35話 沈黙を破る家
グレイストン伯爵邸の書庫には、昼でも薄い影が残っていた。
高い窓から差し込む光は、棚の奥まで届かない。古い革表紙の帳簿、王都行政の写し、建国期以降の家系記録。武勲を誇る剣や鎧は少なく、その代わりに紙と印章が壁のように積まれている。
グレイストン家は、戦って名を残した家ではない。
書き残すことで、王国に仕えてきた家だった。
セリオ・グレイストンは、その書庫の中央に立ち尽くしていた。
机の上には、母が受け取った花籠のカードが置かれている。ランバール公爵夫人の名。慈善茶会への招き。裏に打たれた三つの点。
助けを求めるなら、今しかない。
そう告げる印だった。
だが、口を開けば父を追い詰めることになる。黙れば、黒蛇の手はさらに伸びる。自分たちだけならまだしも、呼応地図に関わる家々、ラウゼン、そして王都まで巻き込まれる。
逃げ道は、もう紙の上にも残っていなかった。
「セリオ」
母の声がした。
伯爵夫人は、書庫の入口に立っている。夜会で見せる柔らかな微笑はない。代わりに、長く沈黙を選んできた人間の疲れが目元に滲んでいた。
「父上は」
「執務室です。黒蛇からの使いが来る前に、話さなければなりません」
セリオは喉を鳴らした。
「母上。私は、父上を告発したいわけではありません」
「分かっています」
「父上は、黒蛇に従いたかったわけではない。地図の一部を渡したのも、私と母上を守るためで……」
そこまで言って、言葉が止まる。
理由があった。
けれど、結果もある。
黒蛇はその地図を使って、蒼狼の末裔を狩ろうとした。ラウゼンで火を放ち、フォルン家を脅し、町を反乱者に仕立てようとした。自分たちの沈黙は、誰かの危機につながっている。
母は机に近づき、古い帳簿の一冊に手を置いた。
「この家は、記録を守る家です。都合のよいことだけを残す家ではありません」
「ですが、記録すれば罪になります」
「隠せば、毒になります」
静かな声だった。
セリオは顔を上げる。
伯爵夫人は息子を責めていない。夫を切り捨てようとしているわけでもない。ただ、これ以上沈黙を続ければ、家そのものが黒蛇の器になると分かっている。
「父上は、話してくださるでしょうか」
「分かりません。だから、あなたも来なさい」
「私が?」
「あなたは、ミリア様へ紙片を渡しました。あれは裏切りではなく、救いを求める手だったのでしょう」
セリオの指が震える。
あの夜会で、ミリアへ渡した紙片。
恐怖に負けそうになりながら、それでも黒蛇の言葉だけを信じてはいけないと思った。アランを恐れていたのか、黒蛇を恐れていたのか、自分でも分からない。ただ、彼女なら見逃さないと信じた。
「今度は、見つけてもらうのを待つのではありません」
母は言った。
「こちらから、扉を開けるのです」
同じ頃、ラウゼンでは、アランが呼応地図の写しを前にしていた。
診療所の奥に急ごしらえの作業台が置かれ、イレオン、リィナ、ミリアがそれぞれ記録を照合している。窓の外からは、壊れた広場を片づける音が聞こえていた。
銀の薄片を革紙へ重ねると、淡い線が北へ伸びる。
昨夜より光は弱い。笛も鐘も鳴っていないため、地図は完全には応じない。それでも、線は消えていなかった。
「ここで一度、道が分かれています」
ミリアが指先で紙の縁を示した。
「山岳領へ向かう主要道と、旧い巡礼路。表の街道を通るなら早いですが、黒蛇も読むでしょう」
リィナが別の地図を広げる。
「旧巡礼路は廃れてる。でも、山道に慣れた者なら通れる。問題は荷物と負傷者だね。大人数では無理」
「なら、先行隊を出す」
アランは短く言った。
「ゼイドが戻り次第、山道の痕跡を確認する。ガイルはラウゼンに残って町の防衛。僕は少人数で北へ向かう」
ミリアが顔を上げる。
「私も行きます」
レムが口を開く前に、アランが先に答えた。
「今回は、すぐには駄目だ」
ミリアの瞳が揺れた。
反論が出かける。だが、彼女は唇を引き結び、言葉を飲み込んだ。
アランは続ける。
