27話 ラウゼンの影
王都を離れると、空の広さが変わった。
高くそびえる王城の塔も、貴族街の整った屋根並みも、商業区の賑わいも、少しずつ背後へ遠ざかっていく。代わりに広がるのは、朝露を含んだ草原と、緩やかな丘陵、そして旧街道に沿って続く背の低い石垣だった。
アラン・ヴァルタインは、黒馬の背で前方を見ていた。
王都にいるはずの第二王子。
駄王子として、今日も王城のどこかで気ままに過ごしているはずの男。
だが実際には、彼はすでに王都を抜け、旧街道を北西へ進んでいる。
黒い外套は旅用に替えられ、胸元の王家紋章も隠してある。銀の髪は目立つため、深いフードで半ば覆っていた。それでも、風が吹けば月光のような色がちらりと覗く。
そのたびに、アランはほんの少しだけ不快そうに目を細めた。
銀の髪。
夜を守る者。
古の軍に応じられる者。
ラウゼンへ近づくほど、その言葉が重くなる気がした。
隣にはレムがいる。
黒い旅装に身を包み、馬上でも姿勢に一切の乱れがない。侍女として王城にいる時とは違い、今の彼女は完全に影狼副官としての顔をしていた。
さらに少し後方には、影狼の精鋭が三名。
いずれも目立たない装いをしている。商人、旅人、護衛くずれ。それぞれ違う立場に見えるが、動きには無駄がない。彼らは影狼二百名の中でも、外地調査に慣れた者たちだった。
「王都から三刻ほど離れました」
レムが静かに言った。
「この先、旧街道は二手に分かれます。表の道はラウゼンへ。脇道は旧軍用路へ続きます」
「黒蛇が使うなら脇道だろうね」
「はい。ただし、ローデン商会の荷馬車は表道を通った記録があります」
「表を通れる理由があるということか」
アランは前方の道を見た。
旧街道は、今では商人や巡礼者が使う程度の道だ。かつては軍用の補給路として整備されていたらしいが、時代が移り、新しい街道が南側に作られると重要度は下がった。宿場町ラウゼンも、今は大きな交易地ではない。
だからこそ、隠れるには向いている。
目立たず、しかし完全に廃れてはいない。荷馬車が通っても不自然ではなく、外部の人間が滞在しても怪しまれにくい。古い記録を守る家が潜むにも、黒蛇が牙を伸ばすにも都合がよかった。
アランは手綱を軽く引いた。
「ゼイドからの連絡は?」
「夜明け前に一度。ラウゼン周辺に黒蛇の明確な拠点は確認できていません。ただし、ローデン商会の荷馬車は町外れの倉庫に入ったとのことです」
「フォルン家は」
「町の管理官として健在です。当主はイレオン・フォルン。年齢は五十代。妻は病没。娘が一人。名はエレナ」
「娘」
「はい。町の診療所を手伝っているようです」
アランは少しだけ考え込んだ。
管理官の家。
診療所。
宿場町。
黒蛇がそこに近づくなら、金や武力だけではない。薬、病、旅人、物資。小さな町には小さな町の弱みがある。
「フォルン家は蒼狼の誓約を覚えていると思う?」
アランが問うと、レムは一度だけ視線を彼へ向けた。
「覚えている可能性はあります。ですが、忘れている可能性も同じほどあります」
「兄上も同じようなことを言っていた」
「ルイ殿下らしいお言葉です」
「忘れて生きられる時代があったなら、それは悪いことではない、と」
レムは静かに頷いた。
「その通りだと思います」
「君もそう思う?」
「はい」
レムの声は迷わなかった。
「誓約を覚えているから守るのではありません。王国の民だから守る。ルイ殿下のお考えは、正しいかと」
アランは小さく笑った。
「僕の周りは兄上派が多い」
「アラン様もルイ殿下派でしょう」
「それはそう」
「では問題ありません」
相変わらず淡々とした返答だった。
アランは少しだけ肩の力を抜いた。
だが、すぐに前方へ視線を戻す。
森の入口。
旧街道はそこから細くなる。左右に背の高い木々が増え、視界が狭くなる。襲撃には向いた場所だ。
レムも同時に気づいた。
「警戒を」
後方の影狼たちが静かに隊形を変える。
馬の歩調がわずかに落ちた。
