47話 紙片の学者
リィナは、捕らえたラトルをすぐには王太子府へ送らなかった。
もちろん、逃がすつもりはない。影狼の詰所のひとつへ運び、手足を縛り、口の中に毒や刃がないことも確認した。だが、尋問を急ぎすぎると、相手が用意している答えだけを聞かされる。
だから、まず紙を見た。
ラトルが飲み込もうとした紙片は、王の寝所の簡単な見取り図だった。寝台、薬棚、侍従の控え扉、古い文箱の位置。その線は細く、乱れがない。急いで描いたものではない。誰かが事前に聞き取り、何度か清書したものだ。
端には小さく、エリウスという署名。
リィナはそれを燐光石の下で眺めていた。
「自分の名前、残すんだ」
隣にいた情報班の若い隊員が首を傾げる。
「偽名では?」
「たぶんね。でも、偽名でも名を残す人は、残したい理由があるんだよ」
「挑発ですか」
「それもある。あとは、癖」
リィナは紙片を裏返した。
裏には何もない。
だが、紙の端にわずかな切れ込みがあった。装飾ではない。複数の紙片を重ねた時、順番を間違えないための印だ。
「学者っぽい」
「学者?」
「整理しないと気が済まない人の紙だね。噂を撒く時も、たぶん分類してる」
若い隊員は、いまいち分からないという顔をした。
リィナは笑わなかった。
軽口を叩く気分にはなれなかった。
これまでの黒蛇の噂は、毒のように流された。王都の井戸端、貴族院の廊下、商会の裏口。ばらばらに見えて、同じ方向へ向かうよう作られている。
だが、今回の紙片は違う。
ただ広げるだけではなく、後から回収することまで考えられている。
王の寝所の情報。
黒い文箱。
記憶を鈍らせる薬。
署名。
全てが、ひとつの実験のようだった。
「ラトルは?」
「黙っています」
「怖がってる?」
「いえ。むしろ、落ち着いています」
「じゃあ、答えを持たされてるね」
リィナは紙片を小箱へ入れた。
「先に周辺を洗う。侍医の助手として入った経路。推薦状。薬草の仕入れ先。王城へ入る時に使った身元保証。全部」
「ラトル本人は」
「後でいい。本人はたぶん、駒だよ。駒に盤面を聞いても、教えてもらえるのは一マス分だけ」
隊員は頷き、すぐに走った。
リィナは一人残り、机に並べた紙を見下ろした。
山岳領の偽報。
銀狼印の偽命令書。
東水門の噂。
王の寝所の見取り図。
それらの端に、少しずつ同じ癖がある。句読点の置き方ではない。紙の選び方、情報の隠し方、相手に拾わせる言葉の位置。
エリウス。
名前は初めて見た。
けれど、相手の手はもう何度も見ている。
「なるほどね」
リィナは椅子にもたれた。
「こっちを見てるんだ」
その頃、王太子府ではルイが朝の報告を受けていた。
東水門の点検は続いている。山岳領からの記録はまだ到着していない。王の寝所の薬湯に混じっていた薬物については、侍医が解析中だ。どれも別々の事件に見えるが、ルイには同じ糸で引かれているように思えた。
ランバール公爵も同じ見方をしていた。
「黒蛇は、王都の機能だけではなく、判断そのものを鈍らせようとしていますな」
「水門を止める。山を疑わせる。王を眠らせる。文書を偽る」
ルイは机上の地図に視線を落とした。
「力で押す前に、誰も正しく動けない状況を作るつもりか」
「厄介です」
「アランがいれば、もう少し早く裏を掴めただろう」
それは弱音ではなかった。
ただの事実として、ルイは言った。
ランバール公爵も否定しない。
「ですが、山岳領を閉じさせなかったのはアラン殿下です。あちらを失っていれば、王都の外側から支える道も減っていた」
「分かっている」
ルイは短く答えた。
アランがいない穴はある。
だが、アランが山にいる意味もある。
どちらも事実だ。
「王の寝所の件は、表に出さない」
ルイは言った。
「陛下が狙われたと広がれば、王都は動揺する。だが、侍医の助手が逃げた事実は隠しきれない。理由は薬草帳簿の不正調査として扱う」
「承知しました」
「リィナからの報告が来たら、直接私へ通してくれ」
「殿下が直接お読みになるのですか」
「今回の相手は、こちらが誰まで読んでいるかも測っている。伝達の段階で余計な形をつけたくない」
ランバール公爵は頷いた。
「では、文書は最短で」
「頼む」
その時、扉の外で近衛が声をかけた。
「グレイストン家より、緊急の書簡です」
ルイと公爵は目を合わせた。
「通せ」
届けられたのは、セリオの筆跡だった。
文面は短い。
『先日提出した旧帳簿の写しについて、王城薬室への推薦状に使われた署名と酷似した癖を確認しました。署名者名は異なりますが、同一の文書作成者が関与した可能性があります。原本照合を願います』
