41話 水抜き道の蛇
水抜き道の入口は、南門のさらに奥、貯蔵庫へ続く石段の下にあった。
岩壁に隠れるように造られた小さな鉄格子は、大人が正面から入るにはあまりに狭い。錆びた留め具には苔が絡み、普段使われていないことがひと目で分かる。けれど、その周囲の土だけが新しかった。誰かが最近、掘り返した跡だ。
ノルは震える指で、格子の横を示した。
「ここです。昔、子どもだけが入れるって言われていて……でも、入るなって」
クラウディアが膝をつき、鉄格子の隙間を覗く。
「中はどこへ続く」
「南貯蔵庫の裏です。途中で二つに分かれます。右は古い排水溝、左が貯蔵庫の石床の下。水が少ない時だけ通れるって、父さんが」
少年の声が小さくなった。
父のことを思い出したのだろう。
アランはその横にしゃがんだ。
「ありがとう。ここまででいい」
「でも、僕、中の道なら」
「知っているからこそ、外にいてほしい」
ノルは顔を上げる。
アランは鉄格子の奥ではなく、少年を見ていた。
「君が戻れば、次に同じことが起きた時、誰かに伝えられる。中で無理をして怪我をしたら、それができなくなる」
「……逃げるみたいです」
「違う。道を残す役目だ」
ノルは唇を噛みしめた。
クラウディアが少年の肩へ手を置く。
「ノル。私も同じ判断をします」
その一言で、ノルはようやく頷いた。
悔しさは消えていない。だが、逃げるためではなく任せるために下がる。その区別を、彼なりに受け取ったのだろう。
レムが鉄格子の留め具を確認する。
「開けられます。ただし、音が出ます」
ゼイドが無言で前へ出た。
彼は腰の道具袋から細い油差しを取り出し、留め具へ数滴落とす。しばらく待ってから、錆びた金具を指で押した。軋みはしたが、思ったより小さい。
「先に入る」
短く言い、ゼイドは外套を外した。
大人には狭すぎるはずの穴へ、彼は肩を斜めにして滑り込む。黒い影が石の隙間へ吸い込まれるようだった。
レムが続こうとしたが、クラウディアが止めた。
「私が先です。山の水道ですから」
「中で戦闘になる可能性があります」
「だからです。足場を知らない者が先に入れば、音で気づかれる」
レムの赤い瞳がクラウディアを見た。
一瞬、空気が硬くなる。
アランは二人の間へ口を挟まなかった。ここで自分が命じれば、クラウディアの言葉を踏みにじることになる。
やがてレムが一歩引いた。
「では、私が後ろを」
「お願いします」
短いやり取りだった。
それで十分だった。
クラウディアは弓を外し、短剣と細剣だけを残して格子へ入る。続いてレム、最後にアランが身をかがめた。
「アラン様」
レムが振り返る。
「殿下の体格では、かなり狭いかと」
「今さら戻ると格好がつかない」
「格好で判断する場面ではありません」
「分かってる」
アランは苦笑し、外套をノルへ預けた。
「預かってくれる?」
ノルは驚き、両手でそれを受け取る。
「はい」
「汚さないように、じゃないよ。誰かが僕たちのものだと分かるように持っていて」
「……はい!」
今度の返事には、少しだけ力が戻っていた。
アランは格子の中へ入った。
水抜き道は、想像以上に暗かった。
天井は低く、背を丸めなければ進めない。壁は湿っており、石の継ぎ目から冷たい水が滴っている。足元には細い流れがあり、踏み出すたびに靴底へ水が染み込んだ。
ランタンは使えない。
光が漏れれば、先にいる黒蛇へ知らせることになる。ゼイドが小さな燐光石を布で包み、最低限の明かりだけを作った。青白い光が、足元の石と壁の苔をわずかに浮かび上がらせる。
先頭のゼイドが手を上げた。
全員が止まる。
水音の向こうから、かすかな擦過音が聞こえた。
石を削る音。
クラウディアが壁へ耳を当てる。
「左の分岐です。貯蔵庫の床下に向かっています」
「人数は?」
アランが囁くと、ゼイドが指を三本立てた。
三人。
いや、少し間を置いて、もう一本。
四人。
さらに、彼は手を低く下げた。
小さい影が一つ。
アランの表情が変わった。
子どもだ。
黒蛇が、狭い道を通るために使っている。
クラウディアの目に怒りが走ったが、声は出さなかった。ここで感情を音にすれば、子どもごと危険に晒す。
アランは身を低くし、前へ進んだ。
分岐の先はさらに狭い。右側では水が深くなり、左側は乾いた石床が続いている。壁には古い狼紋が刻まれていた。水抜き道でさえ、支援網の一部だった証だ。
