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2話 公爵令嬢、駄王子を見る

 夜会の翌朝、ランバール公爵邸の庭には薄い朝霧が残っていた。


 王都の中心部に近い貴族街にありながら、ランバール家の屋敷は不思議な静けさを保っている。手入れの行き届いた庭園には白い薔薇が並び、噴水の水音が規則正しく響いていた。夜会の喧騒から離れたその空間は、本来ならば心を落ち着ける場所であるはずだった。


 だが、その朝のミリア・ランバールにとって、庭の静けさはむしろ胸の内の乱れを際立たせるものだった。


 彼女は一睡もできなかった。


 寝台に入っても、父の言葉が何度も耳の奥で繰り返された。


 アラン・ヴァルタイン第二王子との婚約。


 婚約は決定事項。


 必要だからだ。


 その言葉を思い出すたびに、胸の中に重い石を落とされたような感覚があった。ミリアは公爵家の娘である。自分の婚姻が家や王国の事情と無関係でいられないことくらい、幼い頃から理解していた。恋に憧れていないわけではないが、貴族の結婚が感情だけで決められるものではないことも知っている。


 だから、相手が王族であること自体を嫌がっているのではない。


 問題は、その相手がアラン・ヴァルタインであることだった。


 昨夜の彼の姿が脳裏に浮かぶ。令嬢たちに囲まれ、気の抜けた笑みを浮かべ、王族としての責任を軽く受け流すような言葉を口にしていた男。ルイ王太子が国の未来を背負っている同じ場で、まるで自分には何の関係もないと言わんばかりに笑っていた第二王子。


 彼の青い瞳に、一瞬だけ鋭さを見た気がした。


 だが、ミリアはその記憶をすぐに打ち消した。


 人は見たいものを見てしまうことがある。特に、自分の理解できないものに直面した時には、どこかに意味を探そうとしてしまう。昨夜のあれも、おそらくそういう類のものだ。彼に何か深い意図があるなどと考える方が、現実逃避に近い。


 庭を歩きながら、ミリアは自分の心を整えようとした。


 だが、いくら理性で言い聞かせても、父への疑問は消えなかった。


 なぜ父は、あれほど頑ななのか。


 ランバール公爵は軽率な人物ではない。王国でも屈指の重臣であり、政治的な判断には常に慎重だった。娘であるミリアの意見にも耳を傾けてくれる父だった。それなのに、昨夜だけは違った。まるでどれほど反対されることも覚悟の上で、最初から譲るつもりがないようだった。


 その理由が分からないことが、ミリアには何より苦しかった。


「ミリア様」


 背後から侍女が声をかけてきた。


 ミリアは足を止め、振り返る。


「お父上様がお呼びです。朝食の間へお越しくださいとのことです」


「……分かりました」


 短く答え、ミリアは屋敷へ戻った。


 朝食の間には、すでに父がいた。


 ランバール公爵は昨夜と同じように穏やかな顔をしていた。白髪交じりの髪を整え、新聞のような報告書に目を通している。その姿だけ見れば、何も変わらない朝に見えた。だが、ミリアには分かっていた。今日の食卓は、普段のものとは違う。


 席に着くと、使用人たちが静かに料理を並べる。


 焼きたてのパン。温かいスープ。果実と紅茶。いつもなら香りだけで少し心が和むはずの朝食が、この日はひどく遠いものに感じられた。


 公爵はしばらく何も言わなかった。


 ミリアも口を開かなかった。


 銀の食器が小さく触れ合う音だけが、二人の間に落ちる。やがて公爵が報告書を閉じ、娘を見た。


「昨夜は眠れなかったようだな」


「お父様のせいです」


 ミリアは即座に答えた。


 普段ならば控える言い方だった。だが、今は遠回しにする気になれなかった。


 公爵は怒らなかった。むしろ、わずかに苦笑したようにも見えた。


「それだけ正面から言えるのは、お前の長所だ」


「褒めていただきたいわけではありません。私は理由を知りたいのです」


「理由なら昨夜言った。必要だからだ」


「それでは何も説明になっておりません。私は、王家との縁談をすべて拒むつもりはありません。公爵家に生まれた以上、家と国のための婚姻があり得ることも承知しています。ですが、なぜアラン殿下なのですか。なぜ、よりによってあの方なのですか」


