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36話 山岳領へ

 グレイストン伯爵家から届けられた帳簿は、王太子執務室の机に置かれていた。


 古い銀縁の表紙は擦り切れ、革の角も丸くなっている。何代もの手で開かれてきたものだろう。だが、その中身は単なる家の記録ではなかった。


 建国期から続く王家文書の写し。


 消された街道名。


 軍費ではなく「鐘楼補修費」として処理された不可解な支出。


 そして、古い蒼狼紋の縁飾り。


 表の史書からは削られたはずの痕跡が、家計簿や土地台帳の隙間に残っている。


 ルイ・ヴァルタインは、ページをめくる手を止めた。


「隠すなら、もっと完全に消せたはずだ」


 向かいに座るランバール公爵が頷く。


「ですが、グレイストン家は記録を守る家です。消すことはできなかったのでしょう。たとえ罪になると分かっていても」


「あるいは、いつか誰かが読むことを願ったか」


 ルイの声は静かだった。


 帳簿の一部には、黒蛇に渡したと見られる写しの記録もある。そこにあるのは弁解ではない。日付、受け渡し場所、仲介商会、脅迫に使われた名。淡々とした文字が並ぶほど、状況の重さは増していく。


 ランバール公爵は、一枚の古い差込紙を机へ置いた。


「この印をご覧ください」


 紙の端に、小さな山の紋がある。


 三つの峰。


 その中央に、横を向いた狼。


「ヴァイスベルク家か」


「おそらくは。山岳領の古い騎士家です。中央貴族とは距離を置きますが、王家への反意を示したことはありません。誇り高く、扱いを誤れば味方にも敵にもならない」


「銀髪の王子だからといって膝をつく家ではない、か」


「むしろ、そういう者を最も嫌うでしょう」


 ルイは窓の外へ視線を向けた。


 王都の空は晴れている。だが、遠くの山は霞んで見えた。あの先へ、アランは向かうのだろう。


 表の王太子である自分は、王都を離れられない。


 黒蛇の偽報はまだ完全には消えていない。グレイストン家の証言をどう扱うかも慎重に決める必要がある。病床の父王アルバートに報告するべきか。報告すれば、あの人は必ず何かをしようとする。


 それが、怖かった。


「殿下」


 公爵が呼ぶ。


 ルイは表情を戻した。


「グレイストン伯爵家は、保護が必要です」


「分かっている。伯爵本人の罪は消えない。だが、証言者として扱う。黒蛇に差し出すつもりはない」


「それでよろしいかと」


「セリオ殿は?」


「怯えています。ですが、逃げてはいません。ミリアへの紙片も、今回の帳簿も、あの家が沈黙を破るための小さな手でした」


 ルイは小さく頷いた。


「では、その手を離さない」


 その時、執務室の扉が控えめに叩かれた。


 入ってきたのは侍従だった。彼は深く一礼し、低い声で告げる。


「ルイ殿下。陛下がお呼びです」


 室内の空気が変わる。


 ランバール公爵も、わずかに身を固くした。


「父上が?」


「はい。ラウゼンとグレイストンの件について、直接お聞きになりたいと」


 ルイは一瞬だけ目を伏せた。


 父の耳に入った。


 避けられないことではあった。王である以上、国の奥で何が動いているかを知らずにいられるはずがない。


 だが、今のアルバートに重い報告を入れることが、体にどれほど響くか。


 ルイは帳簿を閉じた。


「行こう」


 それだけ言って、彼は立ち上がった。


 同じ頃、ラウゼンの北門では、出立の準備が進んでいた。


 山へ向かう一行は少ない。


 アラン、レム、ゼイド、影狼の斥候二名。そこに、ラウゼンから道案内としてイレオンが選んだ若い男が加わる。ガイルは町に残り、リィナも情報線の整理で後から追う予定だった。


 そして、ミリアが馬の横に立っていた。


 旅装は昨日までのドレスとは違う。動きやすい濃紺の外套に、短剣と細身の剣。髪も高くまとめ、余分な飾りは外している。公爵令嬢というより、現地調査に向かう若い文官のように見えた。


 アランは彼女を見て、困ったような顔をする。


「本当に来るの?」


「報告書は出しました。写しも残しました。父とルイ殿下への追伸も送っています。今のラウゼンで私ができることは、一区切りつきました」


「一区切りがついたから山へ行く、という結論にはならないと思う」


「ヴァイスベルク家と交渉するなら、表の言葉を持つ者が必要です。あなたは影の方々と一緒に動けますが、相手が山岳領主である以上、礼と筋を通す場面が必ず来ます」


「筋なら僕も通せるよ」


「夜会では逃げ続けていた方が?」


「痛いところを刺すね」


 アランは苦笑した。


 レムが淡々と口を挟む。


「ミリア様の同行には利点があります。ヴァイスベルク家が中央貴族を嫌っているとしても、ランバール公爵家の名は無視できません。加えて、ミリア様は呼応地図の読み取りと記録整理に関わっています」


