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33話 ラウゼンの夜明け

 夜明け前のラウゼンは、勝利した町には見えなかった。


 広場には焦げた匂いが残り、石畳の隙間には水と灰が流れている。横転した馬車はまだ片づけられておらず、焼け焦げた木箱の破片が周囲に散っていた。火は消えた。黒蛇の襲撃も退けた。呼応地図の鍵も守った。


 それでも、町には歓声がなかった。


 怪我人の呻き声。水桶を運ぶ足音。診療所の扉が何度も開閉する音。泣き疲れた子どもを抱きしめる母親の声。そうしたものだけが、夜の終わりを告げていた。


 アランは広場の中央に立ち、町の様子を見渡していた。


 剣はすでに鞘へ戻している。だが、その背にはまだ戦場の気配が残っていた。銀の髪には煤がつき、外套の裾は裂けている。頬の薄い傷から血は止まっていたが、疲労は隠しきれていない。


 それでも、彼は休まなかった。


「負傷者を診療所へ。重傷者を先に運ぶ。動ける者は火種の残りを確認して。油壺と赤い魔石は影狼が回収する。町の者は触れないでほしい」


 命令ではなく、頼む声だった。


 だが、その声には人を動かす力があった。


 町民たちは互いに顔を見合わせ、それぞれ動き出す。鍛冶屋は若者たちを集めて砂袋を運ばせ、宿屋の主人は地下倉庫を避難場所として開けた。老婆たちは負傷者のために布を裂き、子どもたちは大人に言われるまま水桶を運んでいる。


 誰も、銀の髪に膝をついてはいない。


 自分の町を守るために立っていた。


 その光景を見て、アランはわずかに目を細めた。


「殿下」


 レムが近づいてきた。


 彼女も無傷ではなかった。黒い戦闘服の袖は裂け、手の甲には血が滲んでいる。だが、立ち姿に乱れはない。背後ではエレナが診療所の前の椅子に座らされ、町の女たちに水を飲まされていた。長く笛を吹き続けたせいで、彼女の顔色はまだ悪い。


「エレナ殿は?」


「喉を痛めています。魔力の消耗もありますが、命に別状はありません。ただ、しばらく笛は吹かせない方がよいかと」


「分かった。無理はさせない」


「イレオン殿も診療所へ運びました。本人は記録の確認を優先すると言っておりますが、立っているだけで限界です」


「彼にも休んでもらう。呼応地図は逃げない」


 レムは小さく頷いた。


 そこで一度、視線を広場の端へ向ける。


 ミリアがいた。


 彼女は診療所の入口付近で、負傷した影狼の隊員に包帯を巻く手伝いをしていた。慣れた手つきではない。薬瓶を渡す時も、布を押さえる時も、まだ少しぎこちない。だが、逃げてはいなかった。


