3話 白薔薇に忍び寄る蛇
王都の朝は、いつも同じ顔で始まるわけではない。
貴族街の朝は静かだった。整えられた石畳を馬車がゆるやかに進み、屋敷の門前では使用人たちが掃き清めを行い、窓辺には季節の花が飾られる。遠くの市場から届く喧騒も、この区画までは薄い布を隔てたように和らいで聞こえる。まるで、王国に不穏など存在しないかのような朝だった。
だが、ミリア・ランバールの心は静かではなかった。
昨日、王城の温室庭園でアラン・ヴァルタインと会った。
その事実が、夜を越えても胸の中に残っている。
彼は噂通りの男だった。軽薄で、掴みどころがなく、肝心なことになると冗談で逃げる。王族としての責任を問われても、真正面から答えようとはしなかった。ミリアにとって、それは決して好ましいものではない。
それなのに、どうしても引っかかるものがあった。
給仕の少年が温室に入ってきた時、アランは誰よりも早くその異変に気づいたように見えた。いや、見えたというより、確かに気づいていた。手元のスプーンを落とした動きも、偶然にしてはあまりにも自然すぎた。その直後、彼の侍女であるレムが動き、少年は静かに温室から下げられた。
あれは何だったのか。
ただの使用人の不調。アランはそう言った。
だが、本当にそうだったのなら、なぜ彼は一瞬だけ、あのような目をしたのか。
軽薄な笑みの奥に隠れていた、冷たいほど澄んだ青い瞳。昨夜の夜会でも見た、あの一瞬の鋭さ。あれは怠惰な者の目ではなかった。少なくとも、何も考えずに日々を過ごしている者の目ではない。
ミリアは机の上に置かれた本を閉じた。
ページは開いていたが、内容はほとんど頭に入っていなかった。
窓の外では、庭師が白薔薇の枝を整えている。ミリアは白薔薇が好きだった。気品があり、清らかで、それでいて棘を持つ。その在り方に、どこか自分の理想を見ることがある。
昨日、アランは彼女を白薔薇に例えた。
気品があって、綺麗で、近づくと棘がある。
失礼な言い方だった。だが、まったく的外れでもなかったことが、余計に腹立たしい。
「ミリア様」
扉の向こうから侍女の声がした。
「入って」
ミリアが答えると、侍女が静かに入室し、一礼した。
「お父上様より、本日の予定について確認がございます。昼前に王都西区の慈善院へ向かわれる件ですが、予定通りでよろしいかと」
「ええ。予定通り向かいます」
「ですが……」
侍女が言いよどんだ。
ミリアは視線を上げる。
「何かあるの?」
「いえ、その……王都では昨日から、ミリア様とアラン殿下のご婚約について、噂が広まり始めております。まだ正式なものではないと存じておりますが、外出なさると、何かと目立たれるのではないかと」
ミリアは静かに息を吐いた。
早い。
まだ正式発表もされていない段階で、すでに噂が広がっている。貴族街の情報の速さは分かっていたが、それにしても妙に速すぎる気がした。
「どのような噂?」
侍女は少し迷った。
主人に不快な話を聞かせることをためらっているのだろう。
「構いません。聞かせて」
「……才女と名高いランバール公爵令嬢が、よりによって第二王子アラン殿下に嫁ぐらしい、と。中には、ランバール公爵家が王家に取り入るためだとか、ルイ殿下に近づけなかったために第二王子を選んだのだとか、そのような心ない言葉も」
「そう」
ミリアは表情を変えなかった。
噂とはそういうものだ。事実の有無など関係ない。人は自分が面白いと思う形に話を変え、そこに意味をつける。特に、貴族社会では婚姻ひとつで派閥の力関係が動く。まだ正式ではない話であっても、周囲が騒ぎ立てるには十分だった。
ただ、気になる点はある。
この噂が自然に広がったものなのか、それとも誰かが意図して流したものなのか。
ミリアはそこまで考えて、思わず苦笑しそうになった。
昨日から、自分は疑い深くなっている。
