49話 帰還の道
出発の朝、ヴァイスベルク山岳領には薄い霧が降りていた。
城館の石段は夜露で濡れ、遠くの峰は白く霞んでいる。鐘は鳴らない。見送りの声も大きくはない。山の者たちは、必要な荷を黙って確認し、馬の口を押さえ、外套の留め具を締めていた。
アランたちが王都へ戻る道は、表街道ではない。
旧街道からラウゼン方面へ抜け、そこでフォルン家の伝令線を確認する。その後、王都北西の旧門へ向かう。遠回りだが、黒蛇に読まれにくい。
エルンスト・ヴァイスベルクは、石段の上で一行を見ていた。
隣にはクラウディアが立っている。山の外套をまとい、短弓と細剣を携えた姿は、王都の使者というより山道の守り手そのものだった。
「クラウディア」
「はい」
「王都で膝をつくな」
「承知しています」
「ただし、礼は忘れるな」
「分かっています」
父娘の会話は短い。
それでも、そこには確かな信頼があった。
エルンストは次にアランへ視線を向ける。
「殿下。娘は山の使者です。あなたの配下ではありません」
「分かっています」
「何度でも言う」
「何度でも聞きます」
アランがそう返すと、クラウディアがわずかに眉を上げた。
「慣れてきましたね」
「山では同じことを三回確認されるって学んだから」
「まだ二回です」
「では、三回目は王都で」
軽い返しだったが、場の空気は少しだけ和らいだ。
ミリアは、その横で封書と記録紙を確認していた。ヴァイスベルクの承認印が押された文書、山岳領支援網の被害と移し替えに関する報告、王太子府へ提出する要約。どれも家名や具体的な場所は伏せてある。
書かないことで守る。
山で学んだばかりのことだった。
エルンストがミリアの手元を見た。
「ランバール令嬢」
「はい」
「山の名を守れ」
「必ず」
「だが、黒蛇の罪は伏せるな」
「それも、必ず」
エルンストは短く頷いた。
「よい」
それだけだった。
ミリアは深く礼を取る。
王都の社交場なら、もっと長い言葉が必要になる。けれど、山では違う。短い言葉の中に、重さがある。
アランは最後に城館を振り返った。
ラウゼンの笛。
グレイストンの記録。
ヴァイスベルクの山道。
どれも軍ではない。
だが、王都へ続く道を支えている。
「行こう」
アランの声で、一行は霧の中へ入った。
先頭はクラウディアと山道番。
続いてアラン、ミリア、レム。少し離れてゼイドが後方を警戒する。影狼の数は少ない。山の道では、多すぎる護衛はかえって目立つからだ。
旧街道は、ところどころ石畳が崩れていた。
馬で急げる道ではない。濡れた岩を避け、倒木を越え、谷沿いの細い道を進む。ミリアは何度か足を取られかけたが、今度は無理に隠さなかった。危ないと思えば手を伸ばし、休むべき時は休む。
レムは何も言わず、必要な時だけ支える。
それが以前よりも少しだけ自然になっていた。
「ミリア嬢」
アランが振り返る。
「大丈夫?」
「大丈夫です。今度は本当に」
「その言い方は少し怪しい」
「怪しければ、レムさんが止めてくださいます」
「確かに」
レムは淡々と頷いた。
「無理をすれば、止めます」
「味方が厳しい」
「殿下にも同じです」
「もっと厳しかった」
短いやり取りの後、ミリアは少しだけ笑った。
その笑みを見て、アランの表情も緩む。
山での緊張は、まだ消えていない。王都のことも気がかりだ。それでも、こうして軽く言葉を交わせるだけで、一行の足取りはわずかに安定した。
昼前、山道番が足を止めた。
道の先に、古い道標がある。
苔むした石に、狼の爪跡のような印が刻まれていた。だが、その下に、新しい傷がある。刃物で削られた細い線。山の者でなければ気づかないほど小さい。
クラウディアが膝をつく。
「向きが変えられています」
「道標を?」
「はい。古い印の意味を知らない者が見れば分かりませんが、支援家なら右の谷道へ進む。そこが落石地帯に変えられている」
レムの目が鋭くなる。
「黒蛇ですか」
「おそらく」
アランは道標を見た。
大きな襲撃ではない。
だが、こういう細い手が人を殺す。
アランは指で削られた跡をなぞり、すぐに手を離した。
「直せる?」
「今ここで完全には。ただ、次の者が間違えないようにはできます」
クラウディアは腰の短剣を抜き、石の横に別の印を刻んだ。狼の印ではない。山の支援家が使う、危険を知らせる小さな横線だ。