その時、道端に倒れた荷車が見えた。
車輪が外れ、木箱がいくつか散らばっている。近くには老人と若い娘がしゃがみ込んでいた。旅人か、商人か。老人は足を押さえており、娘は困ったように周囲を見回している。
あまりに分かりやすい。
アランは内心でため息をついた。
「助ける?」
彼が小さく言うと、レムは淡々と答えた。
「罠です」
「だよね」
「ですが、放置して進めば後方から挟まれる可能性があります」
「つまり、罠と知って踏む」
「はい」
「旅は楽しいな」
アランは軽く馬を進めた。
レムは無言で細剣の位置を確認する。
倒れた荷車へ近づくと、娘がぱっと顔を上げた。
「す、すみません! 車輪が外れてしまって……祖父が足を痛めてしまいました」
旅人を装うには悪くない演技だった。
だが、手が綺麗すぎる。
荷車を押す者の手ではない。
それに、老人の呼吸が整いすぎている。足を痛めたふりをしているが、体重の逃がし方が武人に近い。
アランはフードの下で笑った。
「それは大変だ。僕たちで手伝おう」
彼は馬から降りる。
その瞬間。
森の中から弩の矢が飛んだ。
狙いはアランの胸。
しかし、アランはすでに半歩ずれていた。
矢は外套を掠め、背後の木へ突き刺さる。
同時に、老人が跳ね起きた。
足を痛めたはずの男は、短剣を抜いてアランへ迫る。
娘も袖から細い刃を出した。
だが、二人の刃は届かなかった。
老人の短剣は、アランの鞘で弾かれた。
娘の刃は、レムの細剣によって手元ごと封じられた。
金属音。
木の葉が揺れる。
森から黒衣の男たちが飛び出してくる。
数は六。
多くはない。
だが、全員が訓練されている。
黒蛇の実働部隊。
「やっぱり歓迎されてるね」
アランは剣を抜きながら言った。
老人に扮していた男が舌打ちする。
「銀髪は隠しても匂う」
「失礼だな。ちゃんと旅用の香油はつけてきたのに」
「ふざけるな!」
男が踏み込む。
アランの剣が走った。
速い。
一撃で男の短剣を弾き、二撃目で肩を打ち、三撃目で膝を崩す。斬り殺さない。情報を取るためだ。
レムもまた、娘に扮した刺客を一瞬で制圧していた。
影狼の精鋭たちは森から出た敵へ散る。
静かな戦闘。
叫びは少ない。
刃の音と、踏み込む足音だけが森の中に響く。
黒蛇の一人が逃げようとする。
だが、木の上から影が落ちた。
ゼイドだった。
いつからそこにいたのか。
アランでさえ、気配を完全には掴めていなかった。
ゼイドは逃走者の首筋へ短剣を当て、無言で地面へ沈めた。
「ゼイド」
「先行していた」
「知ってる。もう少し早く出てきてもよかったんじゃない?」
「不要と判断した」
「信頼されているのか、放置されているのか悩むね」
ゼイドは答えなかった。
戦闘はすぐに終わった。
黒蛇の刺客は全員拘束。
死者は出していない。
アランは老人に扮した男の前にしゃがみ込んだ。
「誰の命令?」
男は答えない。
アランは微笑む。
「口を割らないのは構わないけど、奥歯の毒はもう抜いてあるよ。影狼も最近、君たちの作法に慣れてきた」
男の顔がわずかに歪んだ。
ゼイドがいつの間にか毒を抜いていたらしい。
アランは続ける。
「ラウゼンへ向かう銀髪を止めろと言われた?」
沈黙。
「それとも、遅らせろ?」
男の瞳が一瞬だけ揺れた。
遅らせる。
アランはその反応を見逃さなかった。
「なるほど。僕を足止めしたいんだね」
彼は立ち上がる。
「レム」
「はい」
「ミリア嬢の視察団へ連絡。街道上に黒蛇の足止めあり。予定通り進むが、警戒を一段上げるように」
「承知しました」
「それと、ガイルに伝えて。脇道側を潰していい」
レムが一瞬だけ目を上げた。
「よろしいのですか」
「彼の出番だ。どうせ退屈している」
「被害範囲は」
「木はなるべく守るように」
「それは難しいかと」
「知ってる」
アランは再び馬に乗った。
森の奥、ラウゼンへ続く道が静かに伸びている。
黒蛇はアランを殺すつもりではなかった。
遅らせるつもりだった。
