31話 地下に眠る地図
庁舎の地下へ続く階段は、思っていたよりも狭かった。
石壁に囲まれた通路は湿り気を帯び、足を踏み下ろすたびに古い埃がわずかに舞う。上ではまだ戦いの音が続いていた。剣戟、怒号、何かが倒れる音、遠くで響く銀の笛。床板と石壁を通して、それらは鈍く歪みながら地下へ届いてくる。
まるで地上の戦いが、別の世界の出来事になっていくようだった。
だが、ミリアは知っていた。
ここもまた戦場だ。
むしろ、地上より静かな分だけ、恐ろしい。
彼女は片手に剣を握り、もう片方の手で壁に触れながら階段を下りた。肩の傷は熱を持っている。浅いとはいえ、動くたびに布の下で皮膚が引き攣った。呼吸を乱せば痛みが増す。だから、ゆっくり吸い、ゆっくり吐く。
前にはランバール家の護衛騎士が一人。
後ろには影狼の隊員が一人。
そして中央に、イレオン・フォルン。
彼は壁に手をつきながら歩いていた。顔色は悪く、殴られた頬には痛々しい痣がある。それでも、その背筋には妙な強さがあった。蒼狼の伝令役だった家の末裔。長く表舞台から消え、ただ町の管理官として生きてきた男。だが、今この地下へ下りる彼の姿には、何代も受け継がれてきた重みが滲んでいた。
「この下に、呼応地図があるのですね」
ミリアは声を抑えて尋ねた。
短く問うつもりだったが、言葉にすると、その重みが自分の胸にも響いた。
呼応地図。
紙に描かれた道ではない。奪われれば終わる名簿でもない。イレオンが言った通りなら、それは道と歌と笛の音に隠された、蒼狼の末裔へ至る仕組みだ。
黒蛇はそれを欲している。
アランがいつか呼ぶ前に、応じる者たちを狩るために。
イレオンは階段を下りながら答えた。
「正確には、呼応地図そのものではありません。フォルン家に残っているのは、地図を読むための鍵です。地名をそのまま残せば、奪われた時に終わります。名をそのまま書けば、裏切り者が一人出ただけで誓約は崩れる。だから先祖たちは、地図を地図として残さなかった」
彼の声は弱っているが、語る内容には迷いがなかった。
「旧街道の歌、宿場の鐘の順、山道の曲がり数、川を渡る時の祈り、そして伝令笛の音階。それらを合わせることで、初めて本当の道が浮かびます。フォルン家は地図を守っていたのではありません。地図を読める者を守ってきたのです」
ミリアは息を呑んだ。
その仕組みは、単なる暗号よりも遥かに巧妙だった。
紙を奪っても読めない。
歌だけを聞いても分からない。
笛だけを奪っても意味をなさない。
それを受け継ぐ者の記憶と、土地に根づいた習慣と、古い音を重ねなければ道は現れない。
だから黒蛇は、フォルン家を狙ったのだ。
地図ではなく、地図を読む者を。
「では、黒蛇が奪ったものは」
「不完全な写しです。街道の地名と、いくつかの古い家名だけ。あれだけでも危険ではありますが、すべての呼応家へ辿り着くことはできません。けれど、彼らが私とエレナを連れ去れば話は別です」
イレオンはそこで一度息を切らした。
護衛騎士が支えようとするが、彼は首を振った。
「私はまだ歩けます。ここまで来たなら、最後まで自分の足で行きます」
ミリアは彼を見つめた。
この人も怖いのだろう。
娘を狙われ、町を脅され、自分自身も傷つけられた。それでも、守るべきものの前では膝を折らない。アランが言った通りだった。誓約を覚えているかどうか以前に、彼は王国の民として、町の管理官として、自分の役目を果たそうとしている。
階段の終わりに、古い木扉があった。
