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26話 旧街道へ



 王都の夜会が終わった翌朝、王城にはいつも通りの鐘が鳴った。


 王都の人々にとって、それは昨日と変わらぬ朝の合図だった。市場には荷車が入り、職人街では槌の音が響き、貴族街の屋敷では使用人たちが門前を掃き清める。王城の尖塔は朝日に白く輝き、王国は何事もなかったかのように動き始めていた。


 しかし、王城の奥では、王国の地図が静かに塗り替えられていた。


 王太子執務室の大机には、王都周辺から北西へ伸びる旧街道の地図が広げられている。王都を出て、なだらかな丘陵地帯を抜け、古い宿場町ラウゼンへ至る道。その先には、山岳領へ続く分岐と、かつて軍用路として使われた旧道がある。


 アランは地図を見下ろしていた。


 隣にはルイが立ち、少し離れてレムが控えている。朝の光を受けたルイの金髪は、王城の白い壁に映えていた。父アルバートと同じ、王冠を戴く者の色。王国の表に立つべき光。


 それに対して、アランの銀髪は窓から差す光の中でもどこか冷たく、静かに輝いていた。


 黄金と銀。


 同じ王家に生まれながら、背負う意味は違う。


 だが今、その違いが王国の命運に関わろうとしている。


「ラウゼンか」


 ルイは地図に置かれた駒を見つめながら言った。


「王都からは近いが、旧街道の分岐点にある。商人、巡礼者、地方官吏、古い騎士家の使者が通る場所だな」


「はい。表向きは小さな宿場町ですが、古い記録では蒼狼軍の伝令役だったフォルン家が管理していた地域です」


「今のフォルン家は?」


「町の管理官です。貴族ではありません。けれど土地の者からは信頼されている。代々、旧街道の記録と宿駅管理を担っているようです」


 リィナの調べでは、フォルン家は表の歴史からはほとんど消えた家だった。爵位もなく、王都の貴族社会では名前も知られていない。だが、王家の古文書には何度か登場している。


 蒼狼軍の伝令。


 呼応地図の写しを運んだ家。


 銀の呼び声があった時、各地の誓約家へ知らせを走らせる役目。


 もしその家が今も何かを残しているなら、黒蛇が狙う理由は十分にあった。


「ローデン商会の荷馬車が三日前に向かったのだったな」


 ルイの声が低くなる。


「ええ。積み荷は表向きには保存食と布です。ただし、荷の中身は確認できていません」


「黒蛇が先に着いている可能性は」


「高いです」


 アランは静かに答えた。


「だから急ぎます。ただし、こちらが王家の名で大きく動けば、黒蛇に警戒される。僕は影から入ります」


「そしてミリア嬢は表からか」


 ルイは地図から視線を上げた。


 アランは頷いた。


「ランバール公爵家の慈善視察として、旧街道沿いの救貧院と宿場町の冬支度支援を名目にできます。ラウゼンは街道沿いの物資集積地でもある。ミリア嬢が訪れても不自然ではありません」


「彼女を危険に近づけることになる」


「分かっています」


「それでも頼むのか」


 ルイの問いは責めるものではなかった。


 確認だった。


 アランが本当に、ミリアを守る対象としてだけでなく協力者として見ているのか。そこを問う声だった。


 アランはしばらく黙り、それから正面から兄を見た。


「頼みます」


 その一言に、迷いはなかった。


「ラウゼンでは、影狼の目だけでは拾えない情報があります。宿場町の住民、慈善関係、女性たちの噂、管理官家の空気。ミリア嬢なら、表からそれを見ることができる」


「危険が及んだ場合は」


「僕が守ります」


 即答だった。


 だが、すぐにアランは言い直した。


「いえ。僕だけではなく、レム、影狼、そしてランバール公爵家の護衛と連携します。彼女自身にも退避手順を確認してもらう。……一人で守るとは、もう言いません」


 ルイはその言葉を聞いて、わずかに笑った。


「成長したな」


「最近、皆が僕を子どものように扱う気がします」


「お前がようやく人に頼ることを覚え始めたからだ」


「厳しい」


「事実だ」


 ルイは地図に手を置いた。


「よい。表向きには、王都火災未遂を受けた街道沿いの防火・慈善物資確認として処理しよう。ランバール公爵家の動きにも、王太子府から後押しを出す。あくまで一般行政の範囲でな」


