46話 病床の王
王城の奥にある国王の寝所は、昼でも薄暗い。
重いカーテンは半分だけ開かれ、細い陽光が床に落ちている。香炉には薬草がくべられ、空気には苦みのある匂いが混じっていた。控えの侍女たちは声を潜め、侍医は足音すら立てぬように動く。
国王アルバート・ヴァルタインは、寝台の上で静かに目を閉じていた。
眠っているようにも見える。
だが、彼の指先は、掛布の上でかすかに動いていた。
扉の向こうで、足音がひとつ止まる。
侍従長のものではない。侍医のものでもない。王の寝所に出入りする者たちは、長く仕えるほど足音に癖が出る。アルバートはその癖を、顔を見るより先に覚えていた。
今の足音は軽い。
それでいて、止まる位置が正確すぎる。
扉が静かに開いた。
「陛下、お薬の時間でございます」
若い声だった。
控えの侍医の助手として最近入った男だ。名は、確かラトル。薬草の扱いに長けていると、侍医が推薦した者だった。
アルバートはゆっくりと目を開けた。
「……侍医は」
「ただいま薬室に。先にこちらを、と」
ラトルは小さな盆を手にしていた。白い陶器の杯。いつもの薬湯と同じ色をしている。苦い匂いも同じだ。
同じすぎる。
アルバートは杯を見た。
「置いておけ」
「冷める前にお飲みいただくよう、侍医より」
「余は、置けと言った」
声は弱い。
それでも、その一言で部屋の空気は沈んだ。
ラトルは一瞬だけ目を伏せた。従順に見える仕草だったが、指先にわずかな硬さがある。
「失礼いたしました」
彼は盆を卓へ置いた。
その時、視線が部屋の奥へ滑った。
壁際の古い文箱。
王家の紋が入った、黒い箱だ。
アルバートはその視線を見逃さなかった。
「珍しいか」
「いえ」
「若い者は、古い箱など見ても退屈だろう」
「王家のものですので」
返しは丁寧だった。
丁寧すぎた。
アルバートはかすかに笑った。
「そうか。では、退がれ」
「ですが、お薬を」
「退がれ」
ラトルは深く頭を下げた。
扉が閉まる。
足音が遠ざかっていく。
アルバートはしばらく動かなかった。完全に気配が消えたのを待ってから、寝台の横の紐を引く。小さな鈴が、隣室にだけ届く低い音で鳴った。
すぐに侍従長が入ってくる。
年老いた男だった。アルバートが王太子だった頃から仕えている。背筋は少し曲がったが、目はまだ鋭い。
「陛下」
「侍医を呼べ。今の薬は飲まぬ」
侍従長は杯を見る。
「異物が?」
「まだ分からん。だが、あの若い者は箱を見た」
侍従長の表情が変わった。
「文箱を、でございますか」
「黒蛇は、余の命より先に知りたいものがあるらしい」
「すぐに捕らえます」
「待て」
アルバートは短く止めた。
侍従長が足を止める。
「泳がせろ。あれ一人で来たとは思えぬ。侍医の推薦にも手が入っているかもしれん」
「では、侍医も疑うと」
「疑うのではない。確かめる」
アルバートは息を整えた。
少し話すだけで、胸の奥が軋む。だが、今は眠っている場合ではなかった。
「ルイを呼べ。ただし、表向きは水門の件の報告でよい。大げさにするな」
「承知いたしました」
「それから」
王の目が、黒い文箱へ向く。
「あれを、書庫の奥へ戻すな。今夜、余の前へ」
侍従長は一瞬だけ迷った。
「陛下のお身体では」
「身体の話をしているのではない」
それ以上の言葉は不要だった。
侍従長は深く頭を下げる。
「御意に」
部屋が再び静かになる。
アルバートは窓の向こうを見た。
薄い陽光の先に、王都の尖塔が見える。彼が若い頃から見てきた景色だった。王になった日も、ルイが生まれた日も、アランの銀髪を初めて見た日も、この城の石壁は変わらずそこにあった。
だが、今は違う。
城は、外からだけでなく内からも削られている。
水門。
山岳領。
偽文書。
そして、王の寝所。
黒蛇は、王都を閉じる前に王家の根を探っている。
ならば、こちらも動かねばならない。
大きくではない。
まだ、その時ではない。
だが、王として残すべきものがある。
