29話 白薔薇の剣
銀の笛の音が、ラウゼンの町を震わせていた。
それは大きな音ではなかった。戦場の号令のように荒々しくもなく、鐘のように腹の底へ響くものでもない。細く、澄み、どこか遠い昔から吹いているような音だった。
だが、その音が鳴った瞬間、町の空気は変わった。
宿屋の扉が開く。鍛冶屋の男が槌を握ったまま通りへ出る。老婆が震える手で胸元の古い護符を握る。子どもを家の中へ押し込めた母親が、窓の隙間から診療所の屋根を見上げる。
誰もが意味を知っているわけではない。
けれど、誰かの血が覚えていた。
忘れたはずの誓いが、音になって町の底を叩いた。
診療所の屋根の上で、エレナ・フォルンは銀の笛を吹いていた。
風に栗色の髪が乱れ、白い前掛けの裾が揺れている。彼女の顔は青ざめていた。怖くないはずがない。周囲には黒蛇の者たちが迫っている。逃げ道は少なく、足元は傾斜した屋根瓦。落ちればただでは済まない。
それでも彼女は笛を口から離さなかった。
フォルン家に伝わる、伝令の笛。
かつて蒼狼軍の呼応を告げたという、古い銀の笛。
その音を聞いたアランの銀髪が、淡く光を帯びたように見えた。
庁舎の一階で剣を構えていた黒蛇の男たちは、明らかに動揺した。
「笛を止めろ!」
誰かが叫ぶ。
その声に反応して、診療所へ向かっていた黒蛇の一団が足を速めた。レムがその前に立ち塞がる。黒髪を揺らし、細剣を抜いた彼女の姿は、侍女ではなく影狼の副官そのものだった。
だが、黒蛇も馬鹿ではない。
彼らは二手に分かれた。
一方は診療所へ。
もう一方は庁舎へ。
アランを押さえるためではない。
イレオン・フォルンを奪うためだ。
呼応地図の仕組みを知る当主。
道と歌と笛に隠された地図の意味を知る男。
彼を失えば、蒼狼の末裔を辿る道は大きく遠のく。
ミリアはそれを理解した。
庁舎の奥、階段の下にイレオンがいる。疲労で立つのもやっとの老人を、影狼の一人とランバール家の護衛騎士が支えていた。
アランは前方で黒蛇の実働部隊と斬り結んでいる。
レムは診療所へ走った。
ゼイドの姿は見えない。おそらく外で逃走経路を潰している。
今、この場所でイレオンへ最も近いのは、自分だった。
ミリアの喉が乾いた。
手袋の下の指先が冷たい。
恐怖が背筋を這い上がってくる。
だが、彼女は逃げなかった。
腰に差していた細身の護身剣へ手を伸ばす。
旅装に合わせて持たされた、装飾の少ない実用の剣だった。レムから渡された時、彼女は言われていた。
――抜く時は、倒すためではありません。
――立ち続けるためです。
剣が鞘から抜けた。
金属が空気を裂く、乾いた音がした。
その音が、自分自身を現実へ引き戻した。
ミリアはイレオンの前に立った。
「ミリア様!」
護衛騎士が驚いたように声を上げる。
「イレオン様を後ろへ」
ミリアは振り返らずに言った。
自分の声が思ったより落ち着いていたことに、彼女自身が驚いた。
「ここを抜かせません」
護衛騎士は一瞬迷った。
公爵令嬢を前に出すなど、本来ならあり得ない。だが、通路は狭く、黒蛇の一人がすでに横の扉から回り込もうとしていた。正面を騎士が守れば、横を抜かれる。横を守れば、イレオンが危ない。
ミリアが立った位置は、その隙間だった。
決して美しい剣士の立ち姿ではない。
膝は少し震えている。
剣先も完璧には止まっていない。
それでも、彼女は通路の中心に立った。
黒蛇の男が、それを見て笑った。
「公爵令嬢が剣を?」
嘲りだった。
