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38話 鐘を鳴らさぬ道

 王城の奥、国王アルバートの寝室には、薬草の匂いが薄く漂っていた。


 厚いカーテンは半分だけ開かれている。差し込む昼の光は柔らかいが、寝台に横たわる王の顔色までは明るくしてくれない。頬は痩せ、呼吸も深くはない。それでも、青い瞳には王としての光が残っていた。


 ルイは寝台のそばに立ち、グレイストン家の帳簿とラウゼンから届いた報告書を読み上げた。


 黒蛇の偽報。


 呼応地図の写し。


 ラウゼンで鳴った笛と鐘。


 ヴァイスベルク山岳領へ伸びた線。


 そして、アランが山へ向かったこと。


 すべてを聞き終えたアルバートは、しばらく目を閉じていた。眠ったのではない。言葉を選んでいるのだと、ルイには分かった。


「蒼狼軍を、軍と呼ぶには早い」


 やがて、王はそう言った。


 声は掠れていたが、揺らいではいない。


「父上も、そうお考えですか」


「軍とは、旗の下に集まり、命令で動くものだ。今、アランが触れているのは違う。道を守る者、鐘を守る者、記録を守る者、負傷者を匿う者。彼らは兵ではない。王国を支える根だ」


 ルイは黙って耳を傾ける。


「根を無理に引き抜けば、木は枯れる。黒蛇はそれを狙っている」


「では、アランには支援だけを求めさせるべきですね」


「求めさせる、ではない」


 アルバートの目が開いた。


「頼ませるのだ。あの子が、それを分かっているならよい」


 ルイは静かに頷いた。


 アランはすでにラウゼンで命じなかった。力を貸してほしいと頼んだ。父が知れば、少しは安心するだろう。そう思い、ルイは報告書の一節を示した。


「ラウゼンでは、町民が膝をつかなかったそうです。アランも、それを望みませんでした」


 アルバートの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。


「ならば、あの子は間違えていない」


 だが、その笑みはすぐに消える。


「ただし、真の軍勢は別だ」


 寝室の空気が重くなった。


 ルイは父を見る。


「王国が滅びの縁に立つ時、古い旗が再び掲げられることはある。だが、それは最後の手段だ。早く呼べば、アランは王位を狙う者に見える。遅すぎれば、王都は耐えきれぬ」


「……その時を、誰が判断するのですか」


 アルバートはすぐに答えなかった。


 窓の外で、王城の鐘が鳴る。


 一度。


 二度。


 その音が遠ざかった後、王は静かに言った。


「王が判断する」


 ルイの胸が冷えた。


 それは自分のことなのか。


 それとも、まだ病床にある父自身のことなのか。


 聞き返す前に、アルバートは手を伸ばした。痩せた指が、帳簿の上に置かれる。


「ルイ。アランを疑う者が出る」


「分かっています」


「その時、お前だけは疑うな」


「疑いません」


 即答だった。


 アルバートは息を吐く。


「よい。ならば、私はまだ少し眠れる」


 ルイは頭を下げた。


 寝室を出た時、彼の表情は王太子のものへ戻っている。だが、胸の奥には父の言葉が重く残った。


 王が判断する。


 その言葉が示す未来は、近づいているのかもしれない。


 山岳領の森では、鐘の音など聞こえなかった。


 アランたちは、クラウディアの案内で旧巡礼路を進んでいる。前を行くのはヴァイスベルク家の弓兵二人。中央に負傷したハルトを乗せた簡易担架。その横をミリアとレムが歩き、アランとクラウディアは少し後ろについた。ゼイドは姿を見せないが、森のどこかで周囲を探っている。


