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34話 王都へ届く偽報

 王都に届いた最初の報せは、正式な急使ではなかった。


 朝議の前、貴族院の控え廊下で一枚の写しが回された。


 封蝋もなく、差出人の名もない。けれど紙質はよく、文体も整っている。粗末な噂話ではなく、あえて「どこかの役所から漏れた文書」に見えるよう仕立てられていた。


 そこには、こう記されていた。


 旧街道ラウゼンにて、第二王子アラン・ヴァルタインが古き蒼狼の名を掲げ、町民を扇動。王家の正規軍とは異なる私的武装勢力の動きあり。


 短い文だった。


 だからこそ、よく燃える。


 貴族たちは、まだ声を大きくしない。廊下で足を止め、隣にいる者へ紙を見せ、眉をひそめる。口にする言葉は慎重でも、目には好奇心と不安が滲んでいた。


「第二王子殿下が、旧街道で?」


「蒼狼とは、建国期の古い軍の名ではなかったか」


「もし本当なら、王太子殿下の政務にも影響が出る」


「いや、あの駄王子にそんな器量があるとは思えんが……」


 否定の言葉にも、迷いが混ざる。


 駄王子だからありえない。


 しかし、だからこそ奇妙だ。


 誰もがそう思い始めていた。


 王太子執務室にその写しが運び込まれたのは、朝議の鐘が鳴る少し前だった。


 ルイ・ヴァルタインは、文書に目を通してから、すぐには何も言わなかった。金の髪に朝の光が当たり、机の上には通常の政務書類と、旧街道沿いの地図が並んでいる。


 室内にいるのは、信頼できる文官二名と近衛の隊長、そしてランバール公爵だった。


 公爵は文書を読み終えると、静かに目を細める。


「早いですな」


「早すぎる」


 ルイの声は穏やかだったが、そこには刃がある。


「ラウゼンで何かが起きたとしても、正規の報告が届くには時間がかかる。にもかかわらず、この写しは朝議前に貴族院へ流れた。事実を伝えるためではない。不安を先に根づかせるためだ」


 文官の一人が緊張した面持ちで口を開いた。


「殿下、内容を完全に否定なさいますか」


「急いで否定すれば、かえって疑いを深める」


 ルイは文書を机に置いた。


「今必要なのは、否定ではなく順序だ。まず、王太子府として確認中であると告げる。次に、ラウゼンへはランバール公爵家の慈善視察が入っていた事実を示す。第三に、ローデン商会の荷馬車と黒蛇の関与を調べる」


 ランバール公爵が頷いた。


「我が家からも、視察記録を正式に提出いたします。ミリアは現地におります。あの子なら、見たものを感情だけで書くことはしないでしょう」


「分かっています」


 ルイは公爵を見た。


「だからこそ、彼女の記録が必要になる。アランの証言では足りない。影狼の報告も表には出せない。ラウゼンを反乱の町ではなく、黒蛇に襲われた町として証明するには、表の目が要る」


「娘は、その役を負うでしょう」


 公爵の声には、父としての苦さがあった。


「本音を言えば、今すぐ連れ戻したい。ですが、あの子はもう、見てしまった。ならば、見た者として立つしかありません」


 ルイは小さく息を吐いた。


「アランも同じことを言いそうだ」


「殿下も、あの方も、似ておられます」


「どこがだ」


「背負うものを、人に見せるのが下手なところです」


 文官たちは息を呑んだが、ルイは怒らなかった。


 むしろ、少しだけ苦笑した。


「手厳しいな」


「父親というものは、娘を危険に近づけた相手には多少厳しくなるものです」


「その件については、私も兄として同じ立場です」


 二人の間に、短い沈黙が落ちる。


 それは対立ではない。


 同じ者を案じる者同士の沈黙だった。


 ルイは机の上の地図へ視線を落とした。


「この偽報は、アラン一人を貶めるためだけではない。狙いは二つある。ひとつは、銀髪の第二王子が王太子とは別の軍勢を集めていると疑わせること。もうひとつは、古の軍に関わる家々を怯えさせることだ」


