42話 狼倉の記録
狼倉へ続く道は、城の奥ではなく、岩の中にあった。
南門からさらに細い通路を抜け、貯蔵庫の裏手に回る。そこから先は、外から見ればただの岩壁だった。だが、クラウディアが壁面の凹みに手を入れると、内側で古い金具が鳴る。
岩が、わずかに動いた。
人ひとりが身をかがめて通れる程度の隙間が開く。中から流れてきた空気は冷たく、乾いていた。薬草や穀物の匂いはない。代わりに、古い紙と石と鉄の匂いがする。
「ここから先が狼倉です」
クラウディアは低く告げた。
アランは入口の前で足を止める。
「僕は、どこまで入っていい?」
「父は入口までと言いました」
「なら、ここで待つ」
クラウディアが振り返った。
「中に何があるか、気にならないのですか」
「気になるよ」
アランは小さく笑う。
「でも、僕が知りたいことと、君たちが守るべきものは別だ」
その返事に、クラウディアは一瞬だけ黙った。
レムはアランの半歩後ろで周囲を見ている。ゼイドはすでに岩壁の影へ溶けるように姿を消していた。南門側の混乱は遠ざかったが、安心できる状況ではない。黒蛇は水抜き道を使い、貯蔵庫へ火を入れようとした。その本当の狙いが狼倉なら、ここにも必ず手が伸びている。
クラウディアは入口の奥を見た。
「中には、武器も兵もありません」
「聞いている」
「ですが、奪われれば山が折れるものがあります」
「支援家の名簿?」
「それだけではありません。冬の避難路、薬師の保管庫、鐘を鳴らさずに知らせを送る峰、山小屋の鍵、古い道番の家。誰が何を守っているか。それらをまとめた記録です」
アランは頷いた。
それは軍勢よりも脆い。
剣を持たない者ほど、名前を知られれば狙われる。
「黒蛇が欲しがるわけだ」
「ええ」
クラウディアは岩の扉へ手を置いた。
「だから、外の者を入れない」
「正しいと思う」
アランの返答は早かった。
クラウディアはまた、少しだけ言葉を失う。反論されると思っていたのだろう。王子が、銀髪が、誓約の名を掲げて中を見せろと求める。そんな可能性を、彼女はずっと警戒していた。
だが、アランは求めない。
そのことが、逆に判断を難しくしているようだった。
その時、岩壁の奥から微かな音がした。
紙が落ちるような、乾いた音。
クラウディアの顔色が変わる。
「中に誰かいる」
レムの手が剣に添えられた。
「倉番では?」
「倉番は父の許可がなければ扉を開けません。今、南門へ避難民が来ている以上、倉には一人しか残っていないはずです」
「一人なら、今の音は不自然だ」
アランが言うと、クラウディアは短く頷いた。
彼女は迷った。
ほんの一瞬だけ。
そして、入口を大きく開ける。
「アラン殿下。中へ」
「いいの?」
「緊急です。ただし、触れるものは私が許可したものだけ」
「分かった」
アランは余計な言葉を挟まず、身を低くして狼倉へ入った。
中は、想像していたよりも広い。
岩山をくり抜いた空間に、石棚と木箱が整然と並んでいた。灯りはほとんどない。壁に埋め込まれた燐光石が、かすかに青白く光っている。床には狼紋が刻まれているが、装飾ではない。おそらく道順の印だ。
入口近くには、木札が並んでいた。
薬。
水。
冬布。
鐘。
鏡。
避難。
軍という言葉は、どこにもない。
ここにあるのは、戦うための記録ではなく、生き延びるための記録だった。
クラウディアは中央の棚へ向かった。
その途中で、足を止める。
床に紙片が落ちていた。
古い記録ではない。新しい紙だ。黒いインクで、蛇の紋が小さく描かれている。
レムが拾おうとしたが、アランが手で止めた。
「触らない方がいい」
クラウディアが近くの細い棒で紙片を返す。
裏側には、銀の狼を模した印が押されていた。
だが、紋が違う。
アランは目を細める。
「偽物だね」
「銀狼の印を偽造した……?」
クラウディアの声が硬くなる。
紙には、短い文が書かれていた。
『第二王子アラン・ヴァルタインの名において、山岳領の支援家を召集する。従わぬ家は誓約違反と見なす』
クラウディアの手が、細剣の柄を握った。
怒りが、言葉になる前に空気へ出ている。
「黒蛇は、これを置いていくつもりだったのですね」
