25話 助けを求めた手
馬車の中は、静かだった。
窓の外では、夜会を終えた貴族街の灯りが少しずつ遠ざかっていく。グレイストン伯爵邸の華やかな明かりも、馬車が角を曲がるたびに小さくなり、やがて黒い屋根並みの向こうへ消えた。
だが、そこで得た紙片は、消えない。
ミリアの手の中にある小さな紙。
それは薄く、震える筆跡で書かれていた。
父は黒蛇ではない。
母も違う。
だが、伯爵家は古い誓約を守る家だった。
黒蛇に奪われたのは、蒼狼軍の名簿ではない。
呼応地図。
銀が呼べば、どの家が応じるかを示す地図。
黒蛇は、それを使って蒼狼の末裔を先に狩るつもりだ。
その文を、アランはもう一度黙って読んだ。
銀髪の王子の顔からは、夜会で見せていた軽薄な笑みが完全に消えていた。馬車の中にいるのは、駄王子ではない。王国の影を統べる者であり、黒蛇が狙う銀の守護者だった。
「呼応地図……」
彼は低く呟いた。
言葉の響きは古い。
だが、その意味はあまりにも現実的だった。
蒼狼軍が軍として残っていなくても、誓約を守る家々が王国各地に散っている。もし銀髪の王族が呼べば、彼らは応じるかもしれない。王国の滅びの縁に立った時、古い誓いを思い出す者たちがいるかもしれない。
その家々を、黒蛇が先に知ったなら。
アランが呼ぶ前に、黒蛇が潰す。
脅す。買収する。暗殺する。家を焼く。証拠を消す。あるいは、蒼狼の誓約そのものを歪める。
古の軍は、目覚める前に殺される。
「これは、こちらが考えていたより深い」
アランが言った。
向かいに座るミリアは、紙片から目を離さない。
「セリオ様は、これを知っていたのですね」
「おそらく一部だけだろう。全部を知っているなら、もっと詳しく書くはずだ」
「ですが、黒蛇の狙いが蒼狼の末裔にあることは知っていた」
「うん」
アランは紙片の端を見た。
筆跡が震えている。
急いで書いたのだろう。夜会の前か、あるいは夜会の最中に。紙には香水の匂いがわずかに残っている。伯爵家の書斎ではなく、客間や控え室に置かれていた紙かもしれない。
「セリオ・グレイストンは、最初から味方だったわけではない」
アランは言った。
「けれど、黒蛇側でもない」
ミリアは静かに頷いた。
「助けを求めていたのだと思います」
アランは彼女を見る。
「そう見えた?」
「はい」
ミリアは夜会でのセリオの顔を思い出した。
柱の陰から向けられていた視線。敵意ではなく、恐怖。近づいた時の声の震え。徽章について問われた時の沈黙。夫人に呼ばれた時の怯え。
あれは、陰謀を楽しむ者の顔ではなかった。
何かを知ってしまい、それを抱えきれなくなった者の顔だった。
「彼は、伯爵家を裏切ろうとしていたのではないと思います」
ミリアは言葉を選びながら続けた。
「むしろ、伯爵家を守りたかった。けれど、このまま黙っていれば王国も、蒼狼の末裔も危険になる。だから、誰かに止めてほしかったのではないでしょうか」
アランはしばらく黙っていた。
馬車の車輪が石畳を叩く音だけが響く。
「君が彼から紙片を受け取れた理由が、分かった気がする」
「理由、ですか」
「彼は僕が怖かったんだろう」
アランは苦笑した。
「銀髪の王子。黒蛇が恐れ、利用しようとしている相手。セリオから見れば、僕はもうただの駄王子ではなかったはずだ。直接渡せば、自分も伯爵家も終わると思ったのかもしれない」
「だから、私に」
「君が彼の怯えを見抜いたからだ」
ミリアは目を伏せた。
あの時、セリオは確かに迷っていた。
グレイストン伯爵夫人の目を恐れ、黒蛇を恐れ、アランを恐れ、それでも紙片を渡した。
あれは勇気だった。
不完全で、震えながらの、追い詰められた勇気。
ミリアは紙片を両手で包むように持った。
「アラン殿下」
「何?」
「セリオ様を、ただの裏切り者として扱わないでいただけますか」
アランは少しだけ目を細めた。
「君は本当に、人の奥を見るね」
「私は、彼を信じきっているわけではありません」
ミリアは静かに言った。
「けれど、あの方は黒蛇のような目をしていませんでした。何かを失うことに怯えている目でした」
「父と母を守りたい。家を守りたい。けれど王国も裏切りたくない」
「はい」
「一番揺れる位置だね」
アランは窓の外を見た。
貴族街の灯りが途切れ、王城へ続く大通りが近づいている。