ならば、本命はすでにラウゼンで動いている。
彼は手綱を握り直した。
「急ごう」
一方、ランバール公爵家の視察団は、王都を出て旧街道を進んでいた。
表向きには慈善視察であるため、隊列は堂々としている。
先頭には公爵家の護衛騎士。中央にミリアの馬車。後方には物資を積んだ荷馬車。衣類、保存食、薬草、毛布。どれも街道沿いの救貧院や宿場町へ届けるためのものだった。
馬車の窓から、ミリアは外を見ていた。
王都の外へ出るのは初めてではない。
だが、今までとは見え方が違う。
以前は、街道の景色を美しいと思った。緑の丘、遠くの森、空の広さ、行き交う人々。公爵令嬢としての外出には常に護衛があり、危険は遠いものだった。
今は違う。
道の曲がり方。
森の影。
荷車の位置。
通行人の手元。
逃げ込める場所。
視界を遮る木立。
それらを自然と見るようになっている。
レムの訓練の成果だろう。
ミリアは膝の上で手を握った。
自分は強くなったわけではない。
けれど、以前よりは見えている。
それだけでも、意味がある。
向かいに座る侍女が、少し緊張した顔をしていた。彼女も今回の旅がただの視察ではないと薄々感じているのだろう。だが、詳細は知らされていない。
ミリアは柔らかく声をかけた。
「大丈夫です。護衛もいますし、王太子府からの確認も通っています」
「はい、お嬢様」
侍女は少し落ち着いたように頷いた。
その時、馬車の外から護衛騎士の声がした。
「お嬢様。影狼より連絡です」
窓越しに小さな筒が渡される。
ミリアは封を開いた。
『街道上に黒蛇の足止めあり。アラン殿下、無事。視察団は予定通り進行。ただし警戒を一段上げること』
無事。
まずその二文字を見て、ミリアは小さく息を吐いた。
そしてすぐに表情を引き締める。
足止め。
つまり、黒蛇はアランをラウゼンへ行かせたくない。
あるいは、遅らせたい。
なら、ラウゼンではすでに何かが始まっている。
「隊列を詰めすぎないように伝えてください」
ミリアは護衛に言った。
「万が一襲撃があった場合、荷馬車を盾にするのではなく、道の広い場所まで進んでください。森の入口では止まらないように」
「承知しました」
「それと、街道脇に倒れた荷車や怪我人がいても、私の馬車は止めないでください。護衛だけを先に向かわせ、確認を」
護衛騎士は一瞬だけ驚いたように見たが、すぐに頷いた。
「承知しました」
ミリアは窓を閉じた。
自分の判断が正しいかは分からない。
だが、何も考えずに動くよりはいい。
レムならどうするか。
アランなら何を見るか。
そう考えることで、少しずつ道が見える。
馬車は旧街道を進む。
やがて、小さな村を通り過ぎた。
村人たちは公爵家の紋を見て頭を下げる。子どもたちが珍しそうに馬車を見ていた。ミリアは窓越しに微笑み返す。
その子どもたちの姿を見て、胸が締めつけられた。
黒蛇が狙う蒼狼の末裔も、こうした人々の中にいるのかもしれない。
誓約など知らず、ただ日々を生きている者たち。
それを、古い地図に名があるというだけで狩ろうとしている。
許せない。
怒りが胸に灯る。
けれど、その怒りは彼女を乱さない。
地図を見る力に変える。
守るための力に変える。
ミリアは鞄からラウゼンの資料を取り出した。
フォルン家。
宿場町管理官。
診療所を手伝う娘、エレナ。
慈善視察で自然に接触できるとしたら、診療所だ。
薬草の寄付を理由に訪ねることができる。
そこで、まず町の様子を見る。
フォルン家が何を知っているかを探る前に、黒蛇がどこまで入り込んでいるかを見なければならない。
ミリアは紙に短く書き込んだ。
診療所。
薬草。
旅人の数。
ローデン商会の荷。
宿場記録。
フォルン家の反応。
その文字は、以前より迷いが少なかった。
昼過ぎ。
アランたちはラウゼン近くの丘に到着した。
そこからは町全体が見渡せる。
ラウゼンは大きな町ではない。