「狼倉が見つかり、偽の命令書が残る。僕が山の支援家を従わせようとした証拠に見える」
「山は閉じます」
「王都では、僕が私兵を集めた噂が強まる」
アランは紙片を見下ろした。
黒蛇は本当に丁寧だ。
火をつけるだけではない。
燃え残るものまで用意している。
ゼイドが奥から戻ってきた。
「倉番が倒れている。息はある。侵入者は二人。ひとりは記録棚の奥」
「もう一人は?」
「上だ」
その言葉と同時に、天井近くの細い足場から影が落ちた。
黒衣の男が短剣を手に、クラウディアへ飛びかかる。狙いは彼女ではない。腰に下げた鍵束だ。
クラウディアは身を引き、短剣を細剣で弾く。だが、足場が悪い。ここは剣を振るう場所ではない。棚が近く、紙と木箱が多すぎる。
レムが踏み込んだ。
細剣の柄で男の肘を打ち、クラウディアから引き離す。男は棚にぶつかりながらも、懐から小さな筒を取り出した。
「火種!」
アランが叫ぶより早く、ゼイドの投げた刃が男の手の甲を裂く。
筒が床へ落ちる。
中から赤い粉がこぼれかけた。
アランは近くの布ではなく、砂袋を掴んでその上へ叩きつける。水では反応する可能性がある。ラウゼンで見た赤い魔石の処理が、ここで役に立った。
赤い光は弱まり、消えた。
黒衣の男は逃げようとする。
クラウディアがその足元へ細剣を突き立てた。刃は足を貫かない。だが、前へ出れば自分から斬れる位置だった。
「動くな」
その声に、山の冷たさがあった。
男は舌打ちした。
「銀の王子に倉を開けた時点で、山は終わりだ」
「終わらせるのは、あなたではありません」
クラウディアは短く返す。
アランは奥の棚へ目を向けた。
もう一人。
ゼイドはすでに消えている。
奥の記録棚では、乾いた紙の擦れる音が続いていた。アランは走らない。走れば風が起き、紙が舞う。ここは火と同じくらい、乱れも危険だ。
棚の陰にいたのは、黒衣ではなく灰色の服を着た男だった。
剣士ではない。
手には薄い金属板と黒い炭。記録を写している。支援家の名簿を、可能な限り早く写し取るための道具だ。
男はアランを見ると、薄く笑った。
「遅い」
その手元には、数枚の写しがある。
薬師。
鏡守。
南峰の避難小屋。
三つの名が、すでに写されていた。
アランは剣を抜かない。
狭い棚の間で斬れば、記録も傷つく。
「それを置いてくれるかな」
「命令か?」
「頼みだよ」
男は笑った。
「銀の王子が、ずいぶん柔らかい」
「相手を見て変えている」
「なら、これはどう見る」
男は写しの一枚を噛み切ろうとした。
呑み込むつもりだ。
その瞬間、レムが放った細い針が男の顎の下を掠めた。傷は浅い。だが、動きが止まる。次にゼイドが背後から手首を押さえ、金属板を取り落とさせた。
男は抵抗しない。
ただ、口元に笑みを残している。
「一部はもう外へ出た」
クラウディアの表情が険しくなる。
「嘘かもしれません」
レムが言う。
「嘘でも確認が必要だ」
アランは写しを拾い、クラウディアへ渡した。
「どの家?」
「南峰の薬師家、鏡守、避難小屋の管理家……どれも小さな家です。守りは厚くありません」
「すぐ知らせる必要がある」
「音も光も、今は使えません」
「人を出す」
アランは即答した。
「ゼイド、外に出られる?」
「行ける」
「ミリア嬢に伝えて。記録にある三家を名だけ伏せて、避難民名簿と照合。南門に関係者がいれば保護。エルンスト殿にも報告を」
「承知」
ゼイドが動く。
男が低く笑った。
「令嬢に何ができる」
アランは彼を見た。
「君たちが一番嫌がることだよ」
「何だ」
「名前を残す」
男の笑みが少しだけ歪んだ。
ミリアは、南門で避難民の記録を続けていた。
南貯蔵庫の火種は止まったが、混乱は完全には収まっていない。子どもを抱えた母親。荷を失った老人。黒蛇に脅され、荷車を押させられた若者。誰もが疲れ切っている。
それでも、ミリアは一人ずつ名を聞いた。
責めるためではない。
誰がここにいるのかを残すためだ。
名前がなければ、人は噂に潰される。黒蛇に紛れた者、黒蛇を入れた者、裏切った者。そうした曖昧な言葉で村全体が疑われる前に、何があり、誰が何をしたのかを分けなければならない。