昼過ぎ、ルイは国王の寝所へ入った。
彼は入室するなり、卓に置かれた薬湯へ視線を落とした。それが飲まれていないことに気づき、表情をわずかに引き締める。
「父上」
「水門は」
「被害は抑えました。水門番の判断が早かった。流通も完全には止めていません」
「そうか」
アルバートは短く答えた。
それだけで、少し安心したようだった。
ルイは寝台のそばへ寄る。
「お薬に、何か」
「まだ分からん」
「調べさせます」
「調べさせろ。ただし、騒ぐな。王が毒を疑ったと広がれば、それも黒蛇の餌になる」
「承知しました」
ルイの返事は早い。
迷いはなかった。
アルバートはその顔を見て、目を細めた。
「王太子の顔になったな」
「まだ足りません」
「足りぬと思えるなら、今は十分だ」
ルイは答えなかった。
父の言葉を、そのまま受け取るには状況が重すぎた。
侍従長が、黒い文箱を運んできた。寝台の横の卓に置かれる。王家の紋。古い鍵。金具はくすんでいるが、丁寧に手入れされていた。
アルバートは文箱へ手を伸ばした。
指が震える。
ルイがすぐに支えた。
「父上」
「開けろ」
ルイは鍵を受け取り、ゆっくりと錠を回した。
中にあったのは、数枚の古い羊皮紙と、赤い封蝋の小箱だった。剣でも宝石でもない。だが、その場にあるどんな武器より重く見えた。
「王家に伝わる古い記録だ」
アルバートの声は低い。
「黄金の王と、銀の守護者についてのものですか」
「知っているか」
「断片だけは。アランからも、山岳領とラウゼンの報告からも」
「なら、余が長く黙っていたことも分かるな」
ルイは静かに頷いた。
古い誓約は強すぎる。
出し方を誤れば、王家を守るどころか割る。銀の名は、アランを守る盾にもなれば、反逆の旗にも見える。
黒蛇はそこを狙っている。
「父上は、なぜ今これを」
「黒蛇が探りに来た」
アルバートは文箱の中の羊皮紙を見た。
「余が何を知り、何を残すつもりか。それを知りたがっている。つまり、これが奴らの恐れるものだ」
「古い誓約そのものを?」
「違う」
アルバートは首を横に動かした。
「誓約だけなら、奴らは曲げる。偽の文書を作り、銀を反逆に変える。恐れているのは、王家が正しい形でそれを認めることだ」
ルイの目が動いた。
「アランの行動が反逆ではないと、王の名で示すこと」
「それも一つだ」
アルバートは息を吸う。
少し咳き込み、ルイが水を取ろうとしたが、彼は手で止めた。
「ルイ。アランを疑うな」
「疑いません」
返事は、考える前に出ていた。
アルバートはかすかに笑う。
「早い」
「そこは迷うところではありません」
「なら、よい」
父の目に、わずかな温かさが宿る。
だがすぐに、王の目に戻った。
「だが、周囲は迷う。貴族も、兵も、民も。黒蛇はお前たちが疑い合わずとも、周囲を割ればよいと考える」
「分かっています」
「だから、残す」
アルバートは赤い封蝋の小箱を指した。
「王印を使う。今すぐ公表するものではない。だが、いずれ必要になる」
「王印文書を、今から?」
「余がいつまで筆を持てるか分からん」
ルイは何も言えなかった。
その沈黙に、アルバートは怒らなかった。
彼自身が一番よく分かっている。
残された時間は多くない。
だが、だからこそ焦ってはいけない。
「文面は短くてよい」
アルバートは続けた。
「ルイ・ヴァルタインが正統な王太子であること。銀の髪を持つ第二王子の行動は、王位を奪うためではなく、王国防衛のためであること。古い誓約は王位争いの道具ではないこと。蒼狼の名を騙る者は、王家と王国の敵であること」
「父上」
「まだ足りんか」
「いえ」
ルイは首を振った。
「強すぎます」
「だから、今は出さぬ」
アルバートの声は静かだった。
「切るべき時まで、隠せ」
ルイは文箱の中の羊皮紙を見つめた。
この文書が必要になる時。
それは、王都がただ噂に揺れる程度ではない。もっと大きな危機が訪れ、アランの行動が王国中から疑われる時だ。