アランと関わったせいだろうか。あの掴みどころのない第二王子の周囲には、普通なら気に留めないような小さな違和感がいくつもある。ひとつひとつは些細なことなのに、それらが結びつきそうで結びつかない。
「外出は予定通り行います」
ミリアは言った。
「慈善院への訪問は、以前から決まっていたことです。噂があるからといって取りやめれば、それこそ余計な憶測を招きます」
「かしこまりました」
「護衛は通常通りで構いません。ただし、道中の経路だけは念のため確認しておいて」
「はい」
侍女が退室した後、ミリアはもう一度窓の外を見た。
白薔薇が朝の光を受けている。
美しい花だった。
だが、その根元の土の中に何が潜んでいるかは、花を見ただけでは分からない。
同じ頃、王城の地下にある古い書庫では、まったく別の朝が始まっていた。
そこは、王城の者でさえ存在を知らぬ者が多い場所だった。もとは建国初期の記録を保管するために造られた地下書庫で、長い年月の中で幾度も改築され、今では正規の管理区域から外れている。湿った石壁、低い天井、古い羊皮紙の匂い。一般の文官ならば好んで近づく場所ではない。
だが、影狼にとっては都合がよかった。
表の王城が光の舞台なら、この地下書庫は影の会議室だった。
長机の上には、王都の地図が広げられている。貴族街、商業区、下層区、城壁門、街道、地下水路。細かな印がいくつも記され、赤い糸で幾つかの場所が結ばれていた。
アランは地図を見下ろしていた。
昨夜の軽薄な第二王子の姿はない。白と紺の王族服ではあるが、上着の下には動きやすい軽装を忍ばせている。腰には細剣。髪はいつも通り少し乱れているが、青い瞳には曇りがなかった。
レムは右手側に控え、リィナは机の上に腰かけるような行儀の悪い姿勢で紙片を広げている。ガイルは腕を組んで壁にもたれ、ゼイドは部屋の隅に立っていた。誰も彼の足音を聞いていないが、気づけばそこにいた。
「噂の流れ、やっぱり不自然だね」
リィナが言った。
「昨日の夕刻にはまだ一部の貴族しか知らなかったはずなのに、今朝には貴族街の使用人連中まで話してる。噂の発信源は三つ。西区の仕立屋、中央通りの香水商、あと南門近くの馬車屋」
「共通点は」
「どれも貴族家の使用人が出入りする場所。情報が広がりやすい。しかも三つとも、最近になって資金の流れが妙に綺麗になってる」
ガイルが首を傾げた。
「綺麗って何だ。金の流れなら汚い方が怪しいんじゃねえのか」
「逆。綺麗すぎるのが怪しいの。帳簿上は問題なし、支払い遅延なし、急な借金返済あり。誰かが裏から整えた形跡がある」
「なるほどな。分からん」
「分かる気ある?」
リィナが呆れたように言うと、ガイルは豪快に笑った。
「細けえことはお前に任せる。俺は殴る相手を教えてくれりゃいい」
「その単純さは嫌いじゃないけど、今回は殴るだけだと糸が切れる」
アランは二人のやり取りを聞きながら、地図上の三点を見た。
仕立屋、香水商、馬車屋。
いずれも貴族街の情報を流すには便利な場所だ。婚約の噂を広げるだけなら、確かに効率がいい。だが、それだけが目的ではないだろう。
「噂を広げた目的は二つだ」
アランが静かに言うと、全員の視線が集まった。
「ひとつはランバール家と王家の動揺を誘うこと。もうひとつは、ミリア嬢を目立たせること」
レムの赤い瞳がわずかに細くなった。
「狙いはミリア様ですか」
「おそらく」
アランは地図上の貴族街から西区へ続く道に指を置いた。
「今日、彼女は西区の慈善院へ向かう予定だ。以前から決まっていた訪問だから、黒蛇が予定を掴んでいてもおかしくない。噂を広げた直後に外へ出れば、人目は集まる。襲撃するにも、接触するにも、揺さぶるにも都合がいい」
「公爵令嬢を狙うとは、なかなか大胆ですね」
レムの声は静かだったが、そこには冷えた怒りがあった。
アランは頷く。
「殺すつもりはないだろう。少なくとも今は。婚約が正式に動き始めた段階で彼女を殺せば、王家とランバール家は結束する。黒蛇にとっては面倒が増えるだけだ」