男は細身の曲刀を持っている。黒蛇の構成員の中でも、暗殺よりも近接戦に慣れた者だろう。体格は大きくない。だが、足運びが軽い。目はミリアではなく、その後ろのイレオンを見ていた。
ミリアを障害物としか見ていない。
その事実が、彼女の胸に火を灯した。
怖い。
怖いに決まっている。
だが、それ以上に許せなかった。
自分を餌と呼び、鍵と呼び、弱点と呼ぶ者たち。
イレオンを情報源としてしか見ない者たち。
エレナの笛を奪い、町を火で脅す者たち。
黒蛇はいつも、人の心を道具として扱う。
アランを銀の髪として扱い、フォルン家を呼応地図の一部として扱い、町の民を脅迫の材料として扱う。
だから、ミリアは剣を握った。
自分が強いからではない。
そういう扱いを、もう許したくなかったからだ。
「退け」
男が低く言った。
「怪我では済まないぞ」
ミリアは剣先を上げる。
レムの声が脳裏に蘇った。
相手の剣を見るな。
肩を見る。腰を見る。足を見る。
最初の一撃を避けろ。
正面から受けるな。
流せ。
生き残れ。
男が踏み込んだ。
速い。
ミリアの目では、剣筋を追いきれなかった。
だから、剣を見なかった。
相手の右肩が沈む。腰がわずかに開く。左足が床を噛む。
右から来る。
ミリアは受けようとせず、半歩下がった。
曲刀が目の前を走る。
風が頬を掠めた。
避けた。
そう思った瞬間、二撃目が来た。
男は止まらない。曲刀を返し、下から斜めに跳ね上げる。ミリアは剣を合わせた。正面から受ければ弾かれる。だから、刃を斜めに置いた。
金属音。
腕に衝撃が走る。
痛い。
手首が痺れる。
それでも、剣は落とさなかった。
刃が滑り、曲刀の軌道が逸れる。
ミリアは横へ動く。
足がもつれかけた。
床に置かれていた書類箱に踵が当たる。
転ぶ。
その恐怖が身体を固めかけた瞬間、レムの訓練を思い出した。
正しく崩れろ。
無理に踏ん張らない。
ミリアは身体を低くし、片膝をつきかけながらも、手を床につかずに体勢を流した。完全ではない。優雅でもない。だが、倒れきらなかった。
男の三撃目が空を切る。
「ちっ」
男の表情から嘲りが消えた。
ミリアは息を整える。
胸が激しく上下している。
耳の奥で血の音がする。
一瞬の攻防だけで、身体中が熱い。
これが本物の刃。
訓練の木剣とは違う。
当たれば血が出る。
受け損なえば腕が飛ぶ。
判断が一つ遅れれば、後ろのイレオンが奪われる。
それでも、彼女はまだ立っている。
男は目を細めた。
「素人ではないな」
「まだ、学んでいる途中です」
ミリアは答えた。
声は少し震えていた。
だが、その震えは彼女を弱く見せなかった。
男が苛立ったように鼻を鳴らす。
「なら、学びはここまでだ」
今度の踏み込みは先ほどより速かった。
ミリアは見た。
肩。
腰。
足。
だが、男はそこで動きを変えた。
右へ来ると思わせて、左。
フェイント。
ミリアの反応が遅れる。
曲刀が左肩へ迫る。
避けきれない。
瞬間、彼女は剣で受けることを諦めた。
身体を前へ倒す。
恐怖に逆らって、相手の懐へ半歩入った。
曲刀が肩ではなく、外套の布を裂く。
鋭い痛みが上腕を走った。
血が滲む。
だが、浅い。
ミリアはそのまま剣の柄を男の腹へ押し込んだ。
斬るのではない。
突くのでもない。
崩す。
レムに教わった、力のない者のための一手。
「ぐっ」
男の息が詰まった。
体勢がわずかに崩れる。
ほんの一瞬。
だが、その一瞬で十分だった。
護衛騎士が横から踏み込み、男の曲刀を弾いた。
