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4話 影の名を問う令嬢

 翌朝、ミリア・ランバールは普段より早く目を覚ました。


 まだ夜の名残が窓辺に残っている時刻だった。薄い青灰色の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の輪郭だけを静かに浮かび上がらせている。王都の貴族街はまだ眠っており、馬車の音も、人々の声も聞こえない。ただ庭の木々を揺らす微かな風と、遠くで鳴いた鳥の声だけが、朝の訪れを告げていた。


 寝台の上で身を起こしたミリアは、しばらく動かなかった。


 眠った、という感覚はほとんどない。目を閉じていただけだ。昨夜、机の上に置かれていた差出人不明の手紙。その短い一文が、彼女の頭から離れなかった。


 駄王子の近くにいれば、あなたも影に呑まれる。


 脅迫なのか。警告なのか。あるいは、あえて不安を煽るためのただの悪戯なのか。


 普通に考えれば、すぐ父に報告すべきだった。公爵家の令嬢である自分に匿名の手紙が届いたのだ。しかも内容は、王家との婚約に関わる不穏なもの。放置してよいはずがない。


 だが、ミリアは昨夜、その手紙を引き出しにしまった。


 それが正しい判断ではないことは分かっている。だが、父へ渡せば、間違いなく自分は遠ざけられる。詳しい説明もないまま護衛だけが増え、外出は制限され、何が起きているのかを知る機会は閉ざされるだろう。父はミリアを守るためにそうする。だからこそ、余計に始末が悪い。


 守られるだけでは、何も見えない。


 そして今のミリアは、見えないまま従うことに耐えられなかった。


 彼女は寝台を降り、机の前へ向かった。引き出しを開ける。折りたたまれた紙片は、昨夜と同じ場所にあった。


 ミリアはそれを取り出し、改めて広げた。


 整った文字だった。荒々しさはない。脅迫状にしては妙に静かで、必要な言葉だけを選んでいる。紙は上質だが、貴族の書簡に使われるような紋入りではない。香料の匂いもない。封蝋もない。届けた者の痕跡を極力消す意図が見える。


 駄王子。


 影。


 その二つの言葉だけが、不自然なほど強く目に残る。


「影に呑まれる……」


 ミリアは小さく呟いた。


 影という言葉が何を指しているのか。王城の陰謀か。黒い噂か。あるいは、アランの周囲で動いている者たちか。


 昨日の荷車の件を思い出す。


 横転した荷車。道を塞いだ位置。腰に手を伸ばした男。即座に動いたアランの周囲の者たち。大剣を軽々と扱う豪快な男。人混みに紛れて何かを調べていた小柄な少女。いつの間にか消え、いつの間にか戻っていた黒髪の侍女。そして、見えなかったはずなのに、どこかにいた気配のない誰か。


 あれは偶然ではない。


 断言できる。


 しかし、それを誰にどう説明すればよいのか。ミリアが見たものは、どれも確かな証拠にはならない。人々の目には、ただ第二王子が偶然通りかかり、荷車事故が片付けられただけに見えただろう。


 アランは何もしていないように見えた。


 だが、彼がそこにいたから、すべてが動いた。


 その事実を、ミリアはどうしても無視できなかった。


 彼女は手紙を再び折りたたみ、小さな布袋に入れた。今度は引き出しではなく、自分の身につけるために。


 その時、扉の向こうから侍女の声がした。


「ミリア様、お目覚めでしょうか」


「ええ。入って」


 侍女が入室し、朝の支度が始まった。髪を整え、淡い色のドレスを選び、装飾を控えめにまとめる。鏡の中の自分は、いつも通りの公爵令嬢に見えた。背筋を伸ばし、感情を抑え、周囲に隙を見せないよう育てられた令嬢。


 だが、内側は昨日までとは違っている。


 ミリアは今日、父にただ反発する娘でいるつもりはなかった。アランを軽蔑するだけの令嬢でいるつもりもなかった。


 見極める。


 そのために、自分の目で動く。


 朝食の間へ向かうと、父はすでに席に着いていた。


 ランバール公爵は、娘の顔を見るとすぐに何かを察したようだった。彼は昔からそういう人だった。ミリアが子どもの頃、嘘をついてもすぐ見抜かれた。怒鳴ることはない。ただ静かに問いかけ、こちらが自分の言葉で答えるまで待つ。だからこそ、ミリアは父を尊敬してきた。


