表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/29

1話 駄王子、夜会に笑う

 ヴァルタイン王国の王城は、夜になると昼とは別の顔を見せる。


 白亜の外壁は月光を受けて淡く輝き、尖塔の影は静かな夜空へ細く伸びていた。王都の中心にそびえるその城は、国の威光そのものであり、民にとっては平和の象徴でもあった。だが、城壁の内側に満ちているものが常に清らかなものばかりとは限らない。光が強ければ強いほど、影は深くなる。それは王城という場所において、誰よりもよく知られている真理だった。


 今宵、王城の大広間では夜会が開かれていた。


 磨き抜かれた大理石の床には、幾つものシャンデリアの光が落ち、黄金色の波紋のように揺れている。壁には歴代王の肖像画が飾られ、天井には王国建国の神話を描いた壮麗な絵画が広がっていた。楽団が奏でる優雅な旋律に合わせ、貴族たちは微笑を浮かべながら杯を交わし、互いの言葉の裏を探り合っている。


 笑い声は華やかだった。だが、その内側には探り合いと打算がある。


 誰が王太子ルイに近いのか。誰が国王アルバートの病状を正確に掴んでいるのか。次代の王権はどの派閥へと傾くのか。表向きは祝宴であっても、この場は紛れもなく政治の戦場だった。


 その戦場の中心に、ひときわ多くの視線を集める男がいた。


 王太子、ルイ・ヴァルタイン。


 金糸のような髪を後ろへ流し、白と青を基調とした王太子の礼装を纏った彼は、若くしてすでに王者の風格を備えていた。背筋は真っ直ぐに伸び、立ち居振る舞いには無駄がない。誰に対しても礼を失わず、それでいて必要以上に媚びることもない。言葉は穏やかでありながら、ひとつひとつに重みがあった。


 国王アルバートが病に伏して以来、実質的に国政を支えているのはルイである。その事実を、この場にいる者たちは皆知っていた。だからこそ貴族たちは彼に群がり、彼の一言から王国の未来を読み取ろうとしている。


「殿下、北部領境の街道整備につきましては、ぜひ我が家の商会もお役に立てればと」


「ありがたい申し出だ。だが、北部は冬を迎える前に兵站と民間物流の双方を整えなければならない。王国全体の利益に照らし、最も適した形を検討させてもらおう」


 ルイは穏やかにそう答えた。相手の貴族は笑顔を保ったまま一礼したが、その目にはわずかな焦りが浮かんでいた。曖昧な賛同ではない。だが、拒絶でもない。相手の面子を守りながら、利権の独占を許さない。ルイの言葉には、若さに似合わぬ慎重さと強さがあった。


 その姿を、大広間の一角から見つめる令嬢がいた。


 ミリア・ランバール。


 ランバール公爵家の長女であり、王都でも名高い才女である。淡い金の髪は丁寧に結い上げられ、青い瞳には冷静な知性が宿っていた。白を基調としたドレスには過度な装飾はない。だが、仕立ての良さと立ち姿の美しさが、彼女の気品を際立たせていた。


 ミリアは夜会という場を好んでいるわけではない。笑顔の裏で利害が動き、誉め言葉の中に毒が混ざるこの空気は、彼女にとって決して心地よいものではなかった。それでも公爵令嬢である以上、避けて通ることはできない。王国の未来を考える者ならば、この場で何が語られ、誰がどの方向を向いているのかを知る必要がある。


 彼女の視線は自然とルイへ向かっていた。


 あれこそが王族の姿だと、ミリアは思う。


 国を背負う覚悟があり、民を思う責任があり、己の立場に酔わず、静かに務めを果たす。華やかな王子ではなく、未来の王として必要な重さをすでに受け入れている。その姿には敬意を抱かずにはいられなかった。


 だが、同じ王家に生まれながら、まるで正反対の評判を持つ人物がいる。


 第二王子、アラン・ヴァルタイン。


 その名を思い浮かべただけで、ミリアの眉間にわずかな皺が寄った。


 噂は以前から聞いていた。政務に興味を示さず、稽古にも真面目に出ず、酒と女と気まぐれを好み、夜会では貴族令嬢に軽薄な言葉を投げかける。王位継承に関心がないと言えば聞こえはいいが、実際には責任から逃げているだけ。多くの貴族が彼を「駄王子」と呼び、陰では「王家の恥」とまで囁いている。