扉には鉄の補強が施されている。錆びてはいるが、今でも頑丈そうだった。その中央に、小さく狼の爪痕のような紋が刻まれている。
イレオンは懐から木札を取り出した。
先ほど彼が見せたものだ。
古い文字が刻まれた、小さな札。
それを扉のくぼみに差し込むと、奥で重い音がした。
鍵が開く。
だが、その瞬間だった。
影狼の隊員が低く言った。
「後方」
ミリアの背筋が凍る。
階段の上から、足音が降りてくる。
一人ではない。
軽い足取りが二つ。重い足取りが一つ。さらに、金属が壁を擦るような音。
黒蛇が追ってきた。
地上の混乱を抜けて、地下への入口を見つけたのだ。
護衛騎士が剣を構えた。
「ミリア様、イレオン殿を中へ」
言われるまでもなかった。
ミリアは扉を押し開け、イレオンを中へ促す。だが、彼はすぐには入らなかった。
「扉を閉じれば、外の者は」
「閉じません」
ミリアははっきり言った。
イレオンが驚いたように見る。
彼女は続けた。
「この通路は狭い。閉じ込められれば、逃げ場がなくなります。扉の内側に何があるか分からない以上、退路は残します。護衛の方と影狼の方が時間を稼ぎます。その間に、あなたは必要なものを取ってください」
自分でも驚くほど、判断は早かった。
恐怖はある。
だが、恐怖に呑まれてはいない。
レムならどう見るか。
アランなら何を優先するか。
父なら何を守れと言うか。
それらが、彼女の中で一本の線になっていた。
イレオンは一瞬だけ目を細め、それから深く頷いた。
「承知しました」
彼は記録庫の中へ入る。
ミリアも続いた。
中は円形の部屋だった。
地下とは思えないほど乾いている。壁には棚があり、古い木箱や巻物、石板、革表紙の帳面が整然と並んでいた。中央には円形の石卓がある。その表面にはラウゼン周辺の地形が彫られていた。川、街道、山道、旧軍用路。そして、小さな点がいくつも刻まれている。
だが、それだけではただの古地図に見えた。
イレオンは石卓の前へ進み、懐から銀の小さな棒を取り出した。
「伝令笛の片割れです。エレナが持つ笛と対になるもの」
彼は石卓の縁にある溝へ、それを置いた。
すると、石卓の表面に薄い光が走った。
ミリアは息を止める。
地図が変わった。
ただの点に見えたものの一部が淡く光り、街道の曲線とは違う線が浮かび上がる。だが、その線は途中で途切れていた。完全な地図ではない。いくつもの空白がある。
「笛の音階がなければ、道はつながりません。今はこれが限界です」
地上では、エレナが笛を吹いている。
その音が、遠く地下にも届いていた。
細く、かすかに。
石卓の光が、その音に合わせて揺れる。
ミリアは理解した。
エレナの笛と、イレオンの記憶と、この石卓。
それらが合わさって、呼応地図は初めて形になる。
「これを黒蛇に渡してはならない」
「はい」
イレオンは棚の奥から小さな革筒を取り出した。
だが、その動きが止まる。
革筒の置かれていた場所に、細い黒い糸が張られていた。
罠。
ミリアが声を上げるより早く、影狼の隊員が動いた。
彼はイレオンの肩を掴んで引き戻す。同時に、壁の隙間から黒い針が飛んだ。針は影狼の肩口を掠め、石床へ刺さる。
黒い液体。
毒。
影狼の顔が歪む。
「浅い」
彼はそう言ったが、声には明らかな苦痛が混じっていた。
黒蛇は、ここにも先に手を入れていた。
完全に奪えてはいない。
だが、触れれば毒針が飛ぶよう仕掛けていた。
ミリアの背筋に冷たいものが走る。
もしイレオンがそのまま手を伸ばしていれば。
もし自分が不用意に触れていれば。
終わっていたかもしれない。