 今も、その眼差しは変わらない。


「よく眠れなかったようだな」


「はい」


 ミリアは正直に答えた。


「昨日のことを考えていました」


「アラン殿下のことか」


「それもあります」


 父は紅茶の杯を置いた。


「何かあったのか」


 鋭い問いだった。


 ミリアは一瞬迷った。ここで手紙のことを話せば楽になる。父ならば適切に対処するだろう。だが、同時に自分は蚊帳の外へ追いやられる。


 彼女は父の目を見た。


「お父様。ひとつ、お尋ねしてもよろしいですか」


「何だ」


「お父様は、アラン殿下をどう見ておられるのですか」


 公爵はすぐには答えなかった。


 予想していた沈黙だった。だが、その沈黙がやはり答えの一部なのだと、ミリアは思った。父は何かを知っている。少なくとも、アランを単なる駄王子とは見ていない。


「以前にも言ったはずだ。人は表に見えているものだけで判断すべきではない」


「それは、アラン殿下には表に見えていないものがある、という意味ですか」


「多くの人間には、表に見えていないものがある」


「お父様」


 ミリアは少しだけ声を強めた。


 父のはぐらかし方は、アランのそれとは違う。アランは軽さで逃げる。父は重さで隠す。だが、どちらもこちらに真実を渡すつもりがないという点では同じだった。


「私はもう、ただ言われた通りに婚約を受け入れることはできません。ですが、ただ反発するだけでもいけないと分かっています。ですから、知りたいのです。お父様が何を見て、この婚約を必要だと判断されたのかを」


 公爵は娘を見つめた。


 その目には、微かな痛みがあった。


「ミリア。知るということは、安全な場所から眺めることではない」


「分かっています」


「いや、お前はまだ分かっていない。知れば、知る前には戻れない。見なかったことにはできない。自分には関係がないと言って逃げることもできなくなる」


「それでも、知らないまま利用されるよりはましです」


 公爵の表情がわずかに変わった。


 ミリアは続けた。


「私は公爵家の娘です。王国の未来に関わる婚姻ならば、逃げるつもりはありません。ですが、その意味を知らされず、ただ駒のように置かれることには納得できません」


「駒ではない」


 公爵の声が低くなった。


 その響きに、ミリアは父が本当に怒ったのだと分かった。彼が怒ったのは、娘が逆らったからではない。自分が娘を駒のように扱っていると思われたことが、彼にとって耐え難かったのだろう。


「私はお前を駒として差し出すつもりはない」


「でしたら、教えてください」


「今はできない」


「なぜですか」


「お前を守るためだ」


 ミリアは唇を噛んだ。


 やはり、その答えになる。


 守るため。


 だが、守るという言葉は時に檻になる。善意の形をしているからこそ、破りづらい檻になる。


「お父様は、アラン殿下も私を守ろうとしていると思われますか」


 その問いに、公爵は初めて明確に沈黙した。


 ミリアの胸が小さく鳴る。


 父は、そこに何かを見ている。


「昨日、王都で偶然アラン殿下とお会いしました」


 ミリアは手紙のことは伏せたまま、言葉を選んだ。


「私の馬車の前で荷車が横転し、道が塞がれました。そこにアラン殿下が現れました。殿下はただ偶然菓子を買いに来たとおっしゃいましたが、私はそうは思えません。あの場には、殿下の周囲の者たちがいました。荷車の周辺で何かが起きていました。私は、何か危険なことがあったのではないかと思っています」


