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44話 王都へ戻る毒

 王都に最初の紙が届いたのは、夜明け前だった。


 貴族院の通用口に、封のない写しが差し込まれていた。見つけたのは早番の書記官である。彼は最初、それをただの陳情書だと思った。


 だが、表題を見た瞬間、手が止まった。


『山岳領ヴァイスベルクにおける第二王子の不穏な動きについて』


 書記官は顔色を変え、すぐに上役へ届けた。


 その頃には、同じ文面の写しがいくつか別の場所にも置かれていた。財務局の廊下、貴族用馬車留めの控え室、王城へ出入りする御用商人の詰所。誰が最初に見つけたのか分からなくなるように、意図的にばらまかれている。


 内容は短い。


 第二王子アラン・ヴァルタインが、銀の名を掲げて山岳領ヴァイスベルクに入り、古い誓約を理由に支援家を召集した。


 狼倉と呼ばれる秘匿倉を開かせ、山岳領の道・薬師・避難路の記録を掌握した。


 山岳領は表向き沈黙しているが、実際には第二王子に従属しつつある。


 この動きは、王太子府の承認を受けたものなのか。


 最後の一文だけが、妙に丁寧だった。


 疑いではなく、問いの形をしている。


 だからこそ、毒が回りやすい。


 ルイ・ヴァルタインの執務室へその写しが届いた時、すでに朝議の前だった。


 ルイは文面を読み終え、机の上に置いた。


「早いな」


 声に驚きはない。


 ランバール公爵が向かいで頷く。


「山から正式な報告が届くより先に、噂だけを王都へ流したのでしょう」


「今回も、否定を急がせる形か」


「はい。否定すれば、何を知っているのかと探られる。沈黙すれば、認めたと取られる」


 ルイは窓の外へ目を向けた。


 朝の王城は静かだ。だが、石壁の向こうではすでに人々の口が動いているはずだった。噂とは、火より速い時がある。特に、王族と古い軍の名が混じればなおさらだ。


「ミリアからの報告は」


「まだ正式文は届いておりません。ただ、昨夜のうちに短い先触れが来ています」


 公爵は一枚の紙を差し出した。


 そこには、ミリアの筆跡で短く記されていた。


『山岳領にて黒蛇の支援網破壊を確認。兵の召集なし。支援家の名は伏せる。狼倉は武器庫ではなく、避難・薬・道・連絡の記録倉。偽命令書あり。詳細は追って提出』


 ルイはその文を見て、わずかに息を吐いた。


「間に合っている」


「ええ。娘が余計な美文を書かなかったのが幸いしました」


「公爵の娘らしい」


「お褒めの言葉として受け取ります」


 公爵の声は静かだが、目にはわずかな安堵があった。


 ルイは写しを二つ並べた。


 黒蛇の文。


 ミリアの先触れ。


 片方は疑いを広げるための紙。もう片方は、事実を最低限だけ記した紙。


 華やかさはない。


 だが、こちらには重さがある。


「朝議では、山岳領の名を深く出しすぎない」


 ルイは言った。


「黒蛇の狙いは、山の支援家を王都の視線に晒すことだ。守るべき名を、こちらから口にする必要はない」


「では、どう扱われますか」


「第二王子が私兵を召集した事実は確認されていない。山岳領では黒蛇による避難路破壊と偽文書が確認された。王太子府は正式報告を待ち、山岳領と連携して調査中。そこまでだ」


「十分かと」


 ルイは黒蛇の写しを指で押さえた。


「それから、この文をばらまいた者を探る。否定ではなく、出所を問う」


「偽報の持ち主を、王太子府が追う形ですね」


「そうだ。噂ではなく文書として扱えば、責任が生まれる」


 ランバール公爵は少しだけ目を細めた。


「殿下は、アラン殿下を疑う声が出ても動じませんな」


 ルイは公爵を見た。


「疑う理由がありません」


 即答だった。


 公爵はそれ以上何も言わなかった。


 その短さが、かえって答えになっていた。


 同じ朝、グレイストン伯爵邸にも、別の写しが届いていた。


 セリオ・グレイストンは、母と共に小さな応接室でそれを読んだ。父はまだ王太子府の監視下にあり、黒蛇との関わりについて証言を続けている。家の中は以前より静かになったが、その静けさは安らぎではなく、薄氷の上に立つようなものだった。


