5話 駄王子、影の扉を開く
翌日の午後、ランバール公爵邸に一通の招待状が届いた。
それは正式な貴族の書簡としては奇妙なものだった。封蝋は押されている。紙質も悪くない。筆跡も丁寧で、文面だけを見ればどこかの貴族家から届いた茶会の案内のようにも見える。だが、差出人の名はなかった。家紋もない。あるのは、封蝋に刻まれた小さな蛇の紋だけだった。
白い紙の上に黒い蛇。
それを見た瞬間、ミリア・ランバールは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
侍女は不安そうに彼女の顔を見ている。
「ミリア様、いかがなさいますか。お父上様へお届けいたしましょうか」
いつもなら、そうするべきだった。
匿名の招待状。しかも、昨日の脅迫状に続く不審な文書である。公爵家の令嬢として、これを一人で抱えるなど愚かな判断だ。父に渡し、警備を強め、差出人を調べさせる。それが正しい。
だが、ミリアはすぐには頷けなかった。
脅迫状が届いた夜から、彼女の中で何かが変わり始めている。昨日、香水商の前で見た黒髪の男。灰色の瞳。アランが初めて見せた、冗談ではない表情。あの男が何者なのか、ミリアはまだ知らない。だが、彼が自分を見ていたことだけは分かる。
見られた。
選ばれた。
罠の中へ招かれている。
その感覚があった。
ミリアは封を開けた。
中には短い文章が書かれていた。
『真実を知りたいなら、今宵、旧聖セリア礼拝堂跡へ。白薔薇は、影の中でこそ美しく咲く』
それだけだった。
時刻も、差出人も、細かな説明もない。だが、場所は明記されている。旧聖セリア礼拝堂跡。王都の西南区にある古い礼拝堂で、今は使われていない場所だ。かつては小さな信仰の場だったが、王都の再整備で新しい大聖堂が建てられてからは放置され、今では荒れた建物だけが残っている。
人目につきにくい場所。
誘い出すには、これ以上ない場所だった。
侍女の顔が青ざめる。
「ミリア様、これは明らかに危険です。すぐに旦那様へ」
「ええ。危険ね」
ミリアは静かに答えた。
自分でも驚くほど声は落ち着いていた。
「だからこそ、誰が何のために私を呼んでいるのかを確かめる必要があります」
「まさか、行かれるおつもりですか」
「一人では行きません」
「そういう問題ではございません」
侍女の声には本気の焦りがあった。幼い頃からミリアのそばにいる侍女である。主の性格もよく分かっている。ミリアが一度決めたことを簡単には曲げないことも。
ミリアは招待状を折りたたんだ。
「お父様へは伝えます」
侍女が安堵しかけた時、ミリアは続けた。
「けれど、その前にもう一人、知らせるべき方がいます」
「もう一人……?」
「アラン殿下です」
その名を口にした瞬間、侍女は驚いたように目を見開いた。
ミリア自身も、その判断が自然に出てきたことに少しだけ驚いていた。昨日までなら、アランに頼るという選択肢など考えもしなかっただろう。だが今は違う。
父はアランを、国を守るという一点において信じていると言った。
アラン自身も、何かを隠している。だが、その隠し事の奥にあるものが、単なる怠惰や保身ではないことを、ミリアはもう感じ始めていた。
そして何より、この招待状は自分だけではなく、アランにも向けられている。
駄王子の近くにいれば、あなたも影に呑まれる。
白薔薇は、影の中でこそ美しく咲く。
相手は明らかに、アランと自分の関係を利用しようとしている。
ならば、彼に知らせずに動くことはできない。
「王城へ使いを出して。アラン殿下に直接渡るように。内容は、私が本日中にお会いしたいとだけ伝えて」
「かしこまりました」
侍女が部屋を出ていく。