ルイは読み終え、静かに息を吐いた。
「セリオ殿も気づいたか」
「グレイストン家は記録の家です。怯えながらでも、見るべきところを見ていますな」
ランバール公爵の声には、以前よりもわずかな信頼があった。
「呼ぶか」
「はい。ただし、護衛を厚く。黒蛇は彼を消したいはずです」
ルイは頷き、すぐに指示を書いた。
その筆が止まったのは、最後の一行だった。
アランへの報告。
山岳領へ知らせるべきか。
王の寝所にまで黒蛇が入り込んだことを知れば、アランは戻るかもしれない。戻りたいはずだ。だが、山の支援網はまだ完全には整理されていない。ここでアランを動かせば、黒蛇はそれも利用する。
ルイは短く目を閉じた。
疑っているのではない。
だからこそ、迷う。
「山へは、要点だけを送る」
ルイは言った。
「王城内に黒蛇の文書工作を確認。王太子府で対応中。山岳領の支援網整理を優先せよ。そう書く」
ランバール公爵は何も言わず、一礼した。
同じ頃、ヴァイスベルク山岳領では、南峰の支援家の移し替えが終わりつつあった。
薬箱は二つに分けられ、鏡は布に包まれた。冬小屋の鍵は新しい管理者へ渡され、古い保管棚には黒蛇に読ませるための偽の配置記録が置かれている。
派手な動きはない。
それでも、山の内側は確かに組み替わっていた。
アランは城館の外で、クラウディアから最後の確認を受けていた。
「南峰三家は移動済み。薬の半分は修道跡へ。残りは領都内の別倉へ。鏡守は今夜から光を使いません。布合図のみです」
「冬小屋は?」
「鍵を変えました。古い鍵はわざと残しています。黒蛇が拾えば、空の小屋へ行きます」
「いいね」
アランは山図を見ながら頷いた。
顔には疲れがある。ここ数日、移動と判断の連続だった。けれど、動きは鈍っていない。
ミリアは少し離れた石段に腰かけ、王太子府へ送る写しをまとめていた。筆を持つ指に小さな傷が増えている。山での記録は、王都の机とは違う。風が紙をめくり、砂が墨に混じる。
それでも彼女は、丁寧に書いた。
その横に、エルンストが立っている。
「ランバール令嬢」
「はい」
「その写しには、山の名を伏せたまま、役目だけが残るのだな」
「はい。王都へ出すものは、薬師、鏡守、冬小屋管理、避難路番という形にします。家名と場所は山側の控えにだけ」
「よい」
短い言葉だった。
ミリアは筆を止め、顔を上げる。
「確認をお願いします。私の判断だけでは、山の方にとって危うい書き方があるかもしれません」
「だから読んでいる」
エルンストは紙へ視線を落としたまま言った。
「王都の者は、山の秘密を知ると紙にしたがる。だが、お前は知らぬ部分を空白として残している」
「知らないことを書けば、黒蛇と同じになります」
エルンストはわずかに目を細めた。
「その言葉は覚えておけ」
「はい」
そこへ、影狼の伝令が到着した。
山道を急いできたのだろう。外套には泥がつき、呼吸も荒い。アランはすぐに立ち上がった。
「王都?」
「はい。王太子府より」
渡された封書は、ルイのものだった。
アランは封を切り、短い文面を読んだ。
王城内に黒蛇の文書工作を確認。王太子府で対応中。山岳領の支援網整理を優先せよ。
それだけだった。
詳しいことは書かれていない。
書けないのだ。
アランは紙を握る手に、少し力を込めた。
ミリアが近づく。
「王都で何か?」
「黒蛇が王城内に入ったらしい。兄上は、こちらを優先しろと」
「戻りますか」
その問いに、アランはすぐには答えなかった。
戻りたい。
ルイの隣で、王城内の毒を潰したい。
だが、山の支援網はあと一歩で安定する。ここで途中にして戻れば、黒蛇はまた山を切る。山が切れれば、王都の外から支える道も消える。
アランは封書を畳んだ。
「戻らない」
ミリアはその答えを、驚かずに受け取った。
「では、こちらを終わらせましょう」
「うん」
クラウディアが二人を見る。
「王城内に黒蛇が入ったのに、戻らないのですか」
「兄上が、こちらを優先しろと書いた」
「それだけで?」
「それだけで十分」
クラウディアはしばらく黙っていた。
彼女は、アランとルイの関係をまだ全て知っているわけではない。だが、今の返答に迷いがないことは分かったのだろう。
「山では、短い言葉ほど重く扱います」
「王都でも、そういう時はあるよ」
アランは少しだけ笑った。
だが、その目は王都の方角を向いていた。
心配していないわけではない。
それでも、疑っていない。
その違いを、ミリアはそばで見ていた。