 セリオは写しの端を見つめる。


 黒いインクの癖。


 文末の整え方。


 そして、銀狼を模した偽の印。


「これ……」


 彼の声が震えた。


 伯爵夫人が顔を上げる。


「知っているの?」


「似ています。父の帳簿にあった古い写しに。いえ、正確には違います。でも、模している」


「黒蛇が帳簿から?」


「おそらく」


 セリオは立ち上がった。


 胸の奥に、恐怖が広がる。グレイストン家が過去に守り、同時に奪われた記録。それが今、アランを陥れるための偽印に使われている。


 また、自分たちの家が毒の入口になる。


 そう思った瞬間、足が止まりそうになった。


 だが、伯爵夫人が静かに言った。


「セリオ」


「はい」


「怖いなら、書きなさい」


 セリオは母を見る。


「沈黙すると、また黒蛇の紙だけが残ります」


 その言葉で、彼は息を吸った。


 そうだ。


 自分はもう、ただ怖がって隠れるだけではいられない。ミリアへ紙片を渡した時も、グレイストン家の帳簿を差し出した時も、恐怖が消えたわけではなかった。


 怖いまま、動いた。


 今回も同じだ。


 セリオは机に向かい、ペンを取った。


『偽の銀狼印について、グレイストン家旧蔵写しとの照合が必要。黒蛇に流出した可能性あり。現物確認を願う』


 短い文だった。


 だが、今のセリオに書ける精一杯だった。


 伯爵夫人はそれを読み、頷く。


「王太子府へ」


「はい」


「それと、ランバール公爵夫人にも。あちらの花籠の符号を使いましょう」


 セリオは驚いたように母を見る。


 伯爵夫人はわずかに微笑んだ。


「証言者は、一つの道だけに頼らない方がいいでしょう?」


 その笑みに、セリオは少しだけ力を得た。


 王城の朝議は、いつもよりざわついていた。


 表向きは通常の議題が並んでいる。北部街道の補修、財務局の支出、王都の治安報告。だが、誰もが別の話を意識している。


 第二王子。


 山岳領。


 銀狼。


 古い誓約。


 口に出す者は少ない。だが、視線と沈黙がそれを物語っていた。


 財務卿が最初に触れた。


「ルイ殿下。山岳領より、不穏な噂が届いております。第二王子殿下が古い家々を動かしたとの文書が出回っているようですが、王太子府は把握しておられるのでしょうか」


 問いは丁寧だった。


 しかし、その中には試す響きがある。


 ルイは静かに答えた。


「把握している。正確には、出回っている文書の存在を確認した」


 室内が静まる。


「では、内容は事実と?」


「現段階で、第二王子が私兵を召集した事実は確認されていない」


 言い切った。


 だが、そこで終わらせない。


「一方で、山岳領において黒蛇が避難路と支援家の記録を狙った形跡がある。偽の命令書も確認されたとの先触れが届いている。王太子府は、山岳領と連携し、事実を確認する」


 財務卿は眉を動かした。


「黒蛇、でございますか。またその名が」


「また、だ」


 ルイの声は穏やかだった。


「ラウゼンでも、グレイストン家でも、同じ毒が使われた。今回も文書が事実より先に王都へ届いている。偶然と見るには、少々整いすぎている」


 その言葉に、何人かの貴族が視線を伏せた。


 疑いを口にしたい者はいる。


 だが、ここで不用意にアランを責めれば、黒蛇の文書を信じた側に立つことになる。それは避けたい。ルイはそこを押さえていた。


 別の文官が控えめに尋ねる。


「では、出回った文書はどう扱われますか」


「王太子府へ提出させる。所持している者は、写しでも構わない。いつ、どこで受け取ったかも添えよ。出所を調べる」


 朝議の空気が変わった。


 噂話ではなく、証拠物として扱われる。


 そうなれば、軽く口にした者も責任を問われる。


 ルイは続けた。


「第二王子の動きについては、正式報告を待つ。山岳領の支援家に関わる名や場所を、興味本位で口にすることは禁じる。黒蛇が狙っているのは、まさにそこだ」


 財務卿はわずかに唇を引き結んだ。


「承知いたしました」


「それから」


 ルイは部屋を見渡した。


「王都は山を疑う前に、王都へ毒が戻ってきた経路を疑うべきだ」


 誰もすぐには返事をしなかった。


 朝議が終わる頃には、出回った文書の扱いが変わっていた。


 昨日までなら、貴族たちは写しを隠し持ち、噂を育てていただろう。だが、王太子府が提出を求めたことで、持っていること自体が軽い火種になった。


 燃え広がる前に、ルイは火の色を変えたのだ。


 その昼過ぎ、王太子府へグレイストン家からの書簡が届いた。


 ルイはセリオの短い文を読み、すぐにランバール公爵へ渡した。


「やはり、偽印に旧記録が使われている可能性がある」


「グレイストン家の証言が役に立ちますな」


「守って正解だった」


 ルイは静かに言った。


「セリオ殿を呼ぶ。ただし、表向きは文書照合の協力者として。証言者だと大きく出せば、黒蛇がまた狙う」


