43話 山の評定
山の評定は、城館の大広間ではなく、岩壁を削った円形の部屋で開かれた。
天井は低く、灯りは壁際の燐光石だけ。中央には大きな木卓があり、その上にヴァイスベルク領の山図が広げられている。王都の貴族が使う彩色地図とは違い、谷の深さ、雪崩の筋、古い水場、崩れやすい崖が細かく刻まれた実用の地図だった。
席に着いた者たちも、貴族の評議とは違う。
ヴァイスベルク辺境伯エルンスト。
その娘クラウディア。
避難路番の老女。
薬師オルド。
鏡守の代表、冬小屋を管理する家の者、南峰の道番、倉番補佐。そして、南門で避難民の整理を手伝った若者たちが数名。
剣を持つ者もいる。だが、ここに集まったのは兵ではなかった。
道を知る者。
傷を診る者。
鍵を預かる者。
火を消す者。
名を覚える者。
その一人ひとりが、山を支えている。
アランは、部屋の外で待っていた。
呼ばれるまでは入らない。
エルンストにそう告げられた時、彼はそれを当然のように受け入れた。王子であることも、銀の髪も、ここでは通行証にならない。山の中で何を預けるかは、山の者が決めるべきことだった。
ミリアも、最初は外で待つつもりだった。
だが、南門の記録紙を確認したエルンストが、彼女だけを先に呼んだ。
「記録係として入れ」
短い言葉だった。
ミリアは一礼し、木卓の端に席を取った。公爵令嬢としてではない。南門で書いた紙を持つ者として。
評定は静かに始まった。
最初に口を開いたのは、避難路番の老女だった。名はシェラという。片目に古傷を持つ彼女は、腰の鍵束を卓へ置いた。
「南避難路は、まだ使えます。ただし、水抜き道は封じ直しが必要です。黒蛇が子どもを使って通した以上、同じ手はまた来る」
オルドが頷く。
「貯蔵庫の薬は無事です。けれど、油の匂いが残っています。今夜は人を置かねばなりません」
「人を置けば、その人が狙われる」
鏡守の男が低く言った。
「狼倉の写しを取られたなら、南峰の家はもう安全ではない。薬師も、鏡守も、冬小屋も。全員を移すべきだ」
「全員を動かせば、黒蛇に道を読まれる」
クラウディアが返す。
「それに、動けない老人や怪我人もいます」
「なら、鐘を鳴らして全支援家へ知らせるしかない」
別の男が言った。
その言葉に、部屋の空気が硬くなる。
鐘。
支援を呼ぶための音。
同時に、黒蛇へ場所を知らせる音。
エルンストはすぐには答えなかった。卓の上の山図を見つめたまま、重い沈黙を保っている。
シェラが口を曲げた。
「鐘を鳴らせば、怖がった家は動く。だが、黒蛇も動く。逃げる足の遅い者から狩られるよ」
「では黙って焼かれるのを待つのか」
「誰もそんなことは言ってない」
言葉が鋭くなりかけた時、ミリアは筆を止めた。
「発言してもよろしいでしょうか」
視線が集まる。
王都の令嬢が山の評定で口を挟む。そのこと自体、歓迎されるものではない。けれど、エルンストは止めなかった。
「言え」
ミリアは紙を広げる。
「南門の避難民の記録では、黒蛇は人に紛れていました。ですが、全員を疑えば、避難民同士が崩れます。支援家も同じです。全員へ同じ合図を送ると、黒蛇も同じ情報を得ます」
「なら、どうする」
鏡守の男が問う。
「役目ごとに、違う合図を送ります」
ミリアは山図の余白に、小さな印を三つ書いた。
「薬師には薬箱の移動を。鏡守には鏡ではなく布の確認を。冬小屋の管理家には鍵の点検を。表向きは普段の整備に見える内容で伝えれば、全員が一斉に逃げ出すようには見えません」
クラウディアが目を細める。
「黒蛇に読まれれば同じです」
「ですから、家名は使いません。役目も直接書かず、物の名前で。薬草の乾き、布の虫干し、鍵の錆。山の人にだけ意味が通じる言い方があれば、それを使ってください」
シェラが少し笑った。
「あるね。冬前の点検文句だ。季節外れに来れば、山の者は異変だと分かる」
鏡守の男も、少し考えて頷いた。
