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24話 仮面の夜会



 グレイストン伯爵家の夜会は、王都の貴族たちにとって特別なものではなかった。


 伯爵家は古い家柄ではあるが、王国の中枢に座る大貴族ではない。王宮夜会のような華やかさも、ランバール公爵家の晩餐会のような重みもない。穏やかで、品があり、無難で、どこか目立たない。そういう家が主催する夜会だった。


 だが今夜、その「目立たなさ」こそが危険だった。


 貴族街の一角に建つグレイストン伯爵邸は、灯りに包まれていた。正門には馬車が次々と到着し、色鮮やかなドレスを纏った令嬢や、勲章を胸に飾った紳士たちが降り立つ。楽団の音色が窓の外まで漏れ、庭園の噴水には魔灯が浮かび、夜会は表向きにはいつも通り優雅に始まろうとしていた。


 その喧騒から少し離れた馬車の中で、ミリア・ランバールは静かに呼吸を整えていた。


 今日の彼女は、白と淡い青を基調としたドレスを身に纏っている。華美すぎず、それでいて公爵令嬢としての格を失わない装いだった。金髪は丁寧に結い上げられ、青い宝石をあしらった髪飾りが月明かりを受けてほのかに輝いている。


 手袋の下には、剣の稽古でできた小さな痛みがまだ残っていた。


 その痛みが、彼女の心を落ち着かせる。


 ここは戦場だ。


 ただし、剣を抜く戦場ではない。


 言葉と視線と微笑みが刃になる場所。怒りをそのまま振るえば、相手に利用される。けれど、怒りを消してしまえば、何を守りたいのかを見失う。


 ミリアは自分に言い聞かせた。


 握り潰さない。


 振り回さない。


 正しく構える。


 向かいに座るアランは、窓の外を眺めていた。


 銀の髪は夜の中で淡く光り、黒と紺を基調にした礼装はいつもよりも少し整っている。だが、それでもどこか気怠げに見せるため、襟元は完璧すぎない程度に崩され、外套の留め具もわざと緩くかけられていた。