山道番が草を結び、道の端へ置く。
それだけで、知る者には十分らしい。
ミリアはその作業を見ながら、控えに短く書き足した。
「これも王太子府へ?」
アランが問う。
「詳細な位置は伏せます。ですが、黒蛇が道標の改竄を始めたことは報告すべきです」
「うん。王都の街道でも同じことをするかもしれない」
クラウディアが顔を上げた。
「王都の街道標は、山のものほど細かくありません」
「だから、もっと多くの人が騙される」
アランの声は静かだった。
道標を直し、一行は進む。
夕方近く、山の霧が薄れ、ラウゼンへ続く丘陵が見え始めた。
町の外壁には、まだ戦いの跡が残っている。焼け焦げた門の一部、修理中の柵、荷馬車の車輪跡。だが、町は生きていた。煙は炊事の煙であり、悲鳴ではない。広場には布が干され、子どもが桶を運んでいる。
ラウゼンの門前で、一行を出迎えたのはイレオンだった。
彼は以前より少し顔色が良い。だが、無理をしているのはすぐに分かった。隣にはエレナが立っている。銀の笛は首から下げているが、吹くことはなかった。
「お戻りになられたのですね」
イレオンが礼を取る。
アランは軽く首を振った。
「戻ったというより、通る途中かな。山は閉じなかった」
その一言で、イレオンの顔に安堵が広がった。
「ヴァイスベルクが」
「兵は出していない。けれど、支援網は守られた。クラウディア・ヴァイスベルクが王都へ使者として同行する」
クラウディアが一歩前に出る。
「クラウディア・ヴァイスベルクです。ラウゼンの笛の家にご挨拶を」
エレナが少し緊張したように礼を返した。
「フォルン家のエレナです。笛は、まだ上手く吹けません」
「吹かない判断ができるなら、それも役目です」
クラウディアの言葉に、エレナは驚いたように瞬きをした。
アランはそれを見て、小さく笑った。
山の者は厳しい。
だが、必要なところをよく見ている。
町の庁舎へ入ると、ラウゼン側の報告が待っていた。
リィナの王都情報ほど細かくはない。だが、街道を通る商人や旅人から集めた話は、今の王都周辺の空気をよく示していた。
イレオンが地図を広げる。
「王都北西の旧街道で、荷馬車の検問が増えています。正規の騎士団ではありません。商会警備を名乗る武装集団です」
「黒蛇の可能性は?」
アランが問う。
「高いです。ただ、表向きは盗賊対策となっています」
「水路は?」
「東水門の件以降、川港周辺で荷止めが増えています。こちらも誰が命じたものか曖昧です」
ミリアは記録を取りながら顔を上げた。
「曖昧な命令が増えているのですね」
「はい」
イレオンは頷いた。
「王太子府の名を出す者もいれば、貴族家の私兵を名乗る者もいる。正規の印がないものも多い」
クラウディアが地図を見て、眉を寄せる。
「山の道標と同じですね」
「どういうことですか」
「正しい道のすぐ横に、似た印を置く。知らない者はそちらへ進む」
アランは黙って地図を見つめた。
王都を閉じる準備は、すでに始まっている。
門を閉ざすのではない。
道の意味を曖昧にする。
誰が命じたのか、どこを通ればいいのか、何が正しいのか分からなくする。
黒蛇らしいやり方だった。
「ラウゼンから王都へ伝令を出せる?」
アランが問う。
エレナが銀の笛に手を添えたが、すぐに首を横に振った。
「笛は使いません。まだ、目立ちすぎます」
「うん」
「ですが、フォルン家の旧伝令なら出せます。町の薬売りに扮して、王都北西門へ」
イレオンが続ける。
「王太子府へ直接?」
「直接ではなく、ランバール家の外商窓口へ。そこから王太子府へ回します」
ミリアが頷いた。
「父の屋敷なら、受け取れます。公的文書ではなく、商会報告として入れれば目立ちません」
「では、それで」
アランは決めた。
「内容は、曖昧な検問の増加、荷止め、偽の命令系統。それから、山道標の改竄と同種の手口である可能性」
「アラン様のお名前は?」
イレオンが尋ねる。
「出さない」
即答だった。
「王太子府へは、ミリア嬢とクラウディアの文書が行く。ラウゼンからの情報はラウゼンのものとして出した方がいい」
「承知しました」
イレオンは深く頷いた。
エレナは、そのやり取りをじっと見ていた。
「殿下」
「何?」
「笛は、いつか吹くことになりますか」