「鏡は出すな、布を見ろ。そう言えば、光を使うなという意味にできる」
場の空気がわずかに動いた。
大きな鐘ではない。
小さな言葉で、必要な者だけを動かす。
ミリアはさらに続けた。
「また、狼倉の記録については、写された可能性のある三家をすぐ隠すだけではなく、黒蛇が得た情報を古くする必要があります。避難先、保管先、連絡役を入れ替えれば、写しは完全な地図ではなくなります」
「入れ替えには人手がいる」
オルドが言った。
「なら、南門で保護した避難民の中から、動ける方に頼めます。皆さんは被害者です。けれど、何かを守る役目を渡されれば、恐怖だけに縛られずに済むかもしれません」
部屋が静かになった。
ミリアは、言ってから少しだけ息を呑んだ。
踏み込みすぎたかもしれない。
だが、撤回はしなかった。南門で見た人々の顔が、まだ頭に残っている。疑われて縮こまるだけでは、黒蛇の毒は残り続ける。
エルンストが、ようやく顔を上げた。
「王都では、そのように考えるのか」
「分かりません。少なくとも、私はそう考えます」
「誰かに脅された者を、すぐ役目へ戻すのは危うい」
「はい。だから、責任ではなく、選べる形にします。できる者だけ。無理なら断れるように」
シェラが鍵束を持ち上げた。
「悪くない。人はただ守られるだけだと、自分を責める。小さな仕事がある方が立っていられる」
その言葉で、反対の声は少し弱まった。
だが、まだ問題は残っている。
倉番補佐の男が、低い声で言った。
「それでも、内側に漏らした者がいる」
部屋が凍った。
「狼倉の非常道は、外の者が知るはずのない道です。水抜き道も、南の貯蔵庫も、黒蛇は知っていた。支援家を動かす前に、まず裏切り者を炙り出すべきではありませんか」
視線が揺れる。
誰もが心の奥では考えていたことだ。だが、口にすれば山の内側に傷を入れる。
エルンストは黙っていた。
クラウディアの指が、卓の縁に添えられる。
「疑うなとは言えません」
彼女は静かに言った。
「けれど、今ここで名を挙げれば、黒蛇が笑うだけです」
「では何もしないのですか」
「します。非常道を知る者を確認し、記録の持ち出しを調べる。けれど、それを評定の場で互いに責め合う形にはしません」
倉番補佐は歯を食いしばった。
「倉番が倒れていた。父はあそこを守っていたのです」
そこで、彼が倉番の息子なのだとミリアは気づいた。
怒りだけではない。
恐怖と悔しさが、彼の言葉を硬くしている。
「あなたのお父様は、まだ生きています」
ミリアは静かに言った。
男は彼女を睨む。
「だから何です」
「今、誰かを犯人に決めれば、お父様が目を覚ました時に話せる事実まで歪みます。まずは証言を待つべきです」
「王都の令嬢に何が」
「分かりません」
ミリアは遮らず、そう答えた。
「ですが、ラウゼンでも、グレイストン家でも、黒蛇は罪を誰かに背負わせようとしました。疑いは必要です。でも、疑いだけで動けば、黒蛇の作った形に近づきます」
男は言葉を失った。
ミリアはそれ以上責めなかった。
アランなら、どう言っただろう。
ふとそう思い、彼女は紙へ視線を落とした。彼は外で待っている。命じず、踏み込まず、山の判断を待っている。
だから、自分も今は押しすぎてはいけない。
エルンストが木卓を一度だけ叩いた。
低い音が部屋に響く。
「決める」
全員が彼を見る。
「鐘は鳴らさない。支援家には、冬前点検の文句を使って個別に知らせる。南峰の三家は今夜中に役目を入れ替え、元の場所には偽の保管記録を置く」
クラウディアがすぐに紙へ書き取る。
「狼倉の記録は?」
「全てを移すには時間が足りん。写された部分と、非常道に関わる部分だけを分離する。残りは倉に残す。動かしすぎれば、かえって狙われる」
「内通疑惑は」
倉番補佐が低く問う。
「倉番が目を覚ますまで待つ。非常道を知る者は私が確認する。疑いを口にするな。だが、目は閉じるな」
それは厳しい判断だった。
