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37話 山の狼は膝をつかない

 山小屋の前で、矢尻が銀の髪へ向けられていた。


 森は静まり返っている。風が枝を揺らす音も、沢の流れも、今だけは遠い。苔むした小屋の中には、息絶えかけた伝令の男が横たわり、床板の隙間から見つかった鉄片がアランの手にある。


 その正面に、クラウディア・ヴァイスベルクが立っていた。


 銀灰色の髪を短く束ね、深い青の外套を纏った山岳領の娘。背には短弓、腰には細剣。年若い女でありながら、周囲の弓兵たちは彼女の合図を待っている。


 ミリアは、彼女の立ち姿に息を呑んだ。


 貴族の令嬢とも、王都の騎士とも違う。礼節はある。だが、こちらに気を遣う柔らかさはない。山道で生きる者の警戒と、守るべき土地を背負う者の厳しさが、彼女の目に宿っていた。


「答えてもらう」


 クラウディアの声は冷たい。


「なぜ、我らがあなたを信じるべきなのかを」


 レムの手が剣に触れる。


 ゼイドは森の影へ視線を流し、弓兵の位置を数えていた。アランが合図すれば、数人はすぐに無力化できるだろう。けれど、それを選べば終わる。


 信頼を得る道が、そこで閉ざされる。


 アランは剣を抜かなかった。


「信じろとは言わない」


 その返答に、クラウディアの眉がわずかに動く。


「銀の王子は、従えと言いに来たのではないのか」


「違う」


 アランは手の中の鉄片を見せた。


「僕は、蒼狼軍を呼びに来たわけじゃない。少なくとも、今は」


 森の中に緊張が走った。


 蒼狼軍。


 その名を出した瞬間、弓兵たちの呼吸が変わる。恐れではない。怒りに近いものも混じっていた。


 クラウディアは一歩近づいた。


「軽々しく、その名を口にしないでください」


「軽く扱うつもりはない」


「なら、知っているはずです。蒼狼軍はもう存在しません。少なくとも、ここにいる我らは軍ではない」


 アランは頷いた。


「フォルン家は笛を守っていた。グレイストン家は記録を守っていた。ヴァイスベルク家は、山道と鐘の役目を残している。そう見ている」


 クラウディアの目が鋭くなる。


「どこまで知っているのです」


「まだ断片だけだ」


「断片で山へ入ったのですか」


「黒蛇が先に入ったからね」


 アランの声は静かだった。


「ラウゼンは襲われた。フォルン家は脅された。グレイストン家は口を封じられかけた。ここに倒れている彼も、黒蛇に斬られている。君たちが僕を試す前に、黒蛇はもう君たちを狩り始めている」


 クラウディアは小屋の中へ目を向ける。


 倒れた伝令の男。


 彼の胸は、もうほとんど動いていなかった。


「……彼は、鐘守の分家です」


 クラウディアの声が少しだけ低くなる。


「領都へ知らせるため、山を下りていたはずでした。まさか、この場所で」


 彼女はそこで言葉を切った。


 悔しさを飲み込んだのだと、ミリアには分かった。


 アランは一歩下がり、道を開ける。


「彼を見てあげて」


 クラウディアは一瞬だけアランを見た。


 それから、小屋へ入る。


 弓兵の一人が矢を下げかけたが、別の者が制した。まだ信用はしていない。だが、即座に撃つ空気でもなくなっている。


 クラウディアは男のそばに膝をついた。


「ハルト」


 名を呼ばれ、男の瞼がわずかに震える。


「クラウ……ディア様……」


「話すな。すぐ手当てを」


 レムが布と薬を差し出す。


 クラウディアは一瞬ためらったが、受け取った。敵から受け取るには重いものだ。だが、今は命が先だった。


 ミリアも水筒を渡す。


 クラウディアの目が、ミリアへ向いた。


「あなたは?」


「ミリア・ランバールです。ランバール公爵家の者として、ラウゼンの証言記録を預かっています」


「王都の公爵令嬢が、なぜこんな山小屋にいるのです」


「見たからです」


「何を」


「黒蛇が町を焼こうとしたところを。フォルン家の笛が鳴り、ラウゼンの人々が自分たちの意思で立ったところを。アラン殿下が、命じるのではなく力を貸してほしいと頼んだところを」


