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39話 山の門

 修道跡の地下は、夜の間ずっと薬草の匂いに満ちていた。


 石造りの壁は冷えきっている。崩れた礼拝堂の上では風が鳴り、時折、小石が転がる音が天井越しに聞こえた。火を大きく焚くことはできない。黒蛇に煙を見つけられれば、それだけで居場所を知らせることになる。


 だから、灯りは小さなランタンが二つだけ。


 その光の中で、薬師オルドは黙々とハルトの傷を縫っていた。


 ミリアは布を押さえ、水を替え、血のついた包帯をたたむ。手際がよいとは言えない。それでも、オルドが次に何を必要とするかを見ようとしていた。ラウゼンで負傷者を見た時より、指の震えは少ない。


「公爵令嬢が、こんな仕事をなさるとは」


 オルドがふと呟いた。


 責める声ではない。ただ意外そうだった。


 ミリアは血のついた布を桶へ落とす。


「できることがこれしかありませんので」


「それを嫌がらない方は、山では歓迎されます」


「山では、ですか」


「王都では違うのでしょう」


 穏やかな言葉だったが、少しだけ棘がある。


 ミリアは苦笑した。


「王都でも、必要ならやるべきです。ただ、必要な場面が見えにくいだけで」


 オルドは手を止めず、わずかに目を細めた。


「なるほど。見えてしまった方ですか」


 ミリアは答えなかった。


 代わりに、眠っているハルトを見た。


 熱は下がり始めている。呼吸も先ほどより落ち着いていた。けれど、助かったと言い切れるほどではない。


 黒蛇は、こういう者まで狙う。


 鐘を守り、道を知り、傷ついた者を運ぶ人々。戦場で剣を振るう兵士ではない。けれど彼らがいなければ、山の道は途切れる。


 ミリアは乾いた布を手に取りながら、胸の奥に残った重さを飲み込んだ。


 地上では、アランとクラウディアが地図を挟んで向き合っていた。


 古い修道跡の石床に、山岳領の略図が広げられている。クラウディアは炭で印をつけ、アランはそれを黙って追っていた。


「領都へは、表の道なら半日。旧い鐘道を使えば早いですが、黒蛇も一部を押さえている可能性があります」


「昨日、鐘に仕掛けをした連中がいる以上、表の道も安全とは言えないね」


「ええ。安全な道などありません。少し危険が少ない道を選ぶだけです」


 クラウディアの声は、山の冷たい空気に似ていた。


 アランは地図の端に置かれた小さな石を見た。三つの石。おそらく見張り小屋か、支援家の位置を示しているのだろう。


「この三か所は?」


「支援家です。ひとつは薬師。ひとつは冬の避難小屋。もうひとつは、鏡を持つ見張り番」


「兵ではない」


「違います」


 クラウディアは即座に答えた。


「父に会っても、そこは間違えないでください。ヴァイスベルクは山道を守ります。ですが、あなたの軍にはなりません」


「分かっている」


「本当に?」


「兵を求めるなら、昨日の鐘を鳴らしていたよ」


 クラウディアは黙った。


 その返しは、彼女にとって否定しにくいものだったのだろう。


 少し離れた場所で、レムが入口を見張っている。ゼイドは夜明け前から周辺の確認に出ていた。戻る時間が遅い。黒蛇の痕跡を追っているのか、あるいはあちらもこちらを見ているのか。


 アランは地図から目を上げた。


「クラウディア」


「何ですか」


「君の父上は、僕が銀髪だというだけで会ってくれる人?」


「いいえ」


「だろうね」


「ですが、光の合図を受け取った以上、門前で追い返すこともありません。父は、相手を見ずに判断する方ではないので」


「厳しそうだ」


「厳しいです」


 クラウディアは淡々と言う。


「それに、あなたはすでに山へ入った。父からすれば、試す材料には困りません」


「それは怖いな」


「怖がってください」


 アランは笑ったが、すぐに表情を戻した。


 足音が近づく。


 ゼイドだった。


 外套には朝露がつき、袖の端に黒い煤がある。


「北峰の次の見張り場が焼かれていた」


 クラウディアの顔が変わった。


「誰が」


「生存者は一人。山の子どもだ。怪我は軽いが、かなり怯えている。黒蛇は鐘を鳴らせと迫ったらしい」


 アランの目が細くなる。


「鳴らしたのか」


「鳴らしていない。代わりに、鏡を割って逃げた」


 クラウディアは拳を握った。


 怒りを表に出す人ではない。だが、指先が白くなるほど力が入っている。


「その子は」


「入口の外だ。歩けるが、休ませた方がいい」


 アランはすぐに立ち上がった。


 外へ出ると、朝の冷たい空気が頬を刺した。礼拝堂跡の影に、十二、三歳ほどの少年が座っている。膝に擦り傷があり、頬は煤で汚れていた。両手で割れた鏡の枠を抱え込んでいる。


