40話 南の避難路
南の避難路を知らせる鐘は、一度だけ鳴った。
長く響く鐘ではない。領都の奥に据えられた小さな合図鐘が、短く、硬い音を落としただけだ。だが、その一音で門前の空気は変わった。
エルンスト・ヴァイスベルクの顔から、わずかな緩みが消える。
「南の避難路を開け」
彼の声に、門番たちが即座に動いた。
誰も理由を尋ねない。驚きもしない。山で生きる者にとって、合図は問うものではなく、動くためのものなのだろう。重い木扉の奥で、人が走る音が連なっていく。
アランは剣の柄に添えた手を下ろさなかった。
「南で何が?」
「民を逃がす道だ。冬の雪崩、山火事、崖崩れ。表の街道が使えぬ時、南麓の村から領都へ入れる」
「黒蛇がそこを狙った」
「そう見てよい」
エルンストは短く答え、クラウディアへ視線を向けた。
「負傷者は内へ。ノルも入れろ。クラウディア、お前は南門へ」
「はい」
クラウディアは迷わなかった。
弓兵二人へ手で合図を出し、すぐに走り出す。その背を追おうとしたアランを、エルンストの声が止めた。
「殿下。山の道は、山の者が見る」
「分かっています。だから、あなた方の後ろで動きます」
「後ろで?」
「前に立つと、邪魔になるでしょう」
エルンストの目が細くなる。
アランは淡く笑ったが、その足はすでにクラウディアの後を向いていた。
「ただ、黒蛇が民を使うなら、こちらも目を増やした方がいい。レム、ミリア嬢を」
「承知しました」
「私も行きます」
ミリアの返事は早かった。
レムが彼女の肩へ視線を落とす。昨日の傷はまだ塞がったばかりだ。山道で疲れも出ている。それをミリア自身も分かっているらしく、彼女は先に言った。
「走りません。戦いにも出ません。ですが、避難民の確認と記録ならできます」
エルンストがミリアを見る。
王都の公爵令嬢としてではない。いま門前に立つ一人の人間として、その言葉を測っている。
「記録の者は、南門に必要だ」
やがて、彼はそう言った。
「ただし、道の内側へ入ったら、私の指示に従ってもらう」
「はい」
ミリアは頷いた。
アランは一瞬だけ彼女を見たが、止めなかった。代わりに、声を低くする。
「無理だと思ったら、言って」
「約束します」
「先に言われると、少し信用しづらいね」
「あなたも同じことをよくおっしゃいます」
「それは痛い」
短いやり取りのあと、一行は門の内側へ入った。
ヴァイスベルク領都は、王都とはまるで違う町だった。
華やかな舗装路も、広い貴族街もない。岩壁に沿って石造りの家が段々に建ち、細い坂道がいくつも交差している。家の壁には冬用の薪が積まれ、屋根には雪止めの鉄具。通りの端には水路が走り、遠くから鍛冶の音が聞こえた。
民は騒いでいない。
けれど、緊張はある。
女たちは戸口から子どもを呼び戻し、老人は倉から布と担架を出していた。若者たちは武器ではなく、縄、板、水袋を抱えて走る。戦いに向かうのではない。誰かを受け入れるための動きだった。
南門は、領都の奥にあった。
正門よりも小さい。岩壁の割れ目を塞ぐように作られた鉄扉で、外から見ればただの崖にしか見えないだろう。扉の上には、三つの峰と狼の紋が浅く刻まれている。
その前にはすでに人が集まっていた。
避難路番と思われる老女が、腰に鍵束を下げて立っている。白髪を短くまとめ、片目に古い傷跡があった。彼女はエルンストを見るなり、礼もそこそこに報告を始める。
「南麓の採石村からです。煙が上がったと、崖上の見張りが確認しました。鐘は一度。避難民あり、道の破損は未確認」
「二度目は」
「まだ鳴っておりません」
「なら、道は完全には落ちていない」
エルンストは扉へ近づく。
老女が鍵を差し込み、重い音を立てて回した。
その時、ミリアがふと足を止めた。
「鐘は、誰が鳴らしたのですか」
老女が振り返る。
「南の入口にいる道番です。採石村の民が来た時だけ、こちらへ知らせることになっております」
「道番の方は、村人全員の顔をご存じですか」
「全員ではないが、村長と家長筋は分かります」
「では、最初に入れるのは確認できる方だけにしてください」
エルンストの視線がミリアへ向いた。
彼女はひるまない。
「黒蛇は、避難する民に紛れるかもしれません。全員を止めるのではなく、先に顔を確認できる者を通し、怪我人と子どもを分けます。荷物も、火種や油壺がないか見た方がいいと思います」