 言葉に感情が滲んだ。


 ミリアはそれに気づき、唇を引き結ぶ。貴族令嬢として、父に感情をぶつけることは美しくない。だが、こればかりは抑えきれなかった。


 公爵は紅茶に視線を落とした。


「お前は、アラン殿下をどう見た」


「無責任な方だと思いました」


「それだけか」


「……軽薄で、王族としての自覚に欠けておられるように見えました。少なくとも、ルイ殿下とはあまりにも違います」


「違うだろうな」


 父の返答は、妙に静かだった。


 ミリアは眉を寄せる。


「お父様は、あの方を庇われるのですか」


「庇うつもりはない。だが、人は表に見えているものだけで判断すべきではない」


「それは分かっています。ですが、表に見えているものを軽んじてもよい理由にはなりません。王族の振る舞いは、それだけで国の品位に関わります」


「正しい」


「ならば」


「お前の言っていることは正しい。だからこそ、私はお前に見極めてほしい」


 ミリアは言葉を失った。


 父の目は真剣だった。そこには政略だけではない、別の思いがあるように見えた。


「見極める、とは」


「アラン殿下が、本当にお前の見た通りの方なのかどうかだ」


「それを確かめるために婚約を進めるというのですか」


「違う。婚約は進める。そのうえで、お前には見極めてほしいと言っている」


「お父様、それは順序が逆です」


「そうかもしれん」


 公爵はあっさり認めた。


 ミリアは驚き、父を見つめる。


「だが、今回は順序など選んでいる余裕がない」


 その言葉に、部屋の空気が少し冷えた。


 ミリアは父の表情を読む。いつもの穏やかな顔ではない。政治の場で見せる、国家の行く末を見据える重臣の顔だった。


「王国内で何か起きているのですか」


 問いかけると、公爵はすぐには答えなかった。


 その沈黙こそが、肯定に近かった。


「お前が知るには、まだ早い」


「私がこの婚約に巻き込まれるのであれば、知る権利はあるはずです」


「権利と安全は別だ」


 公爵の声は低かった。


 ミリアははっとした。父は自分を遠ざけようとしているのではない。守ろうとしている。その気配が、一瞬だけ言葉の底に見えた。


 だが、それでも納得はできない。


「では、私はただ言われるままに従えと?」


「従えとは言わん。ただ、会って話せ」


 公爵はそう言って、一通の封書をテーブルに置いた。


 王家の封蝋が押されている。


「本日午後、王城の温室庭園で、アラン殿下との非公式な面会が設けられている。正式な婚約発表の前に、お前たちが話すための時間だ」


 ミリアの手がわずかに止まった。


 今日。


 あまりに早い。


「急すぎます」


「承知の上だ」


「お父様は最初からそのつもりで」


「そうだ」


 父は隠さなかった。


 ミリアは深く息を吸った。胸の中に怒りが浮かぶ。だが、同時に冷静な自分もいた。面会がすでに決まっている以上、拒否しても状況は変わらない。むしろ、自分の目で直接確かめる機会ではある。


 アラン・ヴァルタインが本当に噂通りの人物なのか。


 父がそこまでして婚約を進める理由が、わずかでも見えるのか。


 そう考えると、逃げるという選択肢はなかった。


「分かりました。お会いします」


 ミリアはまっすぐ父を見た。


「ですが、私は納得したわけではありません。あの方が本当に王族としての責任を持たない方であれば、私は婚約を受け入れるつもりはありません」


「それでいい」


 父の返事は、意外なほど穏やかだった。


「見極めなさい、ミリア。お前の目で」


 その言葉の意味を、ミリアはまだ理解できなかった。


 同じ頃、王城の東棟にある王太子執務室では、朝から重い空気が流れていた。


 ルイ・ヴァルタインは執務机に向かい、各地から届いた報告書に目を通していた。国王アルバートの病が長引くにつれ、王太子である彼に集まる仕事は増え続けている。税制、軍備、治安、外交、街道整備、貴族間の調停。王が担うべき重責の多くが、すでにルイの肩に乗っていた。