 クラウディアの視線は、揺れない。


 ミリアも逃げなかった。


「私は戦うためだけに来たのではありません。証言するために来ました。黒蛇が蒼狼の名を利用し、協力する家々を反乱者に仕立てようとしている。だから、表の記録が必要です」


「表の記録」


「はい。影の誓約だけでは、王都で歪められます」


 クラウディアは何も言わない。


 だが、彼女の警戒に小さな隙間が生まれた。


 その時、倒れていたハルトがかすかに息を吸った。


「鐘を……鳴らすな……」


 クラウディアが身を屈める。


「なぜです」


「黒蛇が……聞いている……山の鐘を……鳴らせば……本家の道が……」


 声が途切れる。


 アランは小屋の外へ視線を向けた。


 鐘。


 山。


 呼応地図。


 笛と鐘は道を開く鍵だ。だが、黒蛇がそれを知っているなら、鐘を鳴らすことは同時に位置を教える合図にもなる。


 ハルトの指が震えながら、クラウディアの袖を掴んだ。


「軍を……呼ぶな……まだ……」


 アランの目が細くなる。


 クラウディアも同じ言葉に反応した。


「ハルト。誰からそれを」


「父が……言っていた……支えの狼と……牙の狼は……違う……」


 ミリアはその言葉を心に刻んだ。


 支えの狼。


 牙の狼。


 おそらく、蒼狼軍の二つの形。


 今、各地に残るのは支える者たちだ。伝える者、記録する者、匿う者、道を示す者。王国が本当に滅びの縁に立つまで、牙となる軍勢は姿を見せない。


 アランはゆっくりと頷いた。


「分かった。今は軍を呼ばない」


 クラウディアが彼を見る。


「本当に?」


「呼べるかどうかも分からない。けれど、仮に呼べるとしても、今ここで呼ぶべきではない」


「理由は」


「軍勢は、敵を引き寄せる。黒蛇に利用される。王都では、僕が私的な軍を集めているという偽報も流れている。今、蒼狼軍の名を掲げれば、君たちの領地まで反乱の火元にされる」