「自分たちが応じれば反乱者にされる、と」


「そうだ。黒蛇は、蒼狼の末裔を刃で狩るだけではない。名誉と立場を人質にして、動けなくするつもりだ」


 ランバール公爵は文書をもう一度見た。


「ならば、グレイストン家も危うい」


 その名に、ルイの目がわずかに鋭くなる。


 グレイストン伯爵家。


 古い記録管理に関わった家。呼応地図の一部を黒蛇に奪われ、なお完全には屈していない家。セリオと伯爵夫人は、助けを求める側へ傾きつつある。


「すでに監視はつけている」


「表からも気を配ります。伯爵夫人の慈善関係の名簿を、我が家の記録と照合しましょう。黒蛇は善意の名を利用する。ならば、善意の側から糸を辿れることもある」


 ルイは頷いた。


「頼みます」


 その時、扉の外で近衛が声を上げた。


「殿下。ラウゼン方面より、ランバール公爵家の早馬が到着しました」


 公爵の顔色が、わずかに変わる。


 扉が開き、泥と煤に汚れた使者が膝をついた。差し出された筒には、ランバール家の封蝋が押されている。


 公爵が受け取り、封を切る。


 中の紙を読み進めるにつれ、その表情から血の気が引いた。だが、最後まで手は震えない。


「ミリアの筆です」


 公爵は言い、ルイへ紙を渡した。


 そこには、整った文字で事実が並べられていた。


 ローデン商会の荷馬車。


 油壺と赤い魔石。


 黒蛇の襲撃。


 フォルン家への脅迫。


 診療所、庁舎、広場での被害。


 そして、ラウゼンの町民が自分たちの意思で消火と避難に協力したこと。


 感情的な弁明ではない。


 反乱ではないと叫ぶのでもない。


 ただ、何があり、誰が何をしたのかが、丁寧に記録されていた。


 ルイは読み終えると、静かに言った。


「これで、最初の火は消せる」


 ランバール公爵は目を閉じる。


 安堵ではない。


 娘が無事に筆を取れたことへの感謝と、そこまでの現実を見せてしまった痛み。その両方が、彼の顔に刻まれていた。


「殿下」


「何でしょう」


「娘は、もう戻れませんな」


 ルイはすぐには答えなかった。


 やがて、窓の外へ視線を向ける。


 王都はいつも通り動いている。市場には人が集まり、貴族街の馬車も走り始めていた。誰も、古い誓約や黒蛇の偽報を知らない。


 だが、その平穏を守るために、王都の外で血を見た者たちがいる。


「戻れないとしても、進む道を選べるようにはします」


 ルイは言った。


「アランにも、ミリア嬢にも」


 同じ頃、ラウゼンでは、ミリアが診療所の奥の小部屋で羽ペンを置いた。


 窓の外は朝から昼へ変わりつつある。広場ではまだ後片づけが続いていた。壊れた荷車の木片が積まれ、焼け残った油壺は影狼が回収している。怪我人の数は多いが、火が広がらなかったため、町そのものは辛うじて保たれていた。