 駄王子の仮面。


 今夜、彼はその仮面を被って伯爵家へ入る。


「ミリア嬢」


 アランが窓の外を見たまま口を開いた。


「今夜の僕は、おそらく君を苛立たせる」


「分かっています」


「貴族たちに笑われるように振る舞う」


「分かっています」


「軽薄なことも言う」


「分かっています」


「本当に?」


 そこでミリアは、彼を見た。


「何度確認なさるのですか」


「君が怒ると怖いから」


「怒ります」


 アランは少しだけ目を瞬かせた。


 ミリアは静かに続けた。


「ですが、表には出しません。あなたの仮面を壊すつもりはありません。ただ、怒らないわけではありません」


 アランは困ったように笑った。


「やっぱり怖いね」


「怖がってください」


「うん。そうする」


 軽いやり取りの後、ほんの少しだけ沈黙が落ちた。


 馬車の車輪が石畳を進む音が響く。


 アランは少し低い声で言った。


「今夜、グレイストン伯爵家は必ず何かを見せる。こちらが古王墓地の件に気づいたことも、王都の火種を潰したことも、向こうは知っている。だから、探ってくる」


「私の反応も、でしょうか」


「間違いなく」


「では、私はあなたを軽く見ている婚約者候補として振る舞うべきですか」


 その問いに、アランはすぐには答えなかった。


 彼女がそう言うこともできると分かっているからだ。


 貴族社会で怪しまれないよう、アランを侮るような態度を取る。周囲と同じように、駄王子に困らされている公爵令嬢を演じる。それが最も安全かもしれない。


 だが、アランはそれを望めなかった。


 ミリアに、自分を嘲るふりをさせたくなかった。


 それは任務として必要なことかもしれない。けれど、胸のどこかが拒んでいた。


 アランは小さく息を吐いた。


「無理に僕を軽んじる必要はない」


「ですが」


「君は、噂だけで人を判断しない令嬢として振る舞えばいい。それなら自然だし、君らしい」


「私らしい、ですか」


 アランは視線を彼女へ向けた。


「怒りを隠しても、君の品位は隠さなくていい」


 ミリアは一瞬だけ言葉を失った。


 それは、不意打ちのような言葉だった。


「……あなたは時々、そういうことを自然におっしゃいますね」


「そういうこと?」


「分からないなら結構です」


「え、気になるんだけど」


「気にしてください」


 アランは少し不満げに眉を下げたが、ミリアはそれ以上説明しなかった。


 馬車が止まる。


 扉が開かれる。


 先に降りたアランが手を差し出した。


「行こうか、ミリア嬢」


 いつもの呼び方。


 だが、その声には少しだけ真剣さがあった。


 ミリアはその手を取った。


「はい、アラン殿下」


 二人は灯りの中へ歩き出した。


 グレイストン伯爵邸の大広間は、上品に整えられていた。


 高い天井からはシャンデリアが輝き、壁には伯爵家の先祖たちの肖像画が並んでいる。音楽は穏やかで、料理も酒も質は良いが派手すぎない。招待客たちはほどよい距離で会話し、笑い声も控えめだった。


 すべてが「過不足なく」整っている。


 だからこそ、ミリアには不自然に見えた。


 この家は、目立たないことに慣れすぎている。


 まず二人を迎えたのは、グレイストン伯爵本人だった。


 五十代半ばの男で、痩せた顔に穏やかな微笑を浮かべている。灰色が混じった髪を丁寧に撫でつけ、深い緑の礼服を着ていた。決して威圧的ではない。だが、その目は相手を測ることに慣れている。


「アラン殿下。ランバール嬢。本日はようこそお越しくださいました」


 伯爵は恭しく頭を下げた。


 アランはいつもの気怠げな笑みを浮かべる。


「こちらこそ。伯爵家の酒は評判が良いと聞いてね。兄上の執務室から逃げ出す理由には十分だった」


 近くにいた貴族たちが小さく笑った。


 ミリアの胸に、ほんのわずかに熱が灯る。


 今夜の彼は、こう振る舞う。


 分かっている。


 それでも、笑われることに慣れたくはない。


 ミリアは微笑みを崩さず、静かに隣に立った。


 伯爵はアランの軽口に穏やかに応じる。


「殿下に楽しんでいただけるなら光栄です。今宵はどうぞごゆるりと」


「ありがとう。難しい話は苦手だから、ぜひ楽しい話を頼むよ」


 その言葉に、また周囲の笑みが広がる。


 アランは自分を軽く見せている。


 グレイストン伯爵は、その仮面の奥を見ようとしている。


 ミリアにはそれが分かった。


 伯爵夫人も近づいてきた。


 茶会の時と同じ、柔らかな微笑。だが、その視線はミリアへ向けられた瞬間だけ、わずかに鋭くなった。


「ランバール嬢。先日の茶会では、たいへん有意義なお話をありがとうございました」


「こちらこそ、お招きいただきありがとうございました」


「本日はアラン殿下とご一緒なのですね」


「はい。父からも、伯爵家へのご挨拶を忘れぬよう申しつかっております」


 ミリアは丁寧に答えた。


 夫人は微笑んだまま、アランへ視線を向ける。


「殿下は、こうした夜会はお好きでいらっしゃいますか」


「美しい方々と美味しい酒があるなら、嫌いになる理由がありません」


 軽い声。


 周囲の令嬢たちが小さく笑う。


 夫人も微笑んだ。


「まあ、お上手ですこと」


「中身がない分、言葉くらいは飾らないと」


 アランがそう言った瞬間、ミリアの手袋の下の指がわずかに動いた。


 自分を軽く扱わない。


 そう約束したのに。


 だが、ここで言うわけにはいかない。


 ミリアは呼吸を整えた。


 すると、アランが一瞬だけ彼女を見た。


 ほんの一瞬。


 その目が、少しだけ申し訳なさそうに見えた。


 ミリアは表情を変えずに、小さく首を横に振った。


 今は怒らない。


 ただし、後で覚えておく。


 その意図が伝わったのか、アランはわずかに苦笑した。


 広間の奥へ進むと、貴族たちの視線が二人を追った。


 第二王子アランとランバール公爵令嬢ミリア。


 婚約の噂はすでに広まっている。


 そして、二人の関係を探りたい者は多い。


 ある者は好奇心で見ている。


 ある者は政治的な思惑で。


 そして、ある者は黒蛇の意図で。


 ミリアは微笑みながら、視線の種類を分けていった。


 好奇。

 侮り。

 嫉妬。

 警戒。

 探り。


 その中に、一つだけ異質なものがあった。


 大広間の柱の陰に立つ若い男。


 二十代後半ほどだろうか。黒に近い茶髪を後ろへ流し、伯爵家の紋を胸に付けている。おそらくグレイストン伯爵の息子、セリオ・グレイストン。財務官僚を目指していると聞いている。