影狼の一人が男の足を払う。
男は床に叩きつけられ、即座に拘束された。
ミリアは壁に手をついた。
息が苦しい。
肩が痛い。
剣を握る指が震えている。
怖かった。
今さら恐怖が押し寄せてきた。
もし半歩遅れていたら。
もし剣を落としていたら。
もし体勢を崩して倒れていたら。
頭の中にいくつもの「もし」が浮かび、足元が揺れる。
だが、彼女は膝をつかなかった。
イレオンが背後で息を呑んでいる。
「ミリア様、お怪我を!」
護衛騎士が駆け寄ろうとする。
ミリアは息を整えながら首を振った。
「浅い傷です。それより、イレオン様を」
「しかし」
「私は立てます」
その言葉は、自分に言い聞かせるためでもあった。
剣の重さが、手の中にある。
それが彼女を支えていた。
アランはその一部始終を見ていた。
正面の敵を斬り伏せながら、視界の端でミリアの動きを追っていた。
最初の一撃を避けた時。
二撃目を流した時。
足を取られかけながら倒れなかった時。
そして、肩を裂かれながらも前へ入った時。
アランの胸が冷えた。
危ない。
今すぐ駆け寄りたい。
守りたい。
だが、それをしてはいけないことも分かっていた。
彼女は役目を果たしている。
イレオンを守るために、自分の立てる場所で戦っている。
そこでアランがすべてを奪えば、ミリアの覚悟を否定することになる。
それでも、黒蛇の刃が彼女の外套を裂いた瞬間、アランの中で何かが硬く冷えた。
次の一撃で、彼の剣が黒蛇の男の武器を根元から叩き折った。
相手の目が見開かれる。
アランは低く言った。
「今のは、少し腹が立った」
声は静かだった。
だからこそ、恐ろしかった。
男が後退しようとする。
だが遅い。
アランの剣の腹が男の胸を打ち、続く蹴りが膝を砕く。殺してはいない。だが、立てない。倒れた男の喉元へ剣先を向け、アランは一瞬だけ視線を落とした。
「情報を取る。生きていろ」
その声に、周囲の黒蛇の者たちがわずかに怯んだ。
駄王子ではない。
軽薄な王子でもない。
銀の守護者でもない。
今そこにいるのは、大切な者を傷つけられた男だった。
ミリアはそれに気づき、胸が少しだけ痛んだ。
自分が傷を負えば、彼を揺らす。
ヴァルグの言葉が蘇る。
鍵にも、弱点にもなる。
けれど、ミリアはそこで俯かなかった。
弱点になることを恐れて何もしないなら、黒蛇の思う壺だ。
弱点になるのなら、強くなればいい。
守られるだけの弱点ではなく、共に立つための弱さに変えればいい。
ミリアは剣を構え直した。
その姿を見たアランが、わずかに目を見開く。
「ミリア嬢」
「まだ終わっていません」
声は落ち着いていた。
痛みはある。
恐怖もある。
それでも、目は逸らさない。
その時、外から大きな衝撃音が響いた。
診療所の方角だ。
レムが黒蛇の一団と交戦している。
銀の笛の音は途切れていない。
エレナはまだ吹いている。
だが、長くはもたない。
アランは判断する。
ここで時間をかければ、診療所が危ない。
だが、イレオンも守らなければならない。
ミリアはその迷いを読み取った。
何度も見てきた。
アランが何かを選ぼうとする時の、一瞬の沈黙。
自分を後回しにして、全部を背負おうとする目。
だから、彼女は先に言った。
「行ってください」
アランが彼女を見る。
「ここは私たちが守ります」
「でも」
「アラン殿下」
ミリアは一歩も引かなかった。
「私に頼むとおっしゃったのは、あなたです」
その言葉が、アランを止めた。
そうだ。
頼んだ。