その奥で、男の声が聞こえた。
「早くしろ。石が外れれば、あとは火を入れるだけだ」
別の声が答える。
「子どもの手でも、内側の留め具は固い」
「なら、指を折ってでも入れろ。貯蔵庫が燃えれば、山は自分で鐘を鳴らす」
クラウディアの手が細剣へ伸びかける。
アランは軽く手を出し、止めた。
今はまだ早い。
声は続く。
「避難民は入った。門も開いた。民が混じれば、誰が火をつけたかなど分からん」
「王子は?」
「山道にいる。出てきたところを上が拾う。銀髪が民の避難路で暴れたと流せばいい」
アランの目が冷えた。
黒蛇の狙いは、貯蔵庫を焼くことだけではない。
山の支援網を壊し、避難民の混乱を作り、その罪をアランとヴァイスベルクへ被せる。ラウゼンで使った偽報と同じ毒を、今度は山の内側に流し込もうとしている。
奥から、小さな声が聞こえた。
「もう、無理……」
子どもの声だ。
男が舌打ちする。
「泣くな。泣いたら母親の方へ戻すだけだ。生きていればな」
レムの表情が消えた。
アランは彼女を見ずに、指で合図を出す。
ゼイドが消える。
完全に消えたわけではない。けれど、この狭い水路の中でさえ、彼の気配は石の影に溶けた。クラウディアは壁の凹凸を使い、別の角度へ回る。レムはアランの半歩後ろで剣に手をかけた。
次の瞬間、奥で男の息が止まった。
ゼイドが一人を押さえたのだ。
声を出させない。倒れる音も水音へ紛らせる。
二人目が振り返る。
クラウディアの短剣が飛び、男の袖を壁へ縫い止めた。驚いた男が剣を抜くより早く、レムの細剣が彼の手首を打つ。刃が落ち、水の中へ沈んだ。
三人目は子どもを盾にしようとした。
アランが踏み込む。
低い天井のせいで剣を大きく振れない。だから彼は柄で相手の肘を打ち、膝で脛を潰すように蹴った。男の体が崩れる。子どもへ伸びた手を、アランは掴んで壁へ押しつけた。
「その手は、二度と使わせない」
低い声だった。
男が何か言いかける。
その前に、レムが柄で顎を打ち、意識を落とした。
最後の一人は奥へ走った。
貯蔵庫の床下へ向かう細い穴へ滑り込む。大人が通るには無理がある幅だが、体格の小さい男だった。彼は腰の小袋から赤い魔石を取り出し、床下へ転がそうとする。
クラウディアの矢は使えない。
アランの剣も届かない。
ゼイドが追うには、穴が狭すぎる。
その時、子どもが叫んだ。
「左の紐!」
アランは反射で壁を見た。
古い排水用の紐が垂れている。水の流れを変える仕掛けだろう。彼はそれを掴み、迷わず引いた。
重い音が腹の底に響く。
次の瞬間、右の水路から冷たい水が一気に流れ込んだ。狭い穴へ向かって水が押し寄せ、転がりかけた魔石を飲み込む。黒蛇の男が罵声を上げるが、水圧に足を取られ、穴の中で身動きが取れなくなる。
レムが濡れた床を滑るように進み、男の手から火打ち具を蹴り落とした。
ゼイドが背後から首を押さえる。
すべてが数呼吸の内に終わった。
残ったのは、水音と荒い呼吸だけ。
アランはすぐに子どもの前へ膝をついた。
女の子だった。十歳ほどだろうか。頬に煤がつき、指先には血が滲んでいる。無理に石の隙間へ手を入れさせられたのだ。
「名前は?」
「……ミナ」
「怪我を見せて」
ミナは怯えたまま手を隠そうとした。
クラウディアが少し離れた場所で剣を下ろす。
「ミナ。私はクラウディア・ヴァイスベルク。あなたを叱るために来たのではありません」
その名を聞き、少女の目が揺れた。
「お母さんが……」
「南門にいる。会わせます」
クラウディアの声は硬いままだったが、そこに嘘はなかった。
ミナはようやく手を差し出した。
指先は傷ついているが、骨は折れていない。アランは持っていた布を巻き、レムが薬を塗る。子どもは痛みに顔をしかめたが、泣かなかった。
「よく声を出した」
アランが言うと、ミナは小さく首を振った。
「私、黒蛇の人たちを案内した……」
「脅されたんだろう」
「でも、道を教えた。貯蔵庫の下まで」
「最後に止めた」
アランは短く言った。
「それで助かった人がいる」
ミナの目に涙が溜まる。
クラウディアはその横顔を見ていた。山では、道を漏らすことは重い罪になるのだろう。だが、子どもが母親を人質に取られ、刃を向けられて、どこまで耐えられるのか。
アランはそこを裁かない。