 公爵は静かに聞いていた。


「お父様は、この件をご存じですか」


「報告は受けている」


「誰からですか」


「答えられない」


「アラン殿下ですか」


「答えられないと言った」


 ミリアは手を握った。


 答えられない。


 それは、否定ではない。


 彼女の中で、アランを巡る輪郭がまた少し変わった。


「お父様は、私をアラン殿下と婚約させることで、何を守ろうとしているのですか」


 公爵は深く息を吐いた。


 そして、ようやく言った。


「国だ」


 短い言葉だった。


 だが、その重さは、朝食の間全体を沈ませるには十分だった。


「国……」


「詳しいことは言えない。だが、王国の表に見えている不安だけが問題ではない。病に伏す陛下、政務を担うルイ殿下、派閥争い、周辺諸国の動き。それらは目に見える問題だ。しかし今、この国には目に見えない毒が回り始めている」


 ミリアは息を呑んだ。


「それが、アラン殿下と関係しているのですか」


「関係している」


「では、あの方は」


「ミリア」


 父は静かに娘の名を呼んだ。


 そこから先は言えないという明確な線だった。


 ミリアはその線を感じながらも、引くことができなかった。


「私は、アラン殿下を信用してよいのですか」


 公爵は少しだけ目を伏せた。


 それは父として、娘に言葉を選んでいる顔だった。


「人として簡単に信用しろとは言わない。あの方は、多くを隠す。お前に対しても、おそらく正直ではないだろう」


「では」


「だが、国を守るという一点において、私はあの方を信じている」


 ミリアは言葉を失った。


 ランバール公爵がここまで明確に誰かを評価することは少ない。まして、世間で駄王子と呼ばれている第二王子について、国を守るという一点で信じているとまで言った。


 父は何を見たのか。


 ミリアはその答えを知りたかった。けれど同時に、これ以上父を問い詰めても答えは返ってこないと分かっていた。


「分かりました」


 ミリアは静かに言った。


「では、私は私の目で確かめます」


「危険な真似はするな」


「危険かどうかを判断するためにも、何が起きているかを知る必要があります」


「ミリア」


「私は無茶をするつもりはありません。ですが、知らないまま黙っているつもりもありません」


 父は厳しい顔で娘を見た。


 だが、止める言葉はなかった。おそらく、娘がこうなることも予想していたのだろう。ミリアは、父に似ている。納得できないことを、そのまま飲み込める性格ではない。


 やがて公爵は小さく言った。


「一つだけ約束しなさい」


「何でしょうか」


「本当に危険だと思った時は、自分一人で抱えるな。私でも、アラン殿下でもいい。必ず誰かに知らせろ」


 ミリアは少し迷った。


 だが、父の声に込められた心配を無視することはできなかった。


「約束します」


 公爵は頷いた。


 それ以上、二人は手紙についても、黒蛇についても、アランの真の姿についても語らなかった。


 だが、ミリアは確かに一歩、知らない場所へ足を踏み入れた。


 その日の午前、王城では王太子ルイの執務が続いていた。


 執務室には、各地の報告が積まれている。北部街道の補修計画、南方領の穀物収穫量、東境の小競り合い、王都内の治安報告。表の王国は今日も問題を抱えており、ルイはそのひとつひとつに目を通さなければならなかった。


 だが、彼の意識の一部は別のところにあった。


 弟であるアランのことだ。


 昨日の王都西区での出来事は、夜のうちに報告を受けている。ミリア・ランバールを狙った可能性の高い攫取未遂。黒蛇の関与。ヴァルグらしき男の目撃。


 事態は想定より早く進んでいる。


 扉が叩かれた。


「入れ」


 ルイが許可すると、アランが入ってきた。


 その姿は、いつものように気の抜けたものだった。片手にはまた菓子の袋がある。王太子執務室に入るには少々気楽すぎる格好で、見張りの騎士が眉をひそめるのも当然だった。


「兄上、朝の糖分補給にどうぞ。王都西区で買った菓子です。昨日はなかなか騒がしい買い物になりましたが、味は保証します」


「お前は騒がしい場所に自分から行ったのだろう」


「たまたまです」


「お前のたまたまは、毎回出来すぎている」


 ルイは文官たちに退出を命じた。


 扉が閉まる。


 アランは菓子の袋を机に置き、軽さを少しだけ消した。


「ミリア嬢に脅迫状が届いた可能性があります」


 ルイの表情が変わった。


「可能性?」


「公爵邸の警備網から、昨夜不審な出入りは確認されていません。ただ、彼女の部屋周辺に微量の魔力痕があった。転移ではなく、紙片か小物を短距離で移動させる程度の簡易術式です。リィナが屋敷外壁の魔力残滓を拾いました」