ミリアは一人になった部屋で、招待状を見つめた。
恐怖はある。
だが、それよりも強いものがある。
知らないままではいられない。
自分の婚約が、父の判断が、アランの仮面が、王国の影とどう繋がっているのか。そこに踏み込まなければ、自分は何一つ選べない。ただ誰かに守られ、誰かに隠され、誰かの意図の中で動かされるだけになる。
それは、嫌だった。
ミリアは窓の外に咲く白薔薇を見た。
風に揺れている。
美しく、静かで、棘を持つ花。
「私は、ただ飾られるために咲いているわけではないわ」
小さな声は、誰にも聞こえなかった。
同じ頃、王城の西棟では、アラン・ヴァルタインが珍しく自室にいた。
彼の自室は第二王子の部屋としては十分に豪華だったが、実際にはほとんど生活感がない。高価な家具は揃っている。壁には王族らしい装飾もある。だが、本棚に並ぶ書物の多くは表向きの趣味を装うためのもので、実際によく使われる資料や地図は隠し棚の中にある。部屋そのものが、彼の仮面の一部だった。
アランは机に肘をつき、リィナから届いた報告書を読んでいた。
香水商の裏帳簿。馬車屋への資金流入。西区のならず者を動かした仲介役。昨日の黒塗りの馬車の経路。すべてが少しずつ線になり始めている。だが、肝心の黒蛇幹部ヴァルグへの直接的な証拠はまだない。
相手は慎重だ。
そして、こちらの動きを測っている。
扉が叩かれた。
「アラン様」
レムの声だった。
「入って」
レムが入室し、一礼する。その手には封書があった。
「ランバール公爵邸より使者が参りました。ミリア様が、本日中に殿下とお会いしたいとのことです」
アランは報告書から目を上げた。
「理由は」
「使者は知らされておりません。ただ、緊急性があるように見受けられます」
アランは短く息を吐いた。
来たか、と思った。
黒蛇が何もしないはずがない。昨日、ヴァルグが直接姿を見せた時点で、次の一手は早いと予想していた。だが、よりによってミリアを直接動かす形を選んでくるとは。
「リィナは?」
「すでに公爵邸周辺の監視を強化しています。不審な魔力痕も確認中です」
「ゼイドには旧市街方面を洗わせて」
「旧市街ですか」
「勘だよ」
アランは立ち上がった。
レムは一瞬だけ主の顔を見た。
「殿下。ミリア様に、どこまでお話しになるおつもりですか」
その問いに、アランはすぐ答えなかった。
部屋の窓からは、王都の屋根が見える。光に照らされた街並み。表向きには穏やかな国。だが、その下には黒蛇が這い回っている。そして、ミリアはすでにその蛇の視線を受けている。
隠し続ければ守れると思っていた。
だが、彼女は隠されれば隠されるほど、自分の足で真実に近づこうとする。ならば、何も知らせないことが本当に安全なのか。
答えは、もう出かけていた。
「すべては話さない」
アランは静かに言った。
「だが、何も話さないわけにもいかない」
「影狼の名は」
「まだ出さない」
そう言ってから、アランは少し苦笑した。
「いや、出すことになるかもしれないね。彼女は多分、そこまで聞いてくる」
「ミリア様なら、聞かれるでしょう」
「本当に厄介な婚約者候補だ」
「そうおっしゃる割には、嫌そうではありません」
レムの声は淡々としていた。
アランは目を瞬かせ、次に苦い笑みを浮かべた。
「レム、最近少し辛辣じゃない?」
「主が鈍い場合、副官は多少辛辣になるものです」
「僕は鈍くないよ」
「では、ご自覚がおありで?」
「何の?」
「いえ。今はよろしいかと」
レムは深く一礼した。
アランは不審そうに彼女を見たが、追及しなかった。今はその余裕がない。
「ミリア嬢には王城ではなく、東庭園の離れで会う。人目が少なく、逃げ道も確保できる。表向きは婚約に関する私的な面会でいい」
