30話 蒼狼の呼び声
銀の笛の音は、ラウゼンの空を裂くように響き続けていた。
最初は細かったその音が、町の石壁や屋根、井戸、古い鐘楼に反響し、少しずつ違うものへ変わっていく。風に乗る笛の音は、ただの合図ではなかった。古い記憶を掘り起こし、眠っていた血を揺らし、忘れたはずの誓いを胸の奥に呼び戻していく。
診療所の屋根の上で、エレナ・フォルンは膝を震わせながら笛を吹いていた。
眼下では黒蛇の者たちが屋根へ登ろうとしている。壁に鉤縄がかけられ、黒い外套が瓦の縁へ伸びる。逃げ道はない。背後には診療所の煙突。足元は傾いた屋根。少しでも体勢を崩せば、彼女自身が転落する。
それでも、エレナは笛を離さなかった。
これを鳴らす日が来るとは思っていなかった。
父から渡された時、彼女は半ば昔話だと思っていた。フォルン家に伝わる古い笛。銀の守護者が現れた時、蒼狼の呼び声を告げるもの。幼い頃は誇らしく聞こえた。けれど成長するにつれて、それは現実味のない伝承になった。
王都から遠い小さな宿場町。
古い街道を守るだけの家。
そんな場所に、伝説のようなものが現れるはずがないと思っていた。
だが、銀髪の王子は来た。
名乗らずに。
命じずに。
まず守るために。
ならば、フォルン家も応えなければならない。
エレナは震える指で笛を支え、息を注ぎ込んだ。
その時、屋根の端に黒蛇の男が上がってきた。
短剣を逆手に持ち、低い姿勢で近づいてくる。エレナは後退した。瓦が足元で滑る。冷たい汗が背中を伝った。
男が笑った。
「それ以上吹くな」
エレナは笛を口から離さない。
男の目に苛立ちが走る。
次の瞬間、黒い影が屋根の上を横切った。
レムだった。
診療所の裏手から壁を蹴り上がり、屋根の縁へ飛び移った彼女は、着地と同時に細剣を抜いていた。黒髪が風に流れ、赤い瞳が冷たく光る。
黒蛇の男が反応するより早く、レムの細剣が男の短剣を弾いた。
火花が散る。
男は即座に体勢を低くし、もう一方の手から隠し刃を抜いた。だが、レムはそれを読んでいた。踏み込みを止めず、相手の腕の内側へ入り、柄頭で顎を打つ。
骨の鳴る鈍い音。
男の身体が傾く。
それでも、黒蛇は倒れなかった。よろめきながらも短剣を振り上げる。目には明確な殺意があった。エレナではなく、レムを道連れにするための一撃。
レムは迷わなかった。
細剣が男の胸元を深く貫いた。
男の動きが止まる。
目から光が消え、身体が屋根の上に崩れ落ちた。瓦が割れ、赤黒い血が雨跡のように広がる。
エレナの笛の音が一瞬だけ揺れた。
人が死んだ。
自分の目の前で。
レムは剣を引き抜くと、振り返らずに言った。
「吹き続けてください」
その声は冷たくはなかった。
けれど、甘くもなかった。
「今止めれば、町が折れます」
エレナは唇を噛んだ。
目に涙が浮かぶ。
それでも、彼女は再び笛を鳴らした。
レムはその前に立った。
屋根の下から、さらに二人が登ってくる。今度は距離を取っている。一人が投げ刃を構え、もう一人が長い鉤付きの鎖を回した。
殺す気だ。
レムは細剣を構える。
屋根の上は足場が悪い。広さも限られている。エレナを背にしたままでは、避ける方向も少ない。だが、彼女は一歩も下がらなかった。
鎖が飛ぶ。
レムは細剣で受けず、身体を低く沈めてかわした。鉤が背後の煙突に食い込み、石片が飛ぶ。投げ刃が続く。レムは外套を翻し、刃を布に絡めるように弾いた。
次の瞬間、彼女は前へ出た。
細剣の間合いではない。
だが、レムは剣だけで戦う者ではない。屋根瓦を蹴り、鎖を持つ男の膝を踏み砕くように蹴り込んだ。男が呻き、体勢を崩す。その喉元へ、細剣の刃が走った。
ためらいはなかった。
黒蛇は本気で町を焼き、誓約を奪い、エレナを殺そうとしている。こちらが手加減をすれば、次に死ぬのは守るべき者だ。
レムはその現実を知っていた。
王城の影で何年も刃を握ってきたからこそ、そこに甘さを挟まなかった。
もう一人が投げ刃を捨て、短剣で斬り込んでくる。
レムはそれを迎え撃つ。