 クラウディアは口を閉じた。


 その答えは、彼女が聞きたかったものだったのかもしれない。


 銀髪の王子が、軍を欲しがっていないか。


 古い誓約を盾に、山の家々を動かそうとしていないか。


 彼女はそこを見ていた。


「では、あなたは何を求めるのです」


「支援だ」


 アランは即答した。


「山道の情報。黒蛇が先に向かった場所。安全な隠れ小屋。鐘を鳴らさずに領都へ知らせる手段。負傷者を運ぶ道。それだけでいい」


「兵は求めないのですか」


「今は求めない」


「今は、ですか」


「王国が滅びの縁に立つ時が来るなら、その時は改めて頼む。けれど、その時も命令はしない。王国を守るために力を貸してほしいと頼むだけだ」


 森の空気が変わった。


 弓を構えていた者たちのうち、数人がゆっくり矢を下ろす。


 クラウディアは、まだ下げない。


 彼女はアランを測り続けている。


「山の狼は、膝をつきません」


「つかなくていい」


「王子であっても?」


「むしろ、つかないでほしい」


 アランは静かに答えた。


「膝をついた者に、山道は守れないだろう」


 クラウディアの表情が初めて少し動いた。


 笑ったわけではない。


 だが、冷え切っていた目にわずかな温度が戻る。


「あなたは、噂と違う」


「どの噂?」


「怠惰で、軽薄で、責任を兄君に押しつける駄王子」


「だいたい合っているね」


「合っていません」


 ミリアが思わず言った。


 アランは振り返る。


「ミリア嬢、そこは合わせてくれても」


「無理です」


 短い返答に、レムがわずかに目を伏せた。


 クラウディアは二人を見比べる。


 完全な信頼ではない。だが、敵を見る目ではなくなった。


 その時、森の奥で鳥が飛び立った。


 ゼイドが低く告げる。


「来る」


 次の瞬間、黒い矢が山小屋の壁に刺さった。


 矢羽に刻まれた黒蛇の紋。


 狙いはアランではない。小屋の中で倒れているハルトだ。まだ息がある彼を、完全に消すための矢だった。


 レムが踏み込み、二本目を弾く。


 クラウディアの弓兵たちが一斉に森へ向き直った。動きは速い。支援の家と言っても、山で生きる者に武器の扱いは必要なのだろう。だが、軍ではない。連携は小隊のものではなく、狩りに近い。