それを見て、クラウディアは何かを飲み込んだように目を伏せた。
しかし、安心するには早かった。
奥の床下から、焦げ臭い匂いが流れてきた。
レムが顔を上げる。
「別の火種です」
黒蛇は一つでは終わらせない。
アランはミナをクラウディアへ預け、穴の奥を覗く。水で魔石は止めた。だが、貯蔵庫の下には別の仕掛けがある。床板の隙間から油が染みているのか、空気が重い。
「間に合う?」
クラウディアが問う。
「走れば」
アランは答えた。
「ただし、貯蔵庫の中から止める必要がある」
「そこへは南門側からしか入れません」
「ミリア嬢がいる」
レムの眉がわずかに動いた。
アランは懐から小さな笛を出しかけ、止めた。
音は使えない。
黒蛇が拾う。
クラウディアがすぐに壁の小穴へ手を入れた。そこには細い木筒が通っている。
「伝声管です。大きな声は無理ですが、南門の番小屋へ届きます」
「使える?」
「古いものですが」
クラウディアは迷わず木筒へ口を寄せた。
「南番へ。貯蔵庫床下に火種。油の匂いあり。中から床板を開け、砂を入れろ。鐘は鳴らすな」
返事はすぐには来ない。
数秒が長い。
やがて、木筒の奥からかすかな音が返った。
『承知』
クラウディアは息を吐いた。
アランは頷く。
「こちらも奥から押さえる」
レムが拘束した黒蛇を壁際へ寄せ、ゼイドが縄をかけた。逃げられないことを確認し、アランたちは床下の穴へ進む。ミナはクラウディアが背負った。少女は軽く、背中で震えている。
貯蔵庫の下は、さらに息苦しかった。
石の柱が低く並び、床板を支えている。その隙間に油を染み込ませた布が詰められていた。火が入れば、一気に燃え広がるだろう。食料も薬も、上にいる避難民も危ない。
アランは布を引き抜こうとして、すぐに手を止めた。
細い針金。
引けば火花が出る仕掛けだ。
「黒蛇は本当に丁寧だね」
「褒める場面ではありません」
レムが低く言う。
「分かってる」
アランは苦く笑い、針金を目で追った。仕掛けは三つ。ひとつは火打ち具、ひとつは小型の魔石、最後は天井裏へつながる紐。外から誰かが引けば、ここにいなくても火が入る。
ゼイドがその紐を指す。
「外だ」
「誰か残っているな」
アランは即座に判断した。
「ゼイド、外の紐。クラウディア、ミナを連れて下がって」
「私も」
「ミナを出すのが先」
クラウディアは反論しなかった。
その代わり、アランの目を一度だけ見た。
「戻ってください」
「約束する」
「その言葉、軽く聞こえます」
「よく言われる」
そんなやり取りの間にも、焦げ臭さは強まっている。
南門側から床板を開ける音がした。上で誰かが叫んでいる。ミリアの声も混じっていた。砂を運ぶ指示、避難民を下げる声、子どもを奥へ移す声。
彼女はやるべきことをしている。
アランは針金へ視線を戻した。
レムが細剣の先で火打ち具を押さえる。アランは魔石へ濡れ布を巻き、金具を外す。水音、上の足音、外で走るゼイドの気配。すべてが絡み合う中で、手元の針一本が命を分ける。
最後の金具が外れた瞬間、外で短い悲鳴が上がった。
ゼイドが誰かを止めたのだろう。
同時に、床板の隙間から大量の砂が落ちてきた。油布を覆い、火種を押し潰す。レムが残った布を引き抜き、水の流れへ投げ込んだ。
焦げた匂いは残った。
だが、火は広がらない。
アランはそこでようやく息を吐いた。
「……危なかった」
「かなり」
レムの返答は短い。
彼女の袖は煤で汚れ、細剣の先も黒ずんでいた。
「怒ってる?」
「後で」
「後でか」
「はい」
アランは肩をすくめた。
貯蔵庫の上へ出た時、南門はまだ混乱の中にあった。
だが、崩れてはいない。
ミリアは水袋を運ぶ少年たちに指示を出しながら、名簿を片手に避難民を整理していた。髪は乱れ、袖には砂がついている。公爵令嬢らしい優雅さは、今はほとんど残っていない。
それでも、彼女の声は通っていた。
「採石村の方は、家族ごとにこちらへ。怪我人はオルドさんの指示を待ってください。荷物を失った方は、後で申告を。今は通路を空けます」
アランが姿を見せると、彼女は一瞬だけ言葉を止めた。
無事を確認する。
それだけで、またすぐに周囲へ向き直った。
アランも何も言わなかった。
今はそれでいい。
クラウディアは背中からミナを下ろした。南門の奥から、一人の女性が飛び出してくる。
「ミナ!」