 無論、噂を鵜呑みにするつもりはない。ミリアは物事を自分の目で確かめる性格だった。だが、これまで遠目に見たアランの姿は、その噂を覆すものではなかった。


 そして今夜も、彼は期待を裏切らなかった。


「いやあ、困ったな。こんなに美しい方々に囲まれては、どの花に見惚れればいいのか分からない」


 大広間の反対側から、軽薄な声が聞こえてきた。


 銀の髪を持つ青年が、数人の令嬢に囲まれて笑っている。彼が纏っている礼装は一目で上質なものだと分かるが、着こなしはどこか緩い。襟元はわずかに崩れ、外套もきっちりと留められてはいない。背筋は伸びているのに、立ち姿にはあえて気だるさを混ぜているようにも見えた。


 青い瞳は美しい。顔立ちも整っている。黙って立っていれば、さぞ令嬢たちの噂になったことだろう。


 だが、その口から出る言葉がすべてを台無しにしていた。


「アラン殿下は本当にお上手ですこと」


「本心だよ。僕ほど正直な王子はいないからね」


 令嬢たちは笑っていた。だが、その笑いには本気の好意ばかりではない。面白がっている者。軽蔑を隠している者。第二王子という立場を利用価値として眺めている者。反応はそれぞれだった。


 アランはそのすべてを気にしていないように見えた。杯を片手に、気楽な笑みを浮かべ、誰かの冗談に大げさに肩をすくめてみせる。


 ミリアは静かに息を吐いた。


「あれが、アラン殿下……」


 声に出すつもりはなかった。だが、思わず漏れた呟きに、隣にいた侍女が小さく身を固くする。


「ミリア様」


「分かっているわ。ここでは滅多なことを口にするものではないものね」


 ミリアは表情を戻した。公爵令嬢として、感情を顔に出しすぎることは許されない。だが、心の中に浮かんだ失望までは消せなかった。


 ルイ王太子があれほど国を背負っているというのに、弟である彼は何をしているのか。


 王族に生まれた者には、生まれながらに責任がある。本人が望んだかどうかではない。高い場所に立つ者は、その分だけ多くのものを背負わなければならない。少なくともミリアは、そう教えられて育ってきた。


 だからこそ、アランの振る舞いは許しがたかった。


 不真面目であることそのものが問題なのではない。責任から目を逸らしているように見えることが、彼女には耐え難かった。


 その時、アランの視線がふとこちらへ向いた。


 ほんの一瞬だった。


 令嬢たちに囲まれ、気楽に笑っていたはずの青い瞳が、まるで鋭い刃のように空気を裂いた気がした。大広間の喧騒の奥にあるものを、誰よりも早く見抜いているような眼差し。眠そうな笑みの裏に、冷えた知性が覗いたような錯覚。


 ミリアは思わず息を止めた。


 しかし次の瞬間、アランはまた軽薄な笑みに戻っていた。


「おや、あちらにも美しい花が咲いているね。だが、今の僕が近づいたら、きっと棘で刺されてしまいそうだ」


 そう言って、彼は肩をすくめる。周囲の令嬢たちがくすくすと笑った。


 ミリアは目を細めた。


 今の視線は何だったのか。


 ただの気のせいか。光の角度か。あるいは、自分が噂の人物を警戒しすぎていたせいか。


 そう考えながらも、胸の奥に小さな違和感が残った。


 アラン・ヴァルタイン。


 ただの愚か者に見える。いや、少なくともそう見せるのは上手い。


 その考えが浮かんだ瞬間、ミリアは自分で自分を戒めた。見せる、などという言葉を使う必要はない。彼はただ、噂通りの駄王子である。それ以上でも以下でもない。


 大広間の奥で、楽団の曲が変わった。


 人々の流れが少し変わり、数組の男女が踊りの輪へと向かう。その華やかな動きに紛れるように、黒衣の使用人が一人、壁際を静かに通り過ぎた。


 誰も気に留めない。


 王城には多くの使用人がいる。夜会の間、給仕や案内役が行き交うのは自然なことだった。だが、その使用人の歩みはあまりに静かだった。足音がしない。視線も動かない。顔は伏せられ、手には銀の盆がある。