 血を見ても、倒れた者を見ても、目を逸らさなかった。


 負傷した影狼の男は、脇腹を押さえながら小さく言った。


「ミリア様。もう十分です。あとは我々で」


「あなたは私を逃がすために傷を負いました。せめて、手当てが終わるまではここにいさせてください」


「任務でした」


「私にとっては、それだけでは済みません」


 ミリアの声は静かだった。


 責めているのではない。


 ただ、感謝と悔しさを、どちらも隠さなかった。


 影狼の男は困ったように目を伏せる。


「……アラン様が、あなたを気にされる理由が少し分かりました」


 ミリアは一瞬だけ動きを止めた。


「それは、どういう意味ですか」


「真っ直ぐすぎる方は危うい。ですが、真っ直ぐでなければ届かない場所もあるのでしょう」


 ミリアは返事をしなかった。


 ただ、包帯を結ぶ指に少しだけ力が入った。


 その様子を遠くから見ていたアランは、静かに息を吐いた。


「彼女はまた無茶をしたね」


「ですが、今回は独断ではありません。状況を見て、必要な役割を果たしました」


 レムの答えは淡々としていた。


「珍しいね。君が彼女を庇うなんて」


「庇っているのではありません。事実を述べています」


「そうか」


「ただし、剣の扱いはまだ危ういです。判断はよくなっていますが、身体が追いついていません。今後も前に出る可能性があるなら、訓練内容を変える必要があります」


「厳しくするの?」


「生き残らせるためです」


 レムの声には迷いがなかった。


 アランは少しだけ笑った。


「なら、頼むよ」


「よろしいのですか」


「止めても、彼女は止まらない。だったら、倒れ方と立ち上がり方を教えた方がいい」


 レムはしばらくアランを見ていた。


 そして、静かに頭を下げた。


「承知しました」


 広場の北側から、ガイルが戻ってきた。


 大剣を肩に担ぎ、煤だらけの顔で笑っている。だが、その目は油断していなかった。


「北側の逃げ道は潰した。捕まえた奴が三人、死んだ奴が五人。逃げたのが一人いる」


 アランの表情が変わる。


「方向は」


「旧街道じゃねえ。山側の細道だ。追わせたが、夜の山道に慣れてる奴だな。完全には捕まえきれなかった」


「ゼイドは?」


「追ってる。けど、あいつがすぐ戻らねえってことは、敵もそれなりだ」


 アランは視線を北へ向けた。


 ラウゼンの先には山岳領へ続く道がある。呼応地図の光が伸びた先。黒蛇が次に狙うであろう場所。


 逃げた一人が、もしその情報を持っているなら。


「急ぐ必要があるな」


 アランが呟くと、リィナが広場の反対側から走ってきた。小柄な体で瓦礫を避け、手には数枚の紙片を握っている。


「アラン様、これ見て」


「何?」


「ローデン商会の荷馬車から出た。火薬と油だけじゃない。これ、王都へ送る予定だった偽報の下書き」


 リィナは紙を広げた。


 アランの目が細くなる。


 そこには整った筆跡で、こう書かれていた。


 ラウゼンにて、銀髪の第二王子が古き蒼狼の名を掲げ、町民を扇動。王家とは別の軍勢を集める兆しあり。


 ガイルが舌打ちした。


「胸糞悪いな。自分らで町を焼こうとしておいて、反乱扱いかよ」


「黒蛇らしいやり方だね。火をつけて、煙だけを王都へ送る」


 アランは紙片を受け取り、しばらく黙っていた。


 黒蛇は呼応地図を奪えなかった。


 ラウゼンも焼けなかった。


 だが、次の手はもう用意されていた。


 銀髪の王子が蒼狼の名を掲げた。


 町を扇動した。


 王家とは別の軍勢を集めている。


 その噂が王都へ届けば、アランの立場は厄介なものになる。表向きは駄王子でしかない男が、旧街道の町で古い軍の誓約を動かしたと知られれば、貴族たちは騒ぎ立てるだろう。


 兄ルイを王にするために隠してきたものが、今度は兄の足元を揺らす火種になるかもしれない。


「リィナ」


「分かってる。情報経路を追う。王都へ同じ文面がもう出てないか確認する」


「出ている前提で動いて」


「了解。早馬を出す?」


「出す。ただし、影狼の経路だけじゃ足りない。ランバール公爵家の正式な報告も必要だ」


 そこで、アランの視線がミリアへ向いた。


 ミリアもこちらを見ていた。


 偽報の内容までは聞こえていなかったはずだ。だが、何か重大なものが見つかったことは察している。


 アランは彼女を呼んだ。


「ミリア嬢」


 ミリアは負傷者に一言断り、こちらへ歩いてきた。足取りは少し重い。肩の傷も膝の痛みもある。それでも、公爵令嬢としての姿勢は崩れていなかった。


「何が見つかったのですか」


 アランは紙片を渡した。


 ミリアは黙って読み、表情を険しくした。


「……黒蛇は、ラウゼンを反乱の町に仕立てるつもりだったのですね」


「そうだ。そして、僕をその中心に置くつもりだった」


「ならば、こちらから先に記録を整えなければなりません」


 即答だった。


 アランはわずかに目を見開いた。


 ミリアは続ける。


「ランバール公爵家の慈善視察団として、私はこの町へ入りました。表の記録があります。同行した護衛騎士、診療所への支援物資、黒蛇の襲撃で負傷した町民、ローデン商会の荷馬車、火薬、油壺、赤い魔石。これらをすべて記録し、父へ送ります」