 それでも彼の筆は乱れない。


 読み、考え、指示を出す。その動きは静かで正確だった。周囲の文官たちは王太子の集中を妨げぬよう、必要最低限の言葉だけで仕事を進めている。


 だが、その場に一人だけ、場違いなほど気の抜けた男がいた。


「兄上、朝から働きすぎではありませんか。たまには窓辺で紅茶を飲みながら、空の雲でも眺める時間が必要ですよ。雲はいいですよ。何の責任も背負っていない感じがする」


 ソファに寝そべるように座り、アランが呑気に言った。


 銀の髪は少し乱れ、礼装ではなく簡素な王族用の室内着をまとっている。片手には焼き菓子。もう片方の手には開かれてもいない本。どう見ても、政務を手伝う者の姿ではなかった。


 文官の一人が眉をひそめかけたが、ルイは慣れているのか、顔色ひとつ変えない。


「雲に責任がないかどうかは、天候を読む農民に聞くべきだな」


「兄上はそうやって、雲にまで責任を背負わせる」


「お前はもう少し自分に責任を背負わせてもいい」


「僕は肩幅が狭いので」


「嘘をつくな」


 淡々としたやり取りに、執務室の空気が少しだけ緩んだ。


 だが、ルイが文官たちに退出を命じると、その緩さはすぐに消えた。扉が閉まり、室内に兄弟だけが残る。いや、正確には壁際に控えるレムもいたが、彼女は影のように気配を薄くしていた。


 ルイは筆を置いた。


「昨夜の件を聞こう」


 アランは菓子を皿へ戻し、姿勢をわずかに正した。


 その瞬間、空気が変わる。


 先ほどまでの怠惰な第二王子は消えた。そこにいるのは、冷静に状況を見極める影狼の指揮官だった。


影狼(かげろう)



それは、ヴァルタイン王国の表の歴史には記されない、極秘の影組織である。

王国軍にも近衛騎士団にも属さず、貴族院の命令も受けない。彼らが動くのは、表の法では裁けぬ脅威が現れた時。犯罪組織、裏切り者、他国の密偵、王家に刃を向ける者たち。

そうした存在を、誰にも知られぬまま処理するために影狼は存在していた。

その頂点に立つのが、第二王子アラン・ヴァルタインである。

王城では怠け者の駄王子と呼ばれる彼は、影では王国の闇を束ねる主だった。

影狼には、アランを支える隊長格がいる。

副官レム。表向きはアラン付きの侍女だが、影狼では第二位にあたる存在であり、冷静な判断で組織全体を動かす。

突撃隊長ガイル。大柄な体躯と豪胆な性格を持ち、危険な任務では真っ先に敵陣へ踏み込む。

情報隊長リィナ。王都の噂、貴族の動き、裏取引、密偵の足取りまで拾い上げる、影狼の耳である。

暗殺隊長ゼイド。寡黙な黒衣の男で、任務に出れば敵は狙われたことにすら気づかぬまま消える。

彼らは皆、ただ一人の主に忠誠を誓っていた。

王国の表を王太子ルイが支えるなら、王国の裏はアランが守る。

影狼とは、そのために存在する牙であり、爪であり、闇そのもの。


「黒蛇の構成員三名を拘束しました。目的は兄上の暗殺ではなく、王城内部の協力者との接触。押収した暗号文はリィナが解析中ですが、どうやら黒蛇の幹部級が関わっている可能性があります」


