51話 閉じ始める道
王太子府の地図に、三つの札が置かれた。
北街道第三橋。
東川港。
南薬草路。
どれも、王都へ物と人が入るための道だった。
その三つが同時に揺れた。
偶然ではない。
部屋にいた誰もが、それを理解していた。
ルイは地図の前から動かず、伝令たちへ短く指示を飛ばしていく。
「北街道第三橋には騎士団第二隊を向かわせる。私兵同士の衝突を避けろ。武装集団を敵と決めつける前に、命令元を確認する」
「東川港はゼイド殿に任せる。水門の件とつながっている可能性がある。荷船を止めるな。ただし、船倉は確認する」
「南薬草路にはガイル隊を出す。薬草商を守り、宿場の安全を確保せよ。騎士団からも小隊をつける」
命令は速い。
だが、急ぎすぎてはいない。
ルイは、どこか一か所へ全力を向けることを避けた。黒蛇が望むのは、王都が慌てて片側へ傾くことだ。ならば、まずは均衡を保つ必要がある。
ランバール公爵は商会向けの通達文を広げた。
「王太子府の正式な荷止めには、青印と責任者名を必須とする。口頭命令のみの停止は、各外商窓口で照会。よろしいですな」
「それでいく」
ルイは頷いた。
「ただし、強い言葉は避けてくれ。商人に命じるのではなく、黒蛇の偽命令から守るためだと伝える」
「承知しました」
ミリアはその横で、通達の写しを作っていた。
筆の速度は速いが、文は乱れない。王都へ戻ったばかりの疲れは残っている。それでも、今ここで言葉を誤れば、街道の混乱がそのまま広がる。
彼女は一文を書き足した。
『正式な確認手続きは、商人と王太子府双方を守るためのものであり、正当な流通を妨げるものではない』
ランバール公爵が横から見て、短く頷いた。
「よい。商人は、止められることを恐れる。通れることを明記した方が動く」
「はい」
ミリアは次の写しへ移る。
その向かいでは、クラウディアが山岳領から王都へ入る薬草路の略図を示していた。
「南薬草路の宿場から先、王都へ入る表道は二つあります。ですが、薬草商は季節によって脇道を使います。今の時期なら、湿気を避けるため、低地の川沿いではなく丘道を選ぶことが多い」
ガイルが腕を組んで聞いていた。
大柄な体で地図を覗き込むと、机が狭く見える。
「つまり、黒蛇が宿場を押さえたなら、薬草商は脇へ逃げられるってことか」
「通常なら。ただし、その脇道の入口を知られていれば、逆に狩られます」
「なるほどな」
ガイルは笑った。
だが、笑い方は軽くない。
「じゃあ、宿場で派手に暴れるだけじゃ足りねえわけだ」
「足りません」
クラウディアの返答は即座だった。
ガイルは少しだけ眉を上げる。
「山の嬢ちゃん、はっきり言うな」
「山では、曖昧な返事は人を落とします」
「気に入った」
「私は使者です。あなたの部下ではありません」
「そこは俺も分かってる。殿下ほど物覚え悪くねえよ」
アランが横から言う。
「僕、そんな扱いだった?」
「はい」
クラウディアとレムの返事が重なった。
アランは少し困ったように笑った。
その短い空気の緩みは、すぐに消えた。
リィナが地図に小さな黒い札を置いたからだ。
「南薬草路、少し静かすぎる」
ガイルが顔を上げる。
「静か?」
「北街道は噂が多い。東川港も水門と絡んで騒がしい。でも南薬草路だけ、商人の悲鳴はあるのに噂が薄い」
「どういう意味だ」
「誰かが騒がせたい場所と、騒がせたくない場所を分けてる」
リィナの指が、北街道と東川港を叩く。
「こっちは王都に見せる火。こっちは……まだ隠したい火かもしれない」
ガイルは腕を組んだまま黙った。
アランも地図を見る。
南薬草路。
薬草の搬入路。宿場。丘道。山からつながる脇道。
重要ではある。
だが、王都を一気に揺らすなら、北街道や東川港の方が目立つ。
だからこそ、逆に隠しやすい。
「ガイル」
アランが言った。
「無理に押すな。まず薬草商と宿場の人を逃がすこと。敵の数が多ければ、騎士団と合流するまで待て」
「殿下、俺を何だと思ってます?」
「壊す人」
「否定できねえのが悔しいですね」
ガイルは豪快に笑った。
だが、すぐに表情を引き締める。
「分かりました。守るのが先。壊すのは後にします」