 アランは杯を口元へ運びながら、その影を見た。


 笑みは崩さない。視線も向けない。ただ、指先だけが杯の縁を軽く叩いた。


 一度。二度。間を置いて、三度。


 大広間の柱の影に立っていた黒髪の侍女が、わずかに瞳を動かした。


 レム。


 アランの専属侍従であり、王城の使用人たちに紛れていてもなお、どこか隙のない気配を纏う女だった。黒髪を高く結い、赤い瞳を静かに伏せている。夜会の場ではただの侍女に見える。だが、その指先には常に剣の距離が宿っていた。


 レムはアランを見なかった。命令を受けた素振りも見せなかった。ただ、給仕の流れに合わせるように一歩下がり、次の瞬間には人混みの向こうへ消えていた。


 アランは笑いながら、令嬢の言葉に応じる。


「殿下は今夜、どなたかと踊られないのですか?」


「僕と踊ると評判が落ちるかもしれないよ」


「それは困りますわね」


「だろう? だから僕は、こうして壁の花ならぬ壁の雑草として夜会を楽しむことにしている」


 また笑い声が起きた。


 その笑いの裏で、ひとつの影が大広間を抜けた。


 王城の西回廊は、夜会の喧騒から離れると急に冷たくなる。窓の外には月明かりに照らされた中庭が広がり、噴水の水音だけがかすかに響いていた。黒衣の使用人は足早に回廊を進む。だが、角を曲がった先で、その足が止まった。


「どちらへ?」


 声は静かだった。


 レムがそこに立っていた。侍女の姿のまま、両手を前で揃え、礼儀正しく微笑んでいる。だが、その赤い瞳には一切の温度がなかった。


 黒衣の使用人は答えなかった。


 次の瞬間、銀の盆が宙を舞った。盆の裏に隠されていた短剣が月光を反射し、鋭い光を放つ。だが、その刃がレムに届くことはなかった。


 金属音が一度、短く響く。


 レムの手には、いつの間にか細剣が握られていた。侍女服の裾がわずかに揺れ、黒衣の男の短剣が床へ落ちる。


「夜会の最中です。あまり騒がしくなさらないでください」


 その声は丁寧だった。あくまで侍女としての礼を保っている。だが、男はその一言で理解した。逃げ場はない。


 彼が身を翻そうとした瞬間、回廊の反対側から小さな影が現れた。


「逃げ道、そっちは閉鎖済みだよ」


 リィナだった。


 小柄な少女は、壁に背を預けながら一枚の紙片をひらひらと振っている。その表情には年齢に似合わない狡猾さがあった。


「西門の通行証、偽物。厨房に紛れた人数、三人。うち二人はもう捕まってる。残りは君だけ」


 黒衣の男の顔が歪んだ。


 その背後の影が、音もなく濃くなる。


 ゼイドがいた。


 黒い外套を纏った寡黙な男は、まるで最初からそこに存在していなかったかのように現れた。男の首筋に冷たい刃が添えられる。


「動くな」


 短い言葉だった。


 それだけで十分だった。


 黒衣の男は膝をついた。レムは細剣を下ろし、表情を変えぬまま男を見下ろす。


「何者ですか」


 問いではなかった。


 男は答えない。だが、その沈黙こそが答えだった。


 リィナは紙片を畳みながら、小さく肩をすくめた。


「今夜の狙いは王太子殿下じゃないね。たぶん、王城内の誰かとの接触。暗殺より伝達かな」


「証拠は?」


「厨房裏の荷箱に暗号文。まだ全部は読めてないけど、蛇の印があった。かなり古い形式。黒蛇の中でも上の連中が使うやつ」


 レムの瞳がわずかに細くなる。


黒蛇


それは、王都の裏側でひそかに囁かれている名だった。

盗賊団でも、暗殺者の集まりでも、単なる反王国組織でもない。表向きには存在しないはずの者たち。だが、不自然な失踪、裏取引、貴族同士の不可解な衝突、その陰には必ずと言っていいほど、黒蛇の影があると噂されていた。

