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28話 呼び声の町



 ラウゼンの町は、旧街道に寄り添うように広がっていた。


 王都から北西へ半日ほど進んだ先にある、小さな宿場町である。かつては軍用路と商業路が交わる要所として栄えたらしいが、新しい街道が南側に整備されてからは、往来の数もゆるやかに減っていた。


 それでも、町が死んでいるわけではない。


 街道沿いには宿屋が並び、馬を休ませる厩舎もある。鍛冶屋の煙突からは薄く煙が上がり、古い鐘楼が町の中央に影を落としている。路地の奥にはパン屋や仕立屋があり、広場の片隅では旅人相手の露店が布を広げていた。


 ただ、そのすべてが、どこか息を潜めていた。


 宿場町にしては、笑い声が少ない。


 荷馬車の音はする。だが、御者たちの声が低い。店先に立つ者たちは客を呼び込まず、通りを歩く者たちは余所者の顔を一度見て、すぐに目を逸らす。子どもがいないわけではないのに、彼らは広場で走り回らず、母親の裾を握って静かにしていた。


 町全体が、何かを待っている。


 あるいは、何かが過ぎ去るのを祈っている。


 アランはフードを深く被ったまま、ラウゼンの外れにある小高い丘から町を見下ろしていた。


 王都で見る景色とはまるで違う。王都は巨大な生き物のようだった。無数の人と物と情報が流れ、嘘も本音も混ざりながら動き続ける。そこでは黒蛇の気配も、多くの雑音に紛れていた。


 だが、ラウゼンは違う。


 小さな町だからこそ、異物が目立つ。


 黒蛇はすでに入っている。


 それが町の空気を変えている。


「表通りには見張りが三人」


 ゼイドが背後から現れ、低く告げた。


 彼はいつも通り、気配をほとんど持たなかった。草の擦れる音すらなく、影のようにそこに立っている。


「宿屋に二人。診療所近くに一人。管理官庁舎前に二人」


 レムが町を見ながら言う。


「フォルン家は、すでに監視されていますね」


「だろうね」


 アランは町の中央にある管理官庁舎へ視線を向けた。


 石造りの小さな建物だった。王都の行政棟と比べれば、役所というより大きな民家に近い。だが、屋根にはラウゼンの古い紋章が掲げられている。そこには、よく見なければ分からないほど簡略化された狼の意匠があった。