そこへ、ゼイドが音もなく現れた。
周囲の者が驚くより早く、彼はミリアへ紙片を渡す。
「アラン様から」
ミリアは中身を見る。
そこには、三つの印だけが記されていた。家名は伏せられている。だが、避難民名簿と照合すれば、関係者を探せる程度の情報はある。
「南峰の方々ですね」
ゼイドは頷いた。
「黒蛇に写された可能性あり。保護が必要」
「分かりました」
ミリアはすぐに老女を呼んだ。
「この印に関係する家を、今ここで名指ししない形で集められますか」
老女は紙片を見て、目を細める。
「できる。だが、なぜ名を伏せる」
「誰が聞いているか分からないからです」
「よし」
老女は避難民の間へ歩いていき、大きな声で言った。
「南峰から来た者で、薬の扱いを知る者。鏡を持っていた者。冬小屋の鍵を預かる者。名乗らず、私の後ろへ来な」
ミリアははっとした。
家名を呼ばない。
役目だけで集める。
山の者は、その方が動きやすいのだ。
数人が静かに立ち上がった。
その中に、先ほどまで荷を失って呆然としていた若い夫婦がいる。老人も一人。少女を抱えた女性もいた。誰も声を出さない。だが、自分たちが狙われていると察したらしい。
ミリアは彼らを奥の水場へ案内する。
「しばらく、ここで休んでください。名前はこの場では聞きません。必要な時だけ、私に直接」
若い夫が警戒した目で問う。
「王都の方に、なぜ」
「黒蛇が、あなた方の役目を知ろうとしています。あなた方を守るためには、誰が無事かを把握する必要があります」
「王都に持っていくのか、その名を」
当然の不安だった。
ミリアは紙を閉じる。
「許可なく外へ出しません。記録は、罪を押しつけるためではなく、黒蛇の偽りを防ぐために使います」
女性が少女を抱きしめる手に力を込めた。
「信じろと?」
「今すぐ信じていただけるとは思っていません。ですから、まずは私があなた方の前で書きます。何を書いたか、見てください」
ミリアはその場に膝をつき、紙を広げた。
泥と砂のついた石床の上で、公爵令嬢が記録を書く。その姿は、王都の社交場とはあまりに違っている。
けれど、避難民たちは目を逸らさなかった。
狼倉では、灰色服の男が拘束されていた。
クラウディアは棚の記録を確認している。抜かれたもの、写されたもの、置き換えられたもの。すべてを見分けるには時間がかかる。
アランは偽の命令書を手に取らず、棒の先で別の石板へ移した。
「これは証拠として残す」
「燃やした方が早いのでは」
クラウディアが言う。
「燃やせば、別の場所で同じものを出される。こちらが確認した偽物として残した方がいい」
「あなたの不利になる証拠でも?」
「黒蛇が作ったものだと証明できれば、不利なだけではない」
「証明できなければ?」
「その時は困るね」
「軽い」
「重く言うと、もっと困る」
クラウディアは呆れたように息を吐いた。
だが、反対はしなかった。
その時、奥の石棚の裏から、かすかな風が流れた。
アランとレムが同時に反応する。
「抜け道?」
クラウディアが棚を押すと、石の隙間が少しだけ開いた。中は暗い。人がひとり、身を横にすれば通れる程度の細い通路だ。
「この道は」
アランが問う。
クラウディアの顔色が変わっている。
「知られていないはずです。狼倉から外へ出る非常道。ヴァイスベルク家でも、当主と倉番しか知らない」
「黒蛇は通った」
レムの声が冷える。
アランは通路の足元を見た。
新しい泥。
そして、黒い糸の切れ端。
「一人逃げている」
クラウディアは唇を噛んだ。
狼倉は守った。
記録の大半も無事だ。
だが、黒蛇は一部を写し、さらに非常道の存在まで知っていた。
これは、外から偶然たどり着ける情報ではない。
アランはその事実を口にしなかった。
クラウディアも同じく黙っている。
内側の誰かが漏らしたのか。
古い記録が黒蛇に渡っているのか。
それとも、もっと前から山の中へ毒が回っていたのか。
今ここで決めつければ、山は疑心で割れる。
「まずは支援家の保護」
アランは言った。
「内通者探しは、その後だ」
クラウディアは彼を見る。
「疑わないのですか」