「君にはラウゼンの記録を完成させてもらう。王都へ届く偽報を潰すには、君の報告が要る。それに、ランバール公爵家からの証言は、グレイストン家を動かす材料にもなる」
「グレイストン家を?」
「彼らは記録の家だ。黒蛇に脅されて沈黙しているなら、表の記録で逃げ道を作れる。君の報告は、ラウゼンだけを守るものじゃない」
ミリアは手元の紙を見た。
剣を持って前に出ることだけが、戦いではない。
それは分かっている。だが、アランが危険な山道へ向かうと聞けば、胸は落ち着かない。
「……分かりました」
ミリアは静かに答えた。
「ただし、先行隊の出発までに山岳領の資料をまとめます。ヴァイスベルク家について、公爵家の蔵書にも記録があるはずです。ラウゼンの庁舎にも、旧街道の通行記録が残っているかもしれません」
「助かる」
「それから、無理はなさらないでください」
「善処する」
ミリアは目を細めた。
アランは小さく咳払いする。
「……約束する」
「なら結構です」
リィナが紙束の向こうでにやにやしていたが、レムの視線を受けてすぐ作業に戻った。
その時、外の廊下から足音が近づく。
影狼の連絡役が扉の前で膝をついた。
「王都より急報です。グレイストン伯爵邸周辺に、不審な動きあり。花籠の連絡符が使用されました」
アランの表情が変わる。
「セリオか」
「伯爵夫人も動いているようです。ただ、同時に黒蛇と思われる使者が伯爵邸へ向かったとのこと」
室内の空気が冷えた。
リィナが地図を畳みかけた手を止める。
「口封じ?」
「可能性は高い」
レムが答える。
アランはすぐに立ち上がらなかった。
王都へ戻るには時間がかかる。今から馬を飛ばしても間に合わない。こちらが動けば、山岳領への先行も遅れる。黒蛇はそれを狙っているのかもしれない。
選ばせる。
あの蛇らしいやり方だった。
「兄上は?」
「王太子府が動いています。ランバール公爵家からも護衛が向かったとのことです」
アランは息を吐いた。
ルイなら、迷わない。
表の手で守るべき者を守る。
「なら、王都は兄上に任せる」
そう言っても、手が机の端を握っていた。
ミリアはその指先を見た。
アランは、行きたいのだ。
セリオを、グレイストン家を、見捨てたくない。けれど今、彼が動けば別の場所が危うくなる。だから、任せるしかない。
それは信頼であり、同時に痛みでもあった。
「アラン殿下」
ミリアは声をかけた。
「王都には、ルイ殿下がいらっしゃいます。父も動きます。私からも、追加の証言をすぐ送ります」
「分かっている」
「分かっていても、不安なのですね」
アランは一瞬、驚いたように彼女を見る。
それから、弱く笑った。
「君は本当に、嫌なところまで見るようになったね」
「必要なところです」
「そうだね」
アランはようやく手を離した。
「リィナ。グレイストン家に関する資料を全部出して。伯爵本人が渡したもの、セリオが残した紙片、夜会で拾った視線、全部だ。ミリア嬢、王都へ送る追伸を書ける?」
「すぐに」
「イレオン殿、グレイストン家が記録していた家なら、呼応地図の写しに彼ら特有の印があるかもしれません」
イレオンは頷き、古い革紙を覗き込んだ。
「探しましょう。記録の家なら、隠す時にも癖が出ます」
王都では、グレイストン伯爵が執務室で一通の黒い封書を見つめていた。
机の前には、灰色の上着を着た男が立っている。貴族の使者に見えるよう整えた服装だが、手袋の下の指は剣を握る者のそれだった。
「伯爵閣下。迷う時間は終わりました」
男の声は低い。
「ラウゼンの件で王太子府が動いております。あなたの家が余計な証言をすれば、奥方とご子息の安全は保証できません」
伯爵は答えない。
顔色は悪く、額には汗が浮いている。だが、その目は紙から離れなかった。
「あなたは賢い方だ。記録を守る家なら、どの記録を残し、どの記録を燃やすべきか分かるでしょう」
男は机に小瓶を置いた。
中には黒い液体が入っている。
「古い帳簿を処分してください。呼応地図の写しに関わるものも、蒼狼の誓約に触れるものも。燃やす必要はありません。この薬を落とせば、文字は消えます」