 蒼狼ではない。


 表向きには街道守りの狼として扱われているのだろう。


 だが、アランには分かった。


 その原型は、おそらく蒼狼だ。


 何百年もの年月を経て意味を薄められ、ただの町紋として残ったもの。人々はそれが何を意味しているのか知らないかもしれない。それでも、紋は残っている。


 古い誓約の欠片が、町の屋根にまだ生きている。


 胸の奥で、またあの感覚が揺れた。


 呼ばれている。


 待たれている。


 いや、そう感じてしまう自分自身が不快だった。


 アランは奥歯を噛みしめる。


「アラン様」


 レムの声に、彼は意識を戻した。


「顔色がわずかに悪いです」


「そう?」


「はい」


「ラウゼンの空気が合わないのかもしれない」


「銀の誓約に関する反応ですか」


「かもしれないね」


 アランは軽く言ったが、レムはその軽さを信じなかった。


 彼女は少しだけ目を細める。


「ご無理は」


「しない」


「本当に?」


「最近、その確認をされる側になったな」


「確認しなければ、あなたは無理をなさるので」


「否定しにくい」


 レムはそれ以上責めなかった。


 だが、視線は厳しいままだった。


 アランは町へ向かう道を見た。


「ミリア嬢の視察団は?」


「あと半刻ほどで到着します」


「診療所へ向かうはずだ。彼女が表から入るまでに、診療所周辺の見張りを把握しておきたい」


「すでに二名確認しています」


 ゼイドが短く言った。


「一人は宿屋の二階。一人は薬屋の向かい。どちらも黒蛇の下部構成員。殺気は薄いが、監視に慣れている」


「エレナ・フォルンの監視か」


「おそらく」


「彼女は診療所にいる?」


「今朝から姿を見せている。だが、外には出ていない」


 アランは考え込んだ。


 フォルン家当主イレオンは姿を見せていない。娘のエレナは診療所にいる。黒蛇の監視がついている。ローデン商会の荷馬車は町外れの倉庫へ入った。


 黒蛇が何かを要求していると考えるべきだろう。


 呼応地図の写しか。


 蒼狼の伝令に関する記録か。


 あるいは、銀の呼び声を各地に伝えるための道具。


 昨夜、紙片に書かれていた内容を思い出す。


 呼応地図。


 銀が呼べば、どの家が応じるかを示す地図。


 黒蛇はそれを使って蒼狼の末裔を先に狩るつもりだ。


 その地図が完全に奪われているなら、黒蛇はもう動いているはずだ。だが、ラウゼンへ荷馬車を送り、フォルン家を監視しているということは、まだ何かが足りないのだ。


 足りない欠片。


 フォルン家に残るもの。


「ゼイド。町外れの倉庫を見て。ローデン商会の荷を確認したい。ただし、交戦は避ける」


「承知」


「レムは診療所周辺を。ミリア嬢が到着した時、不自然な接触があればすぐ動けるように」


「はい」


「僕は管理官庁舎を見る」


 レムがすぐに反応した。


「お一人で?」


「一人で、ではないよ。影狼を一人つける」


「アラン様」


「分かってる」


 アランは少しだけ笑った。


「無茶はしない。まだ町に入ったばかりだ。ここで騒ぎを起こせば、ミリア嬢の表の動きまで崩れる」


 レムは数秒、彼を見つめた。


 その後、ようやく頷く。


「承知しました。ただし、異変があれば即座に信号を」


「はいはい」


「一度です」


「はい」


 アランは苦笑しながら、馬を降りた。


 王子としてではなく、旅人として町へ入るためだった。


 フードを深く被り、外套の下に剣を隠す。腰の装飾も外し、靴の留め金も地味なものへ変えている。銀髪さえ見えなければ、王都から来た若い旅人か、護衛を連れた商家の息子に見えるだろう。


