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45話 王都の水門

 王都の東水門は、夜明け前が最も静かになる。


 昼間は荷船が行き交い、城下へ水と物資を運ぶ人夫たちの声が響く場所だ。だが、空が白む前のひとときだけは、川面を叩く水音と、見張り兵の足音だけが石壁に反響する。


 その静けさの中で、老いた水門番のベルドは異変に気づいた。


 水の流れが、わずかに重い。


 目で見えるほどではない。門が閉じているわけでも、川が急に濁ったわけでもない。けれど、三十年水門を見てきた男には分かった。流れが、どこかで引っかかっている。


 ベルドは手にした灯りを掲げ、石段を下りた。


 水門の鎖は普段通りに見える。歯車にも油は差されている。だが、下段の排水溝に近づいた時、鼻を突く匂いがした。


 油。


 水場にあってはならない匂いだった。


「誰かいるか!」


 ベルドは声を上げた。


 返事はない。


 代わりに、水門の裏側で小さな金属音がした。


 彼はすぐ笛を吹いた。長く一度、短く二度。水門番だけが使う異常合図だ。兵を呼ぶためではなく、まず水門そのものを止めるための合図だった。


 その判断は早かった。


 石壁の上で見張り兵が走り、東水門の予備鎖が下ろされる。川からの流れが一時的に絞られ、荷船が止まる。水夫たちが怒鳴り声を上げるより先に、ベルドは排水溝の奥へ灯りを向けた。