屋根の上で、鋼が鳴った。
一方、管理官庁舎の一階では、ミリアがまだ剣を構えていた。
肩から流れる血は布で押さえられている。深い傷ではない。だが、痛みは確かにある。腕を上げるたびに熱が走り、指先が僅かに痺れる。
それでも、剣は下ろせなかった。
イレオン・フォルンは背後にいる。彼は呼応地図の仕組みを知っている。道と歌と笛の音に隠された、蒼狼軍の末裔へ繋がる手がかり。その老人をここで奪われれば、黒蛇に先を越される。
庁舎の外では怒号が響いていた。
町の者たちが動き始めたのだ。
鍛冶屋が水桶を担ぎ、宿屋の主人が扉に板を打ちつけ、老婆たちが子どもを地下倉庫へ逃がしている。彼らは戦士ではない。だが、笛の音を聞いて、ただ怯えて座り込むことをやめた。
それが黒蛇の苛立ちを呼んでいた。
外から突入してきた黒蛇の男は、もう演技を捨てていた。町人の服を裂くように外套を脱ぎ、内側から短い曲刀を抜く。顔には焦りと怒りが浮かんでいる。
彼らの計画は崩れつつあった。
アランを足止めするはずだった。
エレナから笛を奪うはずだった。
イレオンを連れ去り、呼応地図の最後の仕組みを吐かせるはずだった。
だが、銀の笛が鳴った。
アランが現れた。
ミリアがイレオンの前に立った。
予定通りに動かない駒が増えすぎたのだ。
「邪魔をするな」
黒蛇の男が低く唸った。
ミリアの隣にはランバール家の護衛騎士がいる。影狼の一人もいる。だが、庁舎内は狭く、全員が同時に動けるわけではない。敵はそこを狙っていた。
男が床を蹴る。
速い。
ミリアは相手の剣を見ないようにした。肩、腰、足。けれど、疲労が反応を鈍らせる。さっきより視界が狭い。呼吸が浅い。指先が汗で滑る。
怖い。
もう一度斬られるかもしれない。
次は浅く済まないかもしれない。
自分が倒れれば、後ろのイレオンが奪われる。
その恐怖は、胸を押し潰すほど重かった。
だが、ミリアは一歩も下がらなかった。
男の曲刀が斜めに落ちる。
ミリアは剣で受けようとした。
重い。
腕が弾かれ、肩の傷が焼けるように痛む。剣先が下がる。男はその隙を逃さなかった。横薙ぎの二撃目が、彼女の腹を狙う。
ミリアは反射で後ろへ跳んだ。
完全には避けきれず、上着の布が裂ける。
肌には届いていない。
だが、足が乱れた。
男の三撃目が迫る。
その時、横から護衛騎士が割って入った。盾で曲刀を受ける。鈍い音が響き、騎士の身体が押し込まれる。
「ミリア様、下がってください!」
叫びが聞こえた。
正しい判断だった。
公爵令嬢を下げるのは当然だ。
だが、下がれば通路が空く。
男の狙いはイレオンだ。
ミリアは歯を食いしばった。
下がらない。
ただし、正面からぶつかるのでもない。
彼女は半歩横へ動き、床に落ちていた書類箱を蹴った。箱が滑り、黒蛇の男の足元へ飛ぶ。男は一瞬だけ視線を落とした。
その一瞬。
ミリアは剣を振った。
狙ったのは胴でも首でもない。男の手首だった。
レムに教わった基本の一つ。
力のない者が、相手の動きを止めるための狙い。
だが、これは訓練ではない。
刃は木ではなく鋼。
そして相手も止まってはくれない。
ミリアの剣は完全には当たらなかった。だが、男の手の甲を裂いた。血が飛ぶ。男が呻き、曲刀の握りがわずかに緩む。
護衛騎士がその隙を逃さず、盾で男を壁へ押し込んだ。
影狼が横から短剣を突き入れる。
男は最後まで暴れた。
拘束では止まらない。
短剣を抜こうとした影狼の腕に、男は噛みつくように身を捩った。懐から小さな魔道具が転がる。赤い光。発火具だ。
ミリアはそれを見た瞬間、身体が動いた。
床に落ちた魔道具へ走る。
「ミリア様!」
誰かの声が飛ぶ。
だが、魔道具はすでに熱を持ち始めていた。
火。
この庁舎には古い紙が多い。記録棚もある。ここで火が出れば、イレオンを逃がす前に混乱が起きる。黒蛇が最後に狙うのは、情報の焼却かもしれない。
ミリアは剣を捨てなかった。
身を低くし、剣の腹で魔道具を弾いた。手で触れれば火傷をする。だから刃で払う。魔道具は床を転がり、入口近くの石敷きへ移動した。