 だが、銀髪は完全には隠れない。


 風が吹くたびに、白銀の一房が覗く。


 町の門へ向かう道で、アランは何人かの町民とすれ違った。誰もが一瞬だけ彼を見る。そして、すぐに視線を逸らす。


 恐怖。


 警戒。


 そして、ごく薄い期待。


 それは妙な感覚だった。


 知られているはずがない。


 王都の駄王子アラン・ヴァルタインがここにいるなど、誰も知るはずがない。まして銀の守護者など、今では古い伝承の中の話だ。


 それでも、町の空気が彼に反応しているように感じる。


 アランは自分の感覚を信用しすぎないよう、意識して周囲を見た。


 宿屋の二階。


 窓の影。


 確かに一人いる。


 薬屋の向かい。


 樽を並べる男。


 手の動きが町人ではない。


 鐘楼の下。


 老婆が祈るように立っている。


 彼女は黒蛇ではない。


 だが、アランを見る目が他の町民と違った。


 驚き。


 そして、涙を堪えるような何か。


 アランは通り過ぎる直前、老婆から小さな声を聞いた。


「……銀」


 聞こえなかったふりをした。


 立ち止まってはいけない。


 だが、その一言は胸の中に残った。


 ラウゼンは忘れていないのか。


 少なくとも、誰かは覚えているのか。


 彼は管理官庁舎の近くにある古い井戸のそばで立ち止まった。


 建物の入口には二人の男がいた。町の職員を装っているが、剣を扱う者の立ち方だ。黒蛇か、黒蛇に雇われた者か。どちらにせよ、普通の役人ではない。


 庁舎の窓は閉ざされている。


 だが、二階の奥の部屋だけ、薄く人影が見えた。


 当主イレオン・フォルンか。


 それとも、黒蛇の監視役か。


 アランは井戸の縁に腰をかけ、旅人のように水筒を取り出した。


 同時に、視線だけで周囲を探る。


 町は静かすぎる。


 だが、その静けさの下で、何かが張り詰めている。


 まるで笛の音を待っているように。


 その頃、ミリア・ランバールの視察団は、ラウゼンの南門へ到着していた。


 公爵家の紋章を掲げた馬車が町へ入ると、町民たちは一斉に頭を下げた。表向きには礼儀正しい歓迎だった。だが、ミリアは窓越しにその顔を見て、すぐに違和感を覚えた。


 誰も、心から驚いていない。


 公爵家の視察団など、小さな宿場町にとっては大きな出来事のはずだ。好奇心を持つ者、緊張する者、媚びる者、警戒する者。さまざまな反応があっていい。


 けれど、ラウゼンの人々は、どこか覚悟しているように見えた。


 来るべきものが来た。


 そんな顔だった。


 馬車が管理官補佐を名乗る男の前で止まる。


 男は四十代ほどで、細い体つきだった。書類仕事をする者らしい指をしているが、額には汗が浮かんでいる。緊張している。いや、怯えている。


「ランバール公爵家のご視察、心より歓迎申し上げます」


 男は深々と頭を下げた。


 ミリアは馬車を降りる。


 旅装とはいえ、立ち姿には公爵令嬢としての品格があった。金髪は青いリボンでまとめられ、白と青を基調とした上着は実用的でありながら上質だ。彼女が降り立っただけで、町の空気が少し変わった。


「急な訪問にもかかわらず、お迎えいただき感謝いたします」


 ミリアは穏やかに答えた。


「王都での火災未遂を受け、街道沿いの慈善物資と防火状況を確認するため参りました。ラウゼンには救貧所と診療所があると伺っております」


「は、はい。どちらも町の者で管理しております」


「まずは診療所を拝見してもよろしいでしょうか。薬草と包帯をいくつか持参しております」


 男の目が一瞬だけ揺れた。


 診療所。


 そこに反応した。


「診療所、でございますか」


「何か不都合が?」


「い、いえ。ですが、先に庁舎で町の概況をご説明するのがよろしいかと」


 明らかに避けている。


 ミリアは微笑みを崩さない。


「もちろん、それも大切です。ですが、薬草は長く馬車に置くと状態が落ちるものもございます。先に届けてしまいたいのです」


「しかし」


「町の方々に必要な品でしょう?」


 柔らかい声だった。


 だが、拒みにくい。


 管理官補佐の男は言葉に詰まった。


 彼の後ろ、通りの向こうで、薬屋のそばに立っていた男がわずかに動く。黒蛇の監視役だろう。ミリアはそれに気づきながらも、視線を向けなかった。


 こちらが気づいていることを悟らせてはいけない。


 彼女は穏やかに続けた。


「それに、ラウゼンの診療所は旧街道を行き交う旅人も利用すると聞いております。街道防火と慈善支援の確認には、まず医療と避難の状況を見ることが必要です」


 貴族令嬢としての言葉。


 慈善視察としての正当性。


 王太子府からの後押し。


 管理官補佐はついに折れた。


「……承知いたしました。ご案内いたします」


「ありがとうございます」


 ミリアは軽く頷いた。


 彼女の護衛たちが自然に隊列を整える。馬車は広場の端へ移動し、物資を積んだ荷馬車が診療所へ向かう準備を始めた。


 その動きの中で、ミリアは町を見た。


 窓の陰。


 路地の奥。


 井戸のそば。


 そこに、フードを被った若い旅人がいた。


 一瞬だけ、銀色が覗いた気がした。


 アラン。


 彼は何も合図しなかった。


 ミリアも視線を留めなかった。


 けれど、彼がいることが分かっただけで、胸の奥が少しだけ落ち着いた。


 自分は表から入る。


 彼は影から見ている。


 別々の道で、同じ町を見ている。


 ミリアは前を向き、診療所へ歩き出した。


 ラウゼンの診療所は、古い木造の建物だった。


 入口には薬草を乾かす棚があり、窓辺には小さな鉢植えが並んでいる。清潔ではあるが、設備は簡素だ。王都の施療院とは比べものにならない。それでも、町の人々にとっては大切な場所なのだろう。建物の周囲には、手入れされた花壇と水桶が置かれていた。