伯爵の指が小瓶へ伸びかけた。
その時、扉が開く。
「父上」
セリオだった。
伯爵の顔が歪む。
「来るなと言ったはずだ」
「もう、言われた通りに離れてはいられません」
セリオの隣には伯爵夫人がいる。彼女は真っ直ぐに夫を見ていた。
「あなた。ここで文字を消せば、私たちは家を守ったことにはなりません。黒蛇の帳簿係になるだけです」
使者の目が細くなる。
「夫人。これは家族のための助言です」
「家族を人質にする言葉を、助言とは呼びません」
伯爵夫人の声は震えていなかった。
セリオは父の机へ近づく。
「父上。私は怖いです。今も怖い。ですが、ラウゼンで人が死にかけた。私たちが黙っていた地図の欠片が、誰かを傷つけるなら、もう黙れません」
「お前に何が分かる」
伯爵の声が荒くなる。
「お前を守るためだった。お前たちを殺すと言われた。だから私は」
「はい」
セリオは逃げずに頷いた。
「だから、私は父上を憎めません。けれど、このまま続ければ、父上を許せなくなります」
伯爵の手から力が抜けた。
小瓶が机の上で小さく揺れる。
使者が動いた。
手袋の下から細い刃が出る。狙いは伯爵ではない。セリオだ。証言者になる前に、心を折るための刃。
だが、刃は届かなかった。
窓の外から短い音が鳴る。
次の瞬間、使者の手首に細い針が刺さった。男が呻き、刃を取り落とす。扉の外に控えていた使用人が、素早く中へ踏み込んだ。
使用人ではない。
ランバール家の護衛だった。
「失礼いたします、伯爵閣下。ランバール公爵より、奥方様の慈善茶会に関するお迎えに参りました」
言葉は丁寧だが、剣は抜かれている。
さらに廊下の奥から近衛の足音が響く。
「王太子府の命により、不審者を拘束する」
使者は逃げようとした。
だが、窓の外から黒い影が滑り込む。影狼の者だ。男の背後を押さえ、床へ叩きつけるまで、ほとんど音はしなかった。
伯爵は椅子に崩れ落ちる。
セリオが駆け寄ろうとして、足を止めた。
父の手は震えている。
それでも、彼は小瓶ではなく、机の引き出しへ手を伸ばした。
中から取り出したのは、古い銀縁の帳簿だった。
「……これが、始まりだ」
伯爵は掠れた声で言う。
「呼応地図の写しを預かった家の記録。黒蛇に渡した部分と、渡さず隠した部分。すべて、ここにある」
伯爵夫人が静かに目を閉じた。
セリオは帳簿を見つめる。
それは父の罪の記録であり、同時に家を救うための記録でもあった。
王都の空に、昼の鐘が鳴る。
その音がラウゼンへ届くことはない。
けれど同じ時刻、ラウゼンの診療所ではミリアが追伸を書き終えていた。
グレイストン家を、ただ敵として断じないでほしい。
彼らは沈黙した。
けれど、沈黙を破る機会を求めている。
その一文を書いた時、ミリアの手は少しだけ止まった。
敵を裁くことと、救う余地を残すこと。
どちらも甘さだけではできない。
そして、どちらも王国を守るためには必要になる。
アランはその文を読み、静かに頷いた。
「これでいい」
「本当に?」
「うん。君の言葉だ」
ミリアは羽ペンを置いた。
窓の外では、ラウゼンの町がまだ瓦礫を片づけている。完全な平穏には遠い。王都でも、グレイストン家の沈黙が破られようとしている。山岳領への道は、黒蛇に先を越されるかもしれない。
けれど、一つだけ変わったことがある。
黒蛇に脅されていた家が、初めて自分の意思で記録を差し出した。
それは小さな変化だった。
剣戟も、炎も、歓声もない。
だが、王国の影で進む戦いにおいて、その一冊の帳簿は刃と同じ重さを持っていた。
アランは北の地図と、王都からの報告を並べる。
グレイストン家の帳簿。
ラウゼンの呼応地図。
山岳領へ伸びる細い線。
黒蛇の偽報。
ばらばらだった欠片が、少しずつ一つの形へ近づいていく。
「次は、ヴァイスベルクだ」
アランが静かに言う。
ミリアはその名を胸の中で繰り返した。
山岳領。
蒼狼軍の武を守った家。
そして、黒蛇が次に牙を向ける場所。
沈黙を破った家の記録は、新たな道を照らし始めていた。