 彼の視線は、アランではなくミリアへ向いていた。


 敵意ではない。


 恐怖。


 ミリアはそれを見逃さなかった。


 なぜ、自分を見て怯えるのか。


 茶会で何かを気づかれたと思っているのか。


 それとも、彼自身が何かを知っているのか。


「気づいた?」


 アランが隣で小さく言った。


「セリオ様ですか」


「うん。彼は伯爵本人より崩しやすいかもしれない」


「怯えていました」


「黒蛇にか、父親にか、僕たちにか。見極めよう」


 そう言って、アランは近くの令嬢たちに軽く手を振った。


 瞬時に駄王子の顔へ戻る。


「少し酒をもらってくるよ」


「飲みすぎないでくださいませ」


 ミリアは自然に言った。


 周囲から小さな笑いが起きる。


「おや、もう管理されているのかな」


「管理されるほど真面目ではないよ」


 アランは軽く返しながら、貴族たちの輪へ入っていった。


 彼はわざと目立つ場所へ行く。


 自分に視線を集めるため。


 その間に、ミリアが動けるように。


 ミリアはそれを理解し、大広間の壁際へ進んだ。


 壁にはグレイストン家の先祖の肖像画がいくつも並んでいる。


 以前、茶会の客間で見た徽章と同じものが、ここにもあった。


 蒼狼の紋ではない。


 だが、その周囲に施された銀の縁取り。


 軍旗の断片に残っていた模様と似ている。


 ミリアは絵を見ているふりをしながら、配置を確認した。


 古い肖像画は三枚。


 いずれも建国期以降、王都行政に関わった人物のものだ。軍人ではない。記録官、財務官、王家文書管理官。


 つまり、グレイストン家は戦った家ではなく、記録を守った家。


 蒼狼軍そのものではなく、蒼狼軍の誓約や名簿を管理していた可能性が高い。


 そこへ、声がかかった。


「その絵にご興味がおありですか」


 振り向くと、セリオ・グレイストンが立っていた。


 近くで見ると、やはり顔色が悪い。


 ミリアは穏やかに微笑んだ。


「古い肖像画は、その家の歴史をよく語りますから」


「……ランバール家の方は、歴史にもお詳しいのですね」


「詳しいというほどではありません。ですが、父の書庫に触れる機会は多いので」


 セリオの目がわずかに揺れた。


 書庫。


 記録。


 その言葉に反応した。


 ミリアは踏み込みすぎないよう、言葉を柔らかくした。


「こちらの徽章は珍しい意匠ですね。伯爵家独自のものですか」


 セリオは唇を引き結んだ。


 数秒、沈黙。


 やがて、彼は小さな声で答えた。


「古いものです。今はもう、意味を知る者も少ない」


「そうなのですね」


「知るべきではないものもあります」


 ミリアは視線だけで彼を見る。


 セリオの声には、後悔のようなものがあった。


 彼は何かを知っている。


 あるいは、知らされてしまった。


「セリオ様」


 ミリアは静かに言った。


「知ってしまったものは、知らなかったことにはできません」


 セリオの目が揺れる。


「ですが、それをどう扱うかは選べます」


「……選べる?」


「はい」


 ミリアの声は穏やかだった。


「誰かに利用されるために黙るのか。守るために伝えるのか。選べるはずです」


 セリオは息を呑んだ。


 その時、伯爵夫人の声が割り込んだ。


「セリオ」


 ミリアとセリオは振り向いた。


 グレイストン伯爵夫人が立っていた。


 微笑んでいる。


 だが、その目は笑っていない。


「ランバール嬢を独占してはいけませんよ。皆様もお話ししたがっていらっしゃるのですから」


「母上……」


 セリオは明らかに怯えた。


 ミリアは丁寧に一礼した。


「私の方こそ、長く引き止めてしまいました」


「いいえ。息子は少々、話が下手でして」


 夫人は柔らかく言った。


「余計なことを申し上げていなければよいのですが」


 余計なこと。


 それは警告だった。


 ミリアは微笑みを崩さず答えた。


「歴史のお話を少し。とても興味深いものでした」


「まあ。古い話は時に、人を迷わせますわ」


「ですが、古い話だからこそ、今を照らすこともございます」


 夫人の目がわずかに細くなる。


 ミリアは一歩も引かなかった。


 怒りではない。


 恐怖でもない。