「危険もある」


「もちろんです」


 レムはミリアへ視線を向けた。


「ですので、条件を出しました。戦闘時は独断で前に出ないこと。撤退命令には従うこと。負傷や疲労を隠さないこと。山道では私の指示を優先すること」


「すべて了承しました」


 ミリアは真面目な顔で答える。


 アランは眉を下げた。


「二人で話を決めてから、僕に報告してない?」


「アラン様は反対なさると思いましたので」


「主って何だろう」


「責任を取る立場です」


 レムの返しに、ゼイドがわずかに目を伏せた。笑ったのかもしれない。


 アランは諦めたように息を吐く。


「分かった。ただし、無理はしないで」


「あなたもです」


「僕は」


「あなたもです」


 ミリアが遮った。


 声は強すぎない。だが、引くつもりもない。


 アランは少しの間彼女を見て、やがて肩の力を抜いた。


「約束する」


「では、私も守ります」


 その短いやり取りを、イレオンが静かに見守っていた。


 彼はまだ本調子ではないため、山へは行けない。代わりに差し出したのは、古い木札と小さな紙片だった。


「この木札は、旧巡礼路の途中にある山小屋で使うものです。今も残っているかは分かりませんが、扉の内側に狼の焼印があれば、そこはかつて伝令が休んだ場所です」


「黒蛇も知っている可能性は?」


「一部は知られているでしょう。ですが、焼印だけでは意味をなしません。山小屋の位置、鐘の数、道の曲がり。それらを合わせて初めて次の道が読めます」


 アランは木札を受け取った。


「ありがとうございます」


「礼を言うのはこちらです。ラウゼンは、あなた方に焼かれずに済みました」


「違います。町を守ったのは、ラウゼンの人々です」


 イレオンは微笑んだ。


「そう言ってくださるから、我々は力を貸せるのです」


 北門の鐘が、低く鳴った。


 見送りに来た町民たちは多くない。まだ片づけは続いており、怪我人の世話もある。それでも、エレナは診療所の前から手を振っていた。銀の笛は首から下げているが、今日は吹かない。


 アランは一度だけ振り返り、深く頭を下げた。


 王子としてではない。


 共に戦った者として。


 ラウゼンの者たちも、膝をつかずに礼を返した。


 山道に入ると、空気が変わった。


 旧街道の石畳はすぐに途切れ、湿った土と苔の道になる。左右には針葉樹が迫り、枝の間から差し込む光は細い。馬の蹄が柔らかい地面を踏むたび、濡れた葉の匂いが立ち上った。


