50話 王太子府の地図
ランバール家の外商門は、王都西側の商業区に面していた。
公爵家の正門とは違い、そこに華やかさはない。荷馬車が通れる広い門と、倉庫へ続く石畳。出入りするのは商人、帳簿係、荷運びの者たちだ。だからこそ、目立たず入るには向いている。
門番はミリアの顔を見るなり、驚きで背筋を伸ばした。
「お嬢様」
「大きな声を出さないで」
ミリアはすぐに言った。
その声は静かだったが、門番は反射的に口を閉じる。
荷馬車の影に、アラン、レム、クラウディア、ゼイドがいる。表から見れば、山から来た荷と護衛にしか見えない。アランの銀髪は外套のフードで隠されていた。
「父は?」
「王太子府に。奥様は屋敷にいらっしゃいます」
「では、母へ。山岳領からの使者文書と、私の記録を一時保管します。誰にも見せないように」
「承知しました」
門番はすぐに奥へ走る。
ミリアはようやく小さく息を吐いた。
王都に戻った。
石畳の匂い、遠くの馬車の音、商人たちの声。山とは違う空気だ。見慣れていたはずなのに、少しだけ遠く感じる。
アランが隣で低く言った。
「先にランバール夫人へ預ける?」
「はい。父が王太子府にいるなら、母の方が屋敷の中を動かせます」
「頼もしいね」
「父より怖い時があります」
「それは、頼もしいね」
軽い会話だったが、ミリアの顔には緊張が残っていた。
ほどなく、ランバール公爵夫人が奥から現れた。
彼女は娘の姿を見て、一瞬だけ足を止めた。泥の残る外套、紙束を抱える腕、山道で擦れた手袋。社交場に出る令嬢の姿ではない。
けれど夫人は、取り乱さなかった。
「ミリア」
「ただいま戻りました、母様」
「怪我は」
「大きなものはありません」
「小さなものはあるのですね」
「……はい」
夫人はわずかに目を細めた。
叱るのは後、と判断した顔だった。
「文書を」
ミリアは山岳領の承認印が押された封書と、自分の記録を差し出した。
「ヴァイスベルク山岳領から、王太子殿下への正式な使者文書です。こちらは私の控え。家名や場所は伏せています」
「分かりました。屋敷の内庫へ。外商帳簿扱いで入れます」
夫人はすぐに侍女へ指示を出した。
その動きに迷いはない。黒蛇が文書を狙うと知っているからだ。
クラウディアが一歩前に出る。
「クラウディア・ヴァイスベルクです。山岳領の使者として参りました」
夫人は丁寧に礼を返した。
「ランバール公爵夫人、エレノアです。遠路、お疲れ様でした。王太子府まではこちらで道を整えます」
「感謝します」
「ただし、王都の道は山より曲がっています」
「覚えておきます」
クラウディアの返事に、夫人は少しだけ微笑んだ。
その横で、アランはフードを少し下ろした。
「夫人。ご協力、感謝します」
「アラン殿下。お戻りをお待ちしておりました」
夫人はそれだけ言い、深くは尋ねなかった。
山で何があったか。ミリアが何を見たか。どれほど危険だったか。母として聞きたいことは山ほどあるはずだ。だが、今は王太子府へ文書を届ける方が先だった。
「王太子府へは裏馬車を使います。外商荷の確認として出せば、目立ちません」
「助かります」
アランは短く頭を下げた。
王都は開いている。
けれど、正面から歩けば、どこで誰の目に触れるか分からない。
その時点で、もう以前の王都ではなかった。
王太子府の執務室には、地図が広げられていた。
王都の内郭、外郭、東西の水門、北街道、南の穀物路、西の薬草搬入路、川港、橋、宿場町。各所に小さな札が置かれている。赤い札は黒蛇の工作が確認された場所。白い札は疑いのある場所。青い札は王太子府が確保している経路。
青は、まだ少なかった。
ルイは地図の前に立っていた。
ランバール公爵、近衛隊長、リィナ、そしてセリオ・グレイストンもいる。セリオは緊張した顔で、古い書類の束を抱えていた。
扉が開く。
アランが入ってきた。
ルイは顔を上げる。
しばらく、兄弟は何も言わなかった。
長い不在ではない。だが、この数日の重さは、ただの日数では測れない。
「戻ったか」
「はい、兄上」
それだけだった。
ルイは頷いた。
「山は」
「閉じませんでした」
「よくやった」
「僕だけではありません」