 ただ、礼節を纏った刃を、静かに相手へ向ける。


 夫人は一瞬だけ沈黙し、やがて微笑んだ。


「ランバール嬢は、本当に聡明でいらっしゃる」


「学んでいる途中です」


「誰から?」


 その問いは、柔らかい声だった。


 だが、ミリアには分かった。


 探っている。


 アランから何を学んだのか。


 影狼のことをどこまで知っているのか。


 ミリアは微笑んだ。


「多くの方からです。父から、書物から、そして失敗から」


 夫人はそれ以上聞かなかった。


 だが、ミリアの中で確信が強まる。


 グレイストン伯爵夫人は知っている。


 少なくとも、蒼狼の誓約に関わる何かを知っている。


 一方、広間の中央では、アランが貴族たちに囲まれていた。


 杯を手に、軽口を叩き、令嬢たちの笑いを誘っている。周囲の男たちは、彼を侮るような目で見ていた。


「アラン殿下は、昨夜の騒ぎの間もお楽しみで?」


 子爵家の男が笑い混じりに言った。


「いやあ、眠れなかったよ。火事騒ぎというのは、思ったより騒がしい」


「ルイ殿下は大変だったでしょうな」


「兄上は働き者だからね。僕の分まで働いてくれる」


 軽い笑いが起きる。


 アランは笑っている。


 だが、内心では別のものを見ていた。


 誰が笑うか。


 誰が笑わないか。


 誰が自分の銀髪を見るか。


 誰がミリアを見るか。


 その中で、グレイストン伯爵だけは、笑いながらも目が笑っていなかった。


 伯爵は杯を持ち、静かに近づいてきた。


「殿下は、本当にご自身の立場に執着なさらない方ですな」


「執着するほど立派なものを持っていないからね」


「ご謙遜を」


「謙遜に見える?」


 アランは軽く首を傾げた。


 伯爵は微笑む。


「銀の髪を持つ王子が、ただの怠け者で終わるとは思えませんので」


 場の空気が、ほんの少し止まった。


 銀の髪。


 ただの容姿を褒める言葉としても使える。


 だが、この状況では違う。


 アランは杯を揺らした。


「髪の色で人の中身が決まるなら、僕はもっと苦労せずに済んだだろうね」


「では、殿下はご自身の銀をどうお考えで?」


「手入れが面倒な髪色だと思っているよ。夜でも妙に目立つ」


 周囲に笑いが戻る。


 アランは駄王子の顔でかわした。


 だが、伯爵の目は変わらない。


「古い家の者は、銀に意味を見出すことがあります」


「古い家の者は、何にでも意味を見出すものだよ。酒の銘柄にも、椅子の配置にも、夜会に遅れてきた理由にもね」


「殿下は、そうした古い意味を信じない?」


「信じるより、今は美味しい酒を信じたい」


 アランは笑った。


 伯爵も笑った。


 だが、その笑みの裏で、互いに刃を交えていた。


 その時、楽団の曲が変わった。


 舞踏の時間だった。


 伯爵夫人が、ミリアの方へ視線を向ける。


 それとほぼ同時に、アランもミリアを見た。


 二人の視線が合う。


 アランは杯を置き、自然な足取りで彼女の元へ歩いた。


「ミリア嬢」


 彼は手を差し出した。


「一曲、お願いできるかな」


 周囲の視線が集まる。


 婚約の噂がある二人。


 駄王子と公爵令嬢。


 誰もが、その距離を見ようとしている。


 ミリアは一礼し、その手を取った。


「喜んで」


 音楽が流れ始める。


 二人は広間の中央へ進んだ。


 アランの手がミリアの腰へ添えられる。ミリアの手が彼の肩へ置かれる。距離が近い。だが、二人の表情は落ち着いていた。


 踊り始めると、アランの動きは驚くほど自然だった。


 駄王子としては気怠げに見せているが、足運びには無駄がない。相手を導く力は強すぎず、弱すぎない。ミリアはその動きに合わせながら、ふと思った。


 この人は、剣だけではなく、踊りでも相手を読んでいる。


「何か掴んだ?」


 アランが低く尋ねた。


 踊りの距離だからこそ、周囲には聞こえない。


「セリオ様は怯えています。夫人は明らかに何かを知っています。伯爵家の徽章は、蒼狼の記録管理に関係している可能性が高いです」


「伯爵本人は銀の話を振ってきた」


「やはり」


「黒蛇と繋がっているか、黒蛇に見張られているか。どちらにせよ、この家はかなり深い」


 ミリアは小さく頷いた。