「内部の協力者か」


 ルイの表情が険しくなる。


「候補は?」


「絞り込み中です。ただ、昨夜の動きは粗い。黒蛇らしくない。焦りか、あるいは意図的にこちらへ存在を知らせるための餌かもしれません」


「お前は後者を疑っているな」


「はい」


 アランは短く答えた。


 ルイは椅子の背にもたれ、弟を見た。


「相手はお前の存在に気づいていると思うか」


「影狼そのものに気づいている可能性はあります。ただ、僕が指揮官だとまでは掴んでいないでしょう。掴んでいれば、昨夜のような雑な手は打たない」


「お前を誘い出すためなら?」


「その場合でも、まだ足りません。僕は駄王子ですから」


 アランは軽く笑った。


 だが、ルイは笑わなかった。


「その仮面を、いつまで続けるつもりだ」


 部屋の空気が静かに沈む。


 アランは少しだけ視線を逸らし、窓の外を見た。王都の街並みが朝日に照らされている。昨夜とは違う、明るく穏やかな景色だった。


「必要がなくなるまでです」


「必要がなくなる時など来るのか」


「兄上が正式に王位を継ぎ、黒蛇を潰し、王国内の裏切り者を洗い出し、周辺諸国との火種を消せば、少しは楽になるかもしれません」


「それは、いつになる」


「さあ。僕が老人になる頃には」


「お前は自分を犠牲にする話になると、いつも冗談で逃げる」


 ルイの声には、わずかな怒りがあった。


 アランは黙った。


 兄が怒るのは珍しいことではない。だが、その怒りが自分を責めるためのものではなく、自分を案じるためのものだと分かっているから、アランは軽く受け流せなかった。


 ルイは静かに続ける。


「アラン、お前が影で動いてくれているから、私は表に立てる。それは分かっている。だが、だからといって、お前一人がすべてを背負う必要はない」


「一人ではありません。レムも、ガイルも、リィナも、ゼイドもいます」


「そういう意味ではない」


 ルイは弟を見つめた。


「お前自身の名誉の話だ」


 アランは困ったように笑った。


「兄上、僕に名誉など似合いませんよ」


「似合うかどうかはお前が決めることではない」


「では、誰が決めるのですか」


「お前を見ている者たちだ」


 その言葉に、アランは少しだけ目を伏せた。


 昨夜のミリアの視線を思い出す。真っ直ぐで、厳しくて、嘘を嫌う目だった。あの目には、今の自分はどう映ったのだろうか。考えるまでもない。彼女の言葉がすべてだった。


 ”残念です”


 あの一言は、思った以上に胸に残っていた。


「ランバール公爵令嬢との面会は今日だったな」


 ルイが話題を変えるように言った。


 アランは肩をすくめる。


「ええ。どうやら、僕は今日も棘のある花に刺されるようです」


「彼女は優秀だ。聡明で、責任感が強く、王国の未来を見る目がある」


「だからこそ、僕にはもったいない」


「だからこそ、だ」


 ルイははっきりと言った。


「彼女なら、いつかお前を見るかもしれない」


「見ない方が幸せでしょう」


「お前はそうやって、相手の幸せを勝手に決める」


 アランは言葉に詰まった。


 ルイは弟の沈黙を責めなかった。ただ、静かに告げる。


「アラン、私はお前を信じている。だが、お前が自分自身をあまりに軽く扱うことだけは、兄として許せない」


 その言葉は重かった。


 王太子としてではない。兄としての言葉だった。


 アランはしばらく黙ってから、薄く笑った。


「では、兄上の顔を立てるためにも、今日の面会ではできるだけ紳士的に振る舞います」


「できるだけではなく、必ずだ」


「善処します」


「それが信用ならんと言っている」


 ルイは小さく息を吐いた。


 その表情には疲れと、それでも消えない信頼があった。


「アラン。黒蛇の件も、婚約の件も、簡単には済まないだろう。だが、忘れるな。お前は私の弟だ。影狼の指揮官である前に、ヴァルタイン王家の第二王子だ」


 アランは兄を見た。


 その言葉に、胸の奥がわずかに痛む。


 王家の第二王子。


 駄王子と呼ばれようとも、その事実だけは変わらない。


「承知しています、兄上」


 アランは静かに頭を下げた。


 午後の王城温室庭園は、外の冷たい空気とは別世界のようだった。


 天井一面の硝子から柔らかな陽光が差し込み、異国から取り寄せられた花々が静かに咲いている。白い石畳の道には蔓草の影が落ち、奥には小さな噴水があった。夜会の大広間ほど人の目はないが、王族と公爵令嬢が面会するには十分に整えられた場所だった。


 ミリアは約束の時刻より少し早く到着した。


 淡い青のドレスを身に纏い、装飾は最小限に抑えている。華美に見せるためではない。相手に媚びるためでもない。ただ、ランバール公爵令嬢として恥じぬ姿で臨むためだった。


 案内役の侍女が一礼し、離れていく。


 ミリアは温室の中央に置かれた白い卓の前で待った。紅茶の用意は整えられている。菓子も置かれている。だが、彼女の心は落ち着かなかった。


 やがて、足音が聞こえた。


「お待たせしてしまったかな」


 軽い声。


 振り返ると、アラン・ヴァルタインが立っていた。


 昨夜よりも整った服装ではある。白と紺を基調にした王族らしい上着を身につけ、銀の髪も多少は整えられていた。だが、襟元にはやはりどこか緩さがあり、表情にも緊張感がない。