「君を巻き込むことになる」


「もう巻き込まれています」


 ミリアは静かに言った。


 その言葉に、以前のような反発だけはなかった。


「それに、これは私の役目です。あなたが影から守るなら、私は表から証明します。ラウゼンは反乱などしていない。黒蛇に脅され、それでも町を守ったのだと」


 アランはしばらく彼女を見ていた。


 金の髪は乱れ、ドレスの袖は裂け、手には血がついている。だが、その青い瞳は真っ直ぐだった。


 守られるだけの白薔薇ではない。


 彼女は自分の立てる場所を見つけ始めている。


「頼めるかな」


「はい」


「無理はしないで」


「その言葉は、あなたにもお返しします」


 アランは言葉に詰まった。


 近くで聞いていたレムが、ほんのわずかに目を伏せる。


 ミリアはさらに続けた。


「アラン殿下。あなたはすぐに、ご自分の危険を後回しになさいます。けれど、あなたが倒れれば、この町も、呼応地図も、王都へ戻る道も危うくなります。休むことも、今は必要な判断です」


 アランは困ったように笑った。


「君に説教されるとは思わなかった」


「私は以前から申し上げています。あなたは、ご自分を軽く扱いすぎです」


 その言葉に、アランの笑みが少しだけ薄くなった。


 夜会で彼女に言われた言葉が、ふと蘇る。


 ご自分の立場を、軽く扱っておられるように見えます。


 あの時とは意味が違う。


 ミリアはもう、アランをただの無責任な王子とは見ていない。見たうえで、なお言っている。


 だから、以前よりも深く刺さった。


「……善処するよ」


「それは守らない時の言い方です」


 アランは思わず目を瞬かせた。


 ルイと同じことを言われた。


 それが少し可笑しく、同時に胸に残った。


「分かった。休む時間を作る」


「約束です」


「約束する」


 ミリアは頷いた。


 その時、診療所の扉が開き、イレオンが姿を見せた。


 エレナに支えられている。二人とも明らかに休むべき状態だったが、その表情には強い意思があった。


「アラン殿下」


 イレオンは広場へ出ると、深く頭を下げた。


 膝はつかない。


 昨夜、アランに止められたからだ。


「フォルン家は、正式にあなたへ協力を申し出ます。ただし、ひとつだけお願いがございます」


「何でしょうか」


「ラウゼンを、蒼狼の名だけで語らないでいただきたい」


 アランは静かに彼を見る。


 イレオンは続けた。


「この町には、誓約を覚えていた者もいれば、何も知らずに生きてきた者もおります。昨夜、皆が立ったのは銀の髪に命じられたからではありません。自分たちの町を守るためでした」