「疑うよ。でも、疑いを先にばらまけば黒蛇の思う通りになる」
彼女はすぐには答えなかった。
やがて、小さく頷く。
「父に報告します」
「僕からも話す」
「いえ」
クラウディアは首を振った。
「これは山の内側の問題です。私が話します。そのうえで、必要なら力を借ります」
アランは静かに笑った。
「分かった」
その返事に、クラウディアは一瞬だけ目を伏せる。
「あなたは、そこで引くのですね」
「引かないと、君たちが立てなくなる」
クラウディアは何も言わなかった。
ただ、狼倉の奥へ視線を向ける。
木札、紙束、古い印、山小屋の鍵。
そこにあるものは、軍ではない。
けれど、山が山であり続けるための骨だった。
その骨を黒蛇は折ろうとしている。
狼倉の入口へ戻ると、エルンストが待っていた。
南門の指揮を老女へ任せてきたのだろう。彼の外套には砂がつき、表情は険しい。
「報告を」
クラウディアは短く、しかし隠さずに伝えた。
侵入者。
偽の命令書。
写された三家。
非常道。
そして、黒蛇が狼倉の構造を知っていたこと。
エルンストは最後まで口を挟まなかった。
聞き終えると、彼はアランを見た。
「殿下は、どこまで見た」
「入口と、必要な棚の一部です。記録の全容は見ていません」
「なぜ見なかった」
「見る理由がありませんでした」
エルンストは鋭い目のまま、しばらく黙る。
やがて、低く言った。
「山は、あなたに借りを作った」
「借りではなく、黒蛇への対処です」
「そう言う者ほど、借りを作る」
アランは困ったように笑った。
エルンストは続ける。
「兵は出せない。それは変わらぬ」
「はい」
「だが、狼倉の記録の一部を、あなたに託す」
クラウディアが驚いて父を見る。
「父上」
「すべてではない。黒蛇が狙った三家、そして南の支援路に関わる部分だけだ。王都で偽報が出た時、山だけでは弁明できん」
エルンストはミリアのいる南門の方角へ目を向ける。
「あの令嬢に写しを作らせる。名は伏せる。役目だけを記す。王太子府へ出す時は、山の承認を添える」
アランは少しだけ目を見開いた。
これは大きな譲歩だ。
山の秘密を全部ではなくとも、表の記録へつなぐ。それは、ヴァイスベルクが王都を完全には拒まないという意思表示でもある。
「ありがとうございます」
「まだ礼を言うな。扱いを誤れば、山は二度と開かん」
「分かっています」
エルンストは頷いた。
その時、南門側からミリアが戻ってきた。
髪は乱れ、袖は砂と墨で汚れている。手には数枚の記録紙。疲れは顔に出ていたが、目はまだ伏せていなかった。
「アラン殿下。南峰の方々は保護しました。名はこの紙には書いていません。役目と人数だけです。詳細は、本人たちの了承を得てから別紙に」
エルンストがその紙を受け取る。
目を通し、わずかに眉を上げた。
「よい記録だ」
ミリアは静かに息を吐いた。
「ありがとうございます」
「王都の紙は嫌いだが、これは山でも使える」
それは、最大級の評価だったのかもしれない。
アランはミリアを見る。
彼女はすぐには笑わない。ただ、少しだけ肩の力を抜いた。
狼倉は守られた。
だが、勝利ではない。
黒蛇は一部の名を写し、非常道の存在を知っていた。偽の命令書もあった。山の内側には、まだ見えない毒がある。
それでも、支援網は完全には折れていない。
記録を守る者がいて、名を伏せて人を守る者がいる。山の門はまだ開ききってはいないが、閉じてもいない。
アランは狼倉の岩扉を見た。
ここに軍旗はない。
兵もいない。
けれど、いつか本当に王国が危機に沈む時、この小さな記録が道になる。
その道を黒蛇に渡すわけにはいかない。
エルンストが低く告げた。
「今夜、山の評定を開く。支援家をどこまで動かすか、そこで決める」
「僕も出るべきですか」
「呼ばれたら来い。呼ばれなければ待て」
「分かりました」
クラウディアが父の横に立つ。
その目は、アランを試すだけのものではなくなっていた。
山はまだ膝をつかない。
だが、隣に立つ場所を少しだけ空けた。
狼倉の扉が、重い音を立てて閉じる。
その音は、拒絶ではなかった。
守るための音だった。