「できれば壊さないで」
「努力します」
ルイが横から言った。
「善処ではなく、努力か」
ガイルは真顔で答える。
「王太子殿下、それ以上は約束できません」
部屋にわずかな苦笑が生まれる。
だが、誰も長く笑わなかった。
三つの道が揺れている。
そのうち、どれが黒蛇の本命かはまだ見えない。
アランはガイルの肩を軽く叩いた。
「頼む」
「任せてください」
ガイルはそれだけ言い、部屋を出た。
その背中は大きい。
だからこそ、アランはわずかに不安を覚えた。
北街道第三橋は、王都へ入る荷馬車が必ず通る橋のひとつだった。
橋のたもとには、すでに二十台ほどの荷馬車が止められている。穀物袋、塩、布、木材。積み荷はばらばらだが、どれも王都に必要なものだ。
商会警備を名乗る武装集団は、橋の中央に柵を置いていた。
彼らは粗野な盗賊ではない。鎧は揃っていないが、動きには一定の訓練がある。先頭の男は、王太子府の確認待ちだと繰り返していた。
しかし、文書は出さない。
アランは騎士団第二隊と共に、少し離れた丘から状況を見ていた。
隣にはレムがいる。
「数は三十前後。橋の奥に弓が四。荷馬車の間にも数名」
「商会警備にしては多いね」
「はい。ですが、黒蛇と断定するには早い」
「そこが面倒だ」
アランはフードを下ろしたまま、橋を見る。
第二王子として名乗れば、場はすぐに動く。だが、それは黒蛇が望む形かもしれない。銀の王子が街道で武装集団を斬った、という噂に変えるのは簡単だ。
だから、まずは騎士団が前に出る。
騎士隊長が正式な王太子府の青印通達を掲げた。
「王太子府より確認する。荷止めの命令元、責任者名、文書を示せ」
武装集団の男は、少しだけ表情を強張らせた。
「こちらは貴族院筋の指示で」
「文書を示せ」
「混乱を避けるため、口頭で」
「王太子府通達により、口頭命令のみの荷止めは認められない。荷を通せ」
商人たちがざわめく。
男は舌打ちし、橋の奥へ視線を走らせた。
レムが低く言う。
「合図です」
「うん」
橋の奥にいた弓兵が動く。
その瞬間、アランは前に出た。
まだ剣は抜かない。
ただ、フードを外す。
銀髪が、街道の光を受けた。
武装集団の動きが止まる。
商人たちも息を呑んだ。
「第二王子殿下……」
誰かが呟いた。
アランは声を張らなかった。
それでも、橋のたもとには届いた。
「王太子府の正式な確認は今出された。荷を止めるなら、責任者名を出してほしい。出せないなら、退いて」
男は顔を歪めた。
「第二王子が街道に出るとは、やはり王太子府は」
「そこまで」
アランの声が少しだけ低くなった。
「今ここで、王太子府と僕を分ける言葉を使ったね。誰に教わった?」
男は答えない。
代わりに、橋の奥から煙が上がった。
黒い煙。
商人たちが騒ぎ出す。
「荷馬車に火を!」
「水を!」
混乱が起きる。
だが、騎士団はすでに動いていた。レムが橋の端へ走り、火をつけようとした男の手首を打つ。騎士たちが水袋を投げ、商人たちを後ろへ下げる。
アランは剣を抜かず、武装集団の責任者へ距離を詰めた。
男は短剣を抜く。
アランはその刃を避け、手首を掴み、地面へ押さえつけた。
殺さない。
ここでは、殺せば黒蛇の文になる。
「レム」
「確保しました」
「橋は」
「火は広がっていません」
アランは男の懐を探らせた。
出てきたのは、正式文書ではなく、小さな紙片だった。
そこには短く書かれている。
『王太子府は迷う。銀が出れば、橋は止まる』
署名はない。
だが、紙の端には小さな切れ込みがあった。
リィナが言っていた分類印に似ている。
「エリウス」
アランは低く呟いた。
男は笑った。
「名前を知っているなら、もう遅い」
「そう」
アランは紙片を折り、レムへ渡した。
「王太子府へ。リィナに」
「承知しました」
北街道第三橋は、その日のうちに通行を再開した。
だが、橋の周辺に残った不安は消えない。
銀の王子が現れた。
武装集団が王太子府の名を騙った。
荷馬車が燃やされかけた。
出来事は正しく伝えなければ、すぐに別の意味へ変わる。
アランはそれを分かっていた。