 入口で待っていたのは、一人の若い女性だった。


 淡い栗色の髪を後ろで束ね、白い前掛けをつけている。顔には疲労が見えるが、背筋は伸びていた。青灰色の瞳には、強い光がある。


 エレナ・フォルン。


 ミリアは資料で見た名を思い出した。


 フォルン家当主イレオンの娘。


 町の診療所を手伝う者。


 そして、おそらく蒼狼軍の伝令役の末裔。


 エレナはミリアに深く頭を下げた。


「ようこそお越しくださいました。ラウゼン診療所のエレナ・フォルンです」


「ミリア・ランバールです。急な訪問にもかかわらず、お迎えいただきありがとうございます」


 ミリアは丁寧に返す。


 エレナは顔を上げた。


 二人の視線が合う。


 その瞬間、ミリアは感じた。


 この人は何かを知っている。


 怯えている。


 けれど、折れてはいない。


 エレナの視線は、一瞬だけミリアの背後へ向いた。


 町の広場。


 井戸の近く。


 フードを被った旅人。


 彼女も気づいている。


 エレナはアランの存在を、いや、銀の気配を感じ取っているのかもしれない。


 ミリアは表情を変えなかった。


「薬草と包帯をお持ちしました。旅人の多い町では、常に必要になるかと思いまして」


「ありがとうございます。こちらへ」


 エレナは診療所の中へ案内した。


 室内には薬草の匂いが漂っていた。壁際には木製の棚が並び、瓶や布、包帯、簡素な医療器具が整えられている。奥には二つの寝台。今は誰も寝ていない。


 ミリアは持参した物資を確認しながら、さりげなく室内を見た。


 棚の上。


 扉の位置。


 裏口。


 窓の外。


 逃げ道。


 レムに教わった通り、まずは足場を見る。


 エレナは薬草の箱を受け取りながら、低い声で言った。


「ランバール様」


「はい」


「この町に長く留まるのは危険です」


 あまりにも率直な言葉だった。


 ミリアは目を上げる。


 エレナの顔は静かだ。


 だが、その指はわずかに震えていた。


「どういう意味でしょうか」


 ミリアは同じく低い声で返す。


「黒い馬車が昨夜、父の元へ来ました」


「お父様は」


「庁舎にいます。ですが、自由ではありません」


 ミリアの胸が冷える。


 やはり、フォルン家は押さえられている。


「何を要求されているのですか」


 エレナは答えようとして、口を閉ざした。


 窓の外に気配がある。


 監視。


 ミリアも気づいた。


 診療所の向かい、薬屋の軒下に男がいる。こちらを見ているわけではないが、耳を澄ませている可能性がある。


 ミリアは声を変えた。


「こちらの薬草は、湿気に弱いものです。保管にはお気をつけください」


 エレナは一瞬遅れて、会話を合わせた。


「はい。乾燥棚を使います」


「棚の位置を確認しても?」


「こちらです」


 二人は棚へ移動する。


 棚の裏は窓から死角になっていた。


 そこでエレナは、袖口から小さなものを取り出した。


 銀の笛。


 古びているが、丁寧に磨かれている。


 ミリアは息を呑んだ。


「これは」


「フォルン家に伝わるものです」


 エレナの声は震えていた。


「父は、これを渡すなと言いました。誰にも渡すなと。けれど、昨夜来た者たちは、これを探しています」


「黒蛇が」


「はい」


 エレナは笛を握りしめる。


「彼らは父に、呼応地図の写しと、伝令笛を出せと言いました。出さなければ町に火を放つと」


 ミリアは胸の奥で怒りが灯るのを感じた。


 また火。


 また人質。


 また選ばせる。


 黒蛇は同じことを繰り返す。


 守る者の心を踏みにじり、選択を強いる。


「お父様は渡したのですか」


「地図の一部は、奪われました。けれど、完全なものではありません。父は最後の写しを隠しています」


「どこに」


 エレナは答えなかった。


 代わりに、ミリアを見つめた。


「あなたは、銀の方と共に来たのですね」


 ミリアはほんのわずかに表情を動かした。


 エレナは続ける。


「町の者は、皆が知っているわけではありません。でも、フォルン家は覚えています。銀の髪が来る時、笛は鳴る。そう伝えられてきました」


 ミリアは静かに言った。


「その方は、あなた方を道具として扱う方ではありません」


「分かります」


「なぜですか」


「まだ名乗っていないからです」


 エレナの目に、かすかな涙が浮かんだ。


「本当に誓約を利用するだけの方なら、町へ入る前に名乗っていたはずです。銀の守護者だと。従えと。でも、あの方は隠れている。私たちがまだ普通の町として生きていることを、壊さないようにしている」