誰が率いているのか。どこに拠点を置いているのか。目的は何なのか。

それを知る者は少ない。

ただひとつ確かなのは、黒蛇に目をつけられた者は、いつの間にか道を失い、味方を失い、最後には自分の立っている場所さえ分からなくなるということだった。

まるで、闇の中を這う蛇のように。

音もなく近づき、気づいた時には、すでに毒が回っている。


「アラン様に報告を」


「もう気づいてるよ、あの人は」


 リィナが呆れたように言った。


「あの大広間で笑いながら、ここまで読んでる。ほんと嫌になるくらい性格悪いよね」


「主への言葉を慎みなさい」


「はいはい。忠義の侍女様は怖いなぁ」


 軽口を叩きながらも、リィナの手は止まらない。男の袖口、靴底、襟の縫い目まで素早く調べ、隠された紙片を見つけ出す。その手際は、少女という外見からは想像できないほど正確だった。


 ゼイドは無言で男を拘束する。その動きには一切の無駄がない。影狼の暗殺担当。影に溶け、影から現れ、必要な時だけ刃となる男。


 王国の表には存在しない者たち。


 だが、彼らは確かに王国を守っていた。


 大広間では、まだ夜会が続いている。


 アランは笑っていた。誰かの冗談に気の抜けた返事をし、杯を揺らし、時折あくびを噛み殺すような仕草までしてみせる。


 貴族たちは彼を見て笑う。


 あれが第二王子か。ルイ殿下とは比べものにならない。王位に近づけてはならない男だ。そう囁く声が、華やかな音楽の隙間に混ざっていた。


 アランはそのすべてを聞いていた。


 聞こえていないふりをしていただけだ。


 そして、彼の視線は一度だけルイへ向かった。


 王太子は貴族たちに囲まれながらも、わずかに弟を見た。二人の視線が交わる時間は、瞬きほどに短かった。だが、それだけで十分だった。


 ルイは何も言わない。


 アランも何も言わない。


 それでも、二人の間には確かな信頼があった。


 表の王は、光の中で国を背負う。


 裏の王子は、笑われながら影を統べる。


 どちらか一方だけでは、この国は守れない。ルイがいるから、アランは影に立てる。アランがいるから、ルイは光の中で王でいられる。


 兄上の国を守る。


 それはアランにとって、幼い頃から変わらぬ誓いだった。


 その時、ミリアが近づいてきた。


 アランは気づいていたが、あえて気づかないふりをした。彼女の足取りには迷いがない。公爵令嬢らしい品位と、相手を見極めようとする鋭さがある。


「アラン殿下」


 声をかけられ、アランはゆっくりと振り返った。


「これはこれは、ランバール公爵令嬢。今宵の月よりも眩しい方に声をかけられるとは、僕もまだ運に見放されてはいないようだ」


 ミリアの表情は動かなかった。


「そのようなお世辞は不要です」


「おや、手厳しい」


「殿下は、いつもそのように振る舞われるのですか」


 周囲の空気がわずかに変わった。令嬢たちが会話を止め、近くの貴族たちも興味深そうに視線を向ける。公爵令嬢ミリアが第二王子に正面から問いかけている。その構図だけで、十分に注目を集めるものだった。