だからこそ、現場を騎士団へ引き渡した後、自分の名前を最小限にした報告を作らせた。
橋を開けたのは王太子府。
武装集団を捕らえたのは騎士団。
第二王子は確認に立ち会った。
それ以上は書かない。
同じ頃、東川港ではゼイドが水面近くの倉庫にいた。
彼は港の喧騒の中で、ほとんど存在しない影のように動いていた。荷船の船主たちが怒鳴り、役人が汗を拭き、港の人夫たちが足止めに苛立つ。その隙間を、黒い服の者が何人か歩いている。
水門点検を理由に荷船を止めていた者たちは、正式な役人ではなかった。
だが、完全な偽物でもない。
元は港役人の下働きだった者、商会の雇われ記録係、荷役組合の顔役。その立場を少しずつ使い、命令のように見せかけている。
ゼイドは、ひとりの男を倉庫裏へ引き込んだ。
声は出させない。
男の懐から出てきたのは、小さな木札だった。
王太子府のものではない。
だが、青く塗られている。
遠目には、正式な青印通達に見えるよう作られていた。
ゼイドはそれを見て、短く息を吐いた。
「浅い偽装だ」
だが、浅いからこそ広がる。
忙しい港で、遠目に青い印を見せられれば、多くの者は本物だと思う。
彼は木札を砕かず、布に包んだ。
証拠として残す。
水路の奥では、荷船の一隻に油壺が積まれていた。
船主は知らないと言った。
嘘ではない。顔を見れば分かる。
ゼイドは油壺を処理し、船主へ短く告げた。
「今日は船を動かすな。だが、荷を降ろすな。王太子府の正式確認が来る」
「何者だ、あんた」
「通りすがりだ」
それだけ言い、彼は倉庫の影へ消えた。
南薬草路へ向かうガイル隊は、王都を出た時から速度を落としていた。
ガイルは走りたかった。
だが、クラウディアから聞いた話と、リィナの「静かすぎる」という言葉が引っかかっている。
派手な騒ぎが少ない場所ほど、本命の可能性がある。
なら、いつものように突っ込むわけにはいかない。
「隊長、急ぎませんか」
若い影狼の隊員が尋ねる。
ガイルは馬上で鼻を鳴らした。
「急ぐ。だが、慌てねえ」
「珍しいですね」
「お前、後で覚えとけよ」
隊員は少し笑った。
その笑いが、ガイルには妙に耳に残った。
南薬草路は、王都を出てからしばらくは穏やかだった。
畑があり、小さな林があり、遠くに宿場の屋根が見える。薬草商の荷馬車も数台、道端で止まっていた。人々は不安そうだが、北街道のような騒ぎはない。
静かすぎる。
ガイルは馬を止めた。
「止まれ」
後続が止まる。
同行している騎士団小隊長が怪訝そうにする。
「どうされました」
「鳥がいねえ」
「鳥?」
「林に鳥の声がない。人が多すぎるか、何かいる」
小隊長の顔が変わった。
ガイルは大斧の柄に手をかける。
「薬草商を後ろへ。影狼は左右。騎士団は荷馬車を囲め」
命令を出した瞬間、林の奥で枝が揺れた。
矢が飛んでくる。
ガイルは大斧でそれを叩き落とした。
「来たぞ!」
林から黒衣の者たちが現れる。
数は多い。
だが、動きはまだ本隊ではない。足止めか、試し打ちか。
ガイルは大斧を肩に担ぎ、笑った。
「ようやく分かりやすくなったじゃねえか」
彼は前に出た。
ただし、突っ込みすぎない。
荷馬車を背にし、敵を受け止める位置で足を止める。
影狼の隊員たちが左右へ広がり、騎士団が薬草商を後方へ下げる。
ガイルは一人目を弾き飛ばし、二人目の剣を柄で折った。
その力に、敵が一瞬怯む。
だが、林の奥からさらに気配が増えた。
ガイルは目を細める。
「多いな」
若い隊員が横に来る。
「隊長」
「伝令を出せ。王太子府とアラン様へ。南薬草路、敵多数。ただし、まだ崩れてねえってな」
「はい!」
隊員が走る。
その背を見ながら、ガイルは前方の林を睨んだ。
そこには、まだ姿を見せない誰かの気配があった。
剣士の気配だ。
ただの黒蛇ではない。
重い。
冷たい。
ガイルは口元の笑みを消した。
「……こりゃ、当たりかもしれねえな」
林の影の奥で、長い黒髪が揺れた。
灰色の目をした男が、静かに道へ出る。
ヴァルグだった。
ガイルは大斧を構え直す。
「大物が来やがったか」
ヴァルグは答えない。
ただ、剣を抜いた。
南薬草路の静けさが、そこで完全に消えた。