老女は少しだけ眉を上げた。
「王都の令嬢は、避難路の荷まで見るのかい」
「ラウゼンで油壺を見ました」
その一言で、老女の表情が変わる。
嘲りは消えた。
「なら、見る目はあるようだね」
鉄扉が内側へ開く。
冷たい風と、土の匂いが流れ込んだ。
避難路は狭い石の通路だった。足元には古い木板が敷かれ、壁際には小さな灯り穴がある。奥から、複数の足音が近づいてきた。泣き声。咳。荷車の軋み。混ざる土煙。
最初に現れたのは、血のついた布で額を押さえた老人だった。
続いて、子どもを抱えた女、肩を借りて歩く若者、背負い袋を引きずる少年。皆、煤と土で汚れている。採石村の者たちだろう。顔には恐怖と疲労が張りついていた。
老女が前に出る。
「名を言いな」
「採石村のロウです。後ろに娘夫婦と孫が」
「通れ。怪我人は右、子どもは奥の水場へ」
領都の者たちがすぐに動く。
ミリアは紙を取り出し、聞き取った名を記していった。ミリアの横ではレムが黙って周囲を見る。アランは少し離れた場所で、入ってくる人々の流れと扉の外を同時に追っていた。
避難民は十人、二十人と増えていく。
採石村は大きな村ではない。全員が来たとしても、百を超えるかどうか。けれど通路の奥に見える人影は、思ったより多い。
ミリアは、ふと違和感を覚えた。
荷物が多すぎる。
火事や襲撃から逃げてきたにしては、背負い袋の形が整いすぎている者が混じっていた。中身が衣類や食料なら、もっと歪む。けれど、いくつかの袋は角張っていた。
「レムさん」
小さく呼ぶ。
「左から三人目の男性。背負い袋です」
「確認します」
レムは何気ない動きで近づいた。
男は村人に見える。顔は煤で汚れ、足元も泥だらけだ。だが、手だけが綺麗だった。採石村の者なら、爪の間に石粉が残るはずだと、先ほどの村人たちを見てミリアは気づいていた。
レムが手を伸ばす。
「お荷物をこちらへ」
男の肩がわずかに揺れた。
次の瞬間、背負い袋の口から黒い煙が噴き出した。
周囲がざわめく。
煙は目つぶしだ。逃げるためではない。混乱の中で、扉の機構へ近づくためのもの。
アランはすでに動いていた。
「扉を守れ。閉めるな、流れを切るな」
閉めれば、外に残った本物の避難民が閉じ込められる。開けたままなら、黒蛇に入られる。二つの危険が同時に迫る中で、彼は後者だけを潰す選択をした。
クラウディアの矢が煙を裂く。
袋を投げようとした男の袖を射抜き、壁へ縫い止めた。男は呻き、短剣を抜く。しかし、レムが一歩で距離を詰め、手首を打って刃を落とす。
同時に、別の男が荷車の影から扉の鎖へ向かった。
エルンストが剣を抜く。
重い一撃ではない。無駄のない斬り払いが、男の進路を止めた。山の領主らしい、足場と間合いを知る剣だった。
「門を壊す気か」
声は静かだが、怒りが滲む。
黒蛇の男は答えず、懐から小さな赤い石を取り出した。
ラウゼンで見たものと似ている。
ミリアの喉が詰まる。
「赤い魔石です!」
叫ぶと同時に、アランが走った。
剣では間に合わない。
彼は男の手首を蹴り上げ、魔石を床へ落とす。次の瞬間、レムが布を投げ、老女が水桶を蹴り倒した。濡れた布が魔石を包み、反応しかけていた光が鈍る。
爆発はしなかった。
だが、煙はまだ残っている。
避難民の中で、子どもが泣き叫んだ。誰かが転び、荷車が傾く。押し合いが起きかける。
ミリアは反射的に前へ出そうになった。
そこで、自分の足が止まる。
戦うためではない。
今、自分がやるべきことは別にある。
「子どもはこちらです!」
ミリアは声を張った。
「ランバール家の名において、怪我人と子どもを先に通します! 採石村の家長は、順番に名を!」
王都の礼法で鍛えられた声は、混乱の中でも通った。
村人たちの視線が集まる。公爵家の名など山では大きな意味を持たないかもしれない。けれど、迷っている人々にとって、はっきりした指示は道になる。
老女もすぐに続いた。
「聞こえたね! 子どもは右、怪我人は水場だ! 荷は置け、命が先だ!」
流れが戻る。
クラウディアは弓兵たちへ短く指示し、黒蛇らしき者だけを切り離していく。アランは扉の内側に立ち、通路の奥から来る者を見ていた。ゼイドの姿はない。おそらく外側へ出たのだ。
やがて、煙が薄れた。