 アランは困ったように笑った。


「そのように、とは?」


「ご自分の立場を、軽く扱っておられるように見えます」


 直球だった。


 周囲の空気がさらに張り詰める。普通ならば、王族に向けるには鋭すぎる言葉だ。だが、ミリアは怯まなかった。彼女の青い瞳は、真っ直ぐにアランを見ている。


 アランはその目を見返した。


 静かな瞳だと思った。


 怒りだけではない。失望だけでもない。彼女は本気で王国の未来を案じている。だからこそ、王族でありながら責任を果たさぬように見える自分を許せないのだろう。


 真っ直ぐな人間だ。


 そして、真っ直ぐであるがゆえに、今のアランとは相容れない。


「軽く扱っているつもりはないよ」


 アランは笑みを浮かべたまま答えた。


「ただ、僕のような者が真面目な顔をしたところで、誰も喜ばないだろう?」


「喜ばれるために王族でいるのですか」


 その言葉に、アランの周囲にいた者たちが小さく息を呑んだ。


 アランは一瞬だけ目を伏せた。


 もし、彼女がもう少し違う形で自分と出会っていたなら。


 そんな考えが、ほんのわずかに胸をよぎる。


 だが、すぐに消した。


 今の自分に必要なのは、理解されることではない。笑われることだ。侮られることだ。敵にも味方にも、第二王子アランは大した男ではないと思わせることだ。


 そのために、彼はここにいる。


「そうかもしれないね」


 アランは軽く肩をすくめた。


「少なくとも、僕は兄上のようにはなれない。なら、僕なりに迷惑をかけない生き方をするだけさ」


 ミリアの瞳に、明確な失望が浮かんだ。


「残念です」


 短い言葉だった。


 だが、それはどんな罵倒よりも鋭かった。


「ルイ殿下があれほど国のために尽くしておられるのに、弟であるあなたがそのようなお考えとは」


「まったく、耳が痛い」


 アランは笑った。


 笑うしかなかった。


 ミリアはそれ以上何も言わず、静かに一礼した。礼儀は完璧だった。だが、その瞳にはもう関心すら薄れているように見えた。


 彼女が去った後、周囲には微妙な沈黙が残った。


 アランは杯を掲げる。


「いやはや、今夜は強い花に刺されてしまった。誰か、傷心の王子に甘い菓子でも恵んでくれないかな」


 緊張が笑いに変わる。


 またいつもの駄王子だと、周囲は受け取った。


 その中で、ルイだけが静かに弟を見ていた。


 夜会が終わりに近づく頃、王城の屋上庭園には冷たい風が吹いていた。喧騒は遠く、ここまで届く音はかすかな楽の残響だけだった。


 アランは一人、欄干にもたれて王都を見下ろしていた。


 無数の灯が広がっている。商家の明かり、民家の窓、夜警の篝火。それらすべてが、彼にとって守るべきものだった。


「お疲れ様でした」


 背後から声がした。


 レムが膝を折って控えている。夜会用の侍女服のままだが、その表情にはすでに任務を終えた静けさが戻っていた。


「報告を」


「黒蛇の下級構成員を一名拘束。厨房に紛れていた二名も確保済みです。暗号文を押収。リィナが解析に入っています」


「標的は?」


「王太子殿下ではありません。王城内部の協力者との接触が目的と思われます」


 アランの笑みが消えた。


 夜会で見せていた軽薄さは、そこには欠片もない。青い瞳は冷たく澄み、王都の闇を見透かすようだった。


「やはり、内側にいるか」


「はい」


「黒蛇が王城の中に手を伸ばしている。しかも、今夜の動きは雑だ。探りを入れたというより、誰かが焦っている」


 レムは静かに頷いた。


「ルイ殿下には」


「まだ伝えるな。兄上は表で背負うものが多すぎる。確証が取れるまでは、こちらで潰す」


「承知しました」


 アランは王都へ視線を戻した。


 光の下で笑う民。眠る子ども。明日の商いを考える商人。畑から届く荷を待つ市場。兵士たちの家族。そうした無数の日常が、この国を形作っている。


 王とは何か。


 玉座に座る者だけが王なのか。


 民に名を呼ばれ、歓声を浴び、歴史に残る者だけが国を守るのか。


 アランはそうは思わない。


 兄が光の中で王になるのなら、自分は影でいい。


 誰にも知られず、誰にも称えられず、駄王子と笑われながらでも構わない。兄が王として立ち続けられるなら、この国が明日も変わらず朝を迎えられるなら、それでいい。


「ミリア・ランバール様は、殿下を強く軽蔑しておられるようでした」


 レムが淡々と言った。


 アランは苦笑した。


「見事に嫌われたね」


「よろしいのですか」


「いいさ。彼女は正しい。あれだけを見れば、僕はただの不真面目な王子だ」


「しかし」


「レム」


 アランは穏やかに名を呼んだ。


 それだけで、レムは口を閉じる。


「理解されることを望んだら、この役目は務まらない」


 夜風が銀の髪を揺らした。


 アランは王都を見下ろしながら、静かに続ける。


「僕は兄上の国を守る。そのためなら、駄王子で十分だ」


 レムは何も言わず、深く頭を下げた。


 その姿を見て、アランはまた少しだけ笑った。夜会で見せていた軽薄なものではない。疲れを滲ませた、けれど揺るがない笑みだった。


 その頃、王城の別棟にあるランバール公爵家の控室で、ミリアは父と向き合っていた。


 公爵は静かに椅子に腰かけ、娘の話を聞いていた。白髪交じりの髪を整えたその男は、王国でも名高い重臣である。温厚に見えるが、一度決めたことは容易に曲げない人物でもあった。