 ミリアは礼を取った。


「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。アラン殿下」


「こちらこそ、ランバール公爵令嬢。昨日は少々手厳しいお言葉をいただいたけれど、こうしてまた会いに来てくれたことを光栄に思うよ」


「父に命じられましたので」


「正直だ」


「嘘を申し上げる理由がありません」


「それは助かる。僕は嘘を見抜くのが苦手でね」


 アランはそう言って微笑んだ。


 ミリアは思わず目を細める。


 嘘だ、と思った。


 なぜそう思ったのか、自分でも分からない。彼の口調はいつも通り軽い。表情も緩い。だが、今の言葉だけは妙に空々しかった。まるで、嘘を見抜くのが得意だからこそ、苦手だと言っているように聞こえた。


 ミリアは心の中で首を振る。


 まただ。


 自分は彼に意味を探そうとしている。


「お座りください」


 ミリアが促すと、アランは優雅とも気怠げとも取れる動きで椅子に腰を下ろした。


 向かい合って座ると、二人の間に紅茶の香りが広がる。


 しばらく沈黙が落ちた。


 ミリアは相手の出方を待つつもりだった。だが、アランは紅茶を眺めたり、温室の花を見たりするだけで、自分から本題に入る様子がない。


 やがて、ミリアの方から口を開いた。


「殿下は、この婚約についてどうお考えですか」


「驚いているよ」


「それだけですか」


「困ってもいる」


「なぜですか」


「僕のような男と婚約するなど、君にとって不幸でしかないだろう」


 ミリアは息を止めた。


 その言葉は、予想していた軽薄な返しとは違った。


 アランは笑っていた。だが、その笑みにはほんの少しだけ、自嘲の色が混ざっているように見えた。


「ご自分を、そのように評価しておられるのですか」


「世間の評価に従えば、そうなる」


「世間の評価とご自身の評価は違うはずです」


「そうかな。人は他人の目の中で形を持つものだよ」


「それは逃げです」


 ミリアの声がわずかに強くなった。


 アランは目を瞬かせた。


「逃げ?」


「はい。世間がそう見るから自分もそうだと言うのは、ご自身で責任を持っていない証です。もし本当に噂通りの方でないのなら、違うと示せばいい。もし噂通りであるなら、改めればいい。どちらにせよ、他人の評価を盾にして自分を語るのは、誠実ではありません」


 温室の空気が静かになった。


 アランはミリアを見つめた。


 彼女は本気だった。


 怒っている。失望している。だが、ただ感情で責めているわけではない。彼女の言葉には筋があり、相手に逃げ道を与えない厳しさがあった。


 そして、その厳しさは王国への責任感から来ている。


 アランは、彼女のそういうところを少し眩しく思った。


「君は、強い人だね」


「話を逸らさないでください」


「逸らしたつもりはないよ。心からそう思った」


「殿下」


 ミリアはまっすぐに彼を見た。


「私はこの婚約に納得していません。父が何を考えているのかも分かりません。ですが、決して個人的な好き嫌いだけで申し上げているのではありません。私は、公爵家の娘として、王国の未来に関わる婚姻を軽く扱いたくないのです。だからこそ、殿下にも真剣に向き合っていただきたいのです」


 アランは答えなかった。


 その代わり、紅茶の杯を持ち上げる。


 だが、口をつける寸前、その手がわずかに止まった。


 ミリアは気づいた。


 本当にわずかな停止だった。普通なら見落とすほど小さい。だが、彼の視線が一瞬だけ温室の入り口へ動いたのを、ミリアは見逃さなかった。


 入口の近くに、給仕の少年がいた。


 年若い使用人で、茶器の替えを運んでいるように見える。だが、その歩き方が妙だった。緊張している。いや、緊張というより、何かを恐れているような足取りだった。


 アランは笑みを崩さなかった。


「確かに、真剣に向き合うべきだね」


 そう言いながら、彼は手元の小さなスプーンを落とした。


 軽い金属音が鳴る。


 給仕の少年がびくりと肩を震わせた。


 次の瞬間、温室の奥から侍女が現れた。黒髪を結った侍女、レムである。彼女は自然な足取りで少年に近づき、落ち着いた声で何かを告げた。少年は青ざめた顔で頷き、茶器を持ったまま温室の外へ連れ出されていく。