 ミリアは、言葉を失った。


 エレナはアランを知らない。


 それでも、彼の在り方の一部を見抜いている。


 銀の守護者としてではなく、まず人として、町を見ようとしていることを。


 ミリアの胸に、静かな誇らしさが生まれた。


「はい」


 彼女は答えた。


「あの方は、そういう方です」


 その時、外で小さな物音がした。


 薬屋の軒下にいた男が、診療所へ近づいている。


 エレナの表情が強張る。


 ミリアはすぐに笛を彼女の手へ戻した。


「隠してください」


「でも」


「まだ渡してはいけません。黒蛇も見ています。今は、あなたが持っていた方が自然です」


 ミリアは声を落とした。


「必ず守ります」


 エレナは一瞬だけ彼女を見た。


 そして、深く頷いた。


 笛を服の内側へ隠す。


 次の瞬間、診療所の扉が開いた。


 男が入ってきた。


 町人の服を着ているが、目は明らかにこちらを探っている。


「エレナさん。何かお困りでも?」


 男は笑っていた。


 エレナは顔を伏せかける。


 だが、その前にミリアが振り向いた。


 公爵令嬢としての、隙のない微笑み。


「ちょうどよかったです」


 男は一瞬、戸惑った。


「え?」


「こちらの診療所では、薬草の保管棚が少し足りないようです。街道沿いの町では旅人の怪我も多いでしょう。あなたは町の方ですね? 管理官庁舎へ追加棚の手配をお願いできますか」