「分かった。セリオをすぐに敵とは断定しない。ただし、完全に信じることもしない」
「それで十分です」
「彼の紙片が罠の可能性もある」
「はい」
「でも、本物なら、黒蛇はすでに蒼狼の末裔を狙い始めている」
「急がなければなりませんね」
「急ぐ。でも、焦らない」
アランは紙片を丁寧に折り畳んだ。
「まずは、呼応地図が何かを確かめる。グレイストン家に残っていた原本なのか、写しなのか。すでに黒蛇が完全に奪ったのか、それとも一部だけなのか」
「セリオ様へ接触しますか」
「する必要がある。ただし、直接は危険だ。彼は今、伯爵夫人にも黒蛇にも見張られている可能性が高い」
「では、どうやって」
アランは少しだけ考えた。
そして、苦い顔をする。
「また君に頼ることになりそうだ」
ミリアは驚かなかった。
「私にできることなら」
「危険だよ」
「いつもの確認ですね」
「言わないと落ち着かない」
「では、聞きました」
アランは困ったように笑った。
だが、その表情には以前のような拒絶はなかった。
頼ることを覚え始めている。
ミリアには、それが分かった。
馬車は王城近くで一度止まり、影狼の連絡員が紙片の写しを受け取った。原本はアランが持ち、写しはすぐにリィナへ回される。ミリアはそのままランバール公爵邸へ戻ることになった。
別れ際、アランは短く言った。
「今夜は休んで」
「あなたもです」
「僕は少し無理」
「では、私も少し無理をします」
「それは困る」
「なら、あなたも休んでください」
アランは返答に詰まった。
レムがそばで静かに見ている。
その視線を感じて、アランは観念したように息を吐いた。
「分かった。少し休む」
「約束ですか」
「約束」
ミリアはようやく頷いた。
「では、私も休みます」
「君は本当に、交渉が上手くなったね」
「あなた相手に鍛えられていますので」
そう言って、ミリアは馬車の中から静かに一礼した。
馬車が再び動き出す。
アランはその後ろ姿を見送りながら、小さく呟いた。
「……手強いな」
レムが横から言う。
「良いことです」
「君までそう言う」
「事実ですので」
アランは苦笑し、王城へ向き直った。
その頃。
グレイストン伯爵邸では、夜会の灯りが少しずつ消され始めていた。
招待客たちは帰り、楽団も去り、使用人たちは大広間の片づけに追われている。先ほどまでの華やかな空気は薄れ、屋敷には疲労と沈黙が残っていた。
セリオ・グレイストンは、自室の窓辺に立っていた。
顔色は悪い。
指先はまだ震えている。
紙片を渡した。
渡してしまった。
ランバール公爵令嬢に。
あの一瞬、母の目が逸れた。
アラン殿下が銀杯を落とし、広間の視線を集めた。まるで偶然の失敗のように。だが、セリオには分かった。あれは偶然ではない。第二王子は、すべて見ていた。
駄王子。
そんなはずがない。
あの人は、自分たちが考えているよりずっと深い場所を見ている。
そして、ミリア・ランバールも。
セリオは彼女の目を思い出した。
責める目ではなかった。
だが、逃がさない目だった。
知ってしまったものは、知らなかったことにはできません。
それをどう扱うかは選べます。
その言葉が、胸に刺さっていた。
選べる。
本当に、まだ選べるのだろうか。
セリオは唇を噛んだ。
彼は黒蛇の一員ではない。
父も、母も、違う。
少なくとも、最初は違った。
グレイストン家は古い家だった。
王国建国期、蒼狼軍に関する記録を守る役目を担った家。その役目は時代とともに薄れ、今ではほとんど意味を失った家訓として残っているだけだった。
蒼狼の誓約を外へ漏らしてはならない。
銀の髪が呼ぶ時まで、応じる家の名を守れ。
幼い頃、セリオは父からそう聞かされた。
だが、それは昔話だと思っていた。
古い家にありがちな誇り。
王家との繋がりを示すための伝承。
現実には何の力も持たないものだと。
しかし、五年前からすべてが変わった。
伯爵家は財政的に追い詰められていた。地方鉱山への投資が失敗し、負債が膨らんでいた。父はそれを隠した。母は社交界で穏やかに笑い続けた。セリオは財務官僚を目指しながら、家の帳簿の一部を見てしまった。
そこへ、黒蛇が来た。
最初は黒蛇とは名乗らなかった。
資金援助。
商会再建への仲介。
古い記録の保護。
そういう名目だった。