旧街道沿いに宿屋や厩舎、食堂、診療所、管理官庁舎が並び、その周囲に民家が広がっている。町の奥には古い鐘楼があり、さらに北へ進めば山岳領へ続く道が見える。
表面上は、静かな宿場町だった。
だが、アランにはすぐに違和感が分かった。
旅人が少なすぎる。
旧街道とはいえ、この時間なら荷馬車や巡礼者がもう少しいてもいい。宿場町にしては通りが静かすぎる。店は開いているが、人の声が少ない。まるで町全体が、何かを恐れて息を潜めているようだった。
「黒蛇が来ているね」
アランが言う。
レムも頷く。
「はい。町が緊張しています」
ゼイドが影から現れた。
「報告」
「聞こう」
「ローデン商会の荷馬車は町外れの倉庫に入った。中身は未確認。フォルン家の屋敷には昨夜、黒い馬車が一台入っている」
「出た?」
「出ていない」
「フォルン家は無事か」
「当主イレオンの姿は確認できず。娘エレナは診療所に出入りしている。ただし監視がついている」
アランの目が細くなる。
つまり、フォルン家はすでに押さえられている可能性がある。
黒蛇はアランを足止めし、その間にフォルン家へ接触している。
呼応地図が正しければ、フォルン家は蒼狼軍の伝令役の末裔。銀の呼び声を各地へ伝える役目を持つ家だった。
その家を潰すか、従わせるか。
黒蛇にとっては重要な一手だ。
「ミリア嬢の視察団は?」
「一刻ほど遅れて到着予定」
「彼女は表から診療所へ向かうはずだ」
「監視がいる」
「分かってる。だから僕たちが先に入る」
アランは町を見下ろした。
静かなラウゼン。
しかし、その静けさの下に黒蛇の影が沈んでいる。
「レム、ゼイド」
「はい」
「フォルン家の屋敷を見る。ミリア嬢が入る前に、診療所周辺の監視を割り出す」
「承知しました」
アランはフードを深く被った。
銀の髪を隠す。
まだ、ここでは銀の守護者として名乗るつもりはない。
まずは影として入る。
だが、ラウゼンの町へ向かって馬を進めた時、彼は不意に胸の奥で奇妙な感覚を覚えた。
遠くから、何かがこちらを見ている。
敵意ではない。
懐かしさに近い。
呼ばれているような、待たれているような。
アランは眉を寄せた。
「……ここにも残っているのか」
蒼狼の誓約。
フォルン家。
旧街道。
古い呼び声。
そのすべてが、町の静けさの下で眠っている。
そして黒蛇は、その眠りを踏みにじろうとしている。
アランは手綱を握る手に力を込めた。
同じ頃、ミリアの視察団もまた、ラウゼンへ続く最後の坂道へ差しかかっていた。
馬車の窓から、彼女は遠くに町を見た。
小さな宿場町。
だが、不思議なほど静かだった。
ミリアはすぐに違和感を覚えた。
宿場町なのに、人の流れが少ない。
店先に立つ者たちが、視察団を見ても好奇心より警戒を浮かべている。
子どもの声が聞こえない。
それだけで、町が普通ではないと分かる。
ミリアは胸元の信号具に指を触れた。
アランはすでに入っているはず。
なら、自分は自分の役割を果たす。
表から堂々と入り、町の異変を見つける。
馬車が坂を下り、ラウゼンの門へ近づく。
門のそばには、町の管理官補佐らしき男が立っていた。笑みを浮かべているが、目が落ち着かない。
ミリアは静かに息を整えた。
王都の外。
初めての本格的な外地調査。
剣を握る手ではなく、礼節と観察眼で開く道。
白薔薇は、ラウゼンの影へ足を踏み入れようとしていた。
その町の奥で。
診療所の二階から、一人の若い女性が視察団を見下ろしていた。
淡い栗色の髪。
疲れた表情。
だが、その瞳には強い光がある。
エレナ・フォルン。
フォルン家の娘。
彼女は遠ざかる黒い馬車の轍を見た後、ミリアの馬車へ視線を移した。
そして、小さく呟いた。
「……来たのですね」
その声は、誰にも届かなかった。
だが、彼女の手元には古い銀の笛が握られていた。
蒼狼軍の伝令役に代々伝わる、呼び声の笛。
すでに黒蛇の影は町に入っている。
だが、銀の守護者もまた、ラウゼンへ近づいている。
古い誓約の町で、次の戦いが始まろうとしていた。