「承知しました」
「それと、ルイ兄上には」
「すでに報告済みです」
「仕事が早い」
「副官ですので」
レムはそれだけ言い、静かに退室した。
アランは机の上の報告書を見下ろす。
黒蛇。
ヴァルグ。
ミリア・ランバール。
線は絡み合い、少しずつ王国の中心へ向かっている。
アランは軽く目を閉じた。
兄上の国を守る。
そのために、誰にも知られず影に立つと決めた。笑われてもいい。軽蔑されてもいい。理解されなくてもいい。その覚悟は変わっていない。
だが、ミリアの真っ直ぐな瞳を思い出すと、胸の奥にわずかな揺らぎが生まれる。
彼女は、ただ遠ざけられることを望まない。
ならば、こちらも彼女をただの守るべき対象として扱うことはできないのかもしれない。
アランは上着を手に取った。
「さて」
いつもの軽い笑みを口元に戻す。
「駄王子らしく、婚約者候補に怒られに行くとしよう」
王城東庭園の離れは、表の客人がほとんど訪れない場所だった。
元は王妃の休息用に造られた小さな建物で、現在は季節の花を楽しむための私的な空間として使われている。周囲には背の高い生垣が巡らされ、遠くからは中の様子が見えにくい。警備も自然に配置できるため、密談には向いていた。
ミリアがそこへ案内された時、アランはすでに待っていた。
白い卓の前で、彼は紅茶を眺めている。昨日までと同じように気怠げな姿勢。だが、今日は最初から空気が違った。彼の周囲にある緩さは、薄い布のようにしか見えない。その奥に隠された鋭さを、ミリアはもう知り始めている。
アランは彼女を見ると、いつものように微笑んだ。
「今日も会えるとは光栄だね、ランバール嬢。婚約前からこれほど頻繁に会っていたら、王都の噂好きたちは大喜びだ」
「その噂のせいで、こちらは少々困っております」
「それは申し訳ない。僕の評判が悪すぎるばかりに」
「自覚がおありなら、少しは改めてください」
「努力はしているんだけどね」
「しているようには見えません」
「見えない努力こそ尊いものだよ」
軽口はいつも通りだった。
だが、ミリアはそれに流されなかった。彼女は静かに椅子に座り、持参した封書を卓の上に置いた。
アランの目が、その封蝋を捉える。
黒い蛇。
彼の表情から、わずかに温度が消えた。
「開けたのか」
「はい」
「内容は」
「旧聖セリア礼拝堂跡へ来い、と。真実を知りたいなら、今宵」
アランは手を伸ばし、封書を取った。中の文面に目を通す。その間、彼は何も言わなかった。
沈黙が落ちる。
ミリアはその沈黙を破った。
「これは、昨日の黒髪の男と関係がありますね」
「どうしてそう思う?」
「昨日、あなたがあの男を見た時、表情が変わりました。あの男も、あなたを見ていました。偶然道ですれ違った者同士の視線ではありません」
「君は本当によく見ている」
「褒め言葉として受け取ってよろしいのですか」
「心から」
アランは封書を置いた。
軽い笑みは消えている。
「行くつもりだった?」
「一人では行きません」
「質問に答えて」
その声は静かだったが、強かった。
ミリアは正面から彼を見返した。
「あなたに知らせた上で、行くつもりでした」
「罠だと分かっていて?」
「はい」
「危険だと分かっていて?」
「はい」
「自分が狙われていると分かっていて?」
「分かっています」
アランは深く息を吐いた。
「君は賢いのか無謀なのか、時々分からなくなるね」
「無謀だけではありません。私は、自分が何に巻き込まれているのかを知る必要があります」
「知らなくていい」
「その言葉は聞き飽きました」
ミリアの声が少し強くなる。
アランは黙った。