「い、いや、私は」


「町の方ではないのですか?」


 ミリアの声は柔らかい。


 だが、男は答えに詰まった。


 自分が監視役である以上、町の者ではないと認めるわけにはいかない。かといって、町の者だと言えば公爵令嬢の頼みを拒みにくい。


「……町の者です」


「では、お願いします。ランバール家からの慈善支援として記録しておきますので、お名前を」


 男の顔がわずかに歪む。


 名を出せない。


 だが、逃げれば怪しまれる。


 ミリアは静かに紙を取り出した。


「お名前を伺っても?」


 その時、外から護衛騎士が入ってきた。


「お嬢様。庁舎より使いが参りました」


 ミリアは男から視線を外し、護衛へ頷いた。


「分かりました。では、この方に棚の件をお願いしておいてください」


「承知しました」


 護衛騎士が男の前に立つ。


 男は舌打ちしそうな顔をしたが、できなかった。


 診療所内の空気が、わずかにミリア側へ傾く。


 エレナが小さく息を吐いた。


 ミリアは何事もなかったかのように微笑む。


「エレナさん。後ほどもう一度、薬草の保管について確認させてください」


「はい」


 その返事には、先ほどより少しだけ力があった。


 診療所を出たミリアは、表向きには庁舎へ向かうことになった。


 管理官補佐の男が迎えに立っている。


 町民たちは遠巻きに見ていた。


 その中で、ミリアは井戸のそばにいた旅人が、すでに姿を消していることに気づいた。


 アランが動いた。


 おそらく、エレナとの会話の一部を察したのだろう。


 彼は影からフォルン家当主のいる庁舎へ向かうはずだ。


 自分は表から向かう。


 同じ場所へ。


 ミリアは背筋を伸ばした。


 ラウゼンの空気は重い。


 黒蛇の監視もある。


 だが、町は完全には折れていない。


 エレナの手には銀の笛がある。


 フォルン家は、まだ何かを守っている。


 ならば、守る意味はある。


 ミリアは庁舎へ向かって歩き出した。


 その少し前。


 アランは管理官庁舎の裏口へ回り込んでいた。


 表から入るミリアとは違い、彼は影から中へ入る。裏口には鍵がかかっていたが、古い造りだ。王城の隠し扉に比べれば、開けるのは難しくない。


 同行していた影狼の一人が音もなく鍵を外す。


 中は薄暗かった。


 書類棚が並び、古いインクの匂いがする。庁舎というより、小さな記録庫に近い。壁にはラウゼンの古い地図が掛けられていた。


 アランはそれを一瞥し、すぐに足を止めた。


 地図の端に、狼の爪跡のような印がある。


 蒼狼の簡略紋。


 隠しているようで、隠しきれていない。


 いや、隠すというより、忘れられることを前提に残されているのかもしれない。


 誰も意味を知らなくなれば、紋はただの飾りになる。


 だが、知る者が見れば分かる。


 アランは奥の階段を上がった。


 二階の部屋から、声が聞こえる。


 低い男の声。


「いつまで黙っているつもりだ、イレオン・フォルン」


 別の声が答えた。


 弱っているが、芯がある。


「知らぬものは渡せん」


「強情だな。お前の娘は診療所にいる。町の者たちもいる。火を見たことがないわけではあるまい」


「ラウゼンは火に弱い。だからこそ、お前たちは火を使う」


「分かっているなら話せ」


「だから、知らぬと言っている」


 アランは扉の前で止まった。


 中にいるのは二人。


 一人はフォルン家当主イレオン。


 もう一人は黒蛇の使い。


 護衛は廊下にいない。おそらく表を押さえているのだろう。


 アランは扉の隙間から中を見た。


 椅子に座らされている初老の男がいた。灰色の髪、痩せた顔、背筋だけはまっすぐ。腕は縛られていないが、疲労が濃い。顔には殴られた痕がある。


 その前に立つ黒衣の男は、手に細い杖型の魔道具を持っていた。


「呼応地図の最後の写しはどこだ」


「燃えた」


「嘘だ」


「では、探せばよい」


「もう探した」


「なら、ないのだろう」


 イレオンは静かに言った。


 黒衣の男が杖を振り上げる。


 その瞬間、アランが扉を開けた。


 音は小さかった。


 だが、部屋の空気が変わった。


 黒衣の男が振り返る。


「誰だ」


 アランはフードを被ったまま、軽く手を上げた。


「通りすがりの旅人」


 黒衣の男はすぐに杖を向ける。


「ここは立入禁止だ」


「そうみたいだね。道に迷って」


「死ね」


 魔道具が光る。


 だが、発動する前にアランの剣が走った。


 杖が根元から斬られ、床へ落ちる。


 男の目が見開かれる。


 次の瞬間、アランの膝が男の腹へ入り、続いて柄頭が首筋を打つ。男は声も出せずに崩れた。


 殺さない。


 情報源だ。


 アランは倒れた男を影狼に任せ、イレオンへ向き直った。


「イレオン・フォルン殿ですね」


 イレオンは彼を見ていた。


 フードの奥から覗く銀の髪。


 青い瞳。


 その瞬間、老人の顔が変わった。


 驚きではない。