 ミリアはその一連の流れを見ていた。


 あまりにも自然だった。


 だが、自然すぎた。


 アランは何事もなかったかのように、落としたスプーンを拾おうとする。すると別の侍女がすぐに新しいものを差し出した。


「失礼。手が滑った」


 軽く笑う。


 ミリアは彼を見つめた。


「今のは、何ですか」


「何とは?」


「給仕の少年です。何かありましたね」


 アランは目を細めた。


 ほんの一瞬、彼の表情から軽薄さが消えた。だが、すぐに戻る。


「気のせいだよ。彼はまだ仕事に慣れていなかっただけだろう」


「殿下は、彼を見る前から気づいていたように見えました」


「僕が? まさか。僕は美しい花を見るのに忙しかった」


「茶化さないでください」


 ミリアの声には、昨夜とは違う響きがあった。


 怒りだけではない。疑念が混ざっていた。


 アランはその変化に気づく。


 困ったな、と心の中で呟いた。


 ランバール公爵令嬢は、思った以上によく見ている。


「君は観察眼が鋭いね」


「答えになっていません」


「では、こう答えよう。王城の使用人にも色々ある。慣れない者が失敗することもあれば、体調を崩す者もいる。僕の専属侍従は少々心配性でね、そういう者を見つけるとすぐに下げたがる」


「本当にそれだけですか」


「それ以上だったとして、君に言うべきことではない」


 その言葉は、今までの彼とは違っていた。


 柔らかい声だった。だが、明確な線があった。


 ミリアは息を呑む。


 拒絶ではない。侮りでもない。危険なものから遠ざけるような、静かな線引きだった。


「私は、何も知らなくてよいということですか」


「知らない方がいいこともある」


「それも逃げです」


「そうかもしれない」


 アランは否定しなかった。


 ミリアは彼を見た。


 なぜだろう。


 先ほどまで、彼はただの不真面目な王子に見えていた。だが、今の一瞬だけは違った。彼は何かを知っている。何かを隠している。そして、それを隠すために愚か者を演じているのではないか。


 そんな考えが、ほんの少しだけ胸をよぎった。


 だが、その直後、アランはまた気の抜けた笑みを浮かべた。


「さて、重い話ばかりでは紅茶が冷めてしまう。せっかくなら、君の好きな花でも聞かせてほしいな。僕は花の名前を覚えるのが苦手でね。どれも綺麗だ、で済ませてしまう」


 ミリアの疑念は、そこで途切れた。


 やはり、軽い。


 だが、完全には消えなかった。


 彼女は小さく息を吐き、紅茶に口をつけた。


「私は、白い薔薇が好きです」


「君らしいね」


「どういう意味ですか」


「気品があって、綺麗で、近づくと棘がある」


 ミリアは冷ややかにアランを見た。


「殿下は、そのような言い方しかできないのですか」


「褒めたつもりだったんだけどな」


「でしたら、褒め方を学ばれるべきです」


「ご指導いただけるなら、喜んで」


 アランがにこりと笑う。


 ミリアは呆れたように目を伏せた。


 だが、不思議なことに、昨夜ほどの失望だけではなかった。怒りはある。疑念もある。納得など到底できない。けれど、彼をただの駄王子と断じるには、先ほど見た一瞬が邪魔をしていた。