イレオンを守ってほしいと。
彼女はその役目を果たしている。
ここで信じなければ、あの言葉は嘘になる。
アランは一瞬だけ目を閉じ、すぐに開いた。
「分かった」
短い返事。
だが、そこには確かな信頼があった。
「イレオン殿を頼む」
「はい」
「傷は後で見る」
「浅いです」
「後で見る」
今度は有無を言わせない声だった。
ミリアは少しだけ表情を和らげた。
「分かりました」
アランは頷き、診療所へ向かって走った。
銀髪が庁舎の光を受けて一瞬だけ輝き、すぐに影へ消える。
ミリアはその背を見送らず、前を向いた。
まだ敵は残っている。
護衛騎士と影狼が押さえているが、完全には制圧していない。通路の奥から、さらに一人が現れた。黒い外套。短剣を二本持つ男。
彼の狙いは明らかだった。
アランが去った隙に、イレオンを奪う。
ミリアは剣を構えた。
肩の傷が痛む。
指先が震える。
それでも、彼女は前へ出た。
「また令嬢か」
短剣の男が吐き捨てる。
ミリアは答えない。
言葉で勝つ場面ではない。
呼吸。
足。
距離。
相手は二刀。
先ほどの男より速いだろう。
まともに戦えば勝てない。
ならば、勝とうとしない。
時間を稼ぐ。
通さない。
立ち続ける。
短剣の男が床を蹴った。
低い姿勢。
速い。
ミリアは一撃目を横へかわす。
二本目がすぐに来る。
剣で受ける。
衝撃が軽い。
だが、速い。
三撃目。
四撃目。
呼吸が追いつかない。
ミリアは後退する。
背後にはイレオンがいる。
下がりすぎてはいけない。
短剣が頬の前を掠め、髪飾りの青いリボンが切れた。
金髪が肩へこぼれる。
視界に髪がかかる。
一瞬、見えない。
短剣の男が笑う。
その刹那、ミリアはあえて目を閉じなかった。
見えないなら、足音を聞く。
床板の軋み。
左。
彼女は身体を沈め、剣を低く構えた。
男の短剣が上を通る。
ミリアの剣先が、男の足元を掠める。
斬ったわけではない。
だが、足運びを乱した。
男がわずかにつまずく。
その瞬間、護衛騎士が横から盾で押し込んだ。
男の身体が壁に叩きつけられる。
影狼が飛び込み、短剣を叩き落とす。
制圧。
ミリアは荒い息を吐いた。
全身が震えている。
リボンが切れ、金髪が乱れている。
肩からは血が滲んでいる。
それでも、彼女は倒れなかった。
イレオンが震える声で言った。
「あなたは……本当に、公爵令嬢なのですか」
ミリアは息を整え、少しだけ笑った。
「はい」
そして、剣を下ろさないまま続けた。
「ただ、少しだけ剣を学んでおります」
その声には、誇りがあった。
大きな勝利ではない。
敵を圧倒したわけでもない。
だが、守った。
イレオンを通さなかった。
アランを診療所へ向かわせた。
その事実が、ミリアの中に新しい芯を作っていた。
外では、銀の笛がなお鳴っている。
その音に呼応するように、町の人々が少しずつ動き始めていた。戸が開く。男たちが水桶を持つ。女たちが子どもを隠し、老人たちが古い祈りの言葉を呟く。
ラウゼンは、怯えている。
だが、完全には屈していない。
ミリアは窓の外を見た。
診療所へ向かうアランの背が見えた。
その銀の髪を、町の人々が見ている。
命じる者としてではない。
守りに来た者として。
ミリアは剣を握り直した。
肩は痛む。
腕も重い。
けれど、胸の奥には不思議な熱があった。
守られるだけの白薔薇ではない。
棘を持つ花として。
銀の守護者が背を向けられる場所を、作るために。
彼女は、もう一度前を向いた。