「内容は」


「まだ不明です。ミリア嬢本人が手紙を隠している可能性が高い」


 ルイは深く息を吐いた。


「あの令嬢なら、そうするだろうな」


「兄上もそう思いますか」


「彼女は聡明で責任感が強い。加えて、納得しないまま従う性格ではない。お前と違ってな」


「僕は結構従順ですよ」


「従順な人間は、兄の執務室で菓子を食べながら王国の裏組織を動かしたりしない」


「それは確かに」


 アランは苦笑した。


 ルイは弟を見た。


「ミリア嬢に話すつもりはあるのか」


「ありません」


 即答だった。


 ルイは眉を寄せる。


「いつまで隠す」


「できる限り」


「それでは、彼女は自分で探ろうとする」


「でしょうね」


「分かっていて隠すのか」


「話せば、もっと危険になります」


 アランの声は静かだった。


 ルイはその言葉の奥にあるものを理解していた。アランが恐れているのは、自分の正体が知られることだけではない。ミリアが影狼や黒蛇の存在を知った時、彼女がただ守られる側に留まらないことだ。彼女の性格なら、きっと自分にできることを探す。危険だと分かっていても、王国のために踏み込もうとする。


 だからアランは隠す。


 だが、その隠し方が正しいとは限らない。


「アラン」


 ルイは静かに言った。


「お前は彼女を守ろうとしている。それは分かる。だが、相手を何も知らない場所に置いたまま守ることが、常に正しいとは限らない」


「兄上までそう言いますか」


「私は兄としても、王太子としても言っている。信頼は、一方的な保護だけでは成り立たない」


 アランは黙った。


 彼もそれを分かっている。分かっているからこそ、答えが出ない。


 ミリアは鋭い。昨日の時点ですでに、アランがただの駄王子ではないと見抜きかけている。これ以上隠し続ければ、彼女は疑念を深め、独自に動くだろう。それは危険だ。


 だが、真実を明かせば、彼女は引き返せなくなる。


 どちらも危険なら、どちらを選ぶべきか。


「ミリア嬢は、今日どこへ?」


 ルイが尋ねる。


「表向きは屋敷で過ごす予定です。ただ、リィナの読みでは午後に貴族街の書庫か香水商へ向かう可能性があります」


「なぜ香水商だ」


「噂の発信源の一つです。彼女なら昨日の噂の流れに違和感を覚えてもおかしくない」


「先に手を打て」


「打っています」


 アランはいつもの軽い笑みを戻した。


「午後、偶然にも僕は貴族街で帽子を買う予定です」


「今度は帽子か」


「駄王子にも装いは大切ですから」


「お前の偶然は本当に忙しいな」


 ルイは呆れたように言ったが、その目にはわずかな心配が残っていた。


「無茶はするな」


「兄上こそ。今日の評議では財務卿がまた面倒な話を持ち出すはずです。北部街道の予算を削ろうとするでしょうが、あれを削ると冬に物流が詰まります」


「お前が表の政務にも詳しすぎることを、そろそろ隠す気はないのか」


「たまたま耳に入りました」


「また、たまたまか」


 ルイは小さく笑った。


 アランも笑う。


 二人の間には、言葉にしなくても通じるものがあった。表と裏。光と影。王太子と駄王子。世間がどう見ようとも、この兄弟だけは互いの本質を知っている。


 アランが執務室を出る直前、ルイが声をかけた。


「アラン」


「はい」


「彼女を守れ」


 アランは振り返らなかった。


 ただ、静かに答えた。


「そのつもりです」


 午後、ミリアは馬車に乗らず、侍女を一人だけ連れて貴族街を歩いていた。


 もちろん護衛は離れた位置にいる。公爵令嬢が完全に無防備で外出することはない。だが、あえて目立つ馬車を使わなかったのは、昨日のような形で動きを読まれることを避けるためだった。