 ミリアの前には、三通の報告書が並んでいる。


 一通は父へ。


 一通は王太子府へ。


 もう一通は、ラウゼン管理官庁舎の公式記録として残すための控え。


 同じ内容ではない。父へは自分の無事と現地の状況を、王太子府へは黒蛇の偽報に対抗するための事実を、庁舎記録には町民の証言と被害の詳細を中心に書いた。


 すべてを一度で書けるほど、心は落ち着いていない。


 手は何度も止まった。


 地下で刺された影狼の男のこと。黒蛇の刃が人を倒す音。エレナの掠れた笛。イレオンの疲れた横顔。アランの血のついた外套。


 思い出すたび、胸の奥が重くなる。


 それでも、記録は感情だけで書けない。


 自分が泣くことより、先にやるべきことがある。


 そう思えるようになったのは、強くなったからではない。怖さを知らなかった頃には戻れなくなったからだ。


 扉が軽く叩かれる。


「どうぞ」


 入ってきたのはレムだった。


 彼女は小部屋の中を一瞥し、机の上の紙に目を留める。


「もう三通も書かれたのですか」


「必要な宛先が違いますから」


「休まれては」


「アラン殿下にも同じことを言ってください」


「言いました。聞き流されました」


「では、私も聞き流します」


 レムは少しだけ目を細めた。


「似てこられましたね」


「それは、褒め言葉でしょうか」


「判断に困ります」


 ミリアはわずかに笑った。


 笑えたことに、自分で少し驚く。


 レムは机の端に置かれた革筒へ視線を移した。


「呼応地図の鍵は、アラン様が確認中です。イレオン殿の説明では、山岳領へ伸びた線は確かですが、家名まではまだ断定できないとのことです」


「ヴァイスベルク家の可能性が高い、と聞きました」


「はい。ですが、その名をこちらが口にした時点で、黒蛇に伝われば相手を危険に晒します。記録には、まだ書かない方がよいでしょう」


「分かりました。王太子府への報告にも、山岳領という表現に留めています」


「適切です」


 レムの短い評価に、ミリアは少しだけ肩の力を抜いた。


 以前なら、レムは護衛役であり、アランの側にいる恐ろしい侍女だった。今も恐ろしさが消えたわけではない。だが、彼女の厳しさは拒絶ではないと分かっている。


「レムさん」


「はい」


「私は、また足手まといになりましたか」


 問うつもりはなかった。


 けれど、言葉は自然と出ていた。


 レムはすぐに答えない。


 その沈黙が、かえって誠実だった。


「戦闘能力だけで見れば、まだ危ういです」


「……はい」


「ですが、足手まといではありませんでした。地下で鍵を守り、地上へ届け、今は記録でラウゼンを守ろうとしている。すべて、剣だけでは果たせない役目です」


 ミリアは膝の上で手を握った。


 痛みが残る。


 けれど、その痛みがあるから、言葉が軽くならずに済む気がした。


「では、もっと動けるようになります。逃げるためにも、守るためにも、誰かに背を向けさせるためにも」


「訓練は厳しくします」


「お願いします」


「本気で言っておられますね」


「はい」


 レムは一度だけ頷いた。


「承知しました。まずは、今日は休む訓練からです」


「それも訓練ですか」


「生き残る者は、休むべき時に休める者です」


 ミリアは反論しかけ、口を閉じた。


 アランにも言ったことだ。


 なら、自分だけ例外にはできない。


「分かりました。あと一通だけ清書したら休みます」


「二通目を始めた時点で止めます」


「……厳しいですね」


「お望みでしたので」


 その時、外からガイルの大きな声が聞こえた。


「おい、こっちの箱は触るな! 赤い石が入ってる奴は影狼の仕事だ!」


 続いて、町の若者たちの返事。


 ラウゼンは動き続けている。


 ミリアは窓の外を見た。


 アランは広場の端でイレオンと話していた。手には呼応地図の鍵。周囲には影狼、ラウゼンの町人、そしてランバール家の護衛がいる。表と影が同じ場所で動いている光景は、本来ならあり得ない。


 だが、今はそれが必要だった。


 アランがこちらに気づき、少しだけ目を向ける。


 ミリアは小さく頷いた。


 大丈夫です。


 そう伝えるつもりだった。


 アランも頷き返す。


 それだけで、十分だった。


 王都では、朝議が始まっていた。


 貴族たちの視線は、いつもより明らかに鋭い。ルイが入室すると、一斉に礼を取るものの、その空気には探るような湿り気がある。


 第一声を待っている。


 第二王子の偽報を、王太子がどう扱うのか。


 ルイは玉座の前に立った。


 国王アルバートは、今日も姿を見せていない。病状は伏せられているが、王城内の誰もが、長くはないのではないかと感じ始めていた。


 だからこそ、ルイの言葉は重くなる。


「今朝、旧街道ラウゼンに関する不確かな文書が貴族院周辺へ流れた」


 室内がわずかに揺れた。


 ルイは続ける。


「王太子府は、これを正式な報告とは認めない。だが、無視もしない。現地にはランバール公爵家の慈善視察団が入っており、すでに第一報が届いている」


 何人かの貴族が顔を見合わせた。


 偽報よりも早く、王太子府が表の報告を持っている。


 それだけで流れが変わる。


「現時点で確認できる事実は、ラウゼンにおいてローデン商会の荷に火薬、油壺、および不審な魔石が含まれていたこと。町の診療所、管理官庁舎、広場が襲撃を受けたこと。管理官フォルン家、および町民たちが消火と避難に協力したことだ」