「分かっている」
ルイの視線が、ミリアとクラウディアへ向く。
ミリアは礼を取り、クラウディアも山の使者として礼を返した。膝はつかない。だが、無礼でもない。
「クラウディア・ヴァイスベルク。山岳領の使者として参りました。父エルンスト・ヴァイスベルクより、王太子殿下へ」
彼女は封書を差し出した。
近衛が受け取り、ルイへ渡す。
ルイはその場で封を切り、文面を読む。読み終えた後、静かに息を吐いた。
「山岳領の意志、確かに受け取った。兵ではなく、支援網として王太子府と連携する。そう理解してよいか」
「はい。山は、誰かの私兵にはなりません」
「それでいい」
ルイは即答した。
クラウディアの目がわずかに動く。
彼女は、王太子がもっと政治的な言い方をすると思っていたのかもしれない。
ルイは続けた。
「山の名と場所は、王太子府の公文書には載せない。必要な情報は役目として扱う。薬師、避難路、道番、鏡守。個別の家名は山岳領の承認なしには出さない」
「感謝します」
「こちらこそ、道を閉じなかったことに礼を言う」
クラウディアは少しだけ頭を下げた。
それ以上の言葉はなかった。
しかし、その短いやり取りだけで、王太子府の地図に新しい線が一本引かれた。
次にミリアが前へ出た。
「王太子殿下。山岳領での黒蛇の工作、支援家移し替え、道標改竄、ラウゼン経由の伝令線について記録を作成しました」
「読んだ上で確認する。今は要点を」
「黒蛇は、支援網を直接奪うだけでなく、道標や命令系統を曖昧にして、人々を誤った道へ進ませようとしています。山では道標の改竄。ラウゼン周辺では、偽の検問と曖昧な荷止め。王都周辺でも同じ手口が広がる可能性があります」
リィナが軽く手を上げた。
「もう広がってるよ」
彼女は地図の北西街道に白い札を置いた。
「商会警備を名乗る連中が荷を止めてる。命令元は曖昧。王太子府の名を出す時もあれば、貴族院の名を出す時もある。文書はなし」
セリオが続ける。
「偽文書がないのではなく、出す必要がないのかもしれません。口頭命令で混乱させ、責任を残さないやり方です」
アランは地図を見た。
「エリウスか」
リィナが片目を細める。
「名前、聞いたんだ」
「山でも報告は受けた。王立学院の元講師?」
「うん。エリウス・ノルヴァ。古文書と系譜が専門。人が紙をどう信じるかまで読んでくる、すごく面倒な先生」
「嬉しそうに聞こえる」
「嫌そうに言ったつもり」
リィナの声は軽い。
だが、目は真剣だった。
「この人、たぶん殿下を殺すより、殿下の周りの意味を変えたいんだと思う。山岳領の支援を『私兵化』に変える。ラウゼンの協力を『扇動』に変える。王都の荷止めを『王太子府の混乱』に変える」
ルイが静かに頷く。
「つまり、出来事そのものではなく、解釈を奪う」
「そういうこと」
リィナは地図の上に細い黒紐を置いた。
山岳領。
ラウゼン。
王都北西街道。
東水門。
文書庫。
王の寝所。
黒紐が、それらをゆるくつないでいく。
「全部を一気に攻めてるように見えるけど、目的は同じ。王都が何を信じればいいか分からなくすること」
アランは地図から目を離さない。
山で見た道標の改竄。
ラウゼンの偽検問。
王都の水門。
王の寝所。
文書庫。
黒蛇は道を閉じる前に、道の意味を壊している。
「兄上」
アランは言った。
「これは封鎖の前段階です」
部屋の空気が沈む。
ルイはすでに同じ結論に近づいていたのだろう。驚きはなかった。
「説明を」
「王都をいきなり囲めば、王太子府は外敵として対応できる。けれど、その前に街道と水路の命令系統を曖昧にされると、誰が敵か分からないまま荷が遅れる。商会が不安になり、貴族が私兵を動かし、民が買い占めに走る」
アランは白い札を指した。
「その状態で本当に武力が出てくれば、王都は最初から疲れている」
ランバール公爵が腕を組んだ。
「黒蛇は、包囲の前に王都を内側から痩せさせるつもりですな」
「はい」
近衛隊長が険しい顔で問う。
「では、全街道を騎士団で押さえますか」
「それをやると、黒蛇の思う通りになる場所もあります」
アランは首を横に振った。
「王太子府が全てを軍で管理し始めた、と見せられる。商人は余計に不安になる」