次の瞬間、赤い炎が弾けた。
熱風が頬を叩く。
ミリアは反射的に腕で顔を庇った。袖口が焦げ、煙の匂いが鼻を刺す。炎は小さい。だが、紙棚のそばで爆ぜていれば、庁舎は一気に燃えていた。
黒蛇の男は、その隙に影狼を振り払いかけた。
護衛騎士が剣を振る。
男も曲刀を返す。
二つの刃が交差し、次の瞬間、血が飛んだ。
黒蛇の男が崩れ落ちる。
護衛騎士の剣は男の脇腹を深く裂いていた。男は床に倒れ、しばらく痙攣した後、動かなくなった。
ミリアは息を呑んだ。
死。
先ほど屋根で見たものとは違う。
今度は、自分のすぐ目の前だった。
血の匂いがした。
床に広がる赤が、紙片と埃を濡らしていく。
黒蛇の男は敵だった。イレオンを奪い、町を焼き、エレナを狙った。止めなければ、こちらが死んでいた。
それでも、命が消える瞬間は重かった。
ミリアの剣を握る手が震える。
護衛騎士が苦しげに息を吐いた。
彼も好きで斬ったわけではない。だが、戦いとはそういうものだった。きれいに相手だけを止めるなど、常にできるわけではない。守るために刃を振れば、その刃は時に命へ届く。
ミリアは唇を噛んだ。
覚えておかなければならない。
剣を持つとは、こういう場所に立つことなのだ。
ただ強くなりたいという願いだけでは、足りない。
自分の前に倒れた者の重さも、背負わなければならない。
その時、イレオンの声が背後から聞こえた。
「ミリア様」
ミリアは振り返った。
イレオンは壁に手をつきながら、彼女を見ていた。目には恐れではなく、深い敬意があった。
「あなたは、震えながらも退かなかった」
ミリアは答えられなかった。
自分が震えていることを、隠せていない。
悔しかった。
けれど、イレオンは静かに続けた。
「それでよいのです。恐れぬ者ではなく、恐れてなお立つ者を、蒼狼は覚える」
その言葉は、ミリアの胸の奥へ落ちた。
恐れてなお立つ。
それが、今の自分にできること。
遠くで、さらに大きな衝撃音が響いた。
診療所だ。
ミリアは窓へ視線を向けた。
アランはすでに外へ出ていた。
診療所前の広場では、戦闘が激しくなっていた。黒蛇の者たちは屋根のエレナへ迫り、レムがそれを防いでいる。だが、さらに町外れから増援が入ってきた。ローデン商会の荷馬車から降りた者たちだろう。
アランはその中央へ踏み込んでいた。
銀髪が陽光を受けて輝く。
彼はもう隠していなかった。
ラウゼンの町の前で、銀の髪を晒して剣を振るっている。
黒蛇の男が三人、同時に襲いかかる。
一人は槍。
一人は曲刀。
一人は短い斧。
アランは槍を半身でかわし、柄を斬る。曲刀の一撃を剣で受け、身体ごと押し返す。斧の男が足元を狙った瞬間、アランは踏み込みを変え、相手の肩口へ刃を入れた。
血が散る。
斧の男が倒れる。
アランは止まらない。
曲刀の男が再び斬り込む。今度はアランの首を狙っていた。避ければ背後の町人に当たる位置。アランは避けなかった。正面から受け、刃を滑らせ、相手の懐へ入る。
剣が閃いた。
曲刀の男の胸から血が噴き、身体が崩れ落ちる。
槍の男が後退した。
恐怖が顔に出ている。
アランは追わなかった。
だが、その逃走路にはゼイドがいた。
影から現れた刃が、一瞬で男の喉元を裂く。
黒蛇の者たちが、初めて明確に怯んだ。
これまで彼らは影狼を暗闘の相手として見ていた。王都の裏で動く秘密組織。情報を奪い、証拠を押さえ、時に襲撃を潰す者たち。
だが今、目の前にいるのは戦場の刃だった。
殺し合いを避けられない場では、影狼も躊躇しない。
アランもまた、駄王子の仮面を完全に脱いでいた。
ラウゼンの町民たちは、その姿を見ていた。
銀の髪。
蒼狼の笛。
黒蛇を斬り払う王子。
誰かが膝をついた。
また別の誰かが、古い祈りの言葉を呟いた。
だが、アランはそれを見ても表情を変えなかった。
彼は称えられるために来たのではない。
命じるためでもない。
守るために来た。
その時、診療所の裏手から黒い馬車が飛び出した。