 道はさらに狭くなった。


 片側は苔むした岩壁、もう片側は深い谷。風が吹くたび、木々の葉が擦れ合い、足元の小石が谷へ落ちていく。馬はすでに使えない。荷を減らし、人の足で進むしかなかった。


「ここから先、鐘道に入ります」


 クラウディアが言った。


 ミリアは視線を上げる。


「鐘道?」


「山の家々へ知らせを回すための古い道です。途中に小さな鐘楼がいくつもあります。けれど、今日は鳴らしません」


「黒蛇が聞いているからですね」


「はい」


 クラウディアは短く答えた。


「鐘は支援を呼ぶ道具です。同時に、こちらの位置を知らせる音にもなる。黒蛇はそれを逆手に取るつもりでしょう」


 アランは岩壁に刻まれた小さな狼紋を見た。


 目立たない。


 知らなければ、ただの傷にしか見えない印だ。


「鐘を鳴らさずに知らせる方法は?」


「あります。ただし、時間がかかる」


 クラウディアは道の先を指した。


「灯りです。昼は鏡、夜は覆い火。山の峰から峰へ、音ではなく光を送ります。古い伝令の方法ですが、見張りが残っていなければ意味をなしません」


「残っているの?」


「確認していません」


「ずいぶん危うい支援だね」


「蒼狼軍ではありませんから」


 その言葉は、はっきりしていた。


 クラウディアはアランを見る。


「誤解しないでください。山に残るのは軍ではありません。家の掟、古い合図、冬の避難路、隠し倉、鐘守の血筋。そうしたものです。あなたがここで旗を掲げても、兵は集まりません」


「集める気はないよ」


「そう言いながら、必要になれば求める者もいます」


「君は、僕を疑うことをやめないね」


「疑うのが山の礼儀です」


 アランは少し笑った。


「いい礼儀だ」


 ミリアは二人の会話を聞きながら、担架の横を歩いていた。


 ハルトの顔色は悪い。熱も出始めている。レムが応急処置をしたとはいえ、この山道で長く耐えられる状態ではなかった。


「次の休める場所までは?」


 ミリアが尋ねると、クラウディアの弓兵が答えた。


「半刻ほど先に修道跡があります。今は使われていませんが、地下に水場がある。黒蛇が先に入っていなければ、そこで手当てできます」


「先に入っていれば?」


「奪い返します」


 弓兵の返事は簡潔だった。


 ミリアは頷く。


 怖さは消えない。


 けれど、何を怖がるべきかは少しずつ分かってきた。敵の刃だけではない。道を知らないこと。疲れを隠すこと。焦って鐘を鳴らし、支援網そのものを危険に晒すこと。


 戦いは剣だけで決まらない。


 ラウゼンで学んだことが、ここでも形を変えて現れている。


 やがて、道が開けた。


 崖沿いの小さな広場に、石造りの鐘楼が立っている。高さは人の二倍ほど。屋根は半分崩れ、吊るされた鐘には錆が浮いていた。それでも、風が吹くたびにかすかな金属音が鳴る。


