。


「やりにくい剣だな」


「重すぎる」


「褒め言葉として受け取っとくぜ」


 ガイルは大斧を短く持ち替え、横薙ぎに振った。


 ヴァルグは低く身を沈めて避ける。避けた先に、騎士団の一人がいた。ガイルは追撃できない。振り抜けば味方を巻き込む。


 その迷いを、ヴァルグは使った。


 剣先がガイルの腕を裂く。


 浅い。


 だが、血が飛んだ。


 影狼の隊員が叫ぶ。


「ガイル隊長!」


「騒ぐな! かすり傷だ!」


 実際、まだ動ける。


 ガイルは前へ出て、ヴァルグを荷馬車から引き離そうとした。だが、ヴァルグは深追いしない。ガイルが守る位置を変えるたび、別の黒蛇が薬草商や騎士団へ向かう。


 敵の狙いは、ガイルを倒すことだけではない。


 ガイルを動かすことだ。


 そして、動かされた先で少しずつ削る。


 嫌な戦い方だった。


「ダン!」


 ガイルは叫んだ。


「伝令は出したか!」


「出しました! 王太子府とアラン様へ!」


「よし。戻って荷馬車の後ろを固めろ!」


「はい!」


 ダンが走る。


 その背を、林の奥から飛んだ短剣が狙った。


 ガイルは見えていた。


 だが、ヴァルグが目の前にいる。


 一瞬。


 守るか、受けるか。


 ガイルは迷わなかった。


 大斧を投げるように振り、短剣を弾く。その隙に、ヴァルグの剣が懐へ入った。


 脇腹が熱くなる。


 痛みは少し遅れて来た。


「っ……!」


 ガイルは奥歯を噛み、膝をつかなかった。代わりに、左拳でヴァルグの肩を殴りつける。まともに入れば骨が折れる一撃だったが、ヴァルグは半身で逃がした。


 それでも、距離は開く。


 ガイルは脇腹を押さえた。


 血が指の間を濡らす。


 騎士団小隊長が駆け寄ろうとするが、ガイルは怒鳴った。


「来るな! 隊列を崩すな!」


 小隊長は歯を食いしばり、踏みとどまった。


 よく止まった、とガイルは思った。


 ここで全員が自分を助けに来れば、薬草商が死ぬ。敵はそれを待っている。


 ガイルは息を吸い、大斧を構え直した。


「まだやれる」


 自分に言ったのか、部下に言ったのか分からなかった。


 ヴァルグは血のついた剣を下げたまま、静かに言う。


「部下を守るために傷を受ける。分かりやすい」


「分かりやすい方が、味方が動きやすいんだよ」


「なら、次も同じだ」


 ヴァルグの視線が、荷馬車の後ろへ動いた。


 ダンがいる。


 薬草商の少年と老人を守りながら、盾を構えていた。若いが、足は引いていない。


 ガイルは嫌な予感を覚えた。


 次の瞬間、黒蛇が荷馬車の下から火種を転がした。


 赤い魔石。


 薬草は乾いている。


 火が入れば一気に燃える。


「水だ!」


 ガイルの声と同時に、騎士団の一人が水袋を投げた。だが、黒蛇の矢がその水袋を射抜く。水は届かない。


 ダンが動いた。


 盾を捨て、火種へ走る。


「馬鹿、戻れ!」


 ガイルの怒号が飛ぶ。


 ダンは止まらなかった。


 彼は火種を濡れた外套で包み、荷馬車の下から引きずり出す。赤い光が外套の中で脈打つ。完全には止まらない。


 ダンはそれを道脇の溝へ投げ込んだ。


 小さな爆発が起きた。


 土と水が跳ね、煙が上がる。


 荷馬車は燃えなかった。


 だが、爆風にダンの体が吹き飛ばされた。


「ダン!」


 ガイルの声が割れた。


 駆け寄ろうとした。


 その動きを、ヴァルグは待っていた。


 剣が、斜め下から来る。


 ガイルはとっさに斧の柄で受けたが、体勢が崩れていた。刃が肩口を深く裂く。血が散り、視界が一瞬白くなる。


 それでも、ガイルは倒れなかった。


 倒れれば、後ろが開く。


 だから、膝を震わせながら前へ出た。


「てめえ……」


 ヴァルグは無表情だった。


「守る者が多いほど、遅くなる」


「知ったような口を」


「事実だ」


 ガイルは斧を振る。


 重い一撃。


 ヴァルグは受け流す。


 もう一撃。


 避けられる。


 三撃目で、ガイルの傷が開いた。


 腕が鈍る。


 その鈍りを、ヴァルグは見逃さなかった。


 剣先がガイルの太腿を裂いた。


 今度こそ、膝が落ちかける。


 だが、ガイルは斧の柄を地面に突き立て、無理やり体を支えた。