ローデン商会へ資金を流す時、父はまだそれが家を救う手段だと思っていた。エドガー・ノルムを通じて書類を整え、伯爵家の印章を押した。それだけなら、灰色ではあっても、まだ戻れる道があると信じていた。
だが、黒蛇は一度開けた扉から静かに入ってきた。
借金の記録。
不正な資金流入。
蒼狼の古文書。
そして、呼応地図。
セリオが本当に恐れたのは、その時だった。
黒蛇が欲したのは、伯爵家の金でも地位でもなかった。
古い誓約に応じる家々の名。
王国各地に散った蒼狼軍の末裔たち。
銀髪の王族が呼ぶ前に、その者たちを見つけるための地図。
父は拒んだ。
少なくとも、最初は。
母は泣いた。
だが、拒絶は遅すぎた。
黒蛇はすでに、伯爵家の弱みを握っていた。
そして、家を守るために沈黙する父と、息子を守るために嘘を重ねる母の間で、セリオは何もできなかった。
だから今夜、紙片を渡した。
裏切りではない。
少なくとも、彼はそう思いたかった。
止めてほしかった。
自分ではもう止められないものを。
父を、母を、伯爵家を、そして王国を。
誰かに止めてほしかった。
背後で扉が開いた。
セリオは振り向く。
母、グレイストン伯爵夫人が立っていた。
夜会の時と同じ穏やかな顔。
だが、目元には疲労が滲んでいる。
「セリオ」
静かな声だった。
セリオは息を呑む。
「母上」
「あなた、何かを渡しましたね」
言い逃れはできない。
母の目はすべてを見ていた。
「……はい」
伯爵夫人は目を閉じた。
怒鳴られると思った。
叱責されると思った。
だが、彼女はただ深く息を吐いた。
「誰に」
「ランバール嬢へ」
母の指がわずかに震えた。
「なぜ、アラン殿下ではなく」
「殿下に直接渡せば、黒蛇に気づかれると思いました」
「ランバール嬢なら気づかれないと?」
「いいえ」
セリオは首を振った。
「でも、あの方なら、正しく扱ってくれると思いました」
伯爵夫人はしばらく息子を見つめた。
やがて、低く言った。
「あなたは、取り返しのつかないことをしたかもしれません」
「分かっています」
「黒蛇は許さない」
「分かっています」
「あなたの父も、守れなくなるかもしれない」
その言葉に、セリオの顔が歪んだ。
「では、どうすればよかったのですか」
声が震えた。
「このまま黙っていればよかったのですか。呼応地図を奪われ、蒼狼の末裔が狩られ、王国が壊れていくのを見ていればよかったのですか」
「セリオ」
「父上も母上も、家を守るためだと言いました。でも、家を守るために王国を売るのですか。蒼狼の誓約を守ってきた家が、その末裔たちを黒蛇に差し出すのですか」
伯爵夫人は言葉を失った。
セリオは目に涙を浮かべていた。
だが、その声には初めて強さがあった。
「私は、黒蛇の味方にはなりたくありません」
沈黙。
夫人はゆっくりと近づき、息子の頬に手を当てた。
「……あなたは、愚かです」
「はい」
「でも」
夫人の声がかすれる。
「私たちは、もっと愚かでした」
セリオの目が見開かれる。
伯爵夫人は涙を流してはいなかった。
だが、その顔には長年の疲れがあった。
「あなたの父は、最初から王国を裏切るつもりなどありませんでした。ただ、家を守りたかった。私も、あなたを守りたかった」
「母上」
「けれど、守るために沈黙しすぎた」
彼女は目を伏せた。
「黒蛇は、沈黙を餌に育つのですね」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
伯爵夫人は息子から手を離し、静かに言った。
「セリオ。今夜から、あなたは部屋を出てはなりません」
「母上」
「表向きには体調不良とします」
「黒蛇が」
「分かっています。だからこそです」
夫人は振り返った。
「私が、次を渡します」
セリオは息を呑んだ。
「次?」
「呼応地図の写しは、完全には奪われていません」
その一言に、セリオの顔が変わる。
「母上、それは」
「あなたの父が、最後に隠したものがあります」
「父上が……」
「ええ。あの人は弱かった。けれど、完全には折れていません」
夫人は扉へ向かう。
その背中は、夜会で見せていた穏やかな伯爵夫人のものではなかった。
長く沈黙してきた家の女主人の背中だった。
「ランバール嬢に伝える道を探します」
「危険です」
「あなたに言われるとは思いませんでした」