「助かります」


「ただし、アラン」


 ルイの声が少し低くなった。


「蒼狼の末裔を探すことに、心を引きずられすぎるな」


 アランは動きを止めた。


「……どういう意味ですか」


「お前は、自分の銀の髪に関わることになると、冷静でいようとして逆に抱え込む」


 ルイは弟を見た。


「フォルン家が本当に蒼狼の誓約を守っているとしても、その者たちは道具ではない。お前のために存在する兵でもない。王国を守るために、かつて誓った人々の末裔だ」


「分かっています」


「ならば、命じる前に話せ」


 アランは静かに兄を見返した。


 ルイは続ける。


「銀の髪だから従え、ではない。王国のために、力を貸してほしいと頼むのだ。たとえ古い誓約があっても、人の心は誓約だけでは動かない」


 その言葉は、アランの胸に重く落ちた。


 古の軍。


 蒼狼の誓約。


 呼応地図。


 それらはどれも、伝承や記録の中では大きな意味を持つ。だが、その向こうには人がいる。家があり、生活があり、過去を背負いながら今を生きる者たちがいる。


 自分が勝手に呼べるものではない。


 ルイの言う通りだった。


「兄上は、やはり王になる人ですね」


 アランが静かに言うと、ルイは少しだけ眉を上げた。


「急に何だ」


「僕はまだ、蒼狼軍を“役目”として見ていました。兄上は、その先の人を見ている」


 ルイは少し黙った。


「お前も見られる。だから自分だけを責めるな」


「努力します」


「それは守らない時の言い方だ」


「最近、あちこちで言われます」


「なら直せ」


 兄弟の間に、ほんの少し柔らかな空気が流れた。


 しかし地図の上の駒は、変わらずラウゼンを指している。


 王都の外。


 黒蛇の牙が、そこへ向かっている。


 同じ頃、ランバール公爵邸では、ミリアが父と向き合っていた。


 書斎の机には、旧街道沿いの資料と慈善視察の名目に必要な書簡が並んでいる。王太子府からの後押しもあり、表向きの手続きは整いつつあった。王都火災未遂を受け、街道沿いの慈善物資や宿場町の防火状況を確認する。公爵家の令嬢が父の名代として赴くには十分な理由だった。


 だが、ジル・ランバール公爵の表情は重かった。


「ミリア」


「はい」


「これは、王都内の調査とは違う」


「承知しています」


「王都では、公爵家の名が盾になる。王城や貴族街では、身分と礼法が身を守ることもある。だが、街道に出れば事情は変わる。黒蛇が本気で狙えば、馬車ごと襲われる可能性もある」


 ミリアは静かに頷いた。


「分かっています」


「本当にか」


 父の声は、いつもより厳しかった。


 それは公爵としてではなく、父としての声だった。


 ミリアは少しだけ息を吸い、真っ直ぐに答えた。


「怖くないわけではありません。ですが、行く意味はあります。ラウゼンにいるかもしれないフォルン家は、蒼狼の誓約に関わる家です。黒蛇が呼応地図を使ってその家々を狙うなら、私たちが先に動かなければなりません」


「それはアラン殿下の役目ではないのか」


 試すような問いだった。


 ミリアはすぐには答えなかった。


 自分の中にある言葉を確かめる。


 アランの役目。


 銀の守護者。


 古の軍。


 確かに、それは彼に深く関わるものだ。


 だが。


「アラン殿下だけの役目ではありません」


 ミリアは言った。


「蒼狼の誓約が王国を守るためのものなら、それは王国に生きる者たちの問題でもあります。私は王族ではありません。銀の髪でもありません。けれど、王国が守られることで生きてきた貴族の一人です」


 彼女は父を見た。


「なら、私にもできることがあります」


 公爵は娘を見つめた。


 幼い頃から、ミリアは真面目な子だった。公爵家の令嬢として、自分に求められる振る舞いを学び、責任を理解しようとしていた。だが今の彼女は、それだけではない。


 ただ与えられた役目を果たす令嬢ではなく、自分で選んだ道に足を踏み出そうとしている。


 その姿は誇らしかった。


 同時に、恐ろしくもあった。


 子を持つ親とは、こういう感情を抱くものなのだろう。


 公爵は深く息を吐いた。


「分かった」


 ミリアの表情がわずかに和らぐ。


「ありがとうございます」


「ただし、条件がある」


「はい」


「護衛は増やす。表向きの護衛だけでなく、影狼とも連携すること。街道では一人で動かない。現地で気になるものを見つけても、必ずアラン殿下かレム殿、もしくは護衛に伝えてから動くこと」


「はい」


「そして、もう一つ」


 公爵は少し声を低くした。


「自分がアラン殿下の足手まといになると思った時、無理に隣へ立とうとするな」


 ミリアの胸が、少しだけ痛んだ。


 父の言葉は厳しい。


 けれど、それは正しかった。


 隣に立ちたいという想いだけでは、危険な場では役に立たない。守られたいわけではないと言いながら、結果として誰かに守られるだけになるなら、それはアランの負担を増やすことになる。