 音は小さい。


 だが、山に慣れた者なら聞き分けるのだろう。


 クラウディアが手で合図し、一行を止めた。


「妙です」


 アランもすでに気づいていた。


 鐘楼の周りに、足跡が多すぎる。


 山の民のものではない。靴底が違う。いくつかは王都の商人が使う革靴に似ていた。


 黒蛇だ。


 レムがミリアを岩陰へ誘導する。


 ゼイドがいつの間にか戻っていた。


「鐘の内側に仕掛けがある」


「鳴らしたら?」


「煙と火薬。音を合図に爆ぜる」


 アランの顔から表情が消える。


 黒蛇は鐘を罠にした。


 支援を呼ぶための音を、死を呼ぶ音へ変えたのだ。


 クラウディアの拳が強く握られる。


「この鐘は、冬に遭難者を探すためのものです。吹雪の日、道を失った者が叩けば、近くの家が助けに来る」


「黒蛇は、それを知っている」


「ええ。だから許せない」


 怒りは静かだった。


 激しく叫ぶよりも、深く沈んでいる。


 アランは鐘楼へ近づこうとした。


 その前に、クラウディアが腕で制する。


「山の罠です。私が見ます」


「任せる」


 即答だった。


 クラウディアは一瞬だけアランを見た。


 だが、何も言わず鐘楼へ向かう。弓兵二人が周囲を警戒し、レムがミリアの位置を守る。ゼイドは鐘楼の裏側へ回った。


 クラウディアは鐘に触れない。


 まず石の台座を見る。次に縄。風で揺れる古い麻縄の一部が、不自然に新しい。彼女は短剣で縄を切らず、根元に挟まれた細い金具を慎重に外した。


 中から黒い粉がこぼれる。


 火薬。


「鐘を鳴らさせるつもりだったのですね」


 ミリアが呟く。


「支援を呼ぼうと焦った者を、ここで殺す。あるいは、爆発音で山の家々を怯えさせる。黒蛇らしい」


 アランの声は低い。


 クラウディアは仕掛けを外し終えると、鐘へそっと手を添えた。


 鳴らさない。


 ただ、触れただけだった。


「この鐘は、誰かを助けるために残されたものです」


 彼女は言う。


「それを罠に使う者を、山は許しません」


 その言葉に、弓兵たちの顔が引き締まる。


 アランはクラウディアの横へ立った。


「ここで光の合図は送れる?」


「送れます。ただし、鐘楼に上がる必要があります。黒蛇が見ていれば、狙われる」


「なら、僕が囮になる」


「却下します」


 ミリアとレムの声が重なった。


 アランは二人を見た。


「息が合ってきたね」


「茶化さないでください」


 ミリアが即座に返す。


 クラウディアは少しだけ眉を上げた。


「王子を囮にする趣味はありません。光を送るのは私の役目です。山の合図ですから」


「狙われるよ」


「承知の上です」


「なら、こちらが周囲を押さえる」


「それなら構いません」


 短い合意だった。


 アランが合図を出す。


 ゼイドが鐘楼の裏手へ消え、レムはミリアとハルトを岩陰へ下げる。弓兵たちは互いに位置をずらし、森の奥へ矢を向けた。


 クラウディアが鐘楼に上る。


 崩れかけた石段は足場が悪い。それでも彼女の動きに迷いはない。頂部に着くと、小さな鏡を取り出した。雲の切れ間から差す光を拾い、山の峰へ向ける。


 一度、短く。


 二度、間を置いて。


 次に長く。


 音のない合図。


 しばらく何も起きなかった。


 風だけが、森を撫でる。


 ミリアは息を詰める。


 本当に届くのか。


 見張りは残っているのか。


 古い誓約は、まだ山のどこかに生きているのか。


 やがて、遠くの峰で光が返った。


 小さな瞬きだった。


 見間違いそうなほど弱い。


 だが、確かに光った。


 クラウディアの表情が変わる。


「残っていた……」


 弓兵の一人が息を呑んだ。


「北峰の見張りです。まだ、家が残っています」


 アランは遠くの光を見た。


 兵ではない。


 軍旗でもない。


 けれど、支援の線は生きている。


 小さな光が、山の向こうへまた一つ返る。次の峰へ。さらに奥へ。音を立てず、黒蛇にすべてを悟らせぬまま、細い知らせが進んでいく。


 ミリアは胸の奥が熱くなるのを感じた。


 ラウゼンの笛。


 山の鐘。


 そして、鐘を鳴らさない光。


 すべては違う形だが、同じものにつながっている。


 誰かを従わせるためではない。


 誰かを助けるために残された道だ。


 その時、森の奥で矢が放たれた。


 狙いはクラウディア。