「アラン殿下。私は確かに戦えません。あなたの侍女のように剣も扱えませんし、昨日の大柄な方のように力があるわけでもありません。ですが、考えることはできます。判断することもできます。王国のために何が必要なのかを見極める覚悟もあります」
「その覚悟が、君を危険に近づける」
「危険から遠ざけられたままでは、覚悟など何の意味もありません」
離れの中に、風の音が微かに響いた。
アランはミリアを見た。
真っ直ぐな瞳だった。そこに恐怖がないわけではない。だが、恐怖だけで退くつもりはない目だ。父に守られ、家に飾られ、政略の道具として置かれるだけの令嬢ではない。彼女は自分の足で立とうとしている。
だから危うい。
そして、だから強い。
アランは少しだけ目を伏せた。
「旧聖セリア礼拝堂跡は、黒蛇の接触場所として使われた形跡がある」
ミリアの息がわずかに止まる。
アランは続けた。
「昨日君が見た黒髪の男は、黒蛇の幹部と見ている。名はヴァルグ。冷静で、腕の立つ剣士だ。僕もまだ直接刃を交えたことはないが、油断できる相手ではない」
「黒蛇……」
「王国転覆を狙う秘密組織だ。貴族、商会、犯罪組織、外部勢力。どこまで根を張っているかはまだ分からない。君の婚約話は、彼らにとって利用価値のあるものになった」
ミリアは指先を握った。
ついに、名前が出た。
黒蛇。
王国の闇に潜む敵。
自分が今まで見えなかったものが、言葉を与えられたことで急に現実味を帯びる。
「では、昨日の荷車も」
「君を攫うか、傷つけるか、あるいは僕の出方を見るための罠だった可能性が高い」
「温室の給仕の少年は」
「盗聴用の魔道具を仕込まされていた。本人は脅されていただけだ」
ミリアはゆっくり息を吸った。
予想していた。
だが、実際に聞くと、胸の奥が冷える。
昨日までの自分は、すぐ近くにある危険を知らずにいた。アランはそれを見ていた。防いでいた。そして、何もなかったかのように笑っていた。
「なぜ、言ってくださらなかったのですか」
「君を巻き込みたくなかった」
「もう巻き込まれています」
「そうだね」
アランは否定しなかった。
その素直な返答に、ミリアは少し戸惑った。
「だから、今日は話している」
「これで全部ですか」
「まさか」
アランは苦笑した。
「全部話すには、君はまだ危険の外側にいる。いや、外側にいてほしいというのが僕の本音だ」
「また遠ざけるのですね」
「遠ざけたいよ」
その言葉は、あまりにも正直だった。
ミリアは黙った。
アランは彼女を見ていた。
「君は強い。賢く、真っ直ぐで、責任感がある。だからこそ、黒蛇にとっては利用価値がある。君が動けば、ランバール公爵家が動く。君が傷つけば、王家と公爵家の関係が揺れる。君が僕に近づけば、彼らは僕の影を探ろうとする」
「あなたの影とは何ですか」
問いは、まっすぐだった。
アランは答えなかった。
ミリアは続ける。
「昨日も今日も、あなたの周囲には普通ではない方々がいました。レムさんだけではありません。大剣の男性、小柄な少女、姿の見えない誰か。あの方々は何者ですか。あなたは何を指揮しているのですか」
「それを聞けば、戻れなくなる」
「私はもう、知らない頃には戻れません」
アランの目がわずかに細くなる。
ミリアは逃げなかった。
長い沈黙の後、アランは静かに言った。
「影狼」
その言葉は、離れの中に低く落ちた。
「かげろう?」
「王国の闇を守る極秘組織だ。表には存在しない。王国防衛、犯罪組織排除、国家転覆の阻止、裏切り者の調査。そういったものを、表の騎士団や政務機関では動けない場所で処理している」
ミリアは瞬きを忘れた。
影狼。
王国の闇を守る秘密部隊。