「承知しました」


 公爵は一礼し、部屋を出ようとした。


 そこで、ルイが呼び止める。


「公爵」


「はい」


「ミリア嬢は、よくやってくれている」


 公爵の表情が、一瞬だけ父親のものになった。


「無茶はしておりませんか」


「しているだろうな」


「でしょうな」


 二人は短く沈黙した。


 心配はある。


 だが、山で彼女が書いた一枚が、王都の毒を遅らせたのも事実だった。


「戻ったら、叱ります」


「私からも礼を言う」


「その前に叱ります」


 ルイは少しだけ笑った。


 山岳領では、その頃、ミリアが王太子府へ送る正式記録の読み上げをしていた。


 小さな会議室に、エルンスト、クラウディア、シェラ、オルド、南峰の支援家代表が集まっている。アランは壁際に立ち、黙って聞いていた。


 ミリアの声は、少しかすれていた。


 それでも、読み上げる文は崩れない。


「山岳領南避難路において、黒蛇と思われる者が避難民に紛れ、赤い魔石および油壺を用いて南貯蔵庫を焼損させようとした。採石村の民の一部は脅迫により荷運びを強要されたが、現時点で黒蛇への自発的協力とは認めない」


 南峰の若い夫婦が息を呑む。


 ミリアは続ける。


「狼倉に侵入した者は、支援家の役目に関する記録を写そうとし、第二王子名義の偽命令書を残そうとしていた。偽命令書の目的は、山岳領が第二王子に従属したとの誤認を王都へ広げることにあると推定される」


 エルンストが小さく頷いた。


 そこに過不足はない。


 アランの名を完全に消していない。だが、彼が山を動かした形にもしていない。黒蛇の手口と目的を、必要な範囲で示している。


 読み終えた後、ミリアは紙を置いた。


「修正があれば、お願いします」


 沈黙が落ちる。


 最初に口を開いたのは、シェラだった。


「採石村の者を、裏切り者と書かなかったのはよい」


 次にオルドが言う。


「薬師家の位置が分かる文はない。問題ありません」


 クラウディアはしばらく考え、ひとつだけ指摘した。


「狼倉という名は、王都に出さない方がいいかもしれません」


「では、『山岳領支援記録倉』に変えます」


「お願いします」


 ミリアはすぐに直す。


 エルンストは最後まで黙っていた。


 やがて、彼は自分の印章を取り出した。三つの峰と狼の紋。その印を、ミリアの記録の末尾に押す。


 重い音が、紙の上に落ちた。


「これを王太子府へ」


「承知しました」


 ミリアは深く頭を下げた。


 アランは横でそれを見ていた。


 剣で勝ったわけではない。


 敵を全て捕らえたわけでもない。


 だが、この紙が王都へ届けば、黒蛇の毒は薄まる。山の名も、避難民の名も、支援家の名も守られる。


 そういう戦い方がある。


 ミリアはそれを選んだ。


 夕暮れ、山から王都へ向かう伝令が出た。


 影狼の者が一人、ヴァイスベルクの道番と共に走る。持っているのは、封じられた記録と、エルンストの承認印。そして、ミリアの短い私信。


 その私信の宛先は、父ではなくルイだった。


『王太子殿下へ。山は兵を出していません。ですが、支援網は生きています。これを黒蛇に奪わせないため、記録を送ります』


 山の夜は早い。


 陽が沈むと、谷から冷気が上がる。


 アランは城館の外で、遠ざかる伝令の灯りを見送っていた。クラウディアが隣に立つ。


「王都は、信じますか」


「兄上は信じる」


「他の者は?」


「信じたいものを信じる」


「厄介ですね」


「山も同じじゃない?」


 クラウディアは少しだけ黙り、やがて頷いた。


「同じです」


 遠くの峰で、小さな灯りが一つ動いた。


 支援家へ送られる、音のない合図。


 軍勢ではない。


 しかし、山は確かに動いている。


 その頃、王都の裏通りでは、ヴァルグが王太子府の対応を聞いていた。


 部下が膝をつき、低く報告する。


「噂は広がりきる前に、文書提出の命が出ました。グレイストン家も偽印について動いています」


「そうか」


 ヴァルグは怒らなかった。


 灰色の瞳に、薄い興味が浮かぶ。


「王太子は火を消すのが早い。山には記録を書く令嬢。銀の王子は名を求めない」


「失敗でしょうか」


「いいや」


 ヴァルグは静かに笑った。


「毒は完全に回らずとも、味は残る。第二王子と山岳領、古い誓約。その三つが同じ紙に並んだ。それだけで、次の種になる」


「次は」


「王都の中で育てる」


 彼は机の上に置かれた別の地図へ視線を落とした。


 王都の外郭。


 商会の倉庫。


 貴族院。


 そして、王城の水門。


「山が閉じぬなら、王都を閉じればいい」


 その言葉は、闇の中で静かに落ちた。


 黒蛇の毒は、まだ尽きていなかった。


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