「では、攫うか脅すか」
「あるいは、傷をつける」
リィナが紙片を弄ぶ手を止めた。
アランの声は低かった。
「公爵令嬢としての評判に傷をつければ、婚約は揺らぐ。王家の警備能力にも疑問が出る。第二王子は婚約者ひとり守れない駄王子だと笑われる。それで誰が得をするか」
「黒蛇と、王家の混乱を望む貴族連中」
「そうだ」
ガイルが大剣の柄を軽く叩いた。
「で、どうする。俺が護衛につくか」
「目立ちすぎる」
「だろうな」
「ガイルは西区の裏通りに回ってくれ。慈善院周辺で騒ぎが起きた場合、正面突破で道を開く役が必要になる」
「任せろ」
「リィナは噂の三拠点を監視。誰が今日の外出情報を流したか探る」
「了解。ついでに香水商の裏帳簿も抜いてくる」
「抜くだけにして燃やすなよ」
「信用ないなぁ」
「前科がある」
リィナは不満そうに頬を膨らませたが、否定はしなかった。
「ゼイド」
アランが呼ぶと、部屋の隅の影がわずかに動いた。
「馬車の後方につけ。敵がミリア嬢に近づく前に、仕掛け役を特定してくれ。ただし、可能な限り殺すな。上に繋げたい」
「承知」
「レムは僕と来て」
「はい」
レムは即座に答えた。
ガイルがにやりと笑う。
「殿下直々に出るのか」
「偶然、街へ菓子を買いに行く第二王子がいても不自然じゃないだろう」
「不自然だろ」
リィナが即答した。
アランは心外そうに肩をすくめる。
「王子にも甘いものを食べる権利はある」
「王城の料理人に作らせればいいじゃん」
「街で買うからこそ意味があるんだよ。王族が庶民の店に顔を出すと、噂になる」
レムが淡々と補足した。
「つまり、殿下は自ら悪目立ちすることで、ミリア様への視線を一部逸らすおつもりです」
「さすがレム。僕の美しい自己犠牲を理解してくれている」
「美しいかどうかは別として、合理的ではあります」
「そこは美しいと言ってほしかった」
「事実と異なる発言は控えております」
ガイルが声を上げて笑った。
アランも薄く笑ったが、その瞳は地図から離れていなかった。
黒蛇は動く。
問題は、どこで、どのように動くかだ。
ミリアは聡明だ。昨日の温室で、彼女はすでに何かを感じ取っていた。今後も関わりが深まれば、いずれアランの周囲にある影へ近づいてくるだろう。
だからこそ、守らなければならない。
彼女を巻き込んだのは、アラン自身の望みではない。だが、婚約という形で王家とランバール家が結ばれようとしている以上、黒蛇がそこを狙うのは当然だった。
自分が駄王子と笑われるのは構わない。
だが、その仮面のせいで誰かが傷つくならば。
アランの指先が、地図上の西区を静かに叩いた。
「動くぞ」
短い命令だった。
影狼の者たちは、音もなく動き出した。
昼前、ミリアを乗せた馬車はランバール公爵邸を出た。
護衛騎士が二騎、前後につく。公爵令嬢の外出としては標準的な警備である。行き先は王都西区の慈善院。孤児や身寄りのない老人たちを受け入れている施設で、ランバール家は以前から支援を行っていた。ミリア自身も定期的に訪れ、必要な物資や教育支援の相談をしている。
馬車の窓から見える王都は、いつもと変わらないように見えた。
貴族街を抜けると、建物の雰囲気は少しずつ変わっていく。広い庭を持つ屋敷は減り、商店や工房が並ぶ通りへ入る。香辛料の匂い、焼き菓子の甘い香り、馬車の車輪が石畳を叩く音、人々の呼び声。王都は生きていた。
ミリアはこの街が好きだった。
貴族街の静けさも美しいが、王都の本当の力は人々の営みにあると思っている。商人が商品を並べ、職人が手を動かし、子どもたちが路地を走り、兵士が門を守る。王国とは城や玉座だけでできているのではない。そこに暮らす一人ひとりの生活によって成り立っている。
だからこそ、王族には責任がある。
ルイ王太子のように、国を背負う覚悟が必要なのだ。
ミリアはそこまで考えて、なぜかアランの顔を思い出した。