「隊長!」


「前を見ろ!」


 ガイルは怒鳴る。


「俺を見るな! 荷を守れ!」


 部下たちは踏みとどまった。


 それでも、戦線は押されている。


 黒蛇の数は減っていない。林の奥からさらに現れる。薬草商たちは荷馬車の後ろで震え、騎士団は防壁を維持しているが、じりじりと下がらされていた。


 ダンは道端に倒れている。


 動かない。


 ガイルは見ないようにした。


 見れば、足がそちらへ向く。


 向けば、全員が崩れる。


 だから、見ない。


 見ないまま、血の味を噛みしめた。


 北街道第三橋で報告をまとめていたアランのもとへ、伝令が駆け込んできたのは、その少し後だった。


 伝令は馬から降りるなり、膝をついた。


「南薬草路、ガイル隊より急報!」


 アランは振り返った。


 伝令の顔に血がついている。自分の血ではない。返り血か、誰かを抱えた時についたものか。


「敵多数。黒蛇幹部らしき剣士出現。ガイル隊長、交戦中。薬草商を保護しつつ防戦。援軍要請」


 アランの目が細くなる。


「剣士の特徴は」


「長い黒髪、灰色の目。細身の剣。ガイル隊長が、ヴァルグの可能性ありと」


 空気が止まった。


 レムの表情が変わる。


 アランは一瞬だけ地図を見た。


 北街道は沈静化しつつある。東川港はゼイドが入っている。南薬草路は、静かすぎるとリィナが言った場所だ。


 本命は、そこだった。


「レム」


「はい」


「騎士団に北街道を任せる。僕たちは南へ向かう」


「承知しました」


 アランは伝令へ水袋を渡した。


「よく来てくれた。下がって休んで」


「まだ、戻れます」


「戻らなくていい。君の役目は届いた」


 伝令は唇を噛み、頭を下げた。


 アランは馬へ向かう。


 その背に、騎士隊長が声をかけた。


「殿下、こちらは」


「あなたに任せます。王太子府の青印通達を使って、通行を再開してください。黒蛇の文書と捕虜は王太子府へ」


「承知しました」


 アランは馬に飛び乗った。


 レムも続く。


 走り出す直前、アランは南の空を見た。


 胸の奥に、嫌な重さが沈んでいた。


 ガイルは強い。


 豪快で、無茶で、よく壊す。


 だが、守る時には絶対に退かない。


 だからこそ危ない。


「間に合って」


 呟きは、風に消えた。


 南薬草路では、ガイルがまだ立っていた。


 斧を杖のように使い、血に濡れた肩を押さえながら、それでも前にいる。


 ヴァルグは急がない。


 戦場はすでに傾いている。


 黒蛇は薬草商を殺しきっていない。荷も燃やしきっていない。わざと残している。ガイルが守るものを、目の前に置き続けるためだ。


「終わらせないのかよ」


 ガイルが息を切らして言う。


 ヴァルグは答えた。


「まだ、来ていない」


「誰を待ってやがる」


「銀の王子」


 ガイルの顔が変わった。


「てめえ」


「ここが本命だと知れば、必ず来る」


「来させるために、俺たちを」


「守る者を置けば、彼は来る」


 ガイルは大斧を握り直した。


 怒りで視界が赤くなる。


 だが、突っ込まない。


 突っ込めば、ヴァルグの思う通りだ。


 ガイルは血を吐くように笑った。


「残念だったな」


「何が」


「殿下は来る。だが、てめえの思い通りにはならねえ」


 ヴァルグは初めて、わずかに目を細めた。


「根拠は」


「俺たちがいる」


 ガイルは一歩前に出た。


「影狼は、殿下の道具じゃねえ。殿下が来るまで、ここを潰させねえためにいる」


 その声に、後ろの影狼たちが顔を上げた。


 騎士団も、薬草商も。


 疲れきった者たちの中に、わずかな力が戻る。


 ヴァルグは静かに剣を構えた。


「なら、折っておく」


 次の一撃は、これまでより鋭かった。


 ガイルは受けた。


 受けきれなかった。


 肩の傷が開き、斧の柄が軋む。膝が沈む。


 それでも、ガイルは歯を食いしばって立った。


 南薬草路の空に、遠く馬蹄の音が響き始める。


 アランたちが近づいている。


 だが、その音が届くまでのわずかな時間が、あまりにも長かった。


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