 クラウディアが少年の前に膝をついた。


「ノル」


 少年は顔を上げた。


「クラウディア様……鐘、鳴らしませんでした」


「よくやった」


 その一言で、少年の目から涙がこぼれた。


「でも、父さんが……小屋が……」


「分かっています。今は息を整えなさい」


 クラウディアの声は静かだった。


 しかし、その横顔には痛みがある。山の者を守る立場にいるからこそ、感情を崩せないのだろう。


 アランは少年の抱える鏡枠を見た。


 光を送るための鏡。


 鐘を鳴らせば支援家の位置が割れる。少年はそれを理解し、鏡を割って逃げた。大人に迫られ、火をかけられても、音を出さなかった。


 アランはしゃがみ、少年と目線を合わせる。


「怖かったね」


 少年は唇を噛んだ。


「……怖くありません」


「そう言いたい時もある。でも、怖くていい。君は逃げたんじゃない。守ったんだ」


 少年は何かを言おうとして、言葉にならなかった。


 クラウディアがアランを見る。


 その目には、昨夜までとは違う色が混ざっていた。信頼ではない。だが、少なくとも、言葉の届く相手として見ている。


 アランは立ち上がった。


「予定を変えよう」


「領都へ急ぐのでは?」


「急ぐ。ただ、その前にこの子を安全な場所へ移す。焼かれた見張り場に他の生存者がいるかも確認する」


「黒蛇を追わないのですか」


「追えば罠に入る。今向こうが欲しいのは、僕か君が怒って動くことだ」


 クラウディアは視線を伏せた。


 図星だったのだろう。彼女は今すぐ黒蛇を追いたいはずだ。


「支援路を守るなら、人を残す。道だけ残しても、使う人がいなければ意味がない」


 アランの声は低い。


 説明ではなく、判断だった。


 クラウディアはしばらく黙り、やがて短く頷いた。


「……分かりました。領都へは私が先触れを出します。あなたは、この子とハルトを連れて後から」


「いや、僕も行く。動ける者を分けすぎると危ない。先触れは光ではなく、人で出す。音も光も今は拾われる」


「人なら狙われます」


「だから、ゼイドがつく」


 ゼイドは何も言わず、視線だけで了承した。


 クラウディアはアランから目を逸らさない。


「あなたは、兵を動かすより面倒なことを選ぶのですね」


「今は、それが一番早い」


「早くはありません」


「でも、折れにくい」


 クラウディアは返せなかった。


 その日の午前、修道跡を出た一行は、表の山道から少し外れた斜面を進んだ。


 ハルトは簡易担架に乗せられ、ノルはオルドの横を歩いている。ミリアは何度か足を滑らせそうになりながらも、自分から助けを求めた。レムは黙って手を貸す。無理をしないことも訓練だと言われたばかりで、反論する余地はなかった。


 山の空は近い。


 雲が早く流れ、谷から吹き上げる風が外套の裾を揺らす。遠くに見える峰の向こうに、石造りの城門があった。高くはない。王都の城壁ほど華やかでもない。ただ、岩山と一体化するようにそこにある。


 ヴァイスベルク領都。


 門の上には、三つの峰と狼の紋が刻まれていた。


 近づくにつれ、弓兵の姿が増える。全員が山の外套をまとい、顔には疲れが見えた。昨日から支援家への襲撃が続いているのだろう。彼らはアランの銀髪を見ても膝をつかない。剣を抜くこともなく、ただ警戒の中で道を開ける。


 門前で待っていたのは、一人の男だった。


 年は五十前後。灰を帯びた金髪を短く切り、厚手の外套の下に古い鎖帷子を着ている。大柄ではないが、立っているだけで山の石のような重さがあった。腰には剣。だが、手は柄に触れていない。