階段の方で、剣がぶつかる音が響いた。
護衛騎士が黒蛇と交戦している。
狭い通路での戦いは、地上よりさらに凄惨だった。刃を大きく振れず、盾も十分には使えない。金属音が壁に跳ね返り、息遣いと足音が異様に大きく聞こえる。
ミリアは一瞬、そちらへ行こうとした。
だが、すぐに踏みとどまる。
自分の役目はここだ。
呼応地図の鍵を守る。
イレオンを守る。
外の戦いに引き寄せられてはいけない。
「毒は」
ミリアは影狼の隊員へ視線を向けた。
彼は肩を押さえながら答える。
「遅効性ではない。痺れが来る前に処置すれば動ける」
「解毒薬は」
「腰の袋に」
ミリアはすぐに膝をついた。
手が震える。
だが、袋の紐を解き、小瓶を取り出す。レムの訓練では毒の処置までは深く学んでいない。けれど、薬瓶の色分けだけは聞いていた。赤は止血。青は痛み止め。白は解毒。
白い小瓶。
それを影狼へ渡す。
彼は自分で飲み、残りを傷口へかけた。顔をしかめるが、意識は保っている。
「動けますか」
「少しなら」
「では、扉側をお願いします。私はイレオン様を補助します」
影狼の隊員がわずかに目を見開いた。
命令ではない。
しかし、その声には不思議な力があった。
彼は頷き、痺れ始めた肩を押さえながら扉の側へ移動した。
ミリアはイレオンの横へ立つ。
「罠を避けて取り出せますか」
「方法はあります。ただ、時間がかかる」
「どのくらいですか」
「半刻などとは言いません。ですが、数分は」
数分。
戦場では長すぎる時間だった。
通路では護衛騎士が踏みとどまっている。だが、敵は複数。地下の狭さがこちらを守ってもいるが、同時に逃げ道も奪っている。
ミリアは石卓を見た。
薄く光る道。
途切れた線。
笛の音に合わせて揺れる点。
これを守らなければならない。
「やってください」
彼女は言った。
「その間、止めます」
イレオンは何か言いたげにしたが、言葉を飲み込んだ。
彼は革筒の周辺を慎重に調べ始める。
ミリアは剣を構え、扉の前へ立った。
肩が痛い。
腕も重い。
先ほどの戦闘で体力はかなり削られている。まともに斬り合えば、次はもたないかもしれない。
だが、ここで倒れるわけにはいかない。
階段側から護衛騎士が押し込まれてきた。
血が頬を伝っている。
彼は一人を斬り伏せたが、続く黒蛇の男が槍を持っていた。地下通路では長物は扱いにくいはずだが、男は短く持ち替え、突きに特化している。狭い通路では、むしろ厄介だった。
護衛騎士の盾が槍を受ける。
だが、疲労で足が滑った。
槍の穂先が脇を掠め、血が飛ぶ。
「下がってください!」
ミリアが叫んだ。
護衛騎士は悔しげに後退する。
その隙間から、槍の男が記録庫の入口へ踏み込んだ。
目がミリアを捉える。
「まだいたのか、公爵令嬢」
男の声には苛立ちがあった。
だが、先ほどまでの嘲りはない。
ミリアがただの飾りではないことを、黒蛇も理解し始めている。
それが、逆に恐ろしかった。
軽視されていた時より、殺意がはっきりしている。
「そこを退け。お前を殺してでも、その老人を連れていく」
ミリアは剣を握り直した。
短く返す言葉は選ばなかった。
代わりに、息を整えた。
槍の間合い。
こちらの剣より長い。
正面から近づけば刺される。
下がればイレオンに届く。
横へ動く余裕は少ない。
ならば、槍の初撃を外させるしかない。
男が踏み込んだ。
突き。
真っ直ぐ。
速い。
ミリアは剣で弾こうとしなかった。力で負ける。刃を斜めに置き、穂先を滑らせる。槍の先が剣の腹を削り、火花を散らす。衝撃で腕が痺れる。だが、穂先は胸を外れ、肩の横を通った。