僕は兄上のようにはなれない。
昨日、彼はそう言った。
あの言葉は逃げに聞こえた。だが、今思い返すと、どこか別の響きもあった気がする。諦めではなく、線引き。自分の役割はそこではないと、あらかじめ決めているような言い方。
それは何なのか。
考えかけた時、馬車が不意に揺れた。
「どうしたの?」
ミリアが声をかけると、御者が窓越しに答えた。
「申し訳ございません。前方で荷車が横転しているようです。少々お待ちください」
ミリアは窓の外を見た。
確かに、通りの先で荷車が道を塞いでいる。積まれていた木箱が崩れ、数人の男たちが慌てて片付けているようだった。周囲には人だかりができ始めている。
偶然の事故。
そう考えるのが普通だった。
だが、ミリアは胸の奥に小さな違和感を覚えた。
荷車の位置が、あまりに都合よく道を塞いでいる。馬車が引き返そうにも、後方には別の馬車が詰まり始めていた。左右の路地は細く、貴族用の馬車が入るには狭い。
「護衛に周囲を確認させて」
ミリアは侍女に告げた。
「はい」
侍女が窓から護衛に指示を出す。
その時、通りの向こうからひどく場違いな声が響いた。
「おや、これは困った。僕の甘味探訪がここで止まってしまうとは、王都の道も意地悪だね」
ミリアは目を見開いた。
聞き間違えるはずがない。
その軽い声は、昨日から嫌というほど耳に残っている。
人だかりの向こうから、アラン・ヴァルタインが現れた。
護衛らしい者を連れているが、王族の正式な外出にしてはあまりに緩い。白と紺の上着を纏い、片手に菓子屋の包みを持っている。表情はいつものように気楽で、道を塞ぐ荷車を見ても深刻さはまるでなかった。
周囲の人々がざわめく。
「アラン殿下だ」
「第二王子がなぜこんなところに」
「菓子を買いに来たらしいぞ」
「本当に気楽なお方だな」
囁きが広がる。
ミリアは馬車の中で額を押さえたくなった。
なぜ、よりによってこのタイミングで現れるのか。
偶然にしては、できすぎている。
アランは馬車に気づいたように目を丸くした。
「これは奇遇だね、ランバール嬢」
ミリアは窓を開け、冷静な声で返した。
「アラン殿下。なぜこちらに」
「王都で評判の蜂蜜菓子を買いに来たんだ。王城にいると、どうしても味が上品すぎてね。庶民の店には庶民の店の良さがある」
「それは結構なことですが、護衛はどうなさったのですか」
「いるよ。ほら、あそこに」
アランが指さした先には、黒髪の侍女が立っていた。
レムである。
侍女一人を護衛と呼ぶにはあまりに無謀に見える。だが、ミリアは昨日の温室で見た動きを思い出した。あの侍女は、ただの侍女ではない。
やはり、彼の周囲には何かある。
「それより、道が塞がっているようだね」
アランは荷車へ視線を向けた。
「皆、困っている。早く片付けた方がいい」
彼の声は軽かった。
だが、その言葉が届くと同時に、荷車の周囲にいた男の一人がわずかに動いた。腰に手を伸ばす。その仕草は、荷物を持ち上げるためのものではない。
ミリアは息を呑んだ。
次の瞬間、男の手首に何かが刺さった。
細い針のようなものだった。
男は声を上げる前に膝をつく。人だかりの中で混乱が起きかけたが、その直前に荷車の反対側から大柄な男が現れた。
「おうおう、道の真ん中で派手にやらかしたな!」
ガイルだった。
彼は豪快に笑いながら木箱を軽々と持ち上げる。その動作は、事故の片付けを手伝っているように見えた。だが、その合間に周囲の不審な男たちを位置取りだけで封じている。逃げ道を潰し、視線を散らし、一般人を自然に遠ざけている。
ミリアはそれに気づいた。
普通の腕自慢ではない。
戦い慣れている。
通りの屋根の上で、影がひとつ動いた。ミリアには見えなかった。だが、ゼイドがすでに別の仕掛け役の背後に回っていた。細い路地に逃げ込もうとした男が、音もなく引きずり込まれる。