 そこには、赤い魔石が三つ仕込まれていた。


 油を含ませた布と、細い鉄線。


 火が入れば、水門の木組みと歯車が同時に焼ける。完全に破壊されなくても、数日は動かせないだろう。


 王都の水と荷の流れが、止まる。


 ベルドの背中に冷たい汗が流れた。


「黒蛇だ」


 誰かが呟いた。


 その名が出た瞬間、水門の静けさは消えた。


 王太子執務室に報告が届いたのは、朝議の準備が始まる直前だった。


 ルイは東水門の図面を机に広げさせ、報告を聞いた。ランバール公爵、近衛隊長、そして王都水利局の局長が同席している。誰の顔にも眠気はなかった。


「被害は」


 ルイが問う。


 水利局長は汗を拭いながら答えた。


「未然に防ぎました。水門番ベルドが異常に気づき、予備鎖を落としました。赤い魔石は処理済みです。ただ、油が一部流れ込んでおります。浄化と点検に半日は必要です」


「荷船は」


「止まっています。東側から入る穀物と薬草の一部が遅れます」


 ランバール公爵が地図を指差す。


「昨日の偽報と同時に動いたと見るべきでしょう。山岳領に視線を向けさせておいて、王都の水門を狙った」


「目的は破壊だけではないな」


 ルイは低く言った。


 近衛隊長が頷く。


「水門が止まれば、王都内に不安が広がります。荷が遅れれば商会が騒ぎ、商会が騒げば貴族が動く」


「そして、第二王子と山岳領の件を結びつける者が出る」


 ルイは机の上に置かれた偽報の写しを見た。


 銀の王子が山を動かした。


 古い誓約が目覚めた。


 王都の水門が狙われた。


 黒蛇は、別々の出来事を一つの不安にまとめようとしている。


「東水門は封鎖しない」


 ルイは即座に言った。


 局長が目を見開く。


「しかし、点検が」


「水の流れは絞る。だが完全に閉じるな。荷船は検査した上で、順に通せ。止めきれば、黒蛇の望む通りになる」


「承知しました」


「近衛隊は水門を守れ。ただし、物々しくしすぎるな。王都が閉じられたと思わせるな」


 近衛隊長が一礼する。


「商会へは、王太子府から正式に通達を出す」


 ランバール公爵が言った。


「東水門は点検中。ただし流通は維持。買い占めを煽る者は処罰対象。そう明記します」


「頼む」


 ルイは一瞬だけ窓の外へ目を向けた。


 アランは山にいる。


 ミリアも同じく、山の中で記録を作っている。二人が王都にいない今、こちらはこちらで支えなければならない。


 焦りはあった。


 だが、それを顔に出す時間はない。


「それから、ベルドという水門番を守れ」


 ルイは言った。


「黒蛇は、気づいた者の口を塞ぎに来る」


 近衛隊長の表情が引き締まる。


「すぐ手配します」


 同じ頃、王都東区の商会通りでは、早くも噂が動き始めていた。


 東水門が止まった。


 川が毒を流された。


 山岳領から来る荷が止められる。


 第二王子が古い家々を動かしたせいで、王都が報復を受ける。


 誰も確かなことを知らない。


 だからこそ、言葉だけが先に走る。


 リィナは屋根の上から、その流れを見下ろしていた。


 アランが山へ向かっている間、王都に残された影狼の情報班はいつも以上に忙しくなっている。リィナの手元には、朝から集めた噂の断片が何枚も重ねられていた。


「早いねぇ」


 彼女は小さく呟いた。


 水門の異常が見つかってから、まだ半刻も経っていない。それなのに、第二王子と山岳領の話がすでに混ぜられている。


 自然発生ではない。


 混ぜた者がいる。


 リィナは下の通りへ視線を落とした。


 香辛料商の前で、ひとりの男が大げさに話している。服装は商人風だが、靴が新しい。腰の袋は膨らんでいるのに、足取りが軽すぎる。荷を運ぶ者ではない。


「ひとり目」


 リィナは紙に印をつけた。


 次に、井戸端で女たちへ噂を流している老婆。声は震えているが、言葉の順番が整いすぎている。誰かに教えられた文面だ。


「ふたり目」


 そして、馬車留めで水門封鎖の話を貴族の従者へ耳打ちしている若い男。


「三人目」


 リィナは指笛を鳴らさない。


 代わりに、屋根瓦の上へ小さな黒石を三つ置いた。


 すぐに、路地の影が動く。


 影狼の下位班が散っていった。捕まえるのではない。まずは尾行する。噂を流す口を潰しても、別の口が出てくるだけだ。必要なのは、誰が文句を渡したかだ。


 リィナは王城の方を見た。


「殿下、山で忙しいんだからさ。こっちくらいはこっちでやるよ」


 その声は、誰にも聞こえなかった。


 山岳領へ王都の報が届いたのは、昼を少し回った頃だった。


 アランは城館の外で、クラウディアと支援家の移動経路を確認していた。ミリアはエルンストの承認印を押した記録の写しを整理している。そこへ、影狼の伝令が戻ってきた。


 息を切らしているが、倒れ込むほどではない。山道を走り慣れたヴァイスベルクの道番が同行していたおかげだろう。


「王都東水門に黒蛇の仕掛け。未然に発見。水門番が異常を報告し、被害は軽微。ただし流通に遅れあり。王太子府が対応中」


 アランは短く息を止めた。


「兄上は?」


「王太子府にて指揮。東水門は完全封鎖せず、検査通行へ切り替え。買い占め対策も出しています」


「さすがだ」


 安堵はした。


 だが、状況が軽くなったわけではない。


 黒蛇は王都の腹を狙った。


 山の支援網を切れないなら、王都の流れを止める。ヴァルグらしい、嫌な一手だった。


 ミリアが記録紙を置いて立ち上がる。


「水門番の方は保護されていますか」