その時、父はこの文書で道を作ろうとしている。
病床にいながら。
まだ、王として。
「分かりました」
ルイは深く頭を下げた。
「王太子として、お預かりします」
「息子としてではないのか」
アルバートの言葉に、ルイは一瞬だけ表情を揺らした。
「息子としては、休んでいただきたいです」
「なら、王太子として受け取れ」
「……はい」
アルバートは満足したように目を閉じた。
だが、眠ったわけではない。
「アランには、まだ言うな」
「なぜです」
「あれは知れば、自分が火種になると思う。動きが早すぎる」
ルイは苦笑した。
「否定できません」
「お前も似ている」
「私は、アランほど無茶ではありません」
「そう思っているところが似ている」
部屋の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
それでも、外には黒蛇がいる。
王の寝所の近くにまで手が伸びている。
この短い穏やかさも、長くは続かない。
侍従長が戻ってきた。
顔色が硬い。
「陛下。薬湯より、微量の異物が検出されました。ただし、即座に命を奪う毒ではありません」
「何だ」
「眠気と記憶の混濁を誘うもの、と侍医が」
ルイの目が鋭くなる。
「殺すためではない」
「はい。陛下から何かを聞き出す、あるいは署名を取るためかと」
アルバートは静かに笑った。
「分かりやすい」
ルイは笑わなかった。
「ラトルは」
「姿を消しました。現在、近衛が追っています」
「近衛だけでなく、影狼にも」
ルイが言いかけて、止まる。
アランは山だ。
王都に残る影狼も動いているが、アランほど深くは潜れない。今、その穴がはっきりと見えた。
アルバートもそれに気づいた。
「アランがいないと、広いか」
ルイは正直に頷いた。
「広いです。ですが、支えます」
「そうだ」
アルバートは弱った手を、文箱の上へ置いた。
「王は、影がなければ何もできぬわけではない。だが、影があってこそ届く場所がある。それを忘れるな」
「はい」
ルイは文箱を閉じた。
鍵をかける音が、小さく響く。
その音を聞きながら、アルバートは窓の方へ顔を向けた。
「黒蛇は焦っている」
「焦っているようには見えませんが」
「焦らぬ者は、病人の枕元へ毒を運ばぬ」
ルイはその言葉を胸に刻んだ。
黒蛇は王都を閉じようとしている。
山を揺らし、水門を狙い、王の寝所を探った。
次は、もっと大きく動く。
ならばこちらも、準備を進めなければならない。
同じ頃、王城の裏門近くで、ラトルは外套を深く被って歩いていた。
王城の抜け道は、事前に聞いていた通りだった。薬室の裏から古い搬入口へ抜け、そこから庭師の道へ出る。人目は少ない。
だが、完全にないわけではない。
「急ぐの?」
屋根の上から、軽い声が落ちた。
ラトルは足を止めた。
見上げると、リィナが瓦の縁に座っていた。小柄な体を揺らし、手には小さな紙束を持っている。
「王様の寝所帰りにしては、ずいぶん慌ててるね」
ラトルは返事をしない。
懐へ手を入れる。
次の瞬間、路地の影から影狼の者が二人現れた。逃げ道を塞ぐ位置だ。
ラトルは舌打ちし、懐の紙片を飲み込もうとした。
リィナの投げた小石が、正確に彼の手首を打つ。
紙片が落ちる。
「飲むなら水と一緒の方がいいよ」
軽口とは裏腹に、リィナの目は笑っていなかった。
影狼がラトルを押さえる。
リィナは地面へ降り、落ちた紙片を拾った。そこには、王の寝所の簡単な見取り図と、黒い文箱の位置が記されていた。
そして、端に小さな署名。
エリウス。
リィナはその名を見て、眉を上げた。
「新しい先生かな」
紙片を懐にしまう。
王都に、また別の毒が入り込んでいる。
剣ではなく、文と記録で刺してくる毒だ。
リィナは捕らえられたラトルを見下ろし、静かに言った。
「情報で遊ぶなら、こっちも本気で遊ぶからね」
王城の上には、昼の光が差していた。
だが、その明るさの下で、次の戦いはもう始まっていた。