リィナは人だかりの中に紛れ、荷車に積まれていた木箱の一つを開けていた。中には布が詰められている。その布の下に、小型の煙玉と拘束具が隠されていた。
「うわ、やっぱり攫う気だったか」
リィナは小さく呟き、すぐに箱を閉じる。
その間も、表向きの騒ぎはただの荷車事故だった。いや、そう見えるように処理されていた。
アランは何もしていないように見えた。
ただ、ミリアの馬車のそばに立ち、菓子の包みを片手に微笑んでいるだけ。
しかし、ミリアにはもう分かり始めていた。
彼は何もしていないのではない。
彼がそこにいるだけで、周囲の影が動いている。
「アラン殿下」
ミリアは馬車から降りた。
侍女が慌てて支えようとするが、彼女はそれを制して自分の足で石畳に立つ。
アランは少し困ったように笑った。
「危ないよ、ランバール嬢。道が混んでいる」
「今のは何ですか」
「荷車の事故だろう」
「違います」
ミリアはまっすぐに言った。
アランの笑みがわずかに薄くなる。
「昨日の温室と同じです。偶然にしては、あなたの周囲では物事があまりにも都合よく動きます」
「僕は運がいいんだ」
「運だけで、人はあのように動けません」
ミリアの視線は、荷車を片付けるガイル、通りの人々に紛れるリィナ、そしてアランの背後に控えるレムを順に追った。
「あなたは、何を隠しておられるのですか」
通りの喧騒が遠くなる。
アランは答えなかった。
彼女の観察眼は鋭い。想像以上に。ここで下手にごまかせば、かえって疑念を強めるだけだろう。
だが、真実を話すことはできない。
影狼の存在を明かすことは、彼女を危険の中心へ引きずり込むことになる。
だから、アランはいつもの仮面を選んだ。
「隠していることなら、たくさんあるよ」
彼は軽く笑った。
「たとえば、昨日の夜に食べすぎたせいで朝食を残したこととか、兄上の執務室で焼き菓子を盗み食いしたこととか」
「殿下」
「あと、実は蜂蜜菓子より果実の焼き菓子の方が好きだ」
「真面目にお答えください」
ミリアの声には苛立ちがあった。
それだけではない。彼女は傷ついているようにも見えた。
自分が真剣に問いかけているのに、また茶化されている。そう感じているのだろう。
アランは胸の奥に小さな痛みを覚えた。
だが、踏み込ませるわけにはいかない。
「ランバール嬢」
彼は穏やかに言った。
「君は賢い。だから、今は賢くないふりをしてくれると助かる」
ミリアは目を見開いた。
その言葉だけは、冗談ではなかった。
「どういう意味ですか」
「そのままの意味だよ」
アランは微笑む。
「気づかない方がいいこともある」
「また、それですか」
「また、それだ」
「私は、守られるだけの人形ではありません」
「知っている」
アランの答えは早かった。
ミリアは言葉を止める。
「君が人形ではないことくらい、昨日からよく分かっている。だからこそ、危うい」
「危うい?」
「真っ直ぐすぎる人は、暗がりで目立つ」
アランの声は静かだった。
その一瞬、ミリアは彼の背後に深い影を見た気がした。駄王子という軽い仮面の奥に、誰にも見せていない何かがある。守るために嘘をつき、遠ざけるために笑うような、そんな矛盾した何かが。
だが、次の瞬間には彼はまた菓子の包みを掲げていた。
「さて、道も空きそうだ。僕はこの菓子が冷める前に王城へ戻るとするよ」
「アラン殿下」
「慈善院へ向かうなら、今日は東回りの道がいい。西の市場通りは混んでいるからね」
「なぜ、それを」
「菓子屋の店主が言っていた」
アランはにこりと笑った。
どう考えても嘘だった。
だが、ミリアは追及しなかった。
代わりに、静かに言った。
「私は、あなたをまだ信用していません」
「賢明だ」
「ですが、ただの駄王子だとも思えなくなりました」
アランの表情がほんの少しだけ動いた。
それは驚きだったのか、困惑だったのか、ミリアには分からない。
「それは困ったな」
彼は小さく笑った。
「僕の評判が崩れてしまう」