夫人は初めて、少しだけ笑った。
だがすぐに表情を引き締める。
「黒蛇は、私たちがまだ黙ると思っている。なら、その間だけは動けます」
扉が閉まる。
セリオはその場に立ち尽くした。
紙片を渡したことで、すべてが終わると思っていた。
だが、終わりではなかった。
始まりだった。
伯爵家が、本当に選ぶための。
王城地下の会議室では、アランがセリオの紙片を机に置いていた。
ルイ、レム、リィナ、ゼイド、ガイルが集まっている。
ミリアはランバール公爵邸から戻ってはいない。だが、彼女の見解を書いた短い文がすでに届いていた。
『セリオ様は黒蛇の協力者ではなく、止めてほしい者だと思われます。ご家族を守りたい心と、王国を裏切れない心の間で揺れているように見えました。伯爵夫人もまた、完全に敵とは断定できません』
アランはその文面を読んで、静かに言った。
「やはり、彼女はそう見るか」
リィナが頬杖をつく。
「実際、筋は通るよ。セリオが完全な敵なら、あんな危ない渡し方しない。紙片に嘘を混ぜるなら、もっと都合のいい情報を書くはず」
ゼイドが短く言う。
「呼応地図は本物か」
「完全には分からない。でも、蒼狼の断片、古王墓地、黒蛇の動きと噛み合いすぎてる」
レムがアランを見る。
「グレイストン伯爵家を保護しますか」
アランは少し考えた。
「表からは動けない。伯爵家を急に保護すれば、黒蛇に気づかれる。まずは監視を厚くする。セリオと伯爵夫人を守る。ただし、こちらと接触した痕跡は残さない」
「伯爵本人は」
「同じく監視。彼が黒蛇にどこまで屈しているかを見る」
ルイは机の上の紙片を見つめていた。
「呼応地図が黒蛇に渡ったなら、蒼狼の末裔が危ない」
「はい」
アランは頷いた。
「次は王都外です。黒蛇は、応じる家々を先に潰す。あるいは味方に引き込む」
「こちらが先に接触する必要があるな」
「ですが、全ての家を一度に守るのは難しい」
リィナが地図を広げる。
「蒼狼軍の末裔候補、まだ完全じゃないけど、いくつか古い家名は拾える。辺境騎士家、山岳守備家、旧街道沿いの小領主。呼応地図がなくても、古文書からある程度推測できる」
ガイルがにやりと笑う。
「つまり、次は外か」
「喜んでる?」
「王都の狭い路地よりは、外の方が性に合う」
「壊すものが増えるから?」
「敵をだ」
「敵以外も壊すでしょ」
「たまにな」
アランは地図を見下ろした。
王都の外。
物語の舞台が広がる。
そこには、黒蛇がすでに牙を向けているかもしれない家々がある。蒼狼の誓約を守ってきた者たち。あるいは、もう忘れてしまった者たち。
銀の髪が呼ぶ前に、彼らを守らなければならない。
アランは静かに言った。
「最初に向かう場所は?」
リィナが地図の北西を指した。
「旧街道沿いの町、ラウゼン。そこに、蒼狼軍の伝令役だった家の末裔がいる可能性が高い。名前はフォルン家。表向きは小さな宿場町の管理官」
「黒蛇の動きは」
「ローデン商会の荷馬車が三日前に向かってる」
アランの目が冷える。
「決まりだ」
ルイが静かに問う。
「誰が行く」
アランは答えた。
「僕が行きます」
予想通りだった。
だが、続く言葉は少し違った。
「ミリア嬢にも、別の形で協力してもらいます」
ルイの目がわずかに柔らかくなる。
「別の形とは」
「公爵家の名で、旧街道沿いの慈善視察を行ってもらう。彼女なら、表から町に入れる。僕は影から入る」
「同行ではなく、別経路か」
「その方が自然です」
アランは少しだけ笑った。
「それに、彼女はもう地図の上で戦える。なら、王都の外でも必要になります」
レムが静かに言った。
「信頼なさっているのですね」
「うん」
今度は、誤魔化さなかった。
「信頼している」
会議室に、わずかな静寂が落ちた。
リィナが何か言いかけたが、レムの視線を受けて口を閉じた。
ルイは微笑んだ。
「よい」
アランは地図へ視線を落とした。
旧街道沿いの町ラウゼン。
蒼狼の末裔。
黒蛇の次の牙。
そして、王都の外へ伸びる影。
駄王子と白薔薇の戦いは、貴族街の夜会を越え、王国そのものへ広がろうとしていた。
その先で待つものが、古の軍の希望なのか、それとも黒蛇の罠なのか。
まだ誰にも分からない。
だが、少なくとも一つだけ変わったことがある。
アランはもう、一人で地図を見ていなかった。