部屋の空気が少しだけ静かになった。
アランは答えを急がなかった。
「分からない」
彼は正直に言った。
「でも、吹くなら、君が必要だと思った時だ。僕が吹けと命じるためのものじゃない」
エレナは笛を握る手に力を込めた。
「はい」
その声はまだ弱い。
だが、以前より逃げていなかった。
夜、アランはラウゼンの庁舎の屋上に立っていた。
町は静かだった。あの戦いの日の煙も、怒号もない。遠くに見える街道には、点のような灯りがいくつか動いている。商人か、旅人か、黒蛇か。遠すぎて分からない。
背後に足音がした。
ミリアだった。
「休まなくてよいのですか」
「それは僕の台詞じゃない?」
「私は少し休みました」
「少し」
「はい」
アランは苦笑する。
「レムに聞かれたら怒られるよ」
「アラン様もです」
「それは困る」
並んで、二人は王都の方角を見た。
見えるはずのない王都が、夜の先にある。
「王都へ戻れば、また騒がしくなりますね」
ミリアが言った。
「うん。黒蛇も待っているだろうし」
「エリウスという名も」
「情報戦の相手か。リィナが喜びそうで、少し怖い」
「喜ぶのでしょうか」
「たぶん、面倒くさいと言いながら目が笑ってないと思う」
ミリアは想像して、少しだけ笑った。
その笑いはすぐに消える。
「アラン様」
「うん」
「王都で、あなたの立場はまた揺らされると思います」
「そうだね」
「山岳領、ラウゼン、古い誓約。黒蛇はそれらを、あなたが王太子殿下を脅かす材料に変えようとする」
「うん」
「それでも、戻るのですね」
アランは町の灯りを見下ろした。
「兄上がいるから」
短い答えだった。
だが、ミリアにはそれで十分だった。
「では、私も戻ります」
「危ないよ」
「知っています」
「王都では、君を巻き込むことが増える」
「もう、巻き込まれているだけではありません」
ミリアは静かに言った。
「私も、自分で戻ると決めています」
アランは彼女を見た。
ミリアの横顔は、山へ向かった時より少しだけ強く見えた。剣の腕ではない。覚悟を大げさに語る強さでもない。ただ、自分の役目を見つけた者の顔だった。
「そっか」
アランはそれ以上止めなかった。
止められないことを、もう知っていた。
翌朝、一行はラウゼンを発った。
イレオンは伝令を別に出し、エレナは門の上から見送った。銀の笛は鳴らない。代わりに、町の鐘が一度だけ小さく鳴った。日常の始まりを告げる鐘だ。
それでよかった。
王都へ向かう道は、以前より騒がしかった。
途中の宿場では、荷馬車が足止めされていた。理由を尋ねると、「王太子府の確認待ち」と言う者と、「貴族院の命令」と言う者がいた。どちらも文書を持っていない。
アランは表に出ず、ミリアとクラウディアが話を聞いた。
ランバール家の名を出すと、商人たちは口を開いた。ヴァイスベルクの使者が同行していると知ると、山から来る薬草の遅れについても話が出た。
記録は増えていく。
同時に、黒蛇の手がどこに伸びているかも見えてきた。
夕刻、王都の北西外郭が見えた。
高い城壁。
遠くに見える尖塔。
門前にはいつもより多い兵が立っている。検問の列も長い。
アランは馬上からそれを見つめた。
戻ってきた。
けれど、出発した時と同じ王都ではない。
見た目は変わらない。
壁も門も、まだ開いている。
だが、その周囲には目に見えない糸が張られ始めている。
レムが低く言った。
「正門から入りますか」
「いや」
アランは首を横に振った。
「ランバール家の外商門へ回る。クラウディアの使者文書とミリア嬢の記録を先に安全な場所へ入れる」
「殿下は」
「僕も一緒に行くよ。王太子府へは、兄上が用意した道で入る」
クラウディアが少し驚いたように見る。
「王子が正門を避けるのですか」
「王都では、正しい道ほど目立つことがある」
「山と同じですね」
「そう。少し山に詳しくなった」
クラウディアは小さく息を吐いた。
「まだ入口です」
「厳しいな」
アランは笑い、馬首を少し西へ向けた。
王都の灯りが近づく。
その灯りの中に、黒蛇の毒も潜んでいる。
だが、山は閉じなかった。
ラウゼンも折れていない。
王都も、まだ閉じてはいない。
ならば、戻る意味はある。
アランたちは正門の列を避け、夕闇の中、ランバール家の外商門へ向かった。