 道案内の青年は、緊張した面持ちで先を進んでいる。


「この先で道が二つに分かれます。右が表の山道、左が旧巡礼路です」


「黒蛇が逃げたのは?」


 アランが問う。


「昨夜の足跡なら、左です。ですが途中で沢へ入っています。水で匂いを切ったのかと」


 ゼイドが膝をつき、地面を確認した。


「三人。うち一人は負傷。歩幅が乱れている」


「追える?」


「完全には無理だ。だが急いでいる。山に慣れた者が一人、他の二人を引いている」


 アランは木々の奥を見た。


 黒蛇が先行している。


 目的は、おそらくヴァイスベルク家への接触か、末裔狩りの準備。あるいは、アランたちを山中へ誘い込む罠か。


 どれでも面倒だった。


「左へ行く」


 アランが決める。


 レムは馬の手綱を引き、ミリアの方へ視線を向けた。


「ここからは足場が悪くなります。馬を降りて歩く場面が増えます」


「分かりました」


「疲れを感じたら言ってください」


「はい」


 素直な返事だった。


 以前なら意地を張ったかもしれない。だが、ここで倒れれば全員の足を止める。ミリアはそれを理解している。


 旧巡礼路は狭かった。


 枝が外套に引っかかり、ところどころ岩肌がむき出しになっている。谷側には柵もない。下を覗けば、白い水しぶきを上げる沢が遠くに見えた。


 ミリアは息を整えながら歩く。


 肩の傷が引きつる。


 膝も痛む。


 それでも、前を見る。


 レムから教わった通り、足を置く場所を考える。剣を抜くことより、転ばないこと。視線を近くに落としすぎず、少し先の道を見ること。疲れた時ほど、呼吸を浅くしないこと。


 戦場とは違う。


 だが、これもまた試されている。


「大丈夫?」


 アランが隣に来た。


「今は」


「正直でよろしい」


「無理を隠すなと言われましたので」


「君は吸収が早いね」


「生き残るためです」


 その言葉に、アランの表情が少しだけ変わる。


 ミリアは自分でも、言ってから気づいた。


 生き残るため。


 以前の自分なら、そんな言葉を自然に口にしただろうか。


 ラウゼンで血を見た。刃を受けた。守られる側の怖さも、守る側の怖さも知り始めた。


 変わったのだ。


 けれど、その変化を誇る気にはなれない。


 痛みを伴う変化だから。


「ミリア嬢」


「はい」


「怖いなら、怖いままでいい」


 アランは前を見たまま言った。


「怖さを消そうとすると、判断を間違える。僕も、怖いものがないわけじゃない」


「あなたにも?」


「もちろん。兄上に怒られるのは今でも怖い」


 ミリアは思わず息を漏らした。


「真面目に聞いています」


「僕も真面目だよ。兄上は本気で怒ると静かだからね」


 その軽口に、少しだけ肩の力が抜ける。


 アランは続けた。


「でも、本当に怖いのは、守るべきものに手が届かないことだ。だから急ぐ。だから間違えそうにもなる」


「では、止める人が必要ですね」


「そういう役目を背負うつもり?」


「必要なら」


「大変だよ」


「すでに、十分大変です」


 アランは困ったように笑った。


 その時、ゼイドが手を上げた。


 一行が止まる。


 森の音が、急に遠くなった気がした。


 前方に小さな山小屋が見える。苔に覆われ、屋根の半分は沈んでいる。扉は閉じていたが、蝶番が壊れかけていた。外壁には古い焼印がある。


 狼の横顔。


 イレオンが言っていた印だ。


 だが、扉の下には新しい血がついている。


 レムが剣へ手を添えた。


「中に気配があります」


 アランは頷き、声を落とす。


「ゼイド、裏。レムはミリア嬢を。僕が扉を開ける」


「承知」


 ゼイドが音もなく消えた。


 アランは扉の前に立つ。


 中から、かすかな呼吸音が聞こえた。複数ではない。一人。弱っている。


 扉を開けた瞬間、血の匂いが押し出された。


 小屋の中には、男が倒れていた。


 山の民らしい厚手の服。肩には矢傷。腹にも刃が入っている。傍らには折れた短槍が転がり、床には黒い蛇の紋が刻まれた小さな札が落ちていた。


 黒蛇が来た。


 すでに。


 男はうっすら目を開け、アランの銀髪を見る。


 途端に、腕を伸ばそうとした。


「……銀……か」


「動かないで」


 アランは膝をつき、傷を確認する。


 深い。


 だが、まだ息はある。


 レムが素早く布と薬を出した。ミリアも荷袋から水筒を取り出し、男の唇を湿らせる。


 男は苦しげに息を吸った。


「ヴァイスベルクへ……行くな……」


「黒蛇に襲われたのか」


「奴らは……先に……峠へ……」


 言葉が途切れる。


 アランは男の手を握った。


「あなたはヴァイスベルクの者か」


 男はわずかに首を振る。


「伝令……末の……家だ。古い鐘守……もう、うちには……誓いなど……」


 そこで咳が出た。


 血が唇を濡らす。


 ミリアは胸が詰まった。


 誓いなど知らず、ただ山で生きてきた人。


 それでも黒蛇は狩った。


 地図に名があるというだけで。


 男は震える手で、アランの外套を掴んだ。


「山の狼は……銀を試す……従うな……簡単に……」


「分かった」


「膝を……つかせるな……」


 アランの目が揺れた。


 男は最後の力で、床板の隙間を指した。


 レムが板を外す。


 そこには、小さな鉄片が隠されていた。三つの峰と狼の紋。裏には短い文が刻まれている。


 鐘は鳴らすな。


 狼が先に問う。


 アランは鉄片を手に取った。


 その意味を考えるより早く、小屋の外で枝が鳴った。


 ゼイドの声が飛ぶ。


「囲まれている」


 黒蛇か。


 そう思った瞬間、森の影から矢が放たれた。


 レムがミリアを引き寄せ、矢を弾く。別の矢が小屋の柱へ刺さった。だが、矢羽には黒蛇の印がない。


 代わりに、三つの峰と狼の紋。


 アランは小屋の外へ出た。


 森の中に、弓を構えた者たちがいる。山の外套をまとい、顔を半分隠していた。数は七。黒蛇ではない。動きに無駄が少なく、こちらを殺すより測っている。


 その中央から、一人の少女が歩み出た。


 いや、少女と呼ぶには目が鋭すぎる。


 年はミリアと近いか、少し若いくらい。銀灰色の髪を首元で短く束ね、深い青の外套をまとっている。腰には細剣、背には短弓。山道に慣れた足運びで、濡れた岩の上を迷いなく進んできた。


 彼女はアランの銀髪を見た。


 次に、ミリアの手元の資料袋、レムの剣、ゼイドの立ち位置を順に測る。


 最後に、倒れた伝令の男へ視線を落とした。


「遅かったか」


 声は低く、冷静だった。


 アランは剣を抜かずに立つ。


「あなたは?」


「クラウディア・ヴァイスベルク」


 山の風が、彼女の外套を揺らした。


「山岳領ヴァイスベルク家の娘。あなたが銀の王子なら、まず答えてもらう」


 弓兵たちの矢が、わずかに上がる。


「その人を死なせた黒蛇を追う前に、なぜ我らがあなたを信じるべきなのかを」


 アランは黙った。


 彼女は膝をつかない。


 恐れもしない。


 銀髪の前で、まっすぐ問いを突きつけている。


 その姿を見て、アランは思った。


 なるほど。


 これが、蒼狼軍の武を守った家か。


 山道の小屋に血の匂いが残る中、銀の守護者と山の狼が向き合った。


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