「セリオ様は、何かを伝えたがっているように見えました」


「接触できる?」


「夫人が近くにいる限りは難しいです」


「なら、夫人の目を逸らす」


「どうやって」


 アランは少しだけ笑った。


「僕が、とても駄目なことをする」


 ミリアの眉がわずかに動く。


「ほどほどにしてください」


「善処する」


「それは信用できない言葉です」


「君も僕の言い回しに詳しくなったね」


「学びましたので」


 二人は踊りながら、周囲の視線を浴びていた。


 その姿は美しかった。


 銀髪の王子と金髪の令嬢。


 月光と朝の光が、同じ円舞の中で重なるようだった。


 伯爵夫人はそれを見つめていた。


 その横で、セリオは青ざめた顔で何かを握りしめている。


 小さな紙片。


 ミリアの目がそれを捉えた。


 次の瞬間、アランがわざと足を滑らせた。


 もちろん、本当に失敗したわけではない。


 だが、外から見れば、第二王子が舞踏の最中に軽くバランスを崩したように見えた。


「おっと」


 アランはわざとらしく笑い、近くの給仕が持っていた杯の盆へ手を伸ばした。


 そして、見事に銀杯を一つ落とした。


 澄んだ音が広間に響く。


 貴族たちの視線が一斉にアランへ向く。


「すまない。足より手が滑ったみたいだ」


 笑いが起きる。


 呆れた視線。


 嘲笑。


 伯爵夫人の注意も、一瞬だけそちらへ向いた。


 その隙に。


 セリオが動いた。


 彼はミリアの近くを通り過ぎるように見せかけ、握っていた紙片を彼女の扇の下へ滑り込ませた。


 ミリアは表情を変えなかった。


 紙片を落とさず、自然に扇を閉じる。


 アランが視線だけで確認する。


 成功。


 彼はまだ笑っていた。


 まるで何も知らない駄王子のように。


 夜会はその後も続いた。


 アランはしばらく軽口を重ね、伯爵夫人の視線を自分へ向け続けた。ミリアは決して急いで帰らなかった。怪しまれないよう、令嬢たちと会話し、慈善活動の話題にも応じ、グレイストン家の客として礼を尽くした。


 だが、二人とも分かっていた。


 今夜の本当の収穫は、扇の中にある。


 馬車へ戻った後、ようやくミリアは紙片を開いた。


 そこには、震える筆跡で短い言葉が書かれていた。


『父は黒蛇ではない。母も違う。だが、伯爵家は古い誓約を守る家だった。

 黒蛇に奪われたのは、蒼狼軍の名簿ではない。

 “呼応地図”だ。

 銀が呼べば、どの家が応じるかを示す地図。

 黒蛇は、それを使って蒼狼の末裔を先に狩るつもりだ』


 ミリアは息を止めた。


 アランの表情から、軽さが消える。


「呼応地図……」


 銀が呼べば応じる家々。


 蒼狼軍の末裔。


 黒蛇は、それを探している。


 古の軍を起こすためではない。


 先に潰すため。


 アランがいつか呼ぶかもしれない軍を、その前に消すため。


 馬車の中に重い沈黙が落ちた。


 やがて、アランが静かに言った。


「ミリア嬢」


「はい」


「次は、王都の外も見る必要がある」


 ミリアは紙片を握りしめた。


 舞台が広がる。


 王城でも、貴族街でも、商会でもない。


 蒼狼の末裔がいる場所。


 王国各地に散った、古い誓いの家々。


 黒蛇の牙は、そこへ向かおうとしている。


 ミリアはアランを見た。


「行かれるのですね」


「行くしかない」


「では、私は」


 アランは一瞬だけ彼女を見る。


 止める言葉が喉元まで来た。


 だが、飲み込んだ。


 彼女はもう、ただ守られるだけの令嬢ではない。


 今夜も、彼女がいなければ紙片は手に入らなかった。


「君にも、頼むことがある」


 アランは言った。


 ミリアは静かに頷いた。


「はい」


 その返事には、迷いがなかった。


 馬車は夜の貴族街を進む。


 窓の外では、グレイストン伯爵邸の灯りが遠ざかっていく。


 だが、そこで得た紙片は、王国の地図を大きく変えようとしていた。


 蒼狼軍の呼応地図。


 黒蛇の次の狙い。


 銀の守護者がいつか呼ぶはずの者たち。


 夜は、王都の外へ広がり始めていた。

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