母親だった。
ミナは泣きながら母の胸へ飛び込む。女性は娘を抱きしめ、何度も名前を呼んだ。周囲にいた避難民たちの表情が揺れる。自分たちの中に黒蛇が紛れていた恐怖と、子どもが戻った安堵。その両方が混ざっていた。
エルンストが捕らえられた黒蛇たちを見下ろす。
「生かしておけ」
「尋問ですか」
アランが問うと、辺境伯は頷いた。
「山の道をどこまで知っているか、吐かせる。だが、その前に民の前で裁かん。黒蛇は、恐怖を広げるために民の中で血を見せたがる」
「同感です」
アランは剣を納めた。
ミリアが名簿を持って近づく。
「避難民は今のところ五十七名。黒蛇に紛れ込まれたのは確認できた範囲で四名。ミナさん以外にも、脅されて荷を運ばされた方が二人います。どちらも村人です」
「責められそう?」
アランの問いに、ミリアは少しだけ表情を曇らせた。
「恐怖はあります。誰が黒蛇を入れたのか、と口にする人も。でも、今は家族単位で分けています。名を残せば、責任を押しつけるだけでは済まなくなります」
エルンストが彼女を見た。
「記録は刃より遅いが、長く残る」
「だから、間違えたくありません」
「よい」
短い評価だった。
ミリアは深く頭を下げた。
その時、南門の外から戻ってきたゼイドが、アランへ小さな紙片を渡した。
逃げようとした黒蛇が持っていたものらしい。
紙には、簡単な図が描かれている。
南避難路。
水抜き道。
南貯蔵庫。
そして、その先にもう一つ、丸印。
クラウディアが覗き込み、顔色を変えた。
「ここは……」
「何?」
アランが尋ねる。
「狼倉です」
エルンストの声が低く落ちた。
周囲のヴァイスベルク兵たちが一斉に沈黙する。
兵、と言っても正規の軍勢ではない。門番、道番、領都の若者。だが、その名だけで皆が反応した。
「狼倉とは」
アランが問うと、エルンストはしばらく答えなかった。
やがて、重い口を開く。
「武器庫ではない。兵を集める場所でもない。だが、山の支援網の記録と印を保管する倉だ。どの家が薬を持ち、どの小屋が冬を越せるか、どの避難路がまだ使えるか。そうしたものがある」
「黒蛇が欲しがるわけだ」
「ええ」
クラウディアの声にも緊張があった。
「そこを奪われれば、山の支援家が丸裸になります」
アランは紙片を見た。
南貯蔵庫への火。
避難民に紛れた黒蛇。
子どもを使った水抜き道。
それらは全て、狼倉へたどり着くための陽動だったのかもしれない。
真の軍勢はまだ遠い。
だが、その前に支援網の心臓が狙われている。
アランはエルンストを見た。
「案内を頼めますか」
命じない。
そう聞いた。
エルンストはわずかに目を細める。
「狼倉は、我らの最奥です。外の者を入れたことはない」
「なら、外で待ちます。必要なのは、黒蛇より先に守ることです。僕が入れないなら、あなた方だけで行けばいい」
「殿下はそれでよいと?」
「はい。大事なのは僕が見ることではない。黒蛇に渡さないことです」
エルンストは長く沈黙した。
南門のざわめきが遠くなる。
やがて彼は、クラウディアへ視線を向けた。
「クラウディア。案内しろ」
「父上」
「門はまだ半分だ。倉の入口までだ。中に入れるかは、そこで判断する」
クラウディアは頷いた。
「承知しました」
アランは短く礼を返す。
「ありがとうございます」
「礼は守ってからだ」
エルンストの声には、まだ厳しさがある。
しかし、門前で会った時とは違っていた。
山はまだアランを信じたわけではない。
それでも、次の扉を示した。
ミリアは名簿を閉じ、アランを見た。
「私はここに残ります」
「いいの?」
「はい。避難民の記録が途中です。それに、脅された方々を今放っておけば、黒蛇に罪を押しつけられます」
アランは少しだけ笑った。
「頼む」
「はい」
短い返事。
だが、その距離は以前よりずっと自然だった。
アランはクラウディアとレム、ゼイドを連れ、南門のさらに奥へ向かう。
背後では、ミリアの声が再び避難民を導いていた。泣き声も、怒鳴り声もある。全てが落ち着いたわけではない。それでも、南の避難路はまだ生きている。
水抜き道の蛇は潰した。
けれど、黒蛇の牙はもっと奥を向いている。
狼倉。
山の支援網の心臓。
その名を聞いた瞬間から、アランは理解していた。
ここを失えば、王都へ続く未来の道が一本、確実に消える。