 目的地は、中央通りにある香水商。


 昨日侍女から聞いた噂の発信源の一つであり、貴族家の侍女や令嬢がよく訪れる店だ。ミリア自身も何度か利用したことがある。店主は人当たりがよく、流行にも詳しい。つまり、情報が集まりやすく、広がりやすい場所だった。


 通りには午後の光が差していた。石造りの建物が並び、窓辺には色とりどりの布や装飾品が飾られている。貴族街に近い区域だけあって、行き交う人々の服装も洗練されていた。


 香水商の扉を開けると、鈴の音が小さく鳴った。


 店内には花と香料の混ざった甘い香りが漂っている。棚には細工の美しい小瓶が並び、奥では店主が丁寧に客へ説明していた。


「これはミリア様。ご来店いただき光栄にございます」


 店主はすぐに気づき、深く礼をした。


 ミリアは穏やかに微笑む。


「新しい香りを見たいと思って。少し時間をいただけるかしら」


「もちろんでございます。先日入荷した東方の白花を使った香りがございます。ミリア様にはきっとお似合いかと」


 店主の態度は自然だった。


 だが、ミリアはその目の動きを見ていた。自分が店に入った瞬間、彼は一瞬だけ入口の外を見た。誰かを確認するように。


 やはり、何かある。


 ミリアは香水瓶を手に取りながら、何気ない口調で尋ねた。


「最近、王都では噂が早いようね」


 店主の指がわずかに止まった。


「噂、でございますか」


「ええ。私とアラン殿下のことも、ずいぶん早く広まっているようだから」


「そのような噂が……私ども商人は、貴族の皆様のお話に軽々しく口を挟むことはございません」


「そう。それは安心したわ」


 ミリアは微笑んだまま、香水瓶を棚へ戻した。


「でも、ここには多くの家の侍女が訪れるでしょう。誰かが話していれば、耳に入ることもあるのではなくて?」


 店主は額に薄く汗を浮かべた。


「恐れながら、私どもは商売に集中しておりますので」


「そう」


 ミリアはそれ以上追及しなかった。


 店主が何かを隠していることは分かった。だが、ここで問い詰めても意味はない。証拠もないまま圧力をかければ、相手は口を閉ざすだけだ。


 その時、店の奥から若い女が出てきた。


 店員にしては身なりが良すぎる。貴族令嬢の侍女か、それとも商家の娘か。淡い灰色のドレスを着たその女は、ミリアに礼をした。


「ミリア様におかれましては、ご婚約の噂、誠におめでとうございます」


 店内の空気が一瞬止まった。


 侍女が警戒する。


 ミリアは女を見た。


「まだ正式な発表ではありません」


「失礼いたしました。ですが、皆様もうご存じのようで。才女と名高いミリア様が、あのアラン殿下と結ばれるなど、王都ではずいぶん話題になっております」


 言葉は丁寧だった。


 だが、その奥には毒がある。


「あの、とはどういう意味かしら」


 ミリアが静かに尋ねると、女は口元に笑みを浮かべた。


「申し訳ございません。ただ、少し心配になりまして。アラン殿下には、あまり良くない噂もございますでしょう。怠惰で、軽薄で、王家の恥だとおっしゃる方も」


「あなたは、そう思っているの?」


「まさか。私はただ、世間の噂を」


「世間の噂を口にする時、人は自分の責任を軽くできますものね」


 ミリアの声は冷たかった。


 女の笑みがわずかに強張る。


「失礼いたしました」


「いいえ。こちらこそ、ひとつ勉強になりました」


 ミリアは香水瓶を一つ選び、侍女へ渡した。


「これをいただくわ」


 店主が慌てて会計の準備をする。


 ミリアはその間、女から目を離さなかった。女は丁寧に頭を下げている。だが、その指先が落ち着きなく動いていた。緊張している。あるいは、何かを待っている。


 店を出ようとした時、通りの向こうから騒がしい声が響いた。


「おや、これは奇遇だね。昨日に続いて今日も会うとは、僕たちはよほど王都に愛されているらしい」