「ご自分で崩しておいて、何をおっしゃるのですか」
「確かに」
アランは楽しそうに肩をすくめた。
その様子に、ミリアはまた苛立ちを覚えた。だが、不思議と昨日ほど不快ではなかった。彼が何かを隠していることは間違いない。けれど、その隠し事が単なる怠惰や不誠実から来るものではない気がしたからだ。
馬車が動き始める。
ミリアは乗り込む直前、もう一度アランを振り返った。
彼は通りの端に立ち、いつものように気楽な笑みを浮かべていた。周囲の人々は、第二王子が偶然通りかかっただけだと思っている。荷車事故も、すぐに片付くだろう。誰も、この場で何が起きかけていたのかを知らない。
知らないまま、日常へ戻っていく。
ミリアは馬車の中で、手を強く握った。
あの人は、一体何をしているのか。
そして、自分は何に巻き込まれようとしているのか。
その答えはまだ見えなかった。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
アラン・ヴァルタインは、噂通りの男ではない。
慈善院での訪問は、表向き何事もなく終わった。
子どもたちはミリアの訪問を喜び、院長は寄付された書物と衣類に深く礼を述べた。ミリアは子どもたちの学習環境を確認し、冬に向けて必要な燃料や食料の量を聞き取った。いつもの仕事だった。けれど、その日だけは、彼女の意識の半分が別のところに残っていた。
帰りの馬車は、アランが言った通り東回りの道を通った。
道は空いていた。
何事も起きなかった。
それがかえって、彼の言葉の正しさを示しているようで、ミリアの胸に複雑な感情を残した。
その日の夕刻、王城地下書庫に影狼の面々が再び集まった。
荷車事故を装った攫取計画は未遂に終わった。捕らえた実行役は下層区のならず者で、黒蛇から直接依頼を受けたわけではない。間に二つ、三つの仲介を挟んでいる。だが、リィナが押収した木箱の印から、馬車屋に繋がる糸が見つかった。
「やっぱり馬車屋が噛んでた」
リィナが机に帳簿を投げ出した。
「表向きは普通の商売。でも裏で通行予定とか護衛の人数とか売ってる。今回のミリア様の予定も、屋敷の外に出入りしていた業者経由で漏れたっぽい」
「ランバール家内部ではないな」
アランが確認すると、リィナは頷いた。
「今のところは。少なくとも公爵家の中枢から漏れた感じじゃない。出入り業者を数人挟まれてる」
「なら、ランバール公爵に警告は」
「出すべきです」
レムが言った。
アランは少し考え込む。
ランバール公爵は、おそらくアランの裏の顔にある程度気づいている。だが、それを明確に口にしたことはない。あの公爵は賢すぎる。知っていて知らないふりをしているのか、確信がないから黙っているのか、その境界を曖昧に保っている。
「公爵には別経由で伝える。ミリア嬢にはまだ何も知らせない」
「しかし、ミリア様はすでに疑っておられます」
レムの指摘に、アランは小さく笑った。
「だろうね」
「今日の対応は、少々目立ちすぎました」
「仕方ない。間に合う形があれしかなかった」
「殿下が直接姿を見せずとも、我々だけで処理できました」
「できただろう。でも、その場合、彼女の馬車がしばらく孤立した。敵が二段構えだったら危なかった」
レムは黙った。
アランの判断は正しい。だからこそ、彼女はそれ以上反論しなかった。
ガイルが腕を組んで言う。
「で、次はどうする。馬車屋に殴り込みか」
「それは最後」
「毎回最後だな」
「最初から殴ると、上が逃げる」
「分かっちゃいるが、面倒だな」
アランは地図を見ながら言った。
「黒蛇はミリア嬢を通じて、僕の出方を見ようとしている。今日の件で、少なくとも第二王子の周辺に何かあるとは気づいただろう」
「つまり、次はもっと直接来る?」
リィナが尋ねる。
「可能性は高い」
アランは頷いた。
「ただし、黒蛇の幹部がすぐ出てくるとは思えない。向こうは慎重だ。こちらを探るために、もう一枚駒を使うはずだ」