「お父様」


 ミリアは抑えた声で言った。


「やはり、私には理解できません」


「何がだ」


「アラン殿下のことです」


 公爵は答えなかった。


 ミリアは言葉を選びながらも、胸の内にある失望を隠しきれなかった。


「あの方は、王族としての責任をあまりに軽く考えておられます。ルイ殿下が国を背負っておられる今、第二王子であるならば支えるべきです。それなのに、夜会でのあの振る舞いは……」


「駄王子に見えたか」


 父の言葉に、ミリアは一瞬口を閉ざした。


 あまりに直接的だった。


「……はい」


「そうか」


 公爵は短く答えた。


 それだけだった。


 ミリアは眉を寄せる。


「お父様は、なぜあの方を気にかけておられるのですか」


 公爵は窓の外へ視線を向けた。


 そこからは、王城の塔と夜空が見える。月明かりの下で、城は静かに佇んでいた。


「ミリア」


「はい」


「お前には、アラン殿下との婚約を進める」


 時間が止まったようだった。


 ミリアは父の言葉をすぐには理解できなかった。いや、理解したくなかった。


「……今、何とおっしゃいましたか」


「アラン・ヴァルタイン第二王子との婚約だ」


「お父様」


 声が震えた。


 怒りではない。困惑と失望と、信じられないという思いが混ざっていた。


「なぜですか」


「必要だからだ」


「必要、とは何がですか。ランバール公爵家にとってですか。それとも王家にとってですか」


「その両方だ」


 父の声は静かだった。


 だが、そこには一切の迷いがない。


 ミリアは立ち上がった。


「私は嫌です」


 はっきりと言った。


「私は、王族としての責任を持たない方の妻になるつもりはありません。公爵家の娘として、王国の未来に関わる婚姻が個人の感情だけで決まるものではないことは理解しています。ですが、それでも、あの方だけは……」


「ミリア」


 公爵は娘の名を呼んだ。


 叱る声ではなかった。だが、その一言には不思議な重さがあった。


「婚約は決定事項だ」


 ミリアは息を呑んだ。


 父は普段、娘の意見を尊重する。学問にも、社交にも、政治への関心にも理解を示してくれた。だからこそ、これほど一方的に告げられるとは思っていなかった。


「理由を、お聞かせください」


「今は言えん」


「なぜですか」


「言えない理由がある」


「それでは納得できません」


「納得できずとも、受け入れなければならないことはある」


 ミリアの胸に、鋭い痛みが走った。


 父が何かを隠していることは分かった。だが、それが何なのかは分からない。アランに何か価値を見出しているのか。それとも、王家との関係を深めるためだけなのか。どちらにしても、ミリアには到底受け入れがたい話だった。


「お父様は、私をあの方に嫁がせたいのですか」


 公爵はしばらく黙っていた。


 そして、静かに答えた。


「お前だからだ」


「……意味が分かりません」


「いつか分かる」


「その言葉ほど、今の私にとって残酷なものはありません」


 ミリアは深く一礼した。


「失礼いたします」


 公爵は止めなかった。


 扉が閉まる音が、静かな控室に残る。


 一人になった公爵は、窓の外を見つめた。


 遠く、王城の屋上庭園に小さな人影が見えた気がした。銀の髪を持つ第二王子。夜会では怠惰に笑い、貴族たちから侮られていた青年。


 だが、ランバール公爵は知っている。


 かつて一度だけ、彼は見た。


 誰もいないはずの王城の裏庭で、アランが剣を振るう姿を。


 それは稽古ではなかった。舞でもなかった。人の命を奪うための剣であり、人を守るために磨かれた剣だった。王国の騎士団長でさえ容易には届かぬ高みに、その若き第二王子はすでに立っていた。


 さらに、その後に知った。


 王都で密かに潰された犯罪組織。表に出ることなく消えた反王家派の陰謀。誰にも知られず守られた要人たち。すべての影に、第二王子の気配があった。


 あれは無能ではない。


 駄王子などではない。


 あの青年は、誰よりも王国の闇を見ている。


 公爵は目を伏せた。


「ミリア。お前なら、いつか気づける」


 それは娘へ向けた言葉であり、同時に自分自身へ言い聞かせる言葉でもあった。


「あの方が背負っているものに」


 夜はまだ深い。


 王城の光は輝き続けている。


 だが、その光を支える影があることを、まだ多くの者は知らない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