 伝令が少し驚いたように彼女を見る。


「王太子殿下が手配済みです」


「なら、よかった」


 彼女の声には、本気の安堵があった。


 異変に気づいた者が消される。それを、ミリアももう理解している。


 クラウディアは地図へ視線を戻した。


「王都が狙われたなら、殿下は戻られるのですか」


 部屋の空気がわずかに止まる。


 アランはすぐには答えなかった。


 王都へ戻りたい。


 兄のそばで、黒蛇の毒を潰したい。


 その思いはある。


 だが、山はまだ途中だ。狼倉の非常道は漏れていた。南峰の支援家も移動しきっていない。ここで自分が抜ければ、黒蛇は山を再び狙うかもしれない。


 エルンストが、静かにアランを見ている。


 試しているのではない。


 山の決断として、彼の答えを待っている。


 アランは伝令の紙を畳んだ。


「戻らない」


 ミリアが彼を見た。


「兄上は王都を閉じさせない。なら、僕は山を閉じさせない」


 短い言葉だった。


 説明は、それ以上いらなかった。


 クラウディアは視線を落とし、地図の南峰を指した。


「では、今夜までに三家の移動を終えます」


「影狼を二名つける。護衛だけ。家名には触れさせない」


「分かっています」


 ミリアも紙を手に取った。


「王都への正式報告に、水門の件を追記します。山岳領と水門破壊は別件ではなく、黒蛇による同時攪乱である可能性が高い、と」


「強く書きすぎると、証拠を求められる」


 アランが言うと、ミリアは頷いた。


「推定として書きます。断定はしません」


 そのやり取りを聞いていたエルンストが、低く言った。


「王都の令嬢は、戦場の言葉を覚えるのが早い」


「まだ間違えます」


「間違えると言えるなら、まだよい」


 それだけ言って、彼は背を向けた。


 山の支援網は、再び静かに動き出した。


 南峰の薬師家は、夜を待たずに保管薬を二つに分けた。ひとつは領都へ。もうひとつは、冬小屋へ運ぶ。鏡守は鏡を布で包み、かわりに空の木箱を古い棚へ置いた。冬小屋の鍵は、持ち主を変えた。


 影狼は前に出ない。


 道の影に立ち、足音を聞き、山の者が荷を運ぶ間だけ背を守る。


 誰も大きな声を出さない。


 銀の名も、蒼狼の名も呼ばれない。


 それでも、道は一本ずつつながっていく。


 その夜、王都東水門では、ベルドが近衛の詰所で温かい茶を飲んでいた。


 彼は不満そうだった。


「わしは水門へ戻る。あそこは若い連中だけでは見落とす」


 近衛兵は困った顔をする。


「王太子殿下のご命令です。今夜はここに」


「殿下は水の音を聞いたことがあるのか」


「それは……」


「水門は音で見るんだ。図面だけでは分からん」


 その時、扉が開いた。


 ルイが入ってくる。


 近衛兵が慌てて姿勢を正す中、ベルドは驚きで茶をこぼしかけた。


「殿下」


「座ったままでいい」


 ルイは老人の向かいに腰を下ろした。


「東水門を救ってくれたこと、感謝する」


「いえ、わしは仕事をしただけで」


「その仕事で、王都は止まらずに済んだ」


 ベルドは言葉に詰まった。


 ルイは続ける。


「明日から、水門番の点検記録を王太子府で直接確認する。図面だけでは分からないと聞いた。あなたの知る音や流れを、若い者へ残してほしい」


 ベルドはしばらく王太子を見つめた。


 やがて、深く頭を下げる。


「分かりました。ですが、字は得意ではありません」


「口でよい。書く者をつける」


「なら、できます」


「頼む」


 ルイは立ち上がった。


 その背を、ベルドが呼び止める。


「殿下」


「何だ」


「水門を狙った連中は、また来ます。あれは壊す仕掛けじゃない。慌てさせる仕掛けです」


 ルイはわずかに目を細める。


「そう見るか」


「水を止めたいなら、もっと深く壊す。あれは、見つかっても騒ぎになる場所に置いてあった。わしには、そう見えました」


 ルイは頷いた。


「貴重な意見だ」


 老人は気まずそうに茶碗を見た。


「年寄りの勘です」


「王都は、そういう勘に助けられている」


 ルイが去った後、ベルドはしばらく黙っていた。


 やがて、小さく呟く。


「若い王子様が、あんな目をするか」


 それは驚きであり、少しの安心でもあった。


 夜が深まる頃、王都の別の場所では、ヴァルグが報告を受けていた。


「東水門は破壊失敗。王太子府の対応により流通は維持。水門番は保護されています」


「殺せなかったか」


「近衛がついています」


「なら、しばらくはよい」


 ヴァルグは地図を見ていた。


 東水門に置かれた小さな黒石を、指先で弾く。石は地図の上を転がり、王都の中央で止まった。


「王太子は、王都を閉じさせない。銀の王子は、山を閉じさせない。令嬢は記録で毒を薄める」


 部下は黙っている。


 ヴァルグは楽しそうに目を細めた。


「なら、次は選ばせる」


「選ばせる、とは」


「王都と山。表と影。兄と弟。守る場所が増えれば、必ず手が足りなくなる」


 彼は王城の印へ指を置いた。


「国王は、まだ動けるのか?」


「病床にあると」


「病床の王ほど、最後に厄介な札を切る」


 ヴァルグの声は低く沈む。


「調べろ。アルバート王の周辺を」


 黒蛇の毒は、水門だけでは終わらなかった。


 王都を閉じるための手は、防がれた。


 だが、蛇はすでに、王の寝所へ目を向け始めていた。


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