 ミリアはゆっくりと振り向いた。


 アラン・ヴァルタインが、帽子屋の包みを片手に立っていた。


 昨日は菓子。今日は帽子。


 そのあまりに白々しい偶然に、ミリアは思わず無言になった。


「アラン殿下」


「ランバール嬢。香水を買いに?」


「ええ。殿下は帽子を?」


「そう。駄王子にも装いは大切だからね」


「昨日は菓子を買いに来たとおっしゃっていましたね」


「今日は帽子だ。明日は靴かもしれない」


「ずいぶんお忙しい駄王子ですこと」


「暇を持て余しているからこそ、忙しく見えることをしているんだよ」


 ミリアは冷ややかに彼を見た。


 だが、アランの視線は一瞬だけ香水商の店内へ向いていた。女を見たのだろう。店主も、女も、明らかに動揺している。


 ミリアはその視線に気づいた。


「殿下」


「何かな」


「また偶然ですか」


「もちろん」


「では、偶然ついでに教えてください。あの店には何がありますか」


 アランは微笑んだ。


「香水があるね」


「それ以外です」


「美しい香りと、少しばかり鼻につく噂話かな」


 ミリアの目が細くなる。


 今の言葉は、冗談の形をしているが、店に何かあることを認めたも同然だった。


「あなたは、どこまで知っているのですか」


「君が思っているより少しだけ」


「では、私が知らないことを教えてください」


「それはできない」


「なぜですか」


「君を危険から遠ざけるためだ」


「私はもう危険の近くにいます」


 ミリアは静かに言った。


 アランの表情がわずかに変わる。


「昨夜、私の部屋に手紙が届きました。差出人はありません。内容は、あなたの近くにいれば影に呑まれる、というものでした」


 アランの目から、完全に笑みが消えた。


 ほんの一瞬だった。


 だが、その一瞬で、ミリアは確信した。


 彼は知っている。


 自分の周囲で何が起きているかを。影という言葉が何を意味するのかを。そして、その手紙がただの悪戯ではないことを。


「なぜ黙っていた」


 低い声だった。


 ミリアは息を呑んだ。


 それは駄王子の声ではなかった。軽薄な男の声でもない。命令に慣れた者の声。危険を前にした者の声だった。


「話せば、私は遠ざけられると思いました」


「当然だ」


「だからです」


「ミリア嬢」


 初めて、アランが彼女の名を少し強く呼んだ。


「それは賢い判断ではない」


「承知しています。ですが、何も知らされないまま守られることも、賢い状態とは思えません」


 二人の間に沈黙が落ちた。


 通りには人がいる。だから、声を荒げることはできない。だが、二人の空気は明らかに張り詰めていた。


 アランは目を伏せた。


「君は本当に厄介な人だ」


「よく言われます」


「誰に」


「父に」


「納得した」


 アランは小さく息を吐いた。


 その時、通りの向こうで馬車の車輪が軋む音がした。


 普通の音だった。


 だが、アランは反応した。ほんのわずかに身体の向きが変わる。ミリアにも分かった。何かが来る。


 黒塗りの小型馬車が、ゆっくりと通りを進んでくる。窓には幕が下ろされ、中は見えない。貴族街では珍しい馬車ではない。だが、御者の姿勢が硬すぎる。馬の歩調も妙に整っている。


 アランはミリアの前に半歩出た。


 それは自然な動きだった。通りの人々から見れば、ただ王子が令嬢を気遣って立ち位置を変えただけに見えるだろう。


 だが、ミリアには分かった。


 彼は自分を庇う位置に立った。


 馬車が二人の横を通り過ぎる瞬間、窓の幕がわずかに上がった。


 灰色の瞳が見えた。


 ミリアは息を止めた。


 長い黒髪の男が、馬車の中からこちらを見ていた。美しいと言ってもよいほど整った顔立ち。だが、その目には温度がない。人を見る目ではなく、盤上の駒を測るような目だった。