 ミリアは手袋の下の指を握った。


「分かっています」


「悔しいか」


「はい」


 正直に答えた。


 公爵は少しだけ笑った。


「なら、その悔しさを稽古に使いなさい」


「はい」


「お前はまだ強くなれる」


 その言葉に、ミリアは目を上げた。


 父は穏やかに、しかし力強く頷いた。


「行きなさい。ランバール家の名を持つ者として。そして、ミリア・ランバールとして」


 ミリアは深く一礼した。


 その日の午後、レムはランバール公爵邸の訓練場にいた。


 ミリアは旅装に近い訓練服を着ている。いつものドレスではない。動きやすい上着と長めのスカート、足元は街道用の靴。金髪は低くまとめられ、青いリボンで結ばれている。


 木剣を手にする彼女の表情は真剣だった。


「今日は剣ではなく、逃げ方を重点的に行います」


 レムが言った。


「逃げ方、ですか」


「はい。街道で襲撃を受けた場合、あなたが敵を倒す必要はありません。倒そうとしてはいけません。必要なのは、最初の一撃を避け、護衛が入るまでの時間を稼ぐことです」


 ミリアは頷いた。


「つまり、立ち続けること」


「その通りです」


 レムは木剣ではなく、短い棒を持った。


「敵はあなたの剣の成長を待ってはくれません。訓練通りの動きもしません。足元の悪い場所、馬車の中、狭い路地、雨の日。状況は常に崩れます」


「はい」


「ですから、まず覚えるべきは、正しく崩れることです」


「正しく、崩れる」


「転ばないのが理想です。ですが、転ぶなら受け身を取る。押されたら逆らわず逃げる。腕を掴まれたら力で引き剥がそうとせず、角度を変える。敵の強さと正面から戦わない」


 それは、剣の話であり、貴族社会の話にも聞こえた。


 正面からぶつかれば負ける相手でも、角度を変えれば逃げ道がある。


 ミリアは木剣を置き、レムの指示に従って動いた。


 腕を掴まれる。


 手首を返す。


 身体を落とす。


 相手の重心の外へ出る。


 何度も失敗した。


 地面に膝をつき、肩を打ち、息が乱れる。


 だが、ミリアは立ち上がった。


 レムは容赦しない。


「遅いです」


「はい」


「そこで力を入れると、折られます」


「はい」


「目を閉じない」


「はい」


 厳しい訓練が続く。


 見守っていた侍女たちが心配そうにするほどだった。だが、ミリアはやめなかった。


 悔しさを稽古に使え。


 父の言葉が胸にある。


 アランの足手まといになりたくない。


 守られるだけでいたくない。


 けれど、自分の力を過信して彼の負担になりたくもない。


 ならば、今できることを覚えるしかない。


 倒す力ではない。


 生き残る力。


 それが、今の自分に必要な剣だった。


 夕暮れ近く、ようやくレムが訓練を止めた。


「今日はここまでです」


 ミリアは肩で息をしながら頷いた。


「ありがとうございました」


「動きは粗いですが、判断は早くなっています。腕を掴まれた時の反応も改善しました」


「本当ですか」


「はい。ただし、実戦では一度の失敗が命取りになります。過信しないこと」


「はい」


 レムは少しだけ表情を和らげた。


「ですが、あなたは確実に伸びています」


 その言葉は短かった。


 けれど、ミリアには何よりの励みだった。


「ありがとうございます」


 彼女は木剣を握り直し、深く頭を下げた。


 王城では、出立の準備が静かに進められていた。


 表向きには、ランバール公爵家の慈善視察と、それに伴う王太子府の街道防火確認。王族であるアランの名は、公式にはほとんど出ていない。彼は王城に残っていることになっている。


 実際には、影狼の少数精鋭がすでに旧街道へ散っていた。


 ゼイドは先行してラウゼン周辺の監視へ。リィナは王都に残って情報線を維持しつつ、連絡網を動かす。ガイルは別経路から旧街道へ向かい、必要ならば正面戦力として合流する予定だった。