車体にはローデン商会の印。
だが、御者台にいる男は商人ではない。黒蛇だ。馬車の後部には大きな木箱が積まれている。
レムが屋根の上から叫ぶ。
「アラン様! あの箱です!」
エレナの笛の音が一瞬だけ強くなる。
アランはすぐに理解した。
あれが黒蛇の本命だ。
伝令笛を奪えないなら、町ごと焼く。あるいは、フォルン家に残る記録を燃やす。木箱の中身は火薬か、魔道具か。どちらにせよ、逃がせばまずい。
アランが駆け出そうとした瞬間、黒蛇の残党が前へ出た。
足止め。
命を捨ててでも馬車を逃がすつもりだ。
アランの目が冷える。
時間がない。
だが、そこへ地響きのような声が響いた。
「おおおおおおおおっ!」
町の外れから、巨大な影が走ってきた。
ガイルだった。
大剣を肩に担ぎ、ほとんど馬と変わらぬ勢いで石畳を駆けてくる。別経路から脇道を潰していたはずの彼が、ようやく広場へ到着したのだ。
黒蛇の馬車が加速する。
ガイルは大剣を構えた。
「逃がすかよ!」
振り抜いた大剣が、馬車の前輪を叩き斬った。
木と鉄が砕ける凄まじい音。
馬車が横転し、積まれていた木箱が石畳へ投げ出される。中から赤い魔石と油壺が転がった。
危険物だ。
衝撃で一つが割れ、赤い火花が散る。
ガイルの表情が変わった。
「まずい!」
アランは走る。
だが距離がある。
その時、町の鍛冶屋が水桶を投げた。
続いて宿屋の主人が砂袋を放る。
老婆たちが叫び、若者たちが井戸から水を運ぶ。
町民たちが動いた。
恐怖に震えていたラウゼンの人々が、自分たちの町を守るために走り出した。
火花に水がかかる。
赤い魔石が煙を上げる。
完全には止まらない。
アランが到達し、魔石を剣の腹で弾き飛ばした。ガイルが油壺を踏み砕き、砂をかける。ゼイドが残った黒蛇を切り伏せる。
広場は混乱に包まれた。
怒号。
馬の嘶き。
水の音。
割れる木箱。
血の匂い。
笛の音。
そのすべてが重なり、ラウゼンという小さな町が一つの戦場になっていた。
ミリアは庁舎の窓からそれを見ていた。
自分も行かなければ。
一瞬、そう思った。
だが、すぐに自分の役目を思い出す。
イレオンを守る。
呼応地図の仕組みを守る。
アランが背を向けられる場所を作る。
広場へ飛び出すことだけが戦いではない。
ミリアは振り返り、イレオンへ言った。
「地下か、隠し部屋はありますか」
イレオンが目を見開く。
「なぜ、それを」
「黒蛇は庁舎も狙います。表の戦闘が収まる前に、あなたと記録を安全な場所へ移します」
イレオンは一瞬だけ迷った。
だが、すぐに頷いた。
「あります。古い記録庫が地下に」
「案内してください」
「ミリア様、傷が」
「動けます」
彼女は剣を握り直した。
金髪は乱れ、青いリボンは切れ、肩からは血が滲んでいる。
だが、その目は折れていなかった。
「今、守らなければならないものがあります」
イレオンは深く頷いた。
護衛騎士が先に立ち、影狼が後方を固める。ミリアはイレオンの横につき、地下へ続く古い扉へ向かった。
その扉の奥にも、黒蛇がいるかもしれない。
罠があるかもしれない。
それでも、進むしかない。
彼女はもう、ただ戦いを見るだけの令嬢ではなかった。
白薔薇は、血と煙の匂いの中で剣を握り、ラウゼンの地下へ足を踏み入れた。
広場では、アランが燃えかけた魔石を完全に処理し終えたところだった。
煙の向こうで、彼は庁舎へ視線を向ける。
ミリアの姿はない。
だが、不安より先に理解が来た。
彼女は動いたのだ。
自分の役目を果たすために。
アランは剣についた血を振り払い、静かに呟いた。
「頼んだよ、ミリア嬢」
そして、再び前を向いた。
黒蛇の残党が、まだ町の北側へ集まっている。
ラウゼンの戦いは終わっていない。
だが、銀の笛は鳴り続けている。
町はもう、怯えるだけではなかった。
銀の守護者が剣を振り、白薔薇が地下へ進み、蒼狼の記憶が目覚める。
旧街道の宿場町で、古い誓約は血と炎の中に、その輪郭を取り戻し始めていた。