 アランが動くより早く、弓兵が撃ち返した。矢同士が空中でぶつかる。次の一本はゼイドが弾く。黒蛇が見ていたのだ。


 だが、遅い。


 合図はもう送られた。


「撤収!」


 クラウディアの声が飛ぶ。


 彼女は鐘楼から飛び降りるようにして石段を下りた。着地の瞬間、足元の石が崩れる。ミリアが思わず動きかけるが、レムの手が肩を押さえた。


「今は待つ」


 低い声だった。


 クラウディアは片膝をついたものの、すぐに立ち上がる。怪我はない。


 アランが森の奥へ剣を向けた。


「来るなら受ける。でも、深追いはしない」


「分かっています」


 クラウディアは短く答える。


「支援路を守ることが先です」


 黒蛇は姿を見せなかった。


 こちらが追わないと分かると、森の気配が遠ざかっていく。誘い出しに失敗したのだろう。


 レムがハルトの容体を確認する。


「急ぎましょう。熱が上がっています」


 クラウディアは頷いた。


「修道跡へ向かいます。光が届いたなら、先に誰かが入っているかもしれません」


「味方が?」


「支援の家です。武装していても、兵ではありません。誤解しないでください」


「分かっている」


 アランはそう答えた。


 一行は鐘楼を後にした。


 誰も鐘を鳴らさない。


 その沈黙が、今は何よりの合図だった。


 修道跡に着いたのは、日が傾き始めた頃だった。


 石壁の半分は蔦に覆われ、礼拝堂の屋根は崩れている。けれど地下への入口は残っていた。そこには小さな灯りが一つ置かれている。


 誰かが先に来た証だ。


 クラウディアが合図を送ると、地下から老人が現れた。


 灰色の髪を後ろで結び、肩には古い毛織りの外套。腰に剣はない。持っているのは薬箱と杖だった。


「クラウディア様」


「遅くなりました。負傷者がいます」


「北峰から光が来ました。鐘を使わず、正解でしたな」


 老人はアランを見る。


 銀の髪を見ても、膝はつかなかった。


 ただ、深く一礼する。


「私は薬師のオルド。ヴァイスベルク領の支援家です。兵ではありませんが、傷は診られます」


 アランも頭を下げた。


「お願いします」


 オルドは一瞬だけ驚き、それから頷いた。


「こちらへ。地下なら黒蛇の矢は届きません」


 ハルトが運び込まれる。


 ミリアも薬箱を運ぶ手伝いに回った。レムは入口を守り、ゼイドは周囲の確認へ出る。クラウディアは地図を広げ、アランと向かい合った。


「光は領都へ届きました」


「なら、ヴァイスベルク家は動く?」


「動きます。ただし、兵ではありません。門を開けるかどうか、父が判断します」


「君の父は厳しそうだ」


「私よりも」


「それは困ったな」


「困ってください。山は王都ほど甘くありません」


 クラウディアの言葉には棘がある。


 けれど、最初のような拒絶は薄れていた。


 アランは地図を見下ろす。


 支援の光はつながった。


 しかし、黒蛇も山の中にいる。


 鐘は罠に変えられ、支援路は狩場になりかけている。真の軍勢など、まだ影も見えない。今あるのは、薬師、見張り、山小屋、灯りの合図。どれも小さく、壊れやすい。


 だからこそ、守る価値がある。


「クラウディア」


「何ですか」


「支援だけでいい。今はそれを守りたい」


 彼女は少し黙った。


 やがて、視線を地図へ落とす。


「なら、明日。父に同じことを言ってください」


「言うよ」


「その時、銀の王子としてではなく」


「アラン・ヴァルタインとして?」


 クラウディアの目がわずかに動いた。


「分かっているなら、結構です」


 地下から、ミリアの声が聞こえた。


「ハルトさんの熱、少し下がり始めました!」


 その報告に、張り詰めていた空気がわずかに緩む。


 クラウディアは目を閉じ、小さく息を吐いた。


「よかった」


 短い言葉だった。


 そこに、山の娘ではなく、一人の仲間を案じる素顔が見えた。


 アランはその横顔を見て、改めて思う。


 蒼狼軍は、まだ現れない。


 だが、その前に守るべき人々がいる。


 道をつなぐ者。


 傷を癒やす者。


 沈黙の光を山へ返す者。


 彼らがいなければ、いつか軍旗が掲げられる日など来ない。


 鐘を鳴らさぬ道は、静かに次の峰へつながっていた。


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