黒蛇の男は三人捕らえられた。二人は村人に紛れ、一人は荷車の底に隠れていた。もう一人、通路の外へ逃げた者がいるとクラウディアの弓兵が告げる。
エルンストは捕らえた男の顔を見た。
「採石村の者ではない」
老女が吐き捨てる。
「手が違う。靴も違う。山で逃げてきた足じゃない」
アランは男の背負い袋を開いた。
中には油壺、赤い魔石、薄い鉄具。扉の鎖を壊すための道具だ。
「狙いは民ではなく、避難路そのものか」
「民を使って門を開けさせ、中から壊すつもりだったのでしょう」
ミリアが息を整えながら言う。
アランは彼女を見た。
顔色は悪い。だが、立っている。震えを隠す余裕はないらしく、紙を持つ指がかすかに揺れていた。
「気づいてくれて助かった」
「手が綺麗でした」
「手?」
「採石村の方々は、爪の間に白い石粉が残っていました。あの男にはありませんでした。袋の形も不自然でした」
クラウディアがミリアを見た。
「そこを見ていたのですか」
「戦えませんので」
ミリアはそう答えた。
クラウディアは少しだけ黙り、やがて頷く。
「山でも役に立つ目です」
ミリアは驚いたように目を瞬いた。
それは、クラウディアから初めて受けた素直な評価だった。
その時、外からゼイドが戻ってきた。
外套の裾に泥が跳ねている。
「逃げた一人は追った。途中で崖下へ降りた。南避難路の外側に、別の入口がある」
エルンストの顔が険しくなる。
「別の入口など、知らぬ者には見つけられん」
「黒蛇は知っていた」
その一言で、場が沈んだ。
ヴァイスベルクの支援網が、外から探られているだけではない。内部に残る古い記録、あるいは誰かの口から漏れた情報がある。
老女が歯を食いしばる。
「古い水抜き道だ。今は封じているはずだが、岩の隙間から入れる者がいるかもしれん」
「子どもなら通れる?」
アランが問う。
老女は顔を上げた。
「通れる。だが、暗く、狭い。崩れている場所もある。大人は無理だ」
「黒蛇が子どもを使っている可能性は」
誰もすぐには答えなかった。
その沈黙が、答えに近かった。
ノルがふらつきながら前へ出る。
「僕、知っています。その水抜き道」
クラウディアが即座に振り向く。
「ノル、下がりなさい」
「でも、あそこを通られたら、南の貯蔵庫の裏に出ます。薬と冬の食料がある場所です」
エルンストの目が鋭くなる。
南の貯蔵庫。
支援網を支える物資の一つ。
そこを焼かれれば、山の避難路は機能を失う。
アランは一瞬だけ考えた。
急げば間に合うかもしれない。
だが、大人が通れない狭い道。黒蛇が子どもを使っているかもしれないという状況。力押しはできない。
「ノルは案内だけ」
アランが言った。
「中へは入らせない」
「でも」
「君はもう一度守る役目を果たす。今度は、命を賭けることじゃない。道を教えて、戻ることだ」
ノルは唇を噛んだ。
クラウディアが少年の肩に手を置く。
「殿下の言う通りです。あなたが戻らなければ、次の道が分からなくなる」
少年は悔しそうに頷いた。
エルンストはアランを見た。
「支援路の奥へ入るなら、私が行く」
「辺境伯が動けば、南門の指揮が落ちます」
「なら、誰が行く」
「僕とレム、ゼイド。クラウディアには案内を。ミリア嬢はここで記録と避難民の整理を続けて」
ミリアは一瞬、言葉を飲み込んだ。
行きたい、とは言わない。
ここで自分が行けば、狭い水抜き道では確実に足を引っ張る。感情で動いていい場所ではなかった。
「分かりました」
短く答え、彼女は紙を握り直す。
「ここを止めません。避難民の名と荷物、黒蛇が紛れた人数、押収品。すべて残します」
「頼む」
アランはそれだけ言った。
十分だった。
南門の奥で、また小さな音が響く。
鐘ではない。
石の下から、何かが削られるような音。
水抜き道の奥で、黒蛇が動いている。
アランは剣を抜いた。
クラウディアも弓を背負い直し、細剣に手を添える。
真の軍勢はまだない。
旗もない。
あるのは、壊れかけた避難路と、それを守るために動く少数の者たちだけ。
けれど、その道が失われれば、山は閉じる。
そして山が閉じれば、いつか王都へ向かう道も途切れる。
「行こう」
アランの声に、レムとゼイドが続いた。
南の避難路のさらに奥。
黒蛇は、支援網の腹へ入り込もうとしていた。