夕刻、リィナはようやくラトルの前に座った。
小さな地下室だった。机と椅子が二つ。壁際には影狼の隊員が一人立っている。
ラトルは手を縛られているが、表情は落ち着いていた。若い顔に、妙な諦めがある。
「待たせたね」
リィナは椅子に腰を下ろした。
「話すことはありません」
「だろうね。じゃあ、聞かない」
ラトルの眉がわずかに動く。
リィナは机の上に数枚の紙を並べた。
王の寝所の見取り図。
王城薬室への推薦状。
山岳領の偽報の写し。
東水門で広がった噂の文句。
「あなたが書いたのは、どれ?」
「知りません」
「うん。それは正しい。たぶん、あなたは書いてない」
ラトルは黙った。
リィナは紙の端を指で叩く。
「でも、運んだ。見た。聞いた。覚えた。違う?」
「……」
「答えなくていいよ。顔で分かるから」
ラトルの視線が揺れた。
リィナは軽く続ける。
「エリウスって、先生?」
その瞬間、ラトルの呼吸が止まった。
ごく短い反応だった。
だが、リィナには十分だった。
「先生なんだ」
「違う」
「違うなら、師匠? 雇い主? 研究者?」
「違う」
「じゃあ、黒蛇の中で文書を書いてる人」
ラトルは口を閉ざした。
リィナは身を乗り出さない。
責めもしない。
ただ、紙を見て言った。
「あなたは、王様を殺すようには言われてない。薬でぼんやりさせて、文箱の位置を確かめる。できれば中身を見て、無理なら場所だけ報告する。それが役目」
「……」
「で、失敗したら逃げる。捕まったら黙る。たぶん、そう教わった」
ラトルの指が震えた。
リィナはそれを見て、少し声を落とす。
「ねえ。あなた、黒蛇に心酔してるわけじゃないよね」
「何が分かる」
「分からないよ。でも、心酔してる人は、失敗した時にもっと怒る。あなたは怒ってない。怖がってる」
ラトルは唇を噛んだ。
地下室に沈黙が落ちる。
やがて、彼は小さく言った。
「逆らえば、妹が」
「どこ」
「知らない」
「知らされてないんだね」
ラトルは顔を上げた。
「助けられるのか」
「今のままなら無理」
リィナは正直に答えた。
「でも、情報があれば近づける。エリウスがあなたに何を渡し、誰を通して命令したか。妹さんを本当に押さえてるのが誰か。そこが分かれば、探せる」
「話せば殺される」
「黙ってても、たぶん殺されるよ。あなたはもう失敗したから」
残酷な言葉だった。
だが、嘘ではない。
ラトルは震えながら俯いた。
しばらくして、彼はかすれた声で言った。
「エリウス様は、王都文書庫にいた人だ」
リィナの目が静かに細まる。
「続けて」
「黒蛇に入る前の名は知らない。ただ、学院の記録官だったと聞いた。古い家の系譜、王家の封印文、貴族の婚姻記録、そういうものを覚えている」
「どこにいる」
「知らない。本当に」
「命令は?」
「紙で来る。必ず三つに分けて。ひとつは目的、ひとつは逃げ道、ひとつは失敗した時に残す文」
リィナは息を止めた。
やはり。
分類している。
「失敗した時に残す文って、今回の署名?」
ラトルは頷いた。
「捕まった時、名前を見せれば、影狼はそちらを追う。そう言われた」
「なるほど。先生、親切だね」
リィナは淡く笑った。
だが、目は冷えていた。
エリウスは、自分の名を撒き餌にしている。
追わせたいのだ。
王城内の毒も、文箱の見取り図も、ラトルも、すべて本命ではない。
では、本命はどこか。
リィナは机上の紙を見た。
王城。
水門。
山岳領。
グレイストン家。
次に必要なのは、これらをつなぐ場所。
王都文書庫。
そこには、古い誓約に関わる記録も、貴族家の系譜も、王家の封印文の写しもある。
エリウスがそこを知る者なら、黒蛇の次の偽文書はもっと精度が上がる。
「面倒だなぁ」
リィナは呟いた。
ラトルが顔を上げる。
「妹は」
「探す」
「本当に?」
「本当に。ただし、あなたも全部話して」
ラトルは弱々しく頷いた。
リィナは隊員へ目で合図する。
「王太子府へ伝えて。王都文書庫をすぐ確認。表向きは保管記録の棚卸し。騒がないように」
「承知しました」
隊員が出ていく。
地下室に残ったリィナは、机の上の紙をもう一度見た。
エリウスは、名を残した。
追わせるために。
なら、追うふりをしながら、別の線を引くしかない。
「先生」
リィナは小さく笑った。
「こっちも、宿題は得意なんだよ」
王都の夜が降り始めていた。
山では支援家が音もなく動き、王城では王印文書が隠され、王太子府では文書庫の棚卸しが命じられる。
黒蛇の学者は、まだ姿を見せない。
だが、その指先はすでに、王都の紙をめくっていた。