ルイが地図へ新しい札を置いた。
「必要なのは、封鎖ではなく確認だ。正規の命令系統を見えるようにする」
「はい」
ミリアが紙を取り出した。
「では、商会向けの通達を作ります。王太子府の正式命令には必ず青印を使う。口頭命令のみの荷止めは、近くの王太子府出張所かランバール家外商窓口へ照会する。貴族私兵が検問を行う場合も、責任者名を記録する」
ランバール公爵が頷く。
「ランバール家の商会網を使おう。王太子府の名だけでは、疑う者もいる。公爵家の商取引として流せば早い」
クラウディアが地図の北西を指した。
「山側から来る薬草路は、しばらく表の道を避けます。ヴァイスベルクの使者として、迂回路の一部を王太子府へ示します。ただし、詳細は限定してください」
「もちろん」
ルイはクラウディアへ頷いた。
リィナは黒紐を指で弾いた。
「私はエリウスの紙を追う。文書庫、学院、薬室推薦状、偽印。先生がどこで何を切り取ったか、逆にたどる」
セリオが小さく手を上げる。
「グレイストン家の旧記録も、照合に使えます。銀狼印の偽造だけでなく、古誓約の文言がどこから取られたか、見比べられると思います」
声は震えていた。
だが、逃げてはいない。
ルイは彼を見る。
「セリオ殿。危険は増す」
「承知しています」
「それでも協力を?」
「はい。私たちの家の記録が使われたなら、私たちが正すべきです」
ルイは静かに頷いた。
「感謝する。護衛はつける」
「お願いします」
そこで、アランが口を開いた。
「影狼は分けます」
部屋の視線が集まる。
「リィナは情報班でエリウスを追う。ゼイドは水路と裏道。ガイルは街道と倉庫周辺。レムは僕と共に、王都内の黒蛇拠点を探る」
リィナが眉を上げた。
「ガイルに街道?」
「力で押す場所が必要になる。だけど単独では動かさない。騎士団と組ませる」
「本人は喜びそうだけど」
「壊しすぎないように伝えて」
「伝えるだけは伝える」
アランは少しだけ困った顔をした。
その様子に、部屋の空気がわずかに緩む。
だが、すぐにルイが引き締めた。
「影狼の分散は認める。ただし、王太子府の表の命令系統と衝突しないようにする。騎士団、貴族私兵、影狼。それぞれが別の命令で動けば、それこそ黒蛇に利用される」
「分かっています」
「アラン」
ルイの声が少しだけ低くなった。
「無理をするな」
部屋が静かになった。
アランは兄を見た。
その一言には、王太子としての命令だけではなく、兄としての心配が混じっている。
「努力します」
「善処ではなく?」
「努力です」
「少し怪しいな」
「兄上まで」
短いやり取りだった。
それだけで、二人の間に余計な疑いがないことが伝わる。
黒蛇がどれほど紙を書き換えても、この距離までは簡単に変えられない。
そこへ、王太子府の伝令が駆け込んできた。
「殿下、北街道より急報です」
ルイが振り返る。
「読め」
「王都北街道、第三橋付近にて、商会警備を名乗る武装集団が荷馬車を停止。王太子府の確認待ちと称し、穀物車を押収しようとしています。近隣の貴族私兵も集まり、現場は混乱」
続けて、別の伝令が入る。
「東川港からも報告。水門点検を理由に、一部の荷船が不当に停船。命令書なし。船主が抗議し、揉めています」
さらに三人目。
「南薬草路の宿場で、黒蛇と思われる者が薬草商を脅迫。王都への搬入を遅らせています」
地図の上に、白い札が三つ置かれた。
北街道。
東川港。
南薬草路。
王都へ続く道が、同時に揺れている。
ルイは迷わなかった。
「近衛は王城と水門を維持。騎士団は北街道第三橋へ。ランバール公爵、商会連絡を。リィナ、噂の出所を追え。ゼイドは川港。ガイルを呼べ。南薬草路へ向かわせる準備をさせる」
命令が一気に走る。
アランは地図を見つめた。
黒蛇の封鎖は、もう始まっている。
まだ包囲ではない。
だが、王都へ続く道が、一本ずつ絡め取られようとしている。
ルイがアランを見る。
「行けるか」
「はい」
アランは短く答えた。
「王都は、まだ閉じていません」
「閉じさせるな」
「もちろんです」
王太子府の地図の上で、札が増えていく。
その一つ一つが、これから向かう戦いの場所だった。