 クラウディアが一歩前に出る。


「父上」


 男は頷いた。


「戻ったか、クラウディア」


「黒蛇は鐘道に罠を仕掛けています。ハルトは負傷。北峰の見張り場も焼かれました。ノルは鐘を鳴らさず逃げています」


 報告は短い。


 父も余計な言葉を挟まない。


「生きて戻ったなら、よい」


 ノルが俯いた。


 その一言で、少年の肩が少し震える。


 男は次にアランを見た。


「第二王子アラン・ヴァルタイン殿下か」


「はい」


 アランは王族として礼を取った。


 膝をつかせるための礼ではない。相手の領地に入った者としての礼だった。


「ヴァイスベルク辺境伯、エルンスト・ヴァイスベルクだ」


 名乗りの後、しばらく沈黙が落ちた。


 風が門の上を抜ける。


 エルンストはアランの銀髪ではなく、背後の担架、ノル、ミリア、レム、クラウディアを順に見た。誰を連れてきたか。誰を置いてこなかったか。そこを見ている。


「銀の王子」


 エルンストは低く言った。


「この門で、あなたに兵は渡せない」


「求めていません」


 アランはすぐ答えた。


「では、何を求める」


「道です。鐘を鳴らさず知らせを通す手段。怪我人を隠せる場所。黒蛇が触れた支援家の記録。あとは、焼かれた見張り場に残る者を助けるための案内を」


 エルンストの目がわずかに動いた。


「兵ではなく、案内か」


「はい」


「黒蛇を討つ力が欲しいとは言わないのか」


「必要なら僕たちが動きます。ただ、山を知らない者だけで動けば、助けるべき人を踏みつける」


 エルンストは黙った。


 クラウディアも口を挟まない。


 代わりに、ミリアが一歩進み出た。


 アランは驚かなかった。彼女が何かを言う気配には気づいていた。


「ミリア・ランバールと申します」


「ランバール公爵家の令嬢か。なぜここにいる」


「記録するためです」


 ミリアはそう答え、鞄から数枚の紙を取り出した。


「ラウゼンで黒蛇が何をしたか。フォルン家がどう脅されたか。町民がどのように消火と避難に協力したか。王太子府とランバール公爵家へ送った報告の写しです。山岳領でも同じことが起きるなら、記録が必要になります」


「山のことを、王都の紙に残すと?」


「はい。黒蛇があなた方を反乱者に仕立てる前に」


 門前の空気が一段冷えた。


 その言葉は山の者にとって敏感なものだったのだろう。弓兵の何人かがわずかに身構える。


 ミリアは退かなかった。


「蒼狼の名を使って兵を集めた、と言われれば、山岳領は疑われます。鐘を鳴らしただけで、王都には違う形で伝わるかもしれません。だから、誰が焼かれ、誰が逃げ、誰が助けたのかを残します。私は剣で山を守れません。けれど、あなた方が黒蛇の罪を背負わされないよう、言葉で戦うことはできます」


 アランは口を出さなかった。


 クラウディアも、エルンストも、ミリアを見ている。


 やがて、エルンストが低く笑った。


 愉快そうではない。


 少しだけ意外だった、という笑みだ。


「王都の白薔薇は、棘だけではないらしい」


 ミリアは静かに礼を取る。


「棘はあります」


「だろうな」


 エルンストはアランへ視線を戻した。


「殿下。あなたはこの令嬢を連れてきた」


「はい」


「守るためではなく?」


「守ります。ただ、それだけではありません」


 エルンストはまた沈黙した。


 門の内側から、人々の気配が聞こえる。兵ではない。荷を運ぶ音、馬を引く声、怪我人を呼ぶ声。山の支援網が、すでに動き始めている。


 やがて、辺境伯は門番へ手を上げた。


「門を開けろ」


 重い木扉が軋む。


 完全に開いたわけではない。人と担架が通れるだけの幅だ。それでも、門は開いた。


「兵は出さん」


 エルンストは言った。


「だが、道を貸す。薬師を貸す。記録を見せる。黒蛇が焼いた小屋へ案内も出そう」


「ありがとうございます」


「礼はまだ早い」


 辺境伯の目は鋭い。


「支援を預けるということは、兵を渡すより難しい。そこには、武器を持たぬ者がいる。老いた者も、子どもも、逃げ場を守る者もいる。あなたが一度でも彼らを駒として扱えば、山は閉じる」


「覚えておきます」


「覚えるだけでは足りない。行動で示せ」


 アランは頷いた。


「はい」


 その返事は短かった。


 だが、エルンストはそれでひとまずよしとしたらしい。


 門の内側へ入る直前、クラウディアがアランの横に並ぶ。


「父が門を開けたのは、あなたを信じたからではありません」


「分かっている」


「ノルを置いていかなかったからです」


「それで十分だよ」


 クラウディアはアランを見た。


「あなたは、変わった王子ですね」


「王都ではよく言われる」


「山でも言われると思います」


「困ったな」


 アランは少し笑った。


 ミリアはその背を見ながら、鞄の中の紙を押さえた。


 山の門は開いた。


 けれど、これは歓迎ではない。試しでもあり、警告でもある。


 真の軍勢はまだ遠い。


 今ここにあるのは、傷ついた伝令と、怯えた少年と、薬師と、記録と、壊れかけた支援の道。


 それを守れなければ、いつか軍旗が掲げられる日など来ない。


 門の奥から、別の鐘の音がした。


 小さく、短く、一度だけ。


 エルンストの顔色が変わる。


 クラウディアが振り向いた。


「あの音は」


「南の避難路だ」


 辺境伯の声が低くなる。


「黒蛇が、今度は民を動かした」


 アランの手が、自然と剣の柄へ近づいた。


 門は開いたばかりだ。


 だが、山はすでに次の選択を突きつけている。


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