 面会は、表向きには何事もなく終わった。


 アランは最後まで軽薄な態度を崩さず、ミリアは最後まで礼儀を守った。婚約に前向きな言葉など一つも交わされなかったが、決定的な破綻もなかった。


 別れ際、アランは温室の出口で足を止めた。


「ランバール嬢」


「はい」


「今日のことは、不快だったかもしれない」


 ミリアは少し驚いた。


 アランは彼女を見ず、温室の花を眺めながら続けた。


「だが、君が真剣に怒れる人でよかったと思っている」


「それは、どういう意味ですか」


「王国の未来をどうでもいいと思っている人間は、あんなふうに怒れないからね」


 そう言って、彼は笑った。


 今度の笑みは、ほんの少しだけ静かだった。


 ミリアが何かを言おうとした時には、アランはもう背を向けていた。


 その歩き方を見て、ミリアはまた違和感を覚えた。


 気怠げに歩いているようで、足運びに無駄がない。


 貴族の礼法による優雅さとは違う。剣を持つ者の重心。いつでも動ける者の静けさ。ほんの一瞬だったが、彼の背にそれが見えた気がした。


 ミリアは立ち尽くした。


「……何なの、あの方は」


 呟きは、花の香りの中に消えた。


 温室を出たアランを、廊下の影でレムが待っていた。


「少年は」


「保護しました。脅されて茶器に小型の符を仕込まされていたようです。毒ではありません。盗聴用の魔道具です」


「黒蛇か」


「断定はできませんが、手口は近いです」


 アランは小さく息を吐いた。


「ミリア嬢の前で仕掛けてくるとはね」


「婚約話を嗅ぎつけた可能性があります」


「だろうな。ランバール家と王家が結びつけば、困る者がいる」


 アランの表情はすでに別人のものになっていた。


 先ほどまでの軽薄さはない。青い瞳には冷静な怒りが宿っている。


「リィナに情報を集めさせて。黒蛇がこの婚約にどう反応しているか。噂の流れ、貴族街の動き、商会経由の資金移動、全部だ」


「承知しました」


「ゼイドには少年の背後を追わせる。ただし殺すな。上に繋がる糸が欲しい」


「はい」


 レムは一礼し、すぐに動こうとした。


 だが、アランが呼び止める。


「レム」


「はい」


「ミリア嬢の周辺警護を増やして」


 レムはわずかに目を伏せた。


「殿下は、あの方を巻き込むことを気にされているのですね」


「気にするさ。彼女は何も知らない。知らないまま、僕の事情に巻き込まれようとしている」


「ですが、婚約は王家とランバール家にとって必要な布石です」


「分かっている」


 アランは静かに答えた。


 その声には、先ほどミリアに見せたものよりも深い疲れがあった。


「だから余計に、守らなければならない」


 レムはその言葉に深く頭を下げた。


「御意」


 その夜、王都の下層区にある古い礼拝堂跡で、一人の男が報告を受けていた。


 長い黒髪。灰色の瞳。細身の体に黒い外套をまとった男。


 ヴァルグ。


 黒蛇の幹部であり、王国の闇に根を張る者の一人である。


 礼拝堂の天井は崩れ、月光が割れた石床に落ちていた。かつて祈りの場だった場所は、今では密談の場に成り果てている。壁には古い聖者像が残っているが、その顔は風化して判別できない。


 部下の一人が膝をつき、低い声で告げる。


「王城内の接触は失敗。送り込んだ者は捕らえられました」


「だろうな」


 ヴァルグは驚かなかった。


 むしろ、最初から分かっていたような声だった。


「影が動いたか」


「おそらくは」


「王城には、見えぬ番犬がいる」


 ヴァルグは薄く笑った。


 それは楽しんでいるようにも、獲物を見定めているようにも見えた。


「だが、番犬の主までは見えない」


「いかがいたしますか」


「餌を変える」


 ヴァルグは月光の差す床を歩いた。


 その足音は静かだった。剣士の足音であり、暗殺者の足音でもあった。


「第二王子アランとランバール公爵令嬢の婚約話が進んでいるそうだな」


「はい。まだ非公式ですが、貴族街では噂が流れ始めています」


「面白い」


 ヴァルグの灰色の瞳が細くなる。


「駄王子と才女か。王家も奇妙な札を切る」


「ただの政略婚では?」


「ただの政略なら、ランバール公爵はあの男を選ばん」


 ヴァルグは断言した。


 部下は黙る。


「ランバールは愚かではない。あの公爵が娘を差し出すなら、何かを見ている」


「第二王子に、ですか」


「あるいは、第二王子の背後にある何かに」


 礼拝堂に冷たい風が吹き込んだ。


 ヴァルグは腰の剣に手を添える。長い黒髪が風に揺れ、その横顔には感情がない。


「ミリア・ランバールを調べろ。婚約が進むなら、彼女は王家に近づく。王家に近づく者は、必ず影にも近づく」


「利用しますか」


「壊すか、攫うか、揺さぶるか。それは調べてからだ」


 ヴァルグは静かに笑った。


「駄王子が本当に駄王子なら、花嫁一人守れまい」


 その声は、月明かりの中で冷たく響いた。


「もし守れるなら」


 ヴァルグは灰色の瞳を細める。


「その時は、ようやく影の主に近づける」


 王都の夜は、表向きには穏やかだった。


 だが、光の届かぬ場所で、黒蛇はすでに次の一手を選び始めていた。


 そして、その狙いが自分へ向けられ始めていることを、ミリアはまだ知らない。

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