誰も完全には納得していない。
けれど、今すぐ山が割れることは避けられた。
最後に、エルンストはミリアを見た。
「ランバール令嬢。王太子府へ出す記録を作れ。家名は伏せる。役目と被害、黒蛇の手口だけを記す。山の承認印は私が押す」
ミリアは深く頭を下げた。
「承知しました」
「ただし、その記録は王都へ持ち込む前に、ここで読み上げる。山の者が聞き、誤りがあれば直す」
「はい」
エルンストは頷き、入口の方へ目を向けた。
「アラン殿下を呼べ」
扉が開かれた。
外で待っていたアランが入ってくる。表情は穏やかだが、室内の空気を一瞬で読み取ったようだった。視線はエルンストへ、次にミリアへ、最後に卓上の山図へ動く。
「お呼びでしょうか」
「決めた」
エルンストは言った。
「兵は出さん」
「はい」
「支援家は動かす。ただし、鐘は鳴らさぬ。山の言葉で、山の者だけに知らせる」
「良い判断だと思います」
「評価はいらん」
「失礼しました」
アランは軽く頭を下げた。
エルンストは続ける。
「黒蛇が写した名は、今夜中に古くする。避難路、薬、鏡、冬小屋の管理を入れ替える。そのために、あなたの影狼を少数だけ借りたい」
クラウディアが父を見る。
山の者だけでは足りない。
だが、外の力を入れすぎれば山の誇りが傷つく。
そのぎりぎりの線だった。
アランはすぐに答えた。
「承知しました。人数は最小限にします。記録には触れさせません。護衛と伝達だけで」
「こちらの者が必ず同行する」
「もちろん」
エルンストはアランを見据えた。
「それから、殿下。山の評定において、あなたの名を出すことは避ける。支援家が動くのは、銀の王子のためではない。山を守るためだ」
アランの表情がわずかに和らいだ。
「その方がいい」
「不満はないのか」
「ありません。むしろ、そうしてほしい」
部屋の何人かが、驚いたようにアランを見た。
王子が自分の名を消すことを望む。
それは、彼らが慣れた貴族のあり方とは違っていた。
エルンストはしばらく黙り、やがて低く言った。
「ならば、山はあなたを客人として扱う」
それは、味方と認める言葉ではない。
従うという意味でもない。
だが、扉の外に置かれた者ではなく、中で話を聞く者として扱うということだった。
アランは丁寧に礼を取る。
「ありがとうございます」
評定はそこで終わった。
人々はすぐに動き始める。シェラは鍵を持って南門へ戻り、オルドは薬箱を抱え直した。鏡守は布の合図文句を確認し、冬小屋の管理者は古い鍵束を入れ替える準備に入る。
ミリアは木卓の端に残り、王太子府へ出す記録を書き始めた。
アランはその横へ来る。
「大丈夫?」
「今は」
「それ、便利な返事になってきたね」
「あなたに似ました」
「それは心配だ」
ミリアは少しだけ笑い、すぐに筆を戻す。
「家名は伏せます。けれど、被害は曖昧にしません。黒蛇が何をしたかは、はっきり書きます」
「うん」
「あなたの名も、必要以上には出しません」
「助かる」
短い会話だった。
それで、互いに十分だった。
その夜、ヴァイスベルク領都の明かりは少なかった。
鐘は鳴らない。
大きな号令もない。
ただ、山のあちこちで小さな動きが始まっていた。
薬箱を別の家へ移す者。
鏡に布をかける者。
冬小屋の鍵を別の老人へ預ける者。
避難民の中から、荷運びを申し出る若者。
影狼の者は、その影を守るように少数だけ混じった。
誰も軍旗を掲げない。
誰も銀の王子の名を叫ばない。
それでも、山は動いている。
音もなく、確かに。
その同じ頃、山の外れにある崩れた見張り小屋で、一羽の黒い鳥が飛び立った。
足には、小さな紙筒が結ばれている。
紙筒には、短い報告が入っていた。
『山は閉じず。銀は名を求めず。記録を守る令嬢あり。次は、王都の疑いを煽れ』
鳥は夜空へ消えていく。
山の評定は黒蛇の思う通りには割れなかった。
だが、蛇はすでに次の毒を選んでいた。