「分かっています」


「ならば、我々はあなたに従うのではなく、王国を守るために共に動きます。そう記録していただきたい」


 その言葉は、アランが望んでいたものだった。


 銀の血に従うのではない。


 古い誓約に縛られるのでもない。


 自分の意思で、王国のために力を貸す。


 ルイの言葉が、ここでも形になっていた。


「必ず、そう記録します」


 アランは答えた。


 エレナが一歩前へ出る。


 声はまだ掠れていたが、彼女は銀の笛を両手で差し出した。


「この笛は、フォルン家が預かり続けます。ただ、次に鳴らす時は、誰かに強いられてではなく、私の意思で鳴らします」


「それでいい」


 アランは頷いた。


「笛は君のものだ。僕が持つべきものじゃない」


 エレナは少し驚いたように目を見開いた。


 それから、安心したように笛を胸へ戻した。


「ありがとうございます」


 リィナが石卓の写しと革筒の中身を広げた。


 銀の薄片を重ねると、昨夜浮かび上がった線が、夜明けの薄明かりの中でもかすかに見えた。


 旧街道から、北の山岳路へ。


 途中に小さな狼紋。


 イレオンはそれを見て、低く言った。


「ヴァイスベルク山岳領」


 その名に、アランが反応する。


「知っているのですか」


「蒼狼軍の中でも、山道を守った騎士家の名です。今では王国北西の山岳領を治める古い家。表向きは王家への忠誠を保ちながらも、中央貴族とは距離を置いています」


「黒蛇が先に向かう可能性は」


「高いでしょう。呼応地図の不完全な写しにも、山岳領の名は残っていたはずです。ですが、ヴァイスベルク家は簡単には膝を折りません。銀の髪であっても、力を貸すに値するかを見定める家です」


 ガイルが面白そうに笑った。


「いいじゃねえか。話が分かりそうだ」


「殴り合いの話ではありません」


 レムが即座に言う。


「だが、黒蛇が先に着けば、交渉どころじゃなくなるな」


 アランは地図を見つめた。


 ラウゼンの夜明けは、終わりではない。


 むしろ、始まりだった。


 呼応地図は完全ではない。蒼狼軍の全容も見えない。黒蛇の首魁もまだ闇の中にいる。グレイストン家の危険も残っている。王都では、ルイが表の政治を支えている。病床のアルバートも、いつまでも静かでいられる状況ではないだろう。


 すべてが、王都救援の大きな渦へ向かい始めている。


 アランは静かに息を吸った。


「リィナ。王都へ先行報告。黒蛇の偽報が流れる前提で、兄上とランバール公爵へ」


「了解」


「ガイルはラウゼンに残って負傷者と町の防衛を補助。黒蛇が戻る可能性がある」


「任せろ」


「レムはミリア嬢の護衛と訓練計画を。ゼイドが戻り次第、山岳路の追跡情報を確認する」


「承知しました」


 ミリアがアランを見た。


「私は、父への報告書を作成します。ラウゼンの証言と記録もまとめます」


「頼む」


「その後、山岳領へ向かうのですね」


 アランは少しだけ迷った。


 連れていくべきか。


 王都へ戻すべきか。


 だが、ミリアの目はもう答えを求めていた。守られるだけではなく、役割を持って進む覚悟を。


「すぐには向かわない。まず、ラウゼンを守り、偽報を潰す。それからだ」


「分かりました」


「ただし、山岳領はラウゼンより危険になる」


「それでも、私にできることがあるなら」


「ある」


 アランは遮らずに言った。


 ミリアの瞳がわずかに揺れる。


「ただし、剣だけではない。君には表の証言、交渉、記録、貴族としての言葉がある。山岳領で必要になるのは、たぶんそれだ」


 ミリアはゆっくり頷いた。


「では、そのために準備します」


 夜明けの光が、広場に差し込み始めた。


 煙の向こうで、ラウゼンの屋根が淡く照らされる。壊れた荷車も、血の跡も、焼け焦げた石畳も、その光で消えるわけではない。


 けれど、町は生きていた。


 エレナの笛は休んでいる。


 鐘も鳴っていない。


 それでも、ラウゼンには新しい音があった。瓦礫を片づける音。負傷者を励ます声。記録を書き留める羽ペンの音。次の朝へ進むための音。


 アランはその音を聞きながら、北の山を見た。


 黒蛇は逃げた。


 偽報は動き出す。


 呼応地図の線は、山岳領へ続いている。


 そして、いつか王都が包囲される日、ここで立った者たちの記憶が、必ず力になる。


 銀の守護者は、まだ軍を持たない。


 だが、最初に応じた町がある。


 その事実だけは、夜明けのラウゼンに確かに刻まれていた。


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