そんなものが存在しているなど、聞いたことがない。公爵家の娘である自分でさえ知らない。だが、思い返せば、すべてが繋がる。昨日動いていた者たち。アランの不自然な偶然。父が言った、国を守るという一点で信じている、という言葉。
「あなたは、その組織とどういう関係なのですか」
アランは微笑んだ。
いつもの軽い笑みではない。
少しだけ諦めたような、静かな笑みだった。
「君は、もう答えに近づいているだろう」
「……指揮しているのですか」
「そうだ」
ミリアは息を呑んだ。
駄王子。
王家の恥。
無能な第二王子。
そう呼ばれている男が、王国の闇を守る極秘組織を指揮している。
あまりにも信じがたい話だった。
だが、目の前のアランを見ていると、不思議と嘘には思えなかった。むしろ、ようやく彼の中にある矛盾が形を持ったように感じた。
「では、あなたはずっと……」
「大げさに考えない方がいい」
「茶化さないでください」
「茶化さないと、少し重すぎる」
アランは小さく笑った。
だが、ミリアは笑えなかった。
彼を見る目が変わっていく。
夜会で軽薄に笑っていた第二王子。令嬢たちに囲まれ、貴族たちから侮られていた男。その姿が、今までとはまったく違って見える。
彼は笑われることで、隠れていたのか。
侮られることで、動きやすくしていたのか。
ルイ王太子が光の中で国を背負うために、自分は影に立つと決めていたのか。
「なぜ、そこまで」
ミリアの声は、自然と小さくなった。
「あなたは第二王子です。本来なら、もっと別の形で国に関われたはずです。なぜ、わざわざ駄王子などと呼ばれる道を」
アランは窓の外を見た。
庭園には午後の光が差している。白い花が風に揺れ、遠くでは噴水の音がしていた。
「兄上が王になるべきだから」
答えは短かった。
だが、それだけで十分だった。
「ルイ兄上は、民に見られるべき王だ。正しく、誠実で、公明正大で、人々が未来を託せる方だ。僕はそうじゃない。僕は、人に見せるには少しばかり暗いものを見すぎている」
「そんなことは」
「あるよ」
アランは穏やかに言った。
ミリアの反論を遮る声ではなかった。ただ、事実を置くような言葉だった。
「国を守るには、光だけでは足りない。表で裁けない悪意がある。法の隙間をすり抜ける毒がある。証拠が揃う前に人が死ぬこともある。そういうものを処理する役目が必要だった」
「だから、あなたが?」
「兄上にはさせられない」
その一言に、アランのすべてが込められている気がした。
兄を守るため。
兄の国を守るため。
自分が汚れ役になることを選んだ。
ミリアの胸に、言葉にならない感情が広がった。昨日までの軽蔑が、ただ消えたわけではない。彼のやり方をすべて正しいと思ったわけでもない。隠されていたことへの怒りもある。危険から遠ざけるという名で、自分を何も知らない場所に置こうとしたことへの不満もある。
けれど、それでも。
彼をただの駄王子と断じていた自分の浅さに、頬が熱くなった。
「私は、あなたを誤解していました」
ミリアは静かに言った。
アランは少し驚いたように彼女を見る。
「いや、誤解されるようにしていたのは僕だ」
「それでも、私は見ようとしませんでした。噂と表面だけで判断していました」
「君の判断は自然だよ。僕はそう見えるように振る舞っている」
「だからといって、私の言葉があなたを傷つけなかったことにはなりません」
アランは目を伏せた。
昨日、夜会で彼女から言われた「残念です」という言葉。それは確かに胸に残っていた。だが、それを彼女が気にするとは思っていなかった。
「強い人だね、君は」
「また話を逸らしています」
「いや、今度は本当にそう思った」
アランは小さく笑った。
その笑みは、少しだけ柔らかかった。
だが、穏やかな時間は長く続かなかった。