痛みが走る。
古傷が開いた。
それでも、死んではいない。
ミリアは半歩前へ出る。
槍は近づけば不利になる。
そう教わっていた。
だが、黒蛇の男も当然それを知っている。彼は柄を短く持ち替え、石突でミリアの膝を狙った。
ミリアは避けきれなかった。
膝に鈍い衝撃。
脚が崩れる。
視界が傾いた。
倒れる。
その瞬間、彼女は剣を床に突き立てた。
支えにする。
完全には倒れない。
レムの声が蘇る。
倒れるなではない。
倒れきるな。
ミリアは片膝をついたまま、剣を斜めに振った。
狙いは男の足首。
深く斬る力はない。
だが、刃が革靴を裂き、男の動きが一瞬止まる。
その一瞬で、護衛騎士が残った力で盾を叩き込んだ。
槍の男が壁に押しつけられる。
影狼の隊員が負傷した肩を庇いながらも短剣を投げた。刃は男の腕に刺さり、槍が床へ落ちる。
それでも男は懐から短刀を抜いた。
執念。
黒蛇の者たちは、ここで退くつもりがない。
ミリアは立ち上がろうとした。
膝が痛む。
上手く力が入らない。
男が短刀を構え、イレオンへ視線を向ける。
まずい。
そう思った瞬間、背後でイレオンの声が響いた。
「取れました!」
ミリアは振り返る暇もなかった。
革筒を手にしたイレオンが、石卓から離れようとしている。
その革筒を見た黒蛇の男の目が変わった。
殺意ではない。
執着。
彼はミリアたちを無視して、イレオンへ飛びかかろうとした。
ミリアは身体で動いた。
剣では間に合わない。
だから、自分自身を壁にした。
男とイレオンの間へ飛び込む。
短刀が迫る。
避けられない。
ミリアは目を逸らさなかった。
次の瞬間、黒い影が扉の上から落ちた。
ゼイドだった。
天井の梁に潜んでいたのか、あるいは別の通路から回り込んだのか。彼の動きは一瞬だった。短刀を持つ男の腕を掴み、関節を逆へ折る。
鈍い音。
男が叫ぶ前に、ゼイドの刃が喉を裂いた。
血が石床へ散る。
男は崩れ落ちた。
ミリアは、そのすぐ前に立っていた。
一歩遅ければ、短刀は自分に届いていた。
膝が震える。
だが、今度も崩れなかった。
ゼイドは刃についた血を払い、彼女を一瞥した。
「無事か」
その短い問いに、ミリアは息を整えて答えた。
「生きています」
ゼイドは一瞬だけ沈黙した。
そして、わずかに頷いた。
「十分だ」
その言葉は、彼なりの最大の評価だったのかもしれない。
ミリアは小さく息を吐いた。
イレオンが革筒を胸に抱えている。
呼応地図を読む鍵。
守れた。
その実感が、遅れて全身に広がる。
だが、安心するにはまだ早かった。
地上では戦いが続いている。
銀の笛は鳴っている。
アランは広場で黒蛇と戦っている。
ミリアは剣を握り直した。
手は震えている。
肩は痛い。
膝も熱を持っている。
それでも、彼女は前を向いた。
「戻りましょう」
イレオンが驚いたように彼女を見る。
「まだ戦いが」
「だからです」
ミリアは言った。
「この鍵を、アラン殿下へ届けなければなりません」
黒蛇の血が床に広がる地下記録庫。
古い石卓に揺れる淡い光。
遠くから届く銀の笛。
そのすべての中で、ミリアは初めて理解した。
守るとは、綺麗な言葉だけではない。
手を汚す者がいる。
血を見る者がいる。
怖くても、痛くても、進まなければならない時がある。
それでも、自分はここにいる。
アランの隣ではない。
けれど、彼が背を向けられる場所に立っている。
白薔薇は地下の闇の中で、血の匂いを知った。
そして、それでも折れずに剣を握り続けていた。