 長い年月待っていたものに、ついに出会ってしまった者の顔だった。


 イレオンはゆっくりと立ち上がろうとした。


 だが、足元がふらつく。


 アランはすぐに支えた。


「無理をしないでください」


 その声を聞いたイレオンの目に、薄く涙が浮かんだ。


「……銀の御方」


 アランは表情を引き締める。


「その呼び方はやめてください」


「ですが」


「僕は、あなたに従えと言いに来たのではありません」


 イレオンは動きを止めた。


 アランは彼を支えながら、静かに言った。


「黒蛇があなた方を狙っている。だから守りに来ました」


 イレオンは何かを言おうとして、声を詰まらせた。


「守りに……」


「ええ」


「呼びに来たのではなく」


「まだ、僕は誰も呼ぶつもりはありません」


 アランの声には、揺るがない意志があった。


「あなた方は今、ラウゼンの民です。町の管理官であり、診療所を守る家族です。古い誓約があるとしても、その前に王国の民です」


 それは、ルイから受け取った言葉だった。


 自分一人では、こうは言えなかったかもしれない。


 アランは続けた。


「だから、まず守ります。誓約の話は、その後です」


 イレオンはしばらくアランを見つめていた。


 そして、深く頭を下げた。


「……あなたは、王にはならぬ方なのですね」


 アランは少しだけ苦笑した。


「よく言われます」


「ですが、王を守る方だ」


 その言葉に、アランは答えなかった。


 否定もできなかった。


 その時、階下から足音が聞こえた。


 複数。


 表から、ミリアが入ってきたのだろう。


 同時に、黒蛇の者たちも動き出した気配がある。


 アランは剣を握り直した。


「イレオン殿。呼応地図の写しは、本当に残っていますか」


 イレオンは静かに頷いた。


「残っています。ただし、地図ではありません」


「どういう意味ですか」


 老人は胸元から、小さな木札を取り出した。


 古い文字が刻まれている。


 それは地図というより、暗号だった。


「地図は紙では残さぬ。奪われるからです。呼応する家々の名は、道と歌と笛の音に隠されている」


 アランの目が細くなる。


「歌と笛」


「フォルン家は伝令役。地図を持つ家ではなく、地図を“鳴らす”家なのです」


 その瞬間、階下で大きな音がした。


 黒蛇が動いた。


 アランはイレオンを影狼に預け、扉へ向かう。


「詳しい話は後で聞きます」


「銀の御方」


 イレオンが呼び止めた。


 アランは振り返る。


「娘を」


「守ります」


 短く答え、アランは廊下へ走った。


 同じ頃、庁舎の一階では、ミリアが黒蛇の男たちと対峙していた。


 彼女の前には護衛騎士が立っている。


 だが、黒蛇の人数は多い。


 表向きには町の職員や旅人に扮していた者たちが、一斉に正体を現したのだ。


 管理官補佐の男は震えながら壁際に下がっている。


 ミリアは庁舎の入口近くに立ち、冷静に周囲を見た。


 出口。


 窓。


 護衛の位置。


 敵の手元。


 レムの教えが頭の中で動く。


 敵を倒そうとするな。


 最初の一撃を避ける。


 時間を稼ぐ。


 立ち続ける。


 黒蛇の一人が笑った。


「公爵令嬢がこんなところまで来るとはな」


 ミリアは答えない。


 彼女は恐怖を感じていた。


 足がすくみそうだった。


 だが、呼吸を整える。


 怒りを握り潰さない。


 恐怖も消そうとしない。


 ただ、構える。


 男が一歩踏み出した。


「大人しくしてもらおう。お前は銀の王子を呼ぶ餌になる」


 その言葉に、胸の奥で怒りが燃えた。


 餌。


 鍵。


 弱点。


 また、誰かが自分をアランを縛る道具として扱う。


 ミリアはゆっくりと顔を上げた。


「お断りいたします」


 声は震えなかった。


 男の目が細くなる。


「何?」


「私は、誰かを縛る鎖になるためにここへ来たのではありません」


 ミリアは一歩も下がらなかった。


「この町を確認し、必要な支援を届けるために参りました。あなた方の都合で、私の役目を変えないでいただけますか」


 場違いなほど丁寧な言葉だった。


 だが、その奥には確かな刃があった。


 男が苛立ち、手を伸ばす。


 ミリアの腕を掴もうとした。


 その瞬間。


 ミリアは動いた。


 レムに教わった通り、力で引かない。


 手首を返し、身体を沈め、相手の重心の外へ出る。


 男の手が空を切った。


 ミリアは半歩横へ抜ける。


 完全に逃げ切れたわけではない。


 だが、一瞬の時間が生まれた。


 護衛騎士が間へ入る。


 剣が抜かれる。


 黒蛇の男の表情が変わった。


「この女……!」


 その時、階段から銀の影が降りた。


 アランだった。


 フードが外れ、銀髪が露わになる。


 庁舎内の空気が、一瞬止まった。


 黒蛇の者たちが息を呑む。


 管理官補佐が膝から崩れそうになる。


 そしてミリアは、ほんの少しだけ安堵した。


 だが、すぐに胸を張った。