離れの外で、鳥が一斉に飛び立つ音がした。
レムが扉の向こうから静かに声をかける。
「アラン様」
その一言で、空気が変わった。
アランはすぐに立ち上がる。ミリアも反射的に身を固くした。
「何人?」
「確認できるだけで三名。庭園外周に不審な気配。リィナからの合図では、陽動の可能性あり」
「ヴァルグか?」
「不明です」
アランはミリアを見た。
「ここから動かないで」
「私も」
「駄目だ」
即答だった。
ミリアは言い返そうとしたが、アランの目を見て口を閉ざした。先ほどまでとは違う。これは拒絶ではない。状況判断だ。今、自分が不用意に動けば足手まといになる。
その事実を、ミリアは受け入れた。
「分かりました」
アランの目に、わずかな驚きが浮かぶ。
ミリアは悔しさを抑えながら言った。
「私は戦えません。今動けば邪魔になることくらい分かります。ですが、後で説明はしていただきます」
「約束する」
アランはそう答えた。
そして、扉へ向かう。
その背は、もう駄王子のものではなかった。
歩幅は静かで、重心は低く、いつでも剣を抜ける。銀の髪が揺れ、彼の青い瞳には冷たい光が宿っている。ミリアはその姿を見て、初めて理解した。
彼は隠していたのではない。
封じ込めていたのだ。
自分自身を。
離れの外では、すでに影が動いていた。
庭園の生垣の向こうから黒衣の男が飛び出す。手には短剣。だが、その刃が離れに届く前に、レムの細剣が軌跡を描いた。金属音が響き、男の短剣が弾き飛ばされる。
「王城の庭で刃を抜くとは、礼儀を知らない方ですね」
レムの声は冷たかった。
別の男が背後から回り込もうとする。だが、その足元に小さな投擲具が刺さり、男は体勢を崩した。生垣の上にリィナが座っている。
「こっちも見えてるよ。隠れるなら、もっと上手くやりなよ」
三人目の男は逃げようとした。
だが、影から現れたゼイドに首元を押さえられ、音もなく地面に伏せられる。
あまりにも速い。
あまりにも静か。
ミリアは窓越しにその光景を見ていた。
これが影狼。
王国の闇を守る者たち。
そして、その中心に立つのがアラン。
彼は剣を抜いていなかった。いや、抜く必要がなかった。周囲の動きを一目で把握し、誰に何をさせるべきかを判断している。レムが前を押さえ、リィナが逃げ道を塞ぎ、ゼイドが捕らえる。すべてが彼の視線ひとつで噛み合っていた。
やがて、騒ぎは終わった。
ほんの数分にも満たない出来事だった。
アランは庭園の端へ歩いていき、捕らえられた男の袖から小さな紙片を抜き取る。それを見た瞬間、彼の表情が険しくなった。
離れの中へ戻ってきた時、ミリアはすぐに尋ねた。
「何があったのですか」
「黒蛇の下働きだ。目的はおそらく、君が招待状を僕に見せたかどうかの確認」
「では、ここに来ることも読まれていたのですか」
「可能性はある」
アランは紙片を卓に置いた。
そこには、蛇の紋と短い文字が記されていた。
『白薔薇は扉を開いた』
ミリアは顔色を変えた。
「私のせいで」
「違う」
アランは強く言った。
「君のせいじゃない。黒蛇が君を利用しようとしているだけだ」
「ですが、私が招待状を持ってここへ来たから」
「正しい判断だった」
ミリアは目を上げた。
アランは真剣な表情で彼女を見ていた。
「一人で動かなかった。僕に知らせた。父上にも知らせるつもりでいた。危険な中では、それが最善に近い判断だ」
「……あなたは、私を叱るのかと思っていました」
「叱りたい気持ちはある」
「あるのですね」
「大いにある」
アランは少しだけ表情を緩めた。
「でも、君は約束を守った。誰かに知らせた。だから、今はそれを評価する」
ミリアは不思議な気持ちになった。