 ルイは一度、言葉を切った。


「ラウゼンは反乱を起こしていない。むしろ、王国の町として黒蛇の謀略に抗った」


 黒蛇という名が出た瞬間、室内の空気が冷えた。


 知らぬふりをしていた者。


 噂だけを聞いていた者。


 関わりを恐れる者。


 反応は様々だったが、誰も無関心ではいられない。


 財務卿がゆっくりと口を開いた。


「殿下。黒蛇の存在は、正式には確認されていないはずです。軽々しくその名を朝議に出せば、民に不安が広がります」


「民を不安にさせるのは、名を伏せることではなく、毒を放置することだ」


 ルイの返答は速かった。


 室内が沈む。


「無論、民へは慎重に伝える。だが、ここにいる諸卿には知ってもらう必要がある。王国の敵は、表の軍勢だけではない。商会、慈善、輸送、貴族家の噂。そうしたものを使い、火を置き、偽りの報せを流す者たちがいる」


 財務卿は口を閉ざした。


 ルイは机上に置かせた写しを掲げる。


「この文書を流した者を探す。ラウゼンの件については、王太子府、ランバール公爵家、現地管理官庁舎の三者で記録を照合する。虚偽を広めた者には、相応の責任を取らせる」


 その言葉は、単なる説明ではなかった。


 警告だった。


 貴族たちは一斉に姿勢を正す。


 その中で、末席に近い位置にいたセリオ・グレイストンは、青ざめた顔で俯いていた。


 彼の手は膝の上で固く握られている。


 父は黒蛇ではない。


 母も違う。


 だが、伯爵家は古い誓約を守る家だった。


 かつてミリアへ渡した紙片の文が、胸の中で何度も蘇る。


 ラウゼンで何かが起きた。


 呼応地図の鍵が守られたのか、それとも奪われたのか。詳細はまだ分からない。けれど黒蛇が動いた以上、次に口封じされるのは自分たちかもしれない。


 朝議が終わる直前、ルイの視線が一瞬だけセリオを掠めた。


 責める目ではない。


 気づいている、と告げる目だった。


 セリオは息を呑む。


 その日の午後、グレイストン伯爵邸に一通の花籠が届いた。


 差出人は、ランバール公爵夫人の名になっている。季節の白い花に添えられたカードには、社交辞令のような短い文。


 先日の慈善茶会の件、改めてお話を伺えれば幸いです。


 伯爵夫人はそのカードを読み、すぐに裏を見た。


 そこには、普通の者なら見逃すほど薄く、小さな点が三つ打たれている。


 影狼の連絡符ではない。


 ランバール家が古くから使う、緊急面会の印だった。


 伯爵夫人は花籠を抱えたまま、目を閉じる。


「セリオ」


 呼ばれた息子は、扉のそばに立っていた。


「はい、母上」


「もう、黙っているだけでは家は守れませんね」


 セリオは顔を歪めた。


 答えは出ている。


 ただ、口にするのが怖かった。


「私は……父上を裏切りたいわけではありません」


「分かっています」


「でも、このままでは、もっと多くの人が」


「ええ」


 伯爵夫人は静かに頷いた。


「だから、私たちは証言者になりましょう。罪を隠すためではなく、終わらせるために」


 窓の外では、王都の空が薄く曇り始めていた。


 ラウゼンから始まった偽報は、完全には消えていない。消えたように見えても、黒蛇の毒は別の場所へ染みていく。


 だが、同じように、抗う者の手も伸び始めていた。


 ラウゼンの記録。


 ランバール家の証言。


 王太子府の宣言。


 グレイストン家の沈黙が、少しずつ揺らぐ。


 夜へ沈んでいた王国の地図に、細い線が増えていく。


 その線がいつか、蒼狼の軍勢へつながるのか。


 それとも黒蛇の罠へ向かうのか。


 答えはまだ見えない。


 けれど、王都とラウゼンは同じ偽りを前に、別々の場所から動き始めていた。


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