 助けを待っていたわけではない。


 時間を稼いだ。


 立っていた。


 それだけでも、以前とは違う。


 アランはその姿を一瞬だけ見た。


 そして、わずかに目を見開く。


「避けたのか」


 ミリアは息を整えながら答えた。


「まだ、立っていられます」


 アランの表情が変わった。


 驚き。


 安堵。


 そして、静かな誇り。


「上出来だ」


 その一言だけで、ミリアの胸に熱が灯った。


 だが、戦いはまだ終わっていない。


 黒蛇の男たちが剣を抜く。


 庁舎の外でも騒ぎが起きている。


 診療所の方角から、エレナの叫び声が聞こえた。


 アランの目が鋭くなる。


「レム!」


 外からレムの声が返る。


「診療所へ向かいます!」


 黒蛇は二手に分かれていた。


 庁舎でアランとミリアを足止めし、その間にエレナと銀の笛を奪うつもりだ。


 アランは即座に判断した。


「ミリア嬢、ここは護衛と影狼に任せて下がって」


「エレナさんは」


「レムが行く」


「私も」


 言いかけたミリアに、アランが強く視線を向けた。


 以前なら、ただ危険だから駄目だと言っただろう。


 だが今は違う。


「君には、ここでイレオン殿を守ってほしい」


 ミリアは息を呑んだ。


 守られるためではない。


 役目として言われた。


「イレオン殿は呼応地図の仕組みを知っている。彼が黒蛇に奪われれば終わる。君は公爵家の名で、この場を抑えられる。できる?」


 ミリアは迷わなかった。


「できます」


 アランは頷いた。


「頼む」


 その言葉を残し、彼は黒蛇の前へ踏み込んだ。


 銀の剣が走る。


 庁舎の狭い室内で、アランの動きはまるで風だった。敵を斬り殺さず、武器を弾き、腕を打ち、足を崩す。黒蛇の者たちは訓練されていたが、相手が悪すぎた。


 駄王子など、どこにもいない。


 そこにいるのは、王国の影を統べる第二王子だった。


 ミリアは護衛に守られながら、階段の上から降ろされてきたイレオンを見つけた。


 老人は疲労で立つのも難しい様子だった。


 彼女はすぐに駆け寄る。


「イレオン様ですね。ミリア・ランバールです」


 イレオンは彼女を見る。


 その目には驚きがあった。


「ランバール……公爵家の」


「はい。あなたを保護します」


「娘は」


「レムさんが向かっています。必ず守ります」


 イレオンは目を閉じた。


「……銀の御方は、良き者たちと共におられる」


 ミリアは一瞬だけ言葉を失った。


 そして、静かに答えた。


「はい。ですが、あの方は一人で背負おうとなさるので、私たちが止めなければなりません」


 イレオンは、こんな状況にもかかわらず、かすかに笑った。


「それは、大変な役目ですな」


「ええ」


 ミリアも小さく頷いた。


「ですが、必要な役目です」


 その時、診療所の方角から銀の笛の音が響いた。


 澄んだ、細い音。


 しかし、不思議なほど遠くまで届く音だった。


 ラウゼンの町が、一瞬静まり返る。


 町民たちが顔を上げる。


 老婆が膝をつく。


 鍛冶屋が槌を落とす。


 宿屋の主人が扉から飛び出す。


 その音は、ただの笛ではなかった。


 古い記憶を呼び覚ます音。


 忘れられていた誓いを、胸の奥から揺り起こす音。


 イレオンが震える声で言った。


「エレナが……吹いた」


 ミリアは窓の外を見た。


 診療所の屋根の上。


 そこに、エレナが立っていた。


 手には銀の笛。


 周囲には黒蛇の者たち。


 だが、彼女は逃げていない。


 笛を吹いている。


 その音に反応するように、ラウゼンの町のあちこちで人々が動き始めた。


 ただ怯えていた町ではない。


 古い誓約を完全には忘れていなかった町。


 眠っていた蒼狼の記憶が、笛の音で目を覚まし始めている。


 アランもその音を聞いた。


 剣を止めずに、しかし目だけが窓の外へ向く。


 胸の奥で、銀の髪が熱を持つような感覚があった。


 呼び声。


 これは、自分が呼んだものではない。


 エレナが鳴らした。


 フォルン家が守ってきた音。


 町が覚えていた誓い。


 アランは息を吸った。


 そして、初めてラウゼンの町に向かって、フードを完全に外した。


 銀の髪が光を受けて輝く。


 黒蛇の者たちが動きを止める。


 町民たちが息を呑む。


 アランは剣を構えたまま、静かに言った。


「僕は命じに来たのではない」


 その声は大きくはなかった。


 だが、笛の音の余韻の中で、不思議と町に届いた。


「守りに来た」


 ラウゼンの空気が変わる。


 蒼狼の誓約は、まだ完全には目覚めていない。


 だが、その最初の音は確かに鳴った。


 旧街道の小さな宿場町で。


 銀の守護者と白薔薇が初めて王都の外で交差したその日。


 眠っていた古の軍の影が、静かに息を吹き返し始めていた。

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