守られるだけではない。
叱られるだけでもない。
彼は今、自分を一人の判断する人間として見ている。
そのことが、思っていた以上に胸に残った。
「アラン殿下」
「何かな」
「今夜の礼拝堂へは」
「行く」
彼は即答した。
「ただし、君は連れて行かない」
ミリアは反論しようとしたが、アランが先に続けた。
「これは君を軽んじているからではない。今夜の場所は戦闘になる可能性が高い。君が行けば、こちらは君を守ることに戦力を割く。結果的に全員を危険にする」
ミリアは唇を引き結んだ。
悔しい。
だが、理屈は分かる。
感情だけで反論すれば、それこそ自分が未熟だと示すことになる。
「では、私は何をすればよいのですか」
アランは少し驚いたように見た。
ミリアは続ける。
「行くなと言うなら、代わりに私がすべきことを教えてください。ただ待つだけなら、私は納得できません」
アランはしばらく黙った。
そして、ゆっくりと言った。
「ランバール公爵に、今日のすべてを話して。招待状も、ここでの襲撃も、黒蛇の名も。公爵はある程度知っているが、君自身の口から伝えることに意味がある」
「父に」
「それから、公爵邸の出入り業者の名簿を確認してほしい。特に香水商、馬車屋、仕立屋。この三つと取引のある家や商会。君なら、公爵家側の資料に触れられるはずだ」
ミリアは目を見開いた。
「それは、私に調査を手伝えということですか」
「無茶をしない範囲で、だ」
「信用してくださるのですか」
「信用し始めている」
アランは少し困ったように笑った。
「だから、裏切らないでほしい。危険だと思ったら、必ず知らせる。独断で敵に近づかない。手紙が届いたら隠さない。これが条件だ」
ミリアはゆっくり頷いた。
「約束します」
「本当に?」
「私を何だと思っているのですか」
「白薔薇」
「棘で刺しますよ」
「それは困る」
二人の間に、わずかに笑みが生まれた。
だが、その笑みの奥には確かな緊張がある。
もう、昨日までとは違う。
ミリアはアランの秘密の一端を知った。影狼の名を知り、黒蛇の存在を知った。そして、アランが駄王子の仮面の下で何を背負っているのかを、ほんの少しだけ見た。
戻れない扉を開いた。
それを、二人とも理解していた。
その夜、旧聖セリア礼拝堂跡には月光が落ちていた。
崩れた天井から差し込む銀の光が、割れた石床を照らしている。古びた聖者像は顔を失い、壁には蔦が絡みついていた。かつて祈りの場だったそこには、今は静かな闇だけが満ちている。
礼拝堂の中央に、一人の男が立っていた。
長い黒髪。
灰色の瞳。
黒蛇幹部、ヴァルグ。
彼は静かに目を細めた。
「来たか」
礼拝堂の入口に、アランが立っていた。
夜会で見せる緩んだ礼装ではない。動きやすい黒を基調とした衣装に、王族の紋章を隠す外套。腰には細身の剣。彼の背後には、レム、ゼイド、そして少し離れてガイルの気配がある。リィナはすでに別の場所で周囲を押さえている。
アランは軽く笑った。
「招待状をもらったのは僕ではなかったはずだけどね」
「白薔薇を呼べば、駄王子が来ると思っていた」
「期待に応えられて嬉しいよ」
「本当に駄王子なら、ここには来ない」
ヴァルグの声は冷静だった。
「そして、ただの王子なら、その目はしない」
アランの笑みが薄くなる。
月光の下で、二人の視線が交わった。
灰色と青。
蛇と狼。
王国の闇で、ついに二つの影が向き合った。
「お前は何者だ、アラン・ヴァルタイン」
ヴァルグが問う。
アランは剣の柄に手を添えた。
そして、静かに笑った。
「ただの駄王子だよ」
その瞬間、礼拝堂の闇が動いた。
黒蛇の刃が、影狼へ襲いかかる。
王都の夜は、静かに戦いの幕を開けた。