 レムはアランに同行する。


 そしてミリアは、表の視察団として翌朝出発する。


 同じ目的地。


 別の道。


 表と裏が、王都の外で初めて本格的に交差することになる。


 その夜、アランは王城の屋上庭園に立っていた。


 王都の灯りを見下ろす。


 ここから見る街は、いつもと変わらず美しい。


 だが、その外へ伸びる旧街道の先に、黒蛇の影が待っている。


 呼応地図。


 蒼狼の末裔。


 銀の髪が呼ぶ者たち。


 そのすべてが、自分の知らないところで狙われ始めている。


 アランは静かに息を吐いた。


 その時、背後から足音がした。


 振り向かなくても分かる。


 ルイだった。


「眠らないのか」


「兄上こそ」


「私は仕事がある」


「僕にもあります」


「夜風に当たる仕事か」


「大事な仕事です」


 ルイは隣に立ち、王都を見下ろした。


 しばらく、兄弟は黙っていた。


 やがてルイが口を開く。


「ラウゼンで何があっても、王都はこちらで支える」


「はい」


「お前は外を見ることに集中しろ」


「兄上がそう言ってくれると、少し楽になります」


「なら、もっと早く頼れ」


「努力します」


「またそれか」


 ルイは呆れたように言ったが、表情は穏やかだった。


 アランは王都の外へ続く暗い街道を見つめた。


「兄上」


「何だ」


「もしフォルン家が蒼狼の誓約を忘れていたら、どうしましょう」


「それなら、それでよい」


 意外な返答に、アランは兄を見る。


 ルイは静かに続けた。


「忘れて生きられる時代があったのなら、それは悪いことではない。古い誓約に縛られず、町の管理官として、人として生きてきたのなら、それも王国の平和の形だ」


「でも、黒蛇は狙っています」


「だから守る。誓約を覚えているから守るのではない。王国の民だから守る」


 ルイの言葉は揺るがなかった。


 アランは小さく笑った。


「やっぱり、兄上は王ですね」


「お前はそればかり言う」


「事実ですから」


 ルイは少しだけ苦笑した。


「なら、お前はお前の役目を果たせ」


「銀の守護者として?」


「アラン・ヴァルタインとしてだ」


 その言葉に、アランは一瞬黙った。


 銀の守護者。


 影狼の指揮官。


 駄王子。


 第二王子。


 いくつもの名前と役目を背負っている。


 だが、兄はいつもその奥の自分を呼ぶ。


 アラン・ヴァルタインとして。


 アランは静かに頷いた。


「行ってきます」


「ああ」


 ルイは弟の肩に手を置いた。


「戻ってこい」


「もちろん」


 アランは少しだけ笑った。


「兄上の説教を聞かずに済むなら、戻らない選択肢も魅力的ですが」


「戻ってきたら増やす」


「やっぱり戻りたくないな」


「戻れ」


「はい」


 軽いやり取りの中に、確かな信頼があった。


 夜明け前。


 王都の北西門が静かに開いた。


 表の出立はまだ少し先だ。


 ランバール公爵家の慈善視察団が通るのは朝になってからである。


 その前に、黒い外套を纏った数人の影が門を抜けた。


 先頭に立つのは、銀髪の王子。


 駄王子として王城に残っているはずの男。


 アラン・ヴァルタイン。


 その少し後ろにレム。


 さらに影狼の精鋭が数名。


 彼らは馬に乗り、旧街道の闇へ向かう。


 アランは一度だけ王都を振り返った。


 白亜の王城が、夜明け前の空に浮かんでいる。


 あそこにはルイがいる。


 父がいる。


 王国の光がある。


 そして、少し遅れて同じ道へ向かうミリアがいる。


 アランは前を向いた。


 旧街道は、まだ薄闇に沈んでいる。


 その先に待つのは、蒼狼の末裔か、黒蛇の罠か。


 どちらにせよ、進むしかない。


 銀の守護者は、夜明け前の道を駆け出した。


 同じ朝。


 ランバール公爵邸の門前では、白と青の紋章を掲げた馬車が準備されていた。


 ミリアは旅装に身を包み、金髪を青いリボンでまとめている。ドレスではなく、街道を移動しやすい上品な外出着だった。腰には護身用の短剣。袖口には影狼から渡された緊急用の小さな信号具が隠されている。


 父が見送りに立っていた。


「行ってまいります」


「ああ」


 公爵は娘を見つめた。


「恐れるな。だが、恐れを忘れるな」


「はい」


「そして、帰ってきなさい」


 その言葉に、ミリアは少しだけ表情を柔らかくした。


「必ず」


 馬車に乗り込む前、彼女は王都の北西門の方を見た。


 アランはもう先に出ているはずだ。


 影から。


 自分は表から。


 同じラウゼンへ向かう。


 ミリアは胸元にしまった小さな地図に手を触れた。


 そこには、旧街道とラウゼン、そしてフォルン家の名が記されている。


 黒蛇が蒼狼の末裔を狙うなら、守らなければならない。


 アランが一人で背負う前に。


 彼が銀の髪だけで選ばされる前に。


 自分も、自分の立てる場所で戦う。


 馬車が動き出した。


 朝日が昇り、ミリアの金髪を淡く照らす。


 王都の外へ。


 旧街道へ。


 白薔薇は、初めて王都の影を越えて進み始めた。

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