その時、ゼイドが初めて口を開いた。
「黒髪の男を見た」
全員の視線が向く。
ゼイドは短く続けた。
「屋根の上から現場を見ていた。長髪。灰色の瞳。剣士の立ち方だった」
アランの目が細くなる。
「接触は」
「距離があった。追えば気づかれた」
「正しい判断だ」
リィナが紙をめくる手を止めた。
「長い黒髪、灰色の瞳、剣士……もしかして」
「ヴァルグ」
アランが名を口にした。
地下書庫の空気がわずかに重くなる。
黒蛇幹部、ヴァルグ。
これまで何度か影を追ってきたが、決定的な接触には至っていない。冷静沈着な剣士であり、黒蛇の中でも実戦と指揮の両方に長けた男。もし彼が王都内で直接動いているのなら、黒蛇の狙いは予想以上に深い。
「面白くなってきたな」
ガイルが笑う。
レムは冷ややかに言った。
「笑い事ではありません」
「分かってるさ。だが、敵の顔が見えたなら殴りやすい」
「殴るのは最後です」
「お前まで言うのかよ」
アランは二人のやり取りを聞きながら、静かに考えていた。
ヴァルグが見ていた。
つまり、今日の件はただの襲撃ではない。こちらの動きを測るための試金石だった可能性が高い。だとすれば、アランが姿を見せたことも相手の計算に含まれているかもしれない。
駄王子が偶然通りかかった。
そう見せたつもりだったが、ヴァルグほどの相手ならば、その偶然の不自然さに気づいただろう。
「殿下」
レムが静かに声をかけた。
「ミリア様の警護をさらに強化しますか」
「する。ただし、見える護衛を増やしすぎるな。彼女は気づく」
「すでにかなり気づいておられるかと」
「だから困っている」
アランは苦笑した。
「彼女は、こちらが思っているよりずっと早く真実に近づくかもしれない」
「その場合は」
レムが問いかける。
アランはしばらく答えなかった。
地下書庫の蝋燭が揺れる。
やがて、彼は静かに言った。
「その時は、その時だ」
曖昧な答えだった。
だが、レムはそれ以上聞かなかった。
夜が更けた頃、ランバール公爵邸の自室で、ミリアは一通の手紙を見つめていた。
差出人は書かれていない。
夕刻、慈善院から戻った後、彼女の机の上に置かれていたものだった。封蝋もない。上質な紙ではあるが、貴族の正式な書簡ではない。
侍女にはまだ見せていなかった。
ミリアはしばらく迷った後、封を開けた。
中には短い文章だけが書かれていた。
『駄王子の近くにいれば、あなたも影に呑まれる』
ミリアは息を止めた。
文字は整っている。感情は読み取れない。脅迫とも警告とも取れる文面だった。
普通なら、すぐに父へ報告すべきだ。
だが、ミリアはその紙から目を離せなかった。
駄王子の近く。
影。
今日の出来事。昨日の温室。アランの言葉。
気づかない方がいいこともある。
真っ直ぐすぎる人は、暗がりで目立つ。
すべてが繋がりそうで、まだ繋がらない。
ミリアは手紙を折りたたみ、机の引き出しにしまった。
心臓が静かに早鐘を打っている。
怖くないと言えば嘘になる。
だが、それ以上に、知りたいという思いが強くなっていた。
アラン・ヴァルタイン。
あの男は何者なのか。
駄王子なのか。
それとも、誰にも見えない場所で何かを守っているのか。
ミリアは窓辺に立ち、夜の王都を見た。
遠くに王城の灯が見える。
その光のどこかに、アランもいるのだろうか。あの気の抜けた笑みを浮かべながら、誰にも知られず影を見ているのだろうか。
「私は、知らないままではいられない」
小さく呟いた声は、夜気に溶けた。
その夜から、ミリア・ランバールはただ婚約を拒む令嬢ではなくなった。
彼女は見極めると決めた。
父が何を見たのか。
アランが何を隠しているのか。
そして、自分がこれからどのような影に足を踏み入れようとしているのかを。
王都の闇は、静かに彼女へ近づいていた。
だが同時に、彼女自身もまた、その闇を見つめ始めていた。