 その視線は一瞬だけミリアに向き、次にアランへ向いた。


 アランは笑っていた。


 いつもの気の抜けた笑み。


 だが、彼の青い瞳は笑っていなかった。


 馬車は何事もなく通り過ぎていく。


 ほんの短い時間だった。


 それでも、ミリアはその場の空気が冷たく変わったのを感じた。


「今の男は」


 ミリアが尋ねる。


 アランは少し遅れて答えた。


「知らない方がいい」


「またですか」


「今度ばかりは、本当に」


 その声に、冗談はなかった。


 ミリアは馬車が去った方角を見た。心臓が強く鳴っている。あの灰色の瞳。昨夜の手紙。昨日の荷車。香水商の女。すべてが一つの影に繋がっていくようだった。


 アランは静かに言った。


「今日はもう帰りなさい」


「命令ですか」


「頼みだ」


 ミリアは彼を見た。


 頼み。


 その言葉は、意外だった。


 彼は自分を遠ざけようとしている。だが、今の声には命令でも侮りでもない、切実さがあった。


「……分かりました」


 ミリアは答えた。


 アランがわずかに安堵したように見えた。


「ただし」


 ミリアは続けた。


「私は諦めたわけではありません」


「知っている」


「あなたが隠しているものを、私は必ず見極めます」


 アランは困ったように笑った。


「君は本当に白薔薇だね」


「棘で刺されたいのですか」


「できれば遠慮したい」


 そのやり取りだけは、少しだけいつもの調子に戻った。


 だが、空気の奥にある緊張は消えなかった。


 ミリアが侍女と共に公爵邸へ戻るのを見届けた後、アランは香水商の前に立ったまま、表情を消した。


 レムがいつの間にか背後に控えている。


「ヴァルグです」


「見れば分かる」


 アランの声は低かった。


「向こうも殿下を見ました」


「ああ」


「駄王子として見たか、それとも」


「少なくとも、ただの駄王子ではないと疑っただろうね」


 アランは馬車が去った方角を見た。


 灰色の瞳。


 ヴァルグ。


 黒蛇の幹部が、ついに表の距離まで近づいてきた。


「殿下」


 レムの声に、わずかな緊張が混ざる。


「ミリア様を、これ以上巻き込むわけには」


「もう巻き込まれている」


 アランは静かに言った。


「僕たちが望むかどうかではない。黒蛇は彼女を駒として見始めた」


「では」


「守る。だが、同時に考え直す必要がある」


 レムは黙って主を見た。


 アランは小さく息を吐いた。


「彼女は、隠せば隠すほど近づいてくる。なら、完全に遠ざけるより、見える範囲に置いた方がいいのかもしれない」


「お話しになるのですか」


「まだすべては話さない」


 アランは目を細めた。


「けれど、何も知らないままにはしておけない」


 それは、アランにとって大きな譲歩だった。


 レムは深く頭を下げる。


「御意」


 王都の空は、夕暮れへと傾き始めていた。


 朱色の光が石畳を染め、貴族街の建物の影が長く伸びる。その影の中を、人々は何も知らずに行き交っている。


 アランは空を見上げた。


 兄上の国を守る。


 その誓いは変わらない。


 だが今、その国の未来に、一人の公爵令嬢が深く関わり始めている。


 真っ直ぐで、聡明で、危うくて、棘を持つ白薔薇のような令嬢。


 彼女を守るために遠ざけるべきか。


 それとも、共に影の入口まで連れていくべきか。


 答えはまだ出ない。


 だが、黒蛇は待ってくれない。


 その夜、王都のどこかで、灰色の瞳を持つ男が静かに笑った。


 彼の前には、白薔薇の紋を描いた紙片と、第二王子の名が記された報告書が置かれている。


「面白い」


 ヴァルグは低く呟いた。


「駄王子にしては、目が死んでいない」


 部下が膝をつく。


「次はいかがいたしますか」


「招待状を出す」


「誰に」


「白薔薇にだ」


 ヴァルグの指が、ミリアの名の上をなぞった。


「影に近づきたいのなら、少しだけ扉を開けてやろう」


 黒蛇は、静かに次の一手を選ぶ。


 そしてミリア・ランバールはまだ知らない。


 自分が見ようとしている影の向こう側で、すでに蛇が口を開けて待っていることを。

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