「黒蛇です」


 ミリアが革袋を抱え直す。


 アランは剣を抜いた。


「数は?」


「見える範囲で六。奥にまだいる」


 ゼイドが答える。


 クラウディアは短く指示を出した。


「左の沢へ二人。小屋の裏を塞げ。鐘道へ抜けさせるな」


 弓兵たちが動く。


 アランは彼女を見た。


「共闘でいいかな」


「信用したわけではありません」


「分かっている」


「ですが、黒蛇をここで通すつもりもありません」


「十分だ」


 森から黒衣の男たちが現れた。


 山道用の装備を身につけ、足音を殺している。ラウゼンで見た者たちよりも山に慣れていた。黒蛇が、すでに山岳領用の手駒を入れている証拠だ。


 一人が短弓を構える。


 クラウディアの矢が先に飛んだ。


 黒蛇の弓手が肩を撃たれ、体勢を崩す。その隙にゼイドが影から入り、短剣の柄で喉を打った。男が倒れる前に、別の黒蛇が横から斬りかかる。


 アランが受けた。


 剣と曲刀がぶつかる。


 山小屋の前は狭い。大きく動けば谷側へ落ちる。足場は濡れていて、踏み込みすぎると滑る。


 黒蛇はそれを利用してきた。


 正面から押さず、足元を狙う。アランを崖側へ寄せ、別の一人が背後へ回る。ラウゼンの残党とは違う。山で人を殺す訓練を受けている。


 アランは一歩も崖側へ下がらない。


 剣で押すのではなく、相手の軌道をずらす。曲刀の重さを斜めに逃がし、濡れた岩の上で相手の足を崩す。黒蛇の男が踏ん張り切れず、膝をついた。


 そこへレムの細剣が入り、手首の刃を弾く。


「山道での戦闘は不慣れですね」


「言わないでほしいな」


 アランは苦笑しながら、次の一撃を受け流した。


 ミリアは小屋の入口でハルトを守っていた。


 直接斬り結ぶ余裕はない。だが、黒蛇の狙いが証言者の口封じである以上、彼を見捨てるわけにはいかない。


 彼女の前には、クラウディアの弓兵が一人ついている。


 若い女性だった。頬に山風で焼けた跡があり、目つきは鋭い。


「公爵令嬢、下がって」


「ここにいます」


「邪魔になるなら退かせる」


「邪魔になる前に言ってください。退きます。でも、彼を一人にはしません」


 弓兵は舌打ちしかけ、やめた。


「変な令嬢」


「最近よく言われます」


 そのやり取りの直後、黒蛇の一人が小屋の屋根へ上がった。


 上から短剣を投げるつもりだ。


 ミリアが気づくより早く、クラウディアが動く。矢が屋根の端を掠め、黒蛇の男が飛び下りた。着地した先にはゼイドがいる。逃げ道はなかった。


 戦いは長引かなかった。


 黒蛇は証言者の抹殺と山道の確認が目的だったのだろう。押し切れないと判断した途端、森へ散る。二人は倒され、一人は捕らえられたが、残りは沢沿いに逃げ込んだ。


 クラウディアは追おうとした。


 アランが止める。


「深追いは危険だ」


「ここで逃がせば、領都へ向かう」


「だからこそ、追わせる人数を絞る。誘い込まれれば支援路を失う」


 クラウディアは鋭く睨んだ。


「あなたに山の何が分かります」


「分からない。だから、君に判断してほしい」


 その返しに、クラウディアは言葉を止めた。


 命令ではない。


 任せると言っている。


 彼女は一瞬だけ目を伏せ、すぐに弓兵へ指示した。


「沢へ二人。距離を取って追うだけでいい。笛は使うな。黒蛇に音を拾われる」


 弓兵たちが走る。


 アランは剣を鞘へ戻した。


 小屋の中では、ハルトが静かに息をしている。危ういが、まだ生きていた。


 ミリアは彼の手を布で包み、血を拭っている。


 クラウディアはその姿を見つめた。


「あなたは、本当に戦場に慣れていないのですね」


「はい」


「なのに逃げない」


「逃げたいとは思います」


 ミリアは正直に答えた。


「ですが、逃げれば見えなくなるものがあります。私は、それをもう嫌だと思いました」


 クラウディアはしばらく黙る。


 やがて、小さく息を吐いた。


「王都の令嬢は、もっと飾られた花のようなものだと思っていました」


「白薔薇だとは言われます」


「棘は?」


「あります」


 クラウディアの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


 アランはそれを見て、肩の力を抜いた。


 だが、クラウディアの表情はすぐに引き締まる。


「アラン殿下」


 初めて、彼女は名と敬称をつけた。


「ヴァイスベルク家は、あなたに兵を出しません」


「分かっている」


「真の蒼狼軍は、この山にはいない。少なくとも、今のあなたが呼べるものではありません」


「そうだろうね」


「ですが、支援はできます。黒蛇が知らない道。鐘を鳴らさずに知らせる手段。山小屋の場所。怪我人を隠せる修道跡。領都へ入る前に、あなたを父に会わせる段取り」


 アランは静かに頭を下げた。


「助かる」


「まだ、味方になるとは言っていません」


「支援してくれるだけで十分だよ」


「十分ではありません。ここから先は、支援だけでは越えられない場所もある」


 クラウディアは森の奥を見た。


「黒蛇は、山の古い鐘道を狙っています。鐘を鳴らせば、支援の家々は動く。けれど、その音を黒蛇も聞く。使えば道が開き、同時に狩場にもなる」


「なら、使う時を選ぶ必要がある」


「ええ」


 彼女はアランへ向き直った。


「領都へ案内します。ただし、条件があります」


「聞こう」


「山の前では、王子として振る舞わないでください」


 レムの目がわずかに細くなる。


 クラウディアは怯まず続けた。


「この山で人を動かすのは、王冠でも血筋でもありません。誰が道を知り、誰が雪を読み、誰が怪我人を背負えるかです。銀の髪は、道標にはなる。けれど、それだけでは山を越えられない」


 アランは微笑んだ。


「いい条件だ」


「怒らないのですか」


「正しいことを言われて怒るほど、僕は王子らしくない」


「噂より面倒な方ですね」


「よく言われる」


 クラウディアは一度だけ頷いた。


 それが、この場で差し出せる最大の譲歩だった。


 山小屋の奥で、ハルトがかすかに目を開ける。


 クラウディアは彼のそばへ戻った。


「ハルト。聞こえますか。鐘はまだ鳴らしません。けれど、道はつなぎます」


 男の唇が、わずかに動く。


 言葉にはならない。


 それでも、安心したように見えた。


 森の向こうで、鳥の声が戻り始める。


 緊張は解けていない。黒蛇は逃げ、山道のどこかで次の罠を張るだろう。ヴァイスベルク家も、まだアランを信じたわけではない。


 真の蒼狼軍は、影も形もない。


 ここにあるのは、古い誓約の残り火だけだ。


 道を教える者。


 鐘を守る者。


 記録を残す者。


 怪我人を匿う者。


 それでも、その小さな支援がなければ、銀の守護者は先へ進めない。


 アランは北へ続く山道を見上げた。


 王都救援の軍勢には、まだ遠い。


 だが、軍旗より先に必要なものがある。


 信頼。


 道。


 そして、膝をつかずに並び立つ者たち。


 山の狼は、まだアランに従わない。


 けれど、道